08 悪女の名と天使の本名。
元々そんなに強くないのに、勧められるがままに飲みすぎたお酒に、正直、パーティーの休憩室に運ばれた記憶さえない。
女の人の声で意識が戻されて、無意識にエヴァだと思った。だって、オレの婚約者で、オレの想い人をエスコートしてきたんだ。
あれ、でもオレ、どうしたんだっけ?
「エヴァ……?」
「んもぉ、ルヴィーって呼んでってば」
やけに甘い声。
「んん? エヴァ……?」
エヴァと違う声のような……今、ルヴィーって言った? 誰のことだ?
「わかったわよ、エヴァって呼んでいいから」
少し、声がはっきりと聞こえるようになった気がした。
やっぱり、エヴァと違うような……? いや、エヴァって言った……? ん……?
なんだろう、下半身が寒いような……。
うっすらと目を開く。ソファーに座ったオレの前に、誰かがいる。赤いドレス。
ん。エヴァかな。今日は贈った赤いドレスを嬉しそうに見せてくれたし。なんだろう。ぼやけた視界の中。
ズボンが寛げられて、オレのモノを握られている……?
「立派なイチモツに感謝しなさいよ、早く勃たせてちょうだいよ」
は……? エヴァはこんなこと言うはずないんだが、夢か……?
「エヴァなのか?」
「そうよ、あなたのエヴァよ」
エヴァなのか。そうか。じゃあ、夢だな。
と、背凭れに頭を預けて意識を手放しかけたところで、休憩室の扉が開かれた。
赤いドレス。真っ赤な髪。
「ブライアン!」
「エヴァ? なんで、二人いるんだ……?」
この声は、間違いなく、エヴァだ。エヴァが二人いる夢……?
ぽけーとしている間に、「ブライアンから、離れなさいこんの痴女!! 誰か!! 警備兵を!!」と金切り声のように声を上げたエヴァにビックリした。
「何よ! 何もしてないわよ! 大袈裟ね!」
「ふざけないで!! これは立派な強姦よ!! 逃げるんじゃないわよ!!」
「離しなさい!!」
「キャッ!」
意識が多少ハッキリしてきたオレの目に、エヴァじゃない赤いドレスの女性が認識できた。
といっても、本当にエヴァじゃない令嬢と認識しただけ。去ろうとしたその令嬢を掴んだが、エヴァは突き飛ばされた。
「エヴァ!」と慌てて駆け寄ろうとしたが、オレはずっこけた。
何かに引っかかったと思えば、ズボンがずり下ろされた状態だったせいだと知る。
オレのモノが下着から、出ていた。床に顔をぶつけたから、酔いは一気に醒めた。身体の熱も、突き抜けるように冷めた。
「ブライアン!? 大丈夫!?」
「え、エヴァ……お、オレは……うっ、うえっ!!」
「ブライアンは悪くない! 悪くないの! 悪いのはあの悪女っ! 『シシルヴィア・ミューチャー』!!」
気持ち悪さが押し寄せて嘔吐するオレの背中を擦るエヴァが口にした名前は、オレの吐き気を悪化させるものだった。男をとっかえひっかえしている悪女の名。
酩酊状態で休んでいたオレは、悪女に襲われたのだ。
その後、『シシルヴィア・ミューチャー伯爵令嬢』を訴えたが、公の場に現れなくなった彼女は、とっくに『ミューチャー伯爵家』では絶縁状態にしているそうで、行方はわからないそうだ。
エヴァ達が慰謝料を請求しようとしたが、妹の『シエルヴィア嬢』が泣きながら「もう関係ないけど、お姉様がごめんなさいっ。あのパーティーの招待状を、奪われたわたくしの責任でもありますが、ウチにはもう余裕がなくて……」と謝るだけで、話が進まないらしい。
家族も、使用人も、本人の行方に心当たりはないらしい。
それよりも、問題なのは、オレだ。
酩酊状態だったとはいえ、男を襲う悪女をエヴァと間違えたオレは、罪悪感で押し潰された。
ひたすらエヴァに許しを乞うた。でもエヴァは「大丈夫、大丈夫だよ。あなたは悪くない」と一切責めない。
誰もオレを責めなかった。加害者側があまりにも悪女のため、それにオレ自身が浮気したわけでもなく、未遂だったこともあり、被害者だからしょうがないと言い聞かせてきた。
でも、割り切れない。セヴにも託されて、昔から想ってきたエヴァに。あんな光景を見せてしまったなんて。男が襲われただけでも、恥じゃないか。
そこは、誰もが戦争から解放されたから羽目を外してしまったせいだと、また言い聞かせられた。
思い詰めたオレは、とうとう婚約の解消を口にした。
「やめて! あなたは悪くないってば!」と、エヴァは承諾しない。
心の整理をしたいと、オレは部屋にこもった。なんの解決もしないようだった。
セヴに申し訳ない。託されたのに……。
罪悪感がグルグルと回りながらも、押し潰してきた。
引きこもりから数日後に、とんでもない知らせがきた。
『天使様』が家に来るという先触れを出してきたのだ。
凍り付いた。このタイミングは、間違いなく『天使様』は”知ってて来る”んだ。ご丁寧に”婚約者も同席をお願いしたい”という文面付き。
社交界に疎そうな『天使様』が知ってしまうほど、悪目立ちしている噂になっているのか?
みんなに申し訳ない気持ちが湧き上がってきて沸騰した。戦友達にも、知られるのか。オレが情けなくも、酔い潰れて襲われているところを、間一髪婚約者に助けられた事件。
嗚呼……消えてなくなりたいっ。
セヴなら、こんな失態をしなかっただろう。
オレが代わりに死ねばよかったのに。
そんなこと言うのは、間違いなく、『天使様』を愚弄することになるから口が裂けても言えないけれど、心底、そう思った。
理由をつけて訪問を断ってくれと叫んだが、ずっとオレを心配して我が家に滞在しているエヴァが「だめよ! あなたの恩人でしょ!?」と言う。
「君とも合わす顔がないのに、『天使様』とどんな顔をして会えばいいんだ!? 無理だ!!」
ベッドの端で膝を抱えていたオレは、頭も抱えた。
怖い。怖すぎる。こんなオレを見られることが。
幻滅されるだろうか。罵られた方がマシだ。どうしよう。怖い。
そもそも、『天使様』はどうして来るんだ?
心配してくれた? こんなことまで気にかけてくれるのに、オレは大失態して……! ああ無理だ! 合わせる顔なんてない!!
家の外が騒がしくなった。彼女がいらしたんだ。
「う、嘘をついてもいいから! オレは会えないと言ってくれ!!」
「無理でございます! お坊ちゃま! 公爵様もご一緒でっ、嘘などついてはなりません!」
扉の向こうから返答したのは、執事。昔の呼び方をしてしまうほど動転した声。
目を見開いてしまう。
こ、公爵様……? ご一緒……? 何故?
彼女の身分は平民のはずだし……どこの公爵様がご一緒なんだ?
混乱してフリーズしている間に、とうとう部屋の外に『天使様』は来てしまったらしい。
「ご、ごきげんよう」とエヴァの声。
彼女もかなり緊張するような大物の公爵様、なのか?
「ごきげんよう。魔塔所属の魔法使いシルです。ブライアン・ラーズとは、ともに戦争を生き抜いた仲です」
彼女の声。胸に、痛く滲みる。
「お、お噂はかねがね。婚約者のナイトア伯爵家のエヴァです」
「お会い出来て嬉しいです、エヴァ嬢とお呼びしても?」
「は、はいっ! どうぞ!」
「よかった、ありがとうございます。突然で申し訳ありません。どうしても、エヴァ嬢とともに、ブライアンにはお話を聞いてほしくて……」
ヒュッと息を呑む。
お話しって……どうして? お願いだから、触れないでほしい!
「ブライアンが部屋から出てこないそうですね。まぁ、無理矢理でも首根っこ掴んで引きずり出してお話をしましょうか」と明るい声を出す『天使様』は、絶対に今、いい笑顔のはずだ。
強行突破で来られる! 彼女ならただの扉なんて粉砕だ! いや、魔法すら使わなくても彼女なら、蹴破れるほどには、体術もいける人だった!!
空き時間に組手をやっていて、侮って挑んだ奴が、ねじ伏せられて、ポキッと枝みたいに太い腕をへし折られた光景を目撃したことある。”魔法使ってなかったのに、へし折れちゃったね、ごっめーん”と反省の色なしに治癒魔法をかけてやっていた、いい笑顔の『天使様』。
両手で掴んで引っ張った腕に容赦なく膝蹴りを入れていたのだから、どう考えてもわざと腕をへし折るための動作だった。あれで誰もが『天使様』を小娘だと侮らない、と心に誓った。
「あ、ちなみに、彼らは今のところ、気にしないでいいですよ。付き添い、と言いますか」
「シルの婚約者として、同席させてもらいたい」
「えっ!? は、はいっ!」
えっ!? 『天使様』の婚約者!?
今の低いながらも若い声って…………それで公爵といえば、該当する人が、一人しかいない。
え!? どういうこと!?
「ブライアン! シル様がいらっしゃるのよ!! 婚約者様とともに!!」
ほぼほぼ助けを求めるようなエヴァが、扉をノックし続ける。
両親は『悪女』の行方を探して不在らしく、我が家なのだから、エヴァではなく、オレが対応すべき高貴な方。『天使様』は大恩人だし。普通ならすぐに返事をして扉を開かないといけないのに、オレは動けなかった。
しびれを切らしたのか、コンコンと静かでいながら強いノックに変わる。
「ブライアン。シルよ。話があるから、出てきてほしい」と静かでありながら、強い声で告げられた。
でも、やっぱり。オレは動けない。
どうやって返事をすればいいか、わからない。
どんな顔であなたと顔を合わせればいいんですか?
こんな情けないオレを……どうか、どうか見ないでくださいっ。ああ……消えたい……。
顔を覆って俯いていれば、ダンッ!と扉が叩かれた。
「ブライアン。ここを今すぐ開けないなら蹴り破るぞ」
怒っている!
絶対に実行すると思って、躊躇した末に、ベッドから腰を上げた瞬間。
『天使様』が蹴り破ってきた。
眩しくて、一瞬、目が眩んだ。『戦場の銀の閃光の天使』がそこにいて、暗がりにいたオレに光りを差し込んだような。そんな光景に見えた。
それくらい、『天使様』の存在は眩しかった。
一つに束ねていた白銀色の髪は、キラリと艶めく。服装は、魔塔の中でも高位の魔法使いを示すローブを羽織っていて、緩やかなズボンを穿いた足は、扉を蹴り破ったので、静かに下ろされた。
「――久しぶりね、ブライアン」
「い、いま、あけ、よう、と……」と、消え入りそうな声で言い訳をしてしまう。
「……やつれてる顔」と指摘された顔を伏せる。
情けない。惨めだ。
「ど、どうして……シルさん、来たんですか……」
心配して来てくれたであろう彼女に、なんて冷たいことを言うんだろうと、自分を恨む。
「謝罪をしに来た」
「え……?」
謝罪? 謝罪ってなんだ? 『天使様』が謝罪することなんてあるか?
ハッとして顔を上げる。
まさか、セヴが命を奪われたあの戦いのこと!? 謝り回っているのか!? そこまで自分を責めていたとか!?
焦ったオレは、目の前の光景にさらに焦る羽目になる。
『天使様』が膝をついたからだ。右手の拳を床につけて、頭を下げる。
「此度の被害者、ブライアン・ラーズ殿に、謝罪させていただきます。申し訳ございません。婚約者様であるエヴァ・ナイトア嬢にも、心からの謝罪を。申し訳ございません」
誠意を込めた謝罪に、呆気に取られる。
此度の被害者? オレが襲われた件を、どうして『天使様』がこんなにも謝るのだ?
理解が出来ずに、固まってしまった。
エヴァが、慌ててオレの隣にやってきては「頭を上げてください! シル様が謝る理由は何一つないはずでは!?」と代わりに言ってくれた。
そうだ。そうなのだ。とかろうじて、頷く。
でも頭を下げている彼女には、見えていない。
「いえ、私の責任でもあります。あの『悪女』を野放しにしたせいで、大切な戦友が被害に遭いました。……謝罪させてもらわないと気が済みません」
”大切な戦友”と言われて胸がギュッと締め付けられたが、やっぱり謝罪は納得いかないから、困惑いっぱいでエヴァと顔を合わせた。
「あ、あの……シル様。『あの悪女』と、一体どんな関りが……?」
と、エヴァが、恐る恐ると尋ねる。
ゆっくりと顔を上げた『天使様』は、まるで戦場で戦いに挑むような、強い眼差しをしているから、身構えた。
「ブライアン・ラーズ殿とエヴァ・ナイトア嬢に、正式にご挨拶を申し上げます。私こそが、本物の『シシルヴィア・ミューチャー』です」
反応が出来ない。
『あの悪女』の名前を、『天使様』が名乗った。
けれども、忌々しいはずの名前なのに、不思議と別人の名のような響きだ。
「私は七年前に、とっくに『ミューチャー伯爵家』を出ています。それで魔塔主様の保護下でシルという名で魔法使いとなりました。『ミューチャー伯爵家』には一度たりとも帰っておりませんし、両親とも妹とも、顔を忘れるほど会っていません。私自身、社交界デビューはしていませんので、今回の加害者『悪女シシルヴィア』は偽物です」
じわじわと、『天使様』の声で告げられた情報が、脳が理解して処理した。
「あっ……10歳で……魔塔に入ったって…………!」
辻褄が合って、納得と同時に、絶句してしまう。
散々オレから『天使様』のことを聞いたエヴァも、口を両手で押えて、驚愕に震えた。
七年前といえば、『天使様』が10歳で魔塔に入った話。
魔塔主様が直々に育てて可愛がるほどに逸材だというのに、あとから入った天才魔法使いキースと違って噂を聞かなかった魔法使い。最近も、祝杯のパーティー会場でも見かけなかったし、目撃情報の一つもなかったから不審ではあった。
でも、『天使様』は社交界に顔を出せない事情があったのだ。目立たないようにしていた。なんなら、可愛がっているという魔塔主様が目立たないように手を打っていたかもしれない。戦後の大きな功労者なのに、顔を見なかったのは、複雑な事情があってのこと。
とっくに家を出たにも関わらず、何故か自分を名乗る令嬢が男をとっかえひっかえしている悪女として社交界にいる。『ミューチャー伯爵家』から出たのに、偽物がいるという。普通、魔塔に属しているなら誇られるというのに、『ミューチャー伯爵家の長女』は『悪女』だ。
あまりにも、おかしな話。
今まで野放しにしていた理由はなんだというんだ……? というか、何故『ミューチャー伯爵家』は『天使様』を、『悪女』に? そもそも、あの夜の『悪女』は、一体誰だったんだ?
『あの悪女』を何故『ミューチャー伯爵家』は、本物だと偽る?
怒涛に押し寄せる混乱で、反応が出来なかった。
「失礼。続きは、応接室で話を聞いてもらえるだろうか」
「!?」
代わりのように『天使様』の隣にスッとやってきては、手を差し出したのは、別の感じで眩しい美貌の公爵様。声を聞いた通り、予想した人だった。
「ライオネル・フェナールド公爵だ。突然で申し訳ない。シルの婚約者として、同行させてもらった」
そうだった!! 公爵様は『天使様』の婚約者として来たんだった!!
わなわなと震えた。
「婚約者の『問題』を解決したいのだ」
「「……!」」
解決に動く。公爵様も強い眼差しをしていた。大きな戦いに挑む雰囲気に、ゴクリと息を呑む。
『天使様』を立たせた公爵様は、大事そうに『天使様』の手を両手で包んでいた。さらには、優しい眼差しで『天使様』を気遣う。その瞳には、熱があった。
どういうわけで婚約関係なのかわからないが、間違いなく、利益関係による婚約ではないはずだ。
『天使様』を、想っていらっしゃる。
何故だろうか。無意識に隣に立つエヴァの手を握ってしまった。エヴァに、触れることが、ずっとしばらく申し訳なくて、躊躇していたというのに。
エヴァも驚いた顔をしたが、”大丈夫”と励ますように握り返してくれた。
そ、そうだよな……。と、とりあえず……。話を聞かないと。
オレ達の『問題』だけじゃない。
他でもない『天使様』の『大問題』だ。聞かないと!
ギュッとエヴァの手を握り締めて、応接室で対応する指示を執事達に、出した。
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08話目の動画→ https://youtu.be/hGuzaVFEBGI?si=Ta_F1ZxuHUeilRT-
(※後半ミュート解除し忘れています、すみません)
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