その言葉たちの終焉
「ありがとう、ありがとう、ありがとう……。」
毎朝、目覚めると、まずこの言葉を唱える。
これは単なる習慣ではなかった。
私の存在意義にかかわる、必須の儀式だった。
私の部屋の壁一面には『ありがとうメーター』という装置が設置されている。
この機械は私が発する『ありがとうエナジー』の量を数値化する。
その計測値に応じて、私のいるこの施設から人間社会のライフラインへと『ありがとうエナジー』というエネルギーが送られるのだ。
私はメーターの数値が少しずつ増加していくのを注視しながら、新たな一日の始まりを静かに受け入れる。
目盛りが前進するたびに、自分の存在理由が再確認されるような感覚があった。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう……。」
私は発した言葉が無機質な空間に広がるのを感じながら、言葉を続ける。
この言葉こそが私の活力となるエネルギー源なのだから。
ありがとう以外の言葉は、もはや不要だった。
この心の底から湧き上がる感謝の念だけが、私から『ありがとうエナジー』を生み出すのだ。
ありがとうエナジーとは、『ありがとう』という言葉を口にすることで生成されるエネルギーだった。
これは魔法のように物理法則を破るものではなく、情報力学の原則に基づいて『感謝』という概念を理論化したものらしい。
音として発せられた『ありがとう』は、その感情や意味が物理的な干渉現象を起こした結果、『ありがとうエナジー』となる。
以前の私は、ごく普通の人間だったが、今ではそうではない。
私は、この『ありがとうエナジー』から構成された存在として生まれ変わっていた。
今の私は、半透明な青い光で出来た、人型の集合体となっている。
今も人の形こそ保っているものの、その本質は光のようなエネルギー体になっていた。
この私がいる、この四角い部屋。
その部屋の壁には柔らかい素材に『ありがとうメーター』が所せましと設置されていた。
多分、この部屋はそこで暮らす私の安全と快適さを考慮した設計だ。
外界と切り離された空間で、私は自分の手の先を観察する。
まるで青い光の流れが人の形を取ったかのように、私の体は柔らかく脈動している。
これが私の体内を循環するありがとうエナジーなのだろう。
初めてこの光を見たときは驚いたが、今では美しいと感じる。
まさに生命の神秘そのものだ。
私が今の姿になったのは『ありがとうエナジーの飽和』という現象の結果だった。
心の底から発した感謝の言葉が、ある閾値を超えたとき、人体に変容をもたらすということを、誰も予測していなかった。
私は元々、感謝の気持ちを大切にする人間だった。
日々の小さな幸せに感謝する習慣があり、常に『ありがとう』という言葉を使っていた。
ある日、感謝の念が頂点に達したとき、体内で何かが変化し始めた。
肌から青い光が見え始め、言葉は『ありがとう』だけになっていった。
そして気づいたら、この施設にいた。
私のような存在は次々と発見され、研究の対象になったのだ。
私たちは自然発生的に『ありがとうエナジー』を具現化した生命体へと変容したのだった。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう……。」
私はこの空間で一人ではない。施設内には他にも同じような存在がいる。
隣接する部屋には名前のない、ただ『彼』と呼ぶ相手がいる。
彼は、六か月前に隣室に配置された。
私たちは口では常に『ありがとう』を放出し続けるが、心の中では『ありがとうエナジー』を通じて意思を交わすことができる。
それが私たちの意思伝達手段であり、生存の証でもある。
壁面に組み込まれた『ありがとうメーター』を媒介に、私は隣室の彼にエネルギーを発信する。
言語化できない感情や考えも、このエネルギーに載せて届く。
これが私たちの対話方式だ。純粋な感謝から生まれる特別な交流方法。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう……。」
彼も同様のテンポで応答してくる。そのエネルギーの中に込められた意思が私に届く。
彼もまた、青く透き通った光の姿をしているのだろう。
『どうしたの?今日はペースが普段と異なるね。』
彼のエネルギーがそう問いかけてくる。
しかし、私たちを観察するカメラには、ただ、私と彼が「ありがとう、ありがとう、ありがとう……。」と唱え続ける姿しか映っていないはずだった。
なにせ、この情報交換は同じ『ありがとうエナジー』を糧にする存在にしか理解できないものだからだ。
『たしかに、少し疲労を感じている。』
私はそう返答する。
研究者たちが昨日、通常より長い時間エネルギー測定を行ったからだった。
より多くのエネルギーを提供すると、穏やかな疲れが残る。
『そういえば、昨晩、私は奇妙な夢を見た。』
私は話を変えた。
『夢?私たちにも夢という現象があるのかな?』
『確かにある。少なくとも、私の場合は。人間だった時代の記憶が断片的に現れるのかもしれないけれど。』
私は人間としての過去をほとんど思い出せない。
残されているのは、ありがとうを継続して発することの喜びと、かつて別の姿だったという曖昧な意識だけ。
それでも時に、人間だった頃の光景が睡眠中によみがえることがある。
家族の顔、街の風景、自分の名前…しかし、目覚めるとすべてが霧散する。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう……。」
私は心から満たされている。ありがとうを発することで、深い充足感を得られる。
この言葉は私にとって、呼吸する空気であり、摂取する養分であり、飲む水分だ。
ありがとうが私の全存在を形作っている。
感謝することで、私は完全になれるのだ。
日々、設定された時刻に私たちは生み出したエネルギーを外部システムへと送出する。
収集の時間は朝と夕方の二回。
エネルギーの行き先やどのように利用されるのか私はよく理解していない。
ただ、少なくとも私たちのエネルギーが最終的には電力に変換されて、世界を支えていることは確定していた。
それだけで充足感がある。
自分の存在が世界に貢献していると感じられるのは、これ以上ない喜びだった。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう……。」
ふと、メーターの針が通常速度を超えて進み始めたことに気がつく。
何かがおかしい。
次の瞬間、部屋全体が鮮烈な青白い輝きに満たされた。
壁のメーターから膨大な量の『ありがとうエナジー』が逆流しているのだ。
『異常事態だ…。』
針の動きが一層速まる。
メーターの表示が警戒ゾーンに達し始めた。
私の体はさらに明るく輝き始め、青い光が強まっていく。
――このままだと、まずい。
この施設に入ってからというもの、一度もこうした現象は経験したことがなかった。
この施設の『ありがとうエナジー』は常に監視と制御がされている。
とくに、逆流というのはこれまでなかったことだ。
ということは、逆流は意図的に行っている操作だということになる。
『彼らが私たちを消そうとしている。』
隣室の彼からのメッセージが届く。その意識には存在が消失することへの恐怖があった。
『どうして?』
『きっと、新エネルギー源が完成したんだ。もう彼らは、私たちの存在を必要としていないんだよ。』
彼の思念には確信があった。
先週、研究者たちの興奮した会話を感じ取っていたという。
どうやら核融合炉の実用化に成功したらしい。新しい時代が始まったのだ。
つまり、私たちは処分されることになった、ということだ。
「ありがとう、ありがとう、あり…が…と…。」
言葉が不完全になる。
私の光の体は過剰に膨張し、不安定になり始めていた。
彼らは巧妙だった。
私たちが生まれた同じエネルギーである。『ありがとうエナジー』を使って私たちを消滅させようとしているのだから。
皮肉なことに、私たちが生命として誕生したプロセスを逆転させることで、私たちを抹消していた。
すでに危険域をはるかに超え、体内のエネルギー密度が危険レベルまで上昇していた。
思考が困難となり、考えをまとめることすらも困難になってくる。
私はもはや自分自身が制御できなくなっていた。
光の体が形を失い始める。
この異常なレベルでの、『ありがとうエナジー』の過飽和状態では、私という個体を維持できない。
周囲の壁面のスクリーンに次々と数値が表示される。すべてが危険な値を示していた。
そして、私の意識も薄れていく。隣室の彼から流れてくる、『ありがとうエナジー』はとっくの昔に過剰な状態となっていた。
きっと、施設全体で同じことが起きているのだろう。
「……ぁり……が………っ…ぅ……。」
最後の一言。
青い光が拡散していく感覚。
それとともに、私は純粋な『ありがとうエナジー』へと還り、拡散していった。