祭りの日
遠くで大太鼓が鳴っている。風が音をさえぎる。久美子はスカートの裾がなびくのを両手で押さえた。ふたたび大太鼓が鳴った。三日間ある祭りの、二日目だった。
烏帽子をかぶった男たちが乗る大太鼓の皮の黒ずみを目がけ、同じ烏帽子をかぶった男が子供の二の腕ほどある桴を打ちこむ音は、間近で聞けば耳ではなく直接心臓に吸い込まれていくように響く。群衆が大太鼓を綱で牽いてこのあたりを練り歩いていたとき、久美子は二階にある自室の窓から眺めていた。五月の陽光で照りかえったアスファルトに電柱が色濃い影を落としていた。大太鼓の音が近づいてきたのはちょうど久美子が化粧を済ませた頃で、円筒型の提灯を先頭に半纏姿の群衆が縦横に居並んで歩いていた。車道と歩道とを分ける白線が引かれているだけの道にいると、烏帽子姿の集団が大太鼓を牽いて練り歩いていたのが白昼夢のできごとのように思える。久美子は風が吹くほうに耳をそばだてた。
待ち合わせの時間にはまだ余裕があった。祭りに行けば妹の瞳子と境内で鉢合わせるかもしれないと考えないわけではなかったが、旧友の香帆や麻衣に久しぶりに会いたかった。ふたりと会うのは中学を卒業して以来だった。男友達と会うわけでもないのに、去年買ってから一度も袖を通していなかったブラウスとスカートを久美子は合わせていた。この頃は市外の高校と自宅とを自転車で行き来するせいか、スカートから食み出た太ももは一年前よりもそれなりにがっしりとしている。制服のときには見慣れてしまって気にならないのに、いざよそいきの恰好をしてみると一年前とのちょっとした違いがやたらと気になった。気になると言えば、昨日瞳子に引っかかれた左腕の傷を隠すのに七分袖ではなく長袖のカーディガンを選んで、羽織っていた。たいした傷にはならなかったから絆創膏は貼らなかったが、筋状に四本に並んだかさぶたは見た目には派手だった。カーディガンの繊維がかさぶたをくすぐるのを、久美子は服の上からさすりつづけながら歩いていた。
もしも瞳子がクラスメイトの男の子から電話で遊びに誘われていなかったらと、久美子はそればかり考えていた。男の子の名前は何度か耳にしているように思う。もしかしたら家に遊びにきたことがあったのかもしれないが、電話越しの彼の声を聞いてもまったく顔は思い浮かばなかった。瞳子に留守番をさせて外出しようとしていたことを思えば、ばったり境内で出くわすほうがマシだった。けれど、そもそも瞳子が我がままを言わなければこんなに気が揉めることもなかったのにと思うと腹が立った。大太鼓の音は、遠くであるにもかかわらず久美子を更にざらつかせた。女の子が両親に手を繋がれて歩いている後ろ姿を久美子はだだぼんやりと眺めていた。おさげにした髪がスキップのリズムに合わせて揺れる。彼女が口ずさんでいたのは、最近小学生の間ではやっているらしいアニメ番組の主題歌だった。学校の昼休みにアニメ好きの生徒が流すので、久美子もメロディと歌詞を諳んじられるようになった。
姉になど声をかけず、最初から彼と行けばよかったのだ。もちろん、父親が休日出勤で家にいない以上、祭りに行こうと姉にせがむのが自然だというはわかっていた。しかしそれを当然であるのを前提にせがんでくる瞳子のいたいけが久美子はうんざりだった。妹と浴槽に浸かっていることにさえ溜息が漏れた。久美子は一週間前からしきりに祭りに行きたいとせがまれていた。旧友との約束を伏せて、勉強で忙しいのとなげやりに答えれば、そんなのつまらないと口をとがらせた。いつもはすぐに自分をひっこめる瞳子が昨日にかぎってやたらと食い下がった。久美子は自分のなかに、これから夕食の用意をせねばならないわずらわしさがこみあげてくるのを感じ、瞳子を無視してからだを洗おうと立ちあがりかけた。引っかかれたのはそのときだった。久美子をひっぱる瞳子の爪が肌に食いこみ、久美子はとっさに瞳子を振り払っていた。とっさであったにもかかわらず、そこに少なからず感情も含まれているのを隠そうと、久美子はおおげさに痛がった。風呂場の壁に反響した自分の声が寒々しく耳に届くのを感じた。瞳子が浴槽のへりにあたまを打ちつけていないかとひやりとしたが、瞳子はうっすらと赤らんだ手首を抑え、目じりに涙をためているだけだった。血が汗に混じって久美子の腕に浮きあがっていた。瞳子はもうなにも言わなかった。俯いて、合わせた人差し指をくっつけたり、離したりしていた。それは、ふてくされているのを見せつけているのではなく、自分がこれからどのようにふるまえばよいかをわかりかねているときにするしぐさだった。いっそふてくされてくれたほうがいくらも楽なのにと、浴槽を出るきっかけを失って、しぶしぶ肩を湯のなかにうずめた。給湯器の追炊きボタンを押せば、女性の淡々とした声で、追炊きをしますと流れるのがいまいましく、久美子は浴槽の内側をコツンと指ではじいた。
別に瞳子をきらっているわけではなかった。しかし、お祭りに行こうとせがんできた瞳子の顔を思い出すと、久美子は腕の傷がむずがゆくなるのを感じた。小学生にもなって、お姉ちゃん、お姉ちゃん、といまだに後ろを着いて回ろうとするのは、やはり幼稚過ぎるのかもしれない。さすがに枕を抱えて久美子の部屋に入ってくることはなくなったが、久美子がかたくなに拒まなければいまだにいっしょに寝たがっただろう。テレビでカルガモの親子が話題に出ると、久美子はカルガモの親の脳みその軽さを羨んだ。排水溝に落ちた子供を親が心配そうに見つめている様子が不快でさえあった。
西日が強く当たりだしていた。普段自転車に乗りなれているせいか、大した距離ではないと侮っていた道のりが思いのほか遠く感じる。大通りの雑踏を考えれば歩き以外の選択肢はなかったのだが、久美子は自転車のペダルを勢いよく漕ぎたい気分だった。目の前を歩く女の子は同じ曲を何回もくりかえし口ずさんでいる。
去年香帆から祭りに誘われたときにはテニス部の練習があり、久美子は断るしかなかった。テニス部を辞めたことはふたりに伝えてあったから去年と同様に香帆からラインで誘いがくると、久美子はすぐに携帯のカレンダーに予定をいれた。折角だから祭りのあとに泊まりにきたらと言う香帆に、ひとまず保留にしてさせてほしいとは返信をしながらも、すでに心はそちら側に傾きかけていた。しかし瞳子と悶着があった以上、男の子の自宅に瞳子を迎えに行ったあとで改めて外出するのは気まずくもあった。一応すぐに外出できるように、化粧道具や部屋着をボストンバックに詰めてベッドに置いてはいる。香帆の家まで自転車を使えば十分とかからない。香帆の家には一度だけ泊まったことがある。瞳子が保育園のお泊り会に参加する日に合わせて前もって予定を立てたのだった。今日にしても瞳子のクラスメイトが女の子だったら、お友達の家で一日くらい厄介になったらと勧めることができたのに、男の子である以上迎えにはいかなければならない。
瞳子のほうから、お姉ちゃんの顔なんて見たくないと駄々をこねてくれたらと久美子は思った。実際、風呂場での出来事を思い出せば、瞳子に嫌われていてもおかしくないという自覚はあった。今朝は朝食の時間になっても自室から出てこようとはしなかった。心配する父親に久美子は、口喧嘩をしたとだけ伝えた。瞳子のクラスメイトから電話がかかってきたのは昼前のことで、健人君から電話がきていると瞳子の部屋のドアをノックすれば、瞳子は開けたドアの隙間から顔を覗かせた。涙で目のまわりを腫らした様子はなく、口をへの字にして子機を受け取っていた。
どこかの民家からシャンプーの香りが漏れている。入浴するにはやや早い気がしたが、久美子が瞳子を入れる時間帯もほかの家庭に比べれば早いのだろう。瞳子を風呂からあがらせ、ドライヤーをかけてやるのが日課だったが、結局昨日は久美子のほうが先にあがり、瞳子のことはほったらかしにした。中途半端にドライヤーをあてた瞳子の髪から自分と同じ香りがし、それが今でも久美子の鼻根あたりに染みついている。香帆に会ったら、彼女がどの銘柄のシャンプーを使っているのか聞いてみようと久美子は思った。昔から香帆は人一倍おしゃれに気を遣っていた。
昔は遊んでくれたという言葉で、瞳子は何度も久美子に不満を垂れた。もしも別の言葉で不満をぶつけられていたのなら、おおげさに痛がってみせてまで瞳子を拒絶することはなかったかもしれない。引っかかれたことなどどうでもよかった。瞳子の不満に言葉の意味を超えて意味がないのはわかっていても、不満を口にされるたびに久美子は神経の外側をそっとやすりで撫でられているような気がした。そんな神経がむきだしになっていること自体に動揺させられもした。
遊びたいとせがむ瞳子の相手を久美子が積極的にしなくなったのは、瞳子が小学生になってからだ。徐々に相手をしなくしていくのは、逃げ道を探しながらこっそりとすがたを消すようで後ろ暗かった。瞳子を保育園に預けていた頃は送り迎えのほとんどを久美子がしていたために、大抵は帰る途中で道草につき合わされた。母親が病死して間もない頃、家の近くに更地になって日数の立っていない空き地があり、売地と書かれた立て看板が立っていた。均された表土のところどころが雑草の色に染まりだすと、瞳子は雑草のまわりを飛び交う蝶に惹かれて、捕まえたがった。コーンバーをくぐり、ゴム帽子を振りあげながら蝶を追いかける瞳子を、久美子は外から眺めていた。つまづいてケガをしないかハラハラさせられながら、不意に瞳子がこちらを向いてにっこりと笑えば、慌てて微笑んで見せた。
カマキリを見つけたと言って、捕まえて差しだしてくる瞳子は、幼時に本ばかり読んでいた久美子とはまるで対照的だった。迎えに行けば、木から落ちて擦り傷だらけになっていたこともある。記憶を懸命にたどりながら母親をなぞっていた久美子には、そのか細い線をはみだして妹とつきあう手段が途方もないものに思え、瞳子が空き地に入るのを止めたり、自分から進んで空き地に侵入したりできなかった。空き地そのものは半年ほどで建設業者が出入りをするようになった。重機が土を掘り返す風景に久美子はホッとさせられたが、残念がる瞳子の隣を歩く気まずさに耐えきれずに、遠回りをして児童公園で遊ばせていた。児童公園で遊ばせるのは空き地よりも楽だった。瞳子が遊んでいるのを、ベンチで小説を読みながら見張っていればよかった。遊具が少ない公園をあえて選ぶ子供は少なく、瞳子はよくひとりで砂場に山を作っていた。夕方に防災無線から流れるのはドヴォルザークの、新世界より、だった。暗くなる前に帰ろうと言っても、瞳子は砂を固める手を止めなかったが、無視をして背を向ければ音を立てて走ってきた。手は繋がない。制服が砂や泥で汚れ、その都度洗うのはきりがなかった。
落ち着きが足りない子供だと面談ではいつも保育士から言われているし、久美子も妹の活発さにはずっと困らされた。しかし、そのことを父親にも両方の祖父母にも相談する気にはなれなかった。今だから母親を引き合いに出されたらという思いがあったのだと理解もできるが、当時はなぜ相談をしにいこうとする重心をもう半分の重心が引き留めようとするのかわからず、眠りに身をゆだねていた。意識を泥の奥底に沈みこませる眠りは夢も見ない。瞳子を保育園に通わせている間、久美子は一度も母親の夢を見なかった。そうして訪れる朝は、肺に溜まった泥を吐き出さねばならない、息がしづらい朝だった。吐ききれない泥が肺に残るのを感じながら日に日に泥で重みが増していくからだで過ごす一日のほうが、よっぽど夢のなかをさまよっている感覚だった。年月だけが刻々と過ぎていた。
母親が死んで、悲しむ間もなく泥のなかで暮らした数年は、もしかしたら不幸せなことではなかったのかもしれない。まだ瞳子が生まれていなかった頃、家で飼育していたハムスターがケージを飛び出し、その三日後に箪笥の奥で固くなっているのを発見した久美子は、しばらく自室から出ることができなかった。餓死するまでの過程を想像しただけで涙がこぼれ、ベッドから起きあがれなかった。泥に意識を沈ませるのは、過剰に膨らんだ感情を染みこませる行為であると言えた。そうして泥を蓄えていくうちに、母親の記憶は瞳子が砂場で作る山よりももろく、ちょっとの風に散り散りになっていた。
生前、母親が久美子を病室に寄せつけなかったのも、自分の衰えていくすがたを娘に見せたくなかったからなのだろう。病気でからだが弱ってもなお、母親の心の底にかつて舞台女優であった自負が潜んでいることは久美子にも理解できた。きれいな母親だった。久美子が産まれるのを機に母親は舞台を退いた話は、久美子がまだ小学生だった頃、物置にあった公演のパンフレットを何冊も見つけた時に父親から聞かされた。心残りは微塵も感じさせない母親だったが、それが演技だったのかどうか、今では知るよしもない。最後に母親に会ったのは亡くなる一年前の三月で、治療薬の副作用で髪は抜けはじめていたがまだやせ細ってはいなかった。まさかその後、父親を通じて見舞いに行くことを拒まれるとは思っていない久美子は、病室を出るときに母親に瞳子をよろしくねと言われ、まだ助からないと決まったわけではないのにと、語気を強めた。棚に飾られたハーバリウムの葉脈が母親の体内に這う病巣に見え、もう母親のほうに視線を向けることができなかった。
葬儀の日、棺に入った母親の容貌は、頬の肉がそげて、瞳子の隣に座っている祖父の顔と瓜二つだった。霊安室で見たときよりも口元がほんのわずかに開いていたので、そう思ったのかもしれない。遊びたいと喚く瞳子の手をずっと握っているうちに、気がつけば火葬が済み、母親のからだは骨壺のなかに収まっていた。
気がつけば、ということが、母親がいなくなってから増えた。気がつけば、母親のことを思いだすことも少なくなっていた。リビングにある遺影代わりの写真に昔は毎日手を合わせていたが、今ではそこに写真が飾られていることさえ忘れがちだった。だから、この頃は思いたったときに墓参りに行くことにしていた。風で舞い散った砂をかき集めれば、元のかたちにすっかり戻すことはできなくても、近づけることはできる。墓参りに行くのに自転車通学は都合がよかった。もっとも、久美子はそれを母親のためとは思っていない。高校の友人から親思いだと関心がられるたび、喉になにかの小骨を植えられる思いがしてえずきそうになる。親思いでないことは久美子自身、理解していた。
母親の墓前で目を瞑りながら、久美子は学校での出来事を報告する。瞳子について話すこともあったが、小学校にあがったとか、誕生日を祝ったとか、久美子でなくても話せる内容ばかりだった。四六時中瞳子といるはずなのに、顔や身長の変化をおぼろげにしか覚えておらず、瞳子の細々としたことはなにひとつ伝えられなかった。思い返してみれば、浴槽に浸かっていて心なしか以前よりも窮屈になっていたことに気づきもする。ランドセルから手足が生えたようだったおもかげは欠片もない。瞳子をきらいになったわけではないと言い訳をしながらも、砂をかき集めるのと反比例して瞳子の存在が希薄になっているのを、久美子はほったらかしにしていた。一度、肺に溜まった泥が溢れてしまった以上は、もう二度と泥のなかで眠りたくはなかった。たくさんの樹々に抱きすくめられているかのような安らかな眠りのなかで眠りたかった。
高校に進学してからも、家事全般が久美子の役割であることは変わらなかった。昔から料理を作るのは好きだった。昼休みに同級生から弁当のおかずをねだられると、久美子は喜んでそれをあげた。良妻になれると男子に冗談を言われても嫌悪感はなかった。瞳子や父親に食事を作るのもその延長だった。料理をするとき、久美子は料理が趣味の高校生でいられた。入学してすぐにテニス部に入ったのはなにか新しいものに触れたいという興味からだったが、背伸びをせずに素直に調理部に入っていたらよかったのかもしれない。
父親が暗に勧めてくるのを無視して市外の高校に進学したのは正しい選択だったと、久美子は思う。だからこそ、昔は遊んでくれたのにという瞳子の言葉は、久美子のからだに無遠慮に染み渡っていった。母親をなぞっていたことはあっても、瞳子の遊び相手になったことは一度もなかった。ロープの外から空き地で蝶を追いかける瞳子を眺めているだけの関係性だった。都合よく変えた記憶を寄る辺に不満を垂れる瞳子に、感情が揺らがないではなかった。けれど、そこで感情を揺らいでしまっては後に引き返せなくなる気がした。
昨日に限ってなぜ、昔は遊んでくれたと、しつこく食いさがったのだろう。落ち着きがないように見えて、久美子に対しては時折、ためらいがちな態度をとる癖が瞳子にはあった。瞳子とのつきあいに折り合いをつけられるようになったのも、瞳子のそんな微妙な態度につけいる術を学んだからで、こちらから歩み寄らないにもかかわらず我を押し通そうとしてくることは滅多になかった。だから、姉妹喧嘩に及ぶのは稀だった。
夜に仲違いをしたせいか、久しぶりに瞳子の夢を見た。父親から瞳子の分の小遣いを渡されて祭りに行けば、瞳子は小さなからだを捻り、露店の、むき出しの電球に照らされた人混みをひょいと通り抜けていく。心なしか、実際よりも背が小さかった。もうとっくに捨ててしまったが、アンパンマンの絵がプリントされたシャツは、年中砂場で汚すほど瞳子は気に入っていた。すがたが見えなくなってしまわないように、久美子は必死に瞳子を追いかけた。しかし一向に追いつく気配はなかった。匍匐前進をしているかのように、からだが遅々として進まない。すれ違う男の肩が当たり、弾みで持っていたプラスチック容器が手から離れる。参道に散らばった焼きそばを通行人が構わず踏みしだく。人をよけるはずみにスニーカー越しに焼きそばを踏む感触が伝わった。ぐにゃりとした感触は妙に精緻で、久美子は過去を追体験しているのだと理解した。石畳に靴底を擦りつけながら、早く目が覚めてくれたらと心で唱えた。思いだしたくないときほど、その夢を見る。人間の意識は皮肉にできている。
駅前のケヤキ並木は、神社に向かう人と駅に向かう人とで潮目を作り、溢れてかえっていた。
年々、祭りの参加者が増えているように思う。鳥居へと延びる並木道は古くは参道の一部だった。自動車の通行が規制された車道は、その本来の役目を取り戻しているように見えた。それぞれの町内から大太鼓が集まり、車道を占有していた。幅広の歩道の、普段は駐輪スペースになっている車道沿いいっぱいに観客が群がっている。打ち鳴らされる様子を携帯のカメラに収める観客、スターバックスの透明の容器を持ちながら笑い合うカップル、植込みにめぐらされた石積みにのぼって熱心に見つめる子供。太鼓打ちは助走でつけた勢いを桴にこめて殴るように叩くが、大太鼓はびくともしない。重たく、下へ下へと沈んでいくような音が打ちこまれ、歓声があがる。
大太鼓の饗宴を久美子は歩きながら眺めていた。家々をかすめるようにして打ち鳴らしていたときに比べれば、異様に大きくは感じない。烏帽子をかぶった群衆もすっかり馴染んでいる。横断歩道が青に変わり、人混みとともに渡る。もう十メートルとないのに、一秒でも早く心臓をお祭りに浸からせたいと小さな子供が駆け抜ければ、母親から怒りを含んだ声で呼び止められていた。
香帆や麻衣とは鳥居の前で待ち合わせることにしていた。時間にはまだ十分ちょっと早かった。
人がせわしく行き来する場所で佇むのは居心地が悪かったが、かといって別の場所でひまをつぶせるだけの時間を持て余しているわけでもない。今頃瞳子はなにをしているのだろう。電話越しの男の子は、押し隠した緊張がわずかに漏れるのをふたで抑えこむように、ゆっくりと瞳子の名前を呼んだ。倒せばそのまま横たわる、壊れたおきあがりこぼしのような雰囲気の子だった。瞳子が迷惑をかけていないか心配だったが、案外うまくやっているのだろうと久美子は思った。案外瞳子には世話焼きなところがある。
鳥居の向こう側から漂うソースの香りを嗅ぎながら、久美子は腹が減りだしているのを感じた。
瞳子が昼前に出かけてしまったために昼食を作るのをうっかり忘れていた。二年ぶりに会う旧友との約束を前にいくばくか浮足立っていたためもある。集合して、自分だけが悪目立ちしていたらと、久美子は服を選びながら思った。けれど普段着のデニムに慣れたからだのまま会うのも、やはり悪目立ちしている気がした。もっとも、洋服ダンスのなかにおしゃれ着はほとんど入っていない。洋服ダンスの奥に去年買ってつっこんだままになっていたスカートを見つけたとき、若干少女趣味な気がしてまた衣類の一番下に埋もれさせたが、はなから諦めてしまうのは惜しく思えた。結局、そのスカートを履くと決めて化粧に取りかかれば、約束の時間が押し迫っている焦りで手元がおぼつかなかった。コンパクトを取り出して、化粧の具合を確かめる。いつもはマスカラで睫毛をもちあげるだけの目元にアイシャドウを入れている。屋台で食事をするときに拭いやすいよう、口紅はくちびるに色味が出る程度にしかつけていない。
「お待たせ」
声をかけたのは香帆のほうだった。香帆も麻衣も家が三軒と離れていないから、あらかじめ待ち合わせをしてからくるのだろうと想像していたが、あたりを見回しても麻衣を見つけられなかった。
「麻衣とは一緒じゃないんだ」
「うん。私、バイトが終わって直接来たから」
香帆は男性丈のTシャツをワンピースのように着ていた。大きく開いた袖口に風が入りこんで涼しげだった。胸元に英字がつづられている。耳たぶに丸型のピアスがついているのが、かきあげた髪の隙間から見えた。
「久美子のスカート、かわいい。どこの?」
香帆と昔と変わらないやりとりをしているうちに、麻衣が五時半ぴったりに合流した。香帆と麻衣があらかじめ待ち合わせていなくてよかったと久美子はつくづく思う。もしも久美子が麻衣の立場だったなら、ふたりの間に過去ではなくたったいまの結びつきを見いだしてしまい、半日経っても打ち解けられずに愛想笑いをふりまくだけで終わっていたかもしれない。
「なに話してんの?」
と、学校で話しかけるように麻衣が割りこむ。見た目が一番変わっていないのは麻衣のように思う。生地の薄い、足首まであるドット柄のワンピースが、長身の麻衣によく似合っている。ヒールのない、ボヘミアン調のサンダルを履いていた。
麻衣が唐突に、今日は妹ちゃんはいないのと訊くので、久美子はドキリとした。一度だけ、瞳子を連れて四人で祭りに行ったことがある。そのときは麻衣がずっと瞳子の相手をしてくれたおかげで、久美子は例年に比べて屋台を巡ってもくたびれずに済んだ。下に妹と弟がいる麻衣は、馴れた様子で瞳子のわがままにつきあっていた。
「友達とでかけちゃったから」
と、久美子は答えた。嘘は言っていない。しかし、正しくもない。香帆が屋台で買う前にお賽銭を済ませようなどと殊勝なことを言うので拝殿に向かう。瞳子と同じ背丈の子供を見かけると、久美子はつい後ずさってしまいそうになった。まだ日は落ちきっていなかったが、どこの屋台もすでに照明を点灯させはじめている。樹々の切れ間に月が見える。空腹に加えて、喉も乾いていた。さっさとお賽銭を済ませてしまいたかったが、随神門の手前あたりから拝殿へと流れる列が滞りはじめた。檜造りの瀟洒な大門だが、改修があってからからそれほど経ってはいない。随神門まで露店がずっと軒を連ね、左右の脇道へと続いていく。様々な屋台からあがった煙で目の前がうっすらとかすんでいた。カーディガンの下で傷口がかゆみだす。随神門を抜けると中雀門があり、その先が拝殿だった。
参拝の列に並んでいるあいだの話題はもっぱら香帆の片想いについてで、相手は写真部の先輩らしかった。だからお参りをするんだと冗談めかして言う麻衣に反駁しながらも、一瞬だけ玉砂利へとそらせた瞳はすでに願かけをしている人の潤みをしていた。ゆるんだ口元から八重歯が覗くのを香帆はとっさに右手で隠した。桃色のマニキュアに浮かんだ光がゆるやかなカーブを描く。わずかに爪が伸びている。左手は前に背負ったリュックを抱えていた。笑い方は中学時代と変わらないのに、容姿が大人びた分、かえってみずみずしい。全身からにじむそのみずみずしさは、久美子が持ち合わせていないたぐいの性質だった。
この祭りは江戸時代まで、男女が夜陰に乗じて恋愛を楽しむ場でもあったらしいと聞いたことがある。香帆がそのことを知っていたかはわからないが、祭りにことよせて男女が逢引きするのはいつの時代も変わらないらしい。好きな人はいるのかと麻衣に聞かれて久美子は、最近別れたと言葉を濁した。つきあってはいたが、その彼を好きになったことはない。告白されたから、つきあっただけだ。久美子であれば断らないだろうと、彼のほうでもたかをくくっていたのかもしれない。家事がある以上、放課後に遊ぶことはなく、キスもしなかった。関係が進展しなければ彼から離れていくのは当然のことだったが、告白されたときの好きだという言葉に、性欲以外に意味は含まれていたのかと確かめてみたくもなった。彼に比べたら、香帆の言う好きは、とても崇高なもののように聞こえた。好きでいようと我慢し続けるのは瞳子だけで十分だ。
列が進んで、久美子たちの順番になる。賽銭箱に近寄り、そっと百円玉をいれる。縁起担ぎで五円玉をいれるのは好きではない。久美子はさっさと二礼二拍手をして手を合わせた。自分の順番がくる間、なにを願おうか考えていたが、なにも思いつきはしなかった。誰かが後ろから投げ入れた硬貨が、音を立てて賽銭箱に落ちていく。目を開けて、隣にいる香帆を薄目で見る。香帆が願掛けを終えるまで久美子も拝みつづけた。こんなでたらめをしていたら、神様に怒られる気がした。
拝殿の傍らにある無人のおみくじを、麻衣が引いていた。久美子は香帆といっしょに麻衣のもとに駆け寄った。元旦でもないのに、麻衣のほかにもおみくじの紙に目を通している人がちらほらといる。
「久美子もずいぶん長かったね」
おみくじの紙をたたみながら、麻衣が言う。
「まあね」
「彼氏と復縁したいとか?」
「死んでもイヤ」
「麻衣こそおみくじなんか引いて、どうかしたの?」
「べつに。ふたりが遅いからひまつぶししてただけ。でもほら、大吉。せっかくだから香帆も引いたら」
「初詣で引いたからいいよ。小吉だったけど、悪くなかったもん」
「大吉のはずなのに、内容は凶だったみたいなこともあるしね」
「わたしのはちゃんとした大吉だったよ。病気もしないし、待ち人も来るみたいだし」
久美子たちが参拝を終えたあとも列が途切れることはない。麻衣はおみくじをしまった長財布から千円札を四枚抜き出し、スマホカバーのポケットに入れ替えた。長財布には目立った傷がなく新品のようだった。極力、財布をかばんから出さずにすませたいらしい。拝殿の広々とした空間から参道に戻れば、太鼓の音はもう聞こえてはこない。そこかしこからみずみずしい気分が迸っている。久美子だけがみずみずしさから置きざりにされていた。拝殿で星が巡っていくのをじっと眺めているほうが似合っている。香帆から参拝に誘われたのに、久美子のほうが香帆たちをつき合わせていたようでしっくりこない。
露店の軽食や飲料を買って、参道から離れた低い段差に腰をかけた。香帆が携帯を腕いっぱいに掲げる。味が濃いだけのお好み焼きを飲み下して、久美子はピースをした。画角に収まるように香帆に顔を寄せる。夜気を含んだ髪が頬に触れると、ジャスミンの香りがした。本当は意中の先輩を誘いたかったのだろう。告白をしたとき、先輩からコンクールに専念したいと言われ、振られた香帆だったが、いまだに放課後にふたりで遊ぶことはあるらしい。もしも香帆と先輩が交際をはじめたら、この三人の関係も次第に疎遠になっていくことは想像できた。香帆から連絡を寄こさなければ、久美子も、麻衣も、自分から関係を保とうとする質ではない。しかし、そんな微妙な距離感で保っている関係が久美子にはちょうど良かった。視線の先でこうもりが羽ばたいている。気を取られているうちに、フラッシュがたかれた。続けざまにもう一枚、香帆がシャッターボタンを押す。久美子の瞳の表面で、カメラレンズの形に爆ぜる光が夜空に舞う。
香帆が撮った画像はすぐにグループラインにあがった。補正アプリで手を加えられた三人の顔を眺めながら、みずみずしく変化させられた自分の顔を、久美子は指でなぞった。麻衣が香帆の口にたこやきを放りこむ。香帆は慎重にあごを動かしながら、急いでラムネを口に運んだ。瓶のなかのガラス玉がからりと音を立てた。
露店でもらったビニール袋に、空になった容器が重ねられる。今日は食事を控えようという決心が跡形もなく崩れ去ったあとの残骸だった。香帆の引き締まった太ももが羨ましく、凝視してしまう。
久美子の携帯に電話がかかってきたのは、みんなでかき氷でも食べようかと、話していた頃だった。液晶画面に、登録されていない携帯番号が表示されている。連絡はラインでとりあうことがほとんどだから、電話番号が表示されること自体、めずらしかった。瞳子がなにか迷惑をかけたのかもしれないと直感的に思った。男の子の母親には前以て自分の連絡先を伝えていた。電話に出てみれば、思った通り相手は男の子の母親だった。お姉さんですか、と訊ねる声が妙に上ずっている。雑音がして聞き取りにくい。
「ごめんなさい。神社で瞳子ちゃんとはぐれてしまって」
振り返れば、香帆と透子が何味のかき氷を食べようか、話している。久美子は、迷子と言いかけた言葉を飲みこんだ。気づいたらいなくなっていたと、男の子の母親は続けた。息子に訊ねても、要領を得ない。瞳子がはぐれて、三十分ほど経っている。社務所を訪ねても、その時点で迷子の届け出はなかった。男の子の母親から言われた言葉が、久美子のあたまのなかでちかちかと点滅をする。久美子は言葉を頭に残しておくので精一杯だった。
電話を切ると、麻衣に真っ先になにかあったのか訊かれた。会話の間、よっぽど干からびた相槌を打っていたのだろう。
「急に瞳子が熱を出しちゃったみたい」
嘘はすぐに浮かんだ。私的な事情に友人を関係させたくはなかった。迎えに行かなければいけないと久美子が詫びるのを、香帆も麻衣もすんなりと聞き分けてくれる。物分かりがよいほど、久美子は、瞳子を振り捨ててしまいたくなった。拐かしに遭ったという考えがあたまを過ぎらないわけではなかったのだが、昨夜の諍いに原因を求めるほうが現実味があるように思えた。ふたりと別れ、参道に出る。ふとももにスカートがまとわりつき、走りづらい。目の前で瞳子が、鬼さんこちらと手招きをしている気がした。そういうからかいをしてもおかしくない年ごろだ。手ぬぐいで目を隠されていなくても、逃げ回る子供のすがたがそこにないのであれば、結局目を隠されているのと同じことだった。どれだけ困らせたら気が済むのだと、いらだちを声に出さずにはいられなかった。ショルダーバッグのストラップがねじれ、あるいは戻るたびに金具の部分が音を立てる。消化途中のお好み焼きやたこやきが胃液のなかで浮き沈みをくり返している。まだ境内にいるうちから、もう脇腹が痛みだしていた。人混みをかき分けようとして、通行人の足をかかとで踏んだ。一瞬のうめき声のあと、背中越しに男性の怒声が聞こえたが、人混みは自分のすがたを隠すには都合がよかった。しかし、人を探すには気の遠くなる眺めだった。昨日の夢の続きを見ているようだ。一時間前までは瞳子と似た格好の女児を見かけるたびに肩がピクリと震えていたのに、それとはまるで異なる反応をしている自分に、久美子は嫌気が差した。裸電球をまともに見て、目の表面に黒い影が居座る。今日ほど男性を恨めしく感じることはなかった。男性の身長にさえぎられて、首を伸ばし、あるいは縮めているうちに、段々と肩が痺れていく。
探すべきところはやまほどあった。人混みのなか、屋台と屋台の隙間、手水鉢や鐘楼、あるいは境内にある施設の裏手。それに境内を離れてしまっている可能性もある。ひとりで探すには限界があった。男の子の母親に改めて電話をする。境内については彼女に任せることにして、久美子は脇道から敷地の外に出た。胃液が何度もこみあげたが、立ち止まるにはまだ体力はありあまっていた。玉垣が延々と続く道を走り、表通りに出た。角の交番を素通りする。袖を捲れば、昨夜の傷が顔を覗かせた。汗の玉がかさぶたの際に張りついて、痒い。袖の上から強く擦っていたらしく、かさぶたが剥げた部分からは血がにじんでいた。
瞳子が立ち寄りそうな場所を考えてみるが、どこも確証はなかった。駅の構内やペデストリアンデッキでつながっているショッピングモールなどを虱潰しに駆け回る。香帆や麻衣と、一通り祭りを回ったら駅構内の喫茶店で休憩しようと決めていた。それなのに、なにが悲しくて妹を探さねばならないのか。駅もショッピングモールも、祭りからの帰りらしい客でにぎわっていた。金魚袋や水ヨーヨーをぶら下げる子供たちの歩幅に足止めをされて、息継ぎのペースが乱されていく。エスカレーターの段差につまづき、滑り落ちそうになるからだを支えれば、手すりのゴムで擦れた右手が悲鳴をあげた。
久美子はペデストリアンデッキに設けられたベンチのひとつに座り、肘掛けにうなだれた。瞳子を探し始めて、一時間が経っていた。久美子のほかには制服姿のカップルが一組、座っているだけだ。
考えられる場所はあらかた探し終えていた。もしかしたらひとりで家に帰っているかもしれないと、自宅に電話をかけてみもしたが、案の定留守番電話につながるだけだった。試しにもう一度電話をしてみようと携帯を開けば、どこからか通知が入っていた。自宅から電話があったのかと期待したのは束の間で、それはラインのメッセージだった。数件以上、通知がきている。すべて、香帆と麻衣からだった。久美子がいなくなったあとでふたりが撮った画像が数枚、グループラインに送られていた。久美子を気遣うメッセージもある。ふたりが親切心から送っているのは知っている。しかし久美子には、それを素直に親切心と受け取ることができなかった。境内で感じた、みずみずしさから置きざりにされたような道足りなさがじんわりと全身を覆った。久美子は自宅に電話をかけずに携帯を地面に叩きつけた。あちこち探しまわったあとの体力では、思ったよりも力が入らなかった。しかしスマホカバーではなく待受画面の側を叩きつけたから、大なり小なり罅割れてしまっているにちがいない。前髪が邪魔をして見えなかったが、制服姿のカップルが驚いてこちらに視線を向けているのは簡単に想像がついた。厚みのある手で肩を叩かれた。だいじょうぶ、と男性の声がし、携帯を渡される。体調が少しすぐれないだけですからと、久美子はなげやりに返事をした。実際、走り疲れたせいか貧血気味だった。小学生までは、朝礼があると最後まで立っていることができずに途中で座りこむことが多かった。成長期になると特に顕著だったが、この二、三年は貧血で倒れることはほとんどなかった。
このまま、肘掛けを枕にして眠ってしまいたかった。泥のなかに意識を沈みこませるように眠りたい。だが瞳子の、昔は遊んでくれたという言葉が邪魔をして、久美子は眠ることができなかった。
眠らずとも、闇雲ではなくせめて見当をつけようと、久美子は上体を起こした。考えようとすれば、貧血のせいかこめかみが脈を打った。瞳子が自分の意思で迷子になっているとすれば、動揺を心臓のなかで絶えず渦巻かせているべきではないのかもしれない。
夜風が吹いて、火照ったからだを冷ましてくれる。からだが冷たくなるのに従って、いらだちが顔面から引いていく。
瞼の内側で瞳子が、鬼さんこちらと相変わらず手を叩いている。あてどないかくれんぼにつき合わされる徒労にうんざりさせられながら、もしもこれがかくれんぼであるならば、絶対に見つからない場所を選びはしないようにも思えた。隠れるのがうまいためにいつまでも見つけだされず、やがて自分から鬼のもとに捕まりに行く子供は、久美子の昔の同級生にもいた。瞳子が諦めるのを待っていられたどれほど気楽だろうかと考えながら、瞳子が隠れている風景をゆっくりと想像した。
かくれんぼから公園へと連想するまでに時間はそれほどかからなかった。瞳子が小学校にあがる前に遊ばせていた公園だった。連想した途端、からだが軟体動物のようにベンチにしなだれていくのを感じた。すぐに見つけだしには行かない。それはいたずらをする瞳子へのちょっとした仕返しだった。電車がホームに進入する振動音が駅舎の外にいても伝わる。そんな不確かな振動に久美子は身をゆだねた。
駅前を離れて路地に入ると、夜空に星が現れはじめる。人通りは少ない。ブロック塀に自転車が放置されているのを見ても、それで駆けたいとは思わない。疲れきっていた。けれど風に吹かれながら歩いていると、貧血がいくらか和らいだ。自宅に帰る道からは徐々にはずれていた。駅からの距離が離れるほど、一軒家が増え、星の数も増える。星がやけにちらついている。明日は雨が降るのかもしれない。北極星はどれだったかなと、久美子は昔父親に習った方法を試してみた。改まって空を見あげると、北斗七星の大きさに驚いた。柄杓の口から直線に目でたどれば、あれが北極星なのだろうと思える星がひとつ、薄雲の切れ間に浮かんでいた。足音がして振り向けば、足音も止まった。自分の足音を他人のものと勘違いしたらしい。ベンチからここまでをさながら瞬間移動をしたかのように感じる。記憶の糸が真後ろのほうで何本もの糸にほぐれて、散らばっている。
もしも公園に瞳子がいなかったら、そのときはなにもかも諦めて、交番で捜索願を出そうと決めている。そのように瞳子のクラスメイトの母親には電話をいれてある。しかし、瞳子が公園にいる確信が久美子にはあったし、焦りもない。
ペデストリアンデッキのベンチでわずかな時間、目を瞑っただけなのに、あたまは冴えていた。
罅割れて、白かびが沸いたような待受画面に指を這わす。チクリと痛みが差せば、かえって心も落ち着いた。それは泣き明かした朝の、疲労と倦怠とが合わさった感覚にも似ていた。瞳子に文句をぶつけるつもりはなかった。麻衣は香帆の家に泊まりに行ったのだろうかと、久美子はぼんやりと思った。あれからもまた通知はきていたが未読のままにしていた。
公園を訪れるのは三年ぶりだった。神社からはだいぶ離れた場所まできていた。平凡な児童公園だが、ぶらんこや鉄棒など、近隣の公演と比べると遊具が揃っている。思った通り、瞳子はジャングルジムの一番上に座っていた。遠くからでも、それが瞳子だとわかった。半日と少し、顔を合わせていなかっただけなのに、ずいぶん久しぶりに会う気がする。瞳子はクロックスをつっかけた足をぶらつかせていた。骨組みに肩が当たるように器用に座っている。久美子はカーディガンの袖を捲っていたことに気づいて、そっとおろした。
「降りておいで」
と、久美子は瞳子の横から声をかけた。普段接しているよりも自然と甲高くなっていた。発声してすぐに、それが香帆や麻衣と話していたときの声だと察した。声をかけると、前後に揺らしていた瞳子の足が止まった。しかしまたすぐに揺れだした。久美子のほうを見ようとはしない。
俯いたままだった。その間、久美子はずっと携帯の画面を後ろ手で触っていた。
「瞳子」
「おねえちゃんがあがってきてよ」
ジャングルジムを登るのは何時振りだろうと考えてみる。幼稚園にいた頃ですら、久美子は教室で絵本を読むか、絵を描くかしてばかりだった。
同級生の、いかにもガキ大将という立場の男の子に、一人遊びばかりしていて気持ちが悪いと、画用紙に描いている最中の絵を取りあげられたことがあった。名前は忘れてしまった。久美子は校庭に飛び出した彼を必死に追いかけたが、距離はどんどんと離れていった。彼がジャングルジムを登り、あっという間にてっ辺にたどり着く。ジャングルジムでクラスの集合写真を撮ったとき、久美子が登りたくないと言って担任を困らせたのを彼は覚えていたのだった。彼が画用紙をひらひらさせながら煽ってくるのを、久美子は泣きながら眺めるしかなかった。それでも、罵声を浴びせ続けられてさすがに腹が立った。恐る恐る骨組みを掴んだ。彼の嘲りが聞こえた。一段目、二段目と、そこまでは我慢をすれば登れた。けれどそれよりも上段になると、地面を見下さずとも、スカートに入りこんでくる風が自分のいる高さを思い起こさせた。あとで降りることを考えれば、取りあげられた悔しさよりも、恐怖から涙が止まらなかった。さすがに大泣きする女子に彼も怖気づいたのだろう、返してやるよとぶっきらぼうに言った。そう言われたところで、久美子には喚かない理由がなかった。絵を取り上げられたことなどどうでもよかった。強めの風が吹いて、久美子は骨組みにしがみついた。目をすがめれば、視界の端に彼の右手から画用紙が吹き飛ぶのが見えた。あっ、という声がした。同時に、彼が空を仰ぎ、落ちていく。久美子とは反対側のほうで砂が音を立てた。うっとくぐもった声を出したあとは一言も発さなかった。死んだのではと久美子は思った。まるで自分のせいで死なせてしまったようで、一際大きな声で泣きじゃくっていた。結局、騒ぎにかけつけた先生に久美子は降ろしてもらったが、その年はジャングルジムの周りに柵が敷かれ、使用が禁じられた。
「いいよ」
高所が苦手なのは今も変わらないが、瞳子の言う通りにしようと思った。それに、昔に比べれば多少なら高所からの眺めも耐えられるようになった。一段目を登る。五歳のときとは最初に握る骨組みの位置がまったく違っている。二段目、三段目と、危なげなく登ることができた。当時、風が強くて登れなくったはずなのに、久しぶりに登ってみれば、風はわずかにひざの裏をこそばゆくさせる程度だった。パンプスの裏にこびりついた泥が登るたびにはがれていくのを感じる。最上段まで登り、瞳子の隣に座る。公園の敷地の奥に民家の明かりが広がっている。さすがに覚悟をしなければ、たちまち目眩がしそうな景色だった。骨組みを握る指に余分な力が入る。瞳子のように足をぶらぶらさせることは、とてもできそうにない。久美子が園児だったときの一件をまさか瞳子が知っているはずはなかったが、わざわざジャングルジムに登らせた瞳子のなかに、あのときの彼のような厭らしさが潜んでいるようで気味が悪かった。折角のスカートが台無しだった。
「いつからここにいるの」
「ずっと。お祭りでおねえちゃんを見かけたから」
「おねえちゃんを?」
「そう。前に、瞳子と遊んでくれたおねえちゃんたちも一緒だった」
「うん」
「おねえちゃん、瞳子と遊びたくなかったんだね」
「それは」
たとえ瞳子に良い影響を与えないとしても、久美子は、それはちがうと言えなかった。黒一色だった窓がにわかに白く染まる。カーテン越しに人影が浮き出る。同じデザインの住宅が居並ぶ、右端の二階の部屋だった。
「前はいっぱい、遊んでくれたのにな」
「遊んでなんかない。瞳子がひとりで遊んでいたのに、つき合ってただけだよ」
「でも楽しかったよ」
「そんなことない」
「ううん。楽しかった」
「瞳子はさ、ずっとママがいないからそんなことが言えるの。ママじゃなくて、わたしが死ねばよかった。わたしが」
つぶやくように言いながら、久美子は自分の言っていることを理解しかねた。最近読み終えた小説で出てきたフレーズを、知らず知らずのうちに暗誦しているだけな気がした。しかし、いくら思い返しても、小説の題名や内容が浮かんではこなかった。それきり、久美子は黙りこんだ。同様に、瞳子もなにも言い返さなかった。久美子が吐き捨てるように言った解答のない言葉の意味を、小さいながらに考えようとしている。
屋台の明かりがぼちぼち消え始める頃だった。骨組みが食いこんだ太ももが、しびれをともないながら痛みだしていた。なにか話しかけなければと考えれば、久美子は焦りを打ち消すので精一杯で、肝心の言葉は、なにひとつ、口をついてはでてこなかった。
「ゴールデンウィークが終わったら授業参観があるんだ」
「学校の便りに書いてあったね」
「パパやママのことを作文にしないといけないの。でも、パパはいつもお仕事だし、ママのことは知らないし」
冷静でいられたはずなのに、やりどころのない腹立ちが再びむくむくとこみあがる。両手で骨組みを握っているので、待受画面の罅割れを撫でることもできない。授業参観のことを知らないではなかったが、最初から行く予定のない行事について覚えているはずもなかった。幼稚園の発表会へは学校を欠席して観に行った。制服姿の久美子に、周りの保護者は奇異な目を向けていただろう。わざわざ制服を着る必要はなかった。しかし、私服で出かけようとすれば意味もなく不安に駆られた。その不安に比べれば、奇異の目を向けられるほうがいくらもよかった。
「おねえちゃん、血が出てる」
瞳子が目を見開きながら言った。
「えっ」
「口から血が」
言われた途端、くちびるの左端がふくらむように痛んだ。舌先で舐めてみれば、液体の感触に金属のような苦みが閉じこめられている。糸切り歯でくちびるを貫いていたらしい。とっさに左手で拭おうとすれば、手を離した弾みに重心がぐらついた。落ちそうになり、みっともなく叫んだ。すんでのところで握りなおしたが、勢いがあまって骨組みに親指の付け根を強く打った。 散らばった砂が、砂時計のように上から下に流れ、山をなしていく。掬えば手のひらに体温が感じられる、砂。瞳子を見つけてから、砂は堰を切って急激に流れだしていた。わたしが死ねば、という言葉が、時間が経つにつれて久美子のなかに染みわたっていく。瞳子のことは好きだ。けれど大嫌いだった。授業参観で瞳子は、姉について書いた作文を音読するにちがいない。私には母がいませんという書き出しが容易に想像できる。そのことに久美子がどのような感情を抱こうとも、瞳子にとってはそれが瞳子の思う姉のすべてなのだろうし、そんな瞳子の印象に自分を当てはめようとすれば、ぴったりと嵌らない覆いのなかで、傷をつけられていくのだろう。けれど、母親について、瞳子に語ることはできる。かき集めた砂を、お椀の形に丸めた両手に盛りつけ、瞳子に振りかけることが、少しは母親への手向けになるのかもしれない。そのために姉妹喧嘩をしなければならないと久美子は思った。それは以前から薄々わかっていたことだった。だが、そうしてまで瞳子とつきあう自信はすぐに持てそうにはなかった。
何も言わず、久美子はジャングルジムを降りていく。親指が痛くて、うまく骨組みを掴むことができない。最後は飛び降りるようにして、地面に着地した。砂埃が立ち、パンプスのつま先にかぶさる。振り返り、仰ぎ見る。瞳子の表情は影になって見えなかったが、ぶらついていた足を下段に向かって伸ばしている。瞳子のうしろで北極星が水を絞るようにきらめいていた。