俺の話
男が1人、傷を負ってもなお歩みを止めないでいた。
血塗れの男を見て逃げた少女にも気付かないほどの傷を負っていた。
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「くそっ」
やめろ。もう殺したくない。
子の前で親を、妻の前で夫を、親の前で子を。
それでも目の前の農夫は鍬を手放さない。あれほどの深手を負ってなお。
俺はこんな人間をたくさん見てきた。
戦闘訓練なんて生まれてからこの方1度も受けていない、ただの村人が家族を守ろうと家族を背に、死に物狂いで人を殺す術を叩き込まれた兵士に向かっていくのだ。
その度に自分のやっていることに疑問が浮かぶ。
邪神を奉っている異教徒を浄化し正しく導くため、なんて奴らは言っているが、それは真なんだろうか。俺らの信じている、いや、正しくは俺の体に巣くっているこの暴力的な力の持ち主が神だと一体どうやって証明できるんだ。
傭兵として戦場を流離っている間に気付けば俺の中にいた何か。
奴らは人間離れした力を示した俺を神の戦士だとして取り立てた。
俺だけじゃない、長年死の臭いが絶えない環境にいた顔見知りの何人かも、国に所属する騎士の中にも似たような力を宿している者がいて、俺達は仲間と見做されていた。
奴らは人間離れした力を持つ俺らを神の戦士だと持て囃しながら先鋒として戦場に送り込む。
数度経験すれば神の戦士と呼ばれた全員は気付いていた。戦場でも何でもない、自分達はただ奴らが弱者を蹂躙するための露払いをさせられただけなんだと。
それでもこの力は人間の血や怨嗟を求めるかのように俺たちに力を揮わせる。俺達は逆らえない。
本当に彼らは邪教徒なのか。俺達は正義なのか。家族を守るため兵士を凌駕するほどの力を見せつけた彼らもまた神の戦士と呼べるのではないか。俺達は死後戦士の黄金郷に招いてもらえるのか。
俺達は死にたくても死ねないでいる。
目の前の農夫の片膝が地に着いた時、どこからか声が。細く微かに聴こえる――歌だ。
俺は剣を手から滑り落とした。滑り落とせた。
その瞬間腹に熱さを感じた。
「よくも父ちゃんを……!」
農夫の背後の家から射殺さんばかりにこちらを睨みつけていた子供の1人だった。腹に視線をやると使い込まれた持ち手のナイフが柄までしっかりと刺さっている。
「……いい腕だ」
俺は久しぶりに笑えた。
「まだ兵士が来る、逃げろ」
できるだけ遠くへ。
足元にある剣を父親に向けて蹴り渡し、腹に刺さっているナイフを勇敢な子供に返す。
噴き出した血が子供にかかったが許せ。
見渡せば仲間が監視役を襲っていた。獰猛な笑顔だ。そうか、あいつらも。
やはり俺達の体に巣くっているモノは神ではなかったのだ。
「お前、聖女が怖いんだろう」
巣くっているモノを挑発する。
「だから魔女だなんて火炙りにしようとしてたんだな」
奴らが塔にいる聖女は邪神を祀る魔女だと必死に存在を消そうとしていたのも、神の愛し子とも呼ばれる聖女が現れ、自分達の立場を脅かすのでないかという恐怖と反感とくだらない自己保身のためだったのだ。
奴らこそが神を騙ったモノを崇めていたから。
「戦士の黄金郷で」
上層部を潰しに行くと言う仲間と命が残り少ない俺は永遠の別れの挨拶をする。
力を揮えなくなった俺達と死にかけの俺。自死ではなく戦士としてようやく死ねるのだろう。
お互い初めて見せた晴々とした表情だった。
足元が覚束なくなっても俺は歩き続ける。聖女の歌、聖歌に向かってひたすら歩みを進める。
巣くっているモノのせいなのか常人よりも生き長らえているのがなんとも皮肉めいている。
そんな体が、聖女に近付くにつれ、巣くっていたモノの力が増しどろどろとした煙に包まれていくのがわかった。
「よっぽど聖女を恐れてんだな。それとも一矢報いるつもりか」
仲間に分散させていた力を呼び戻したのだと感じる。
「逃がさねえぞ」
お前こそが浄化されるんだ。
全身を襲う激痛でとうとう倒れこんでしまうが、聖女に近付けばこいつは消えると本能的に理解していた。
ずりずりと這い少しでも、少しでも聖歌の方へ。
寒い日だった。聴こえる世界は澄んでいた。もう目は見えない。
突如男の耳に命を愛おしむ歌が強くはっきりと聴こえるようになった。
聖女の歌だ。モノが苦しんで小さくなるのがわかる。さっさと消えろ。消えろ消えろ消えろ。
――ああ、ようやく呪いが解けた。
これで大手を振って先に待っている祖先のもとへ行ける。
ただ、ただ、欲を言えば、再び戦士として遣わされるのであれば、聖女を守る盾になりたい。
塔で1人命を愛おしんでいる聖女の盾に。
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「新たな聖騎士の誕生だ……!」
10歳になると行われる神殿での聖典の儀で、目の前に光る盾を出現させた俺は過去を思い出した。
こうして俺は聖女の盾に生まれ変わった。