わたくしの話
ある朝目が覚め、すとんと、自分は愛し子なのだと理解した。
朝は明るく夜は暗いのが当たり前のように、すとんと、腑に落ちた。
あるいは、干上がった大地に恵みの雨が浸み込むように、じんわりとだが、確実に。
誰の、なにの愛し子なのかはわからないが、ただただ自分は愛し子であると心得た。
心得てしまった。
その日から自分は変わった。
変わったなんてものではなかった。
一変した。
まずは自分を「わたくし」と呼ぶようになった。
これまで「あたし、あたし」と無邪気に笑っていたのに。
貧しい生まれ育ちの、運良く生き長らえ成長しても多くが身を売るか人から奪うかの将来しか持ち合わせていないような、なんの知恵も力もない掃いて捨てるほどありふれた境遇の女児が突然。
それはひどく滑稽に見えたことだろう。
しかしわたくしは清廉潔白な汚点の一つもない完璧な民の手本であらねばと、どこか焦りのような、強迫観念に囚われていた。
自分の存在意義はそれだけであるかのように。
愛し子はそんなことしない愛し子はそんなこと考えない愛し子は愛し子は愛し子は――
――そうしないとわたくしは愛してもらえない。
その思いは日々わたくしを苛んでいった。
そんなわたくしを気味悪がらず何も言わず諭さず叱らず「ふうん」とただただ変わらぬ愛を与えてくれたのは祖母だった。
それまで「ばあちゃん」と呼んでいたのにいきなり「おばあさま」と呼びだした孫に、何の腹の足しにもならない奉仕の精神なんてことを言い出した孫に対して祖母は変わらなかった。
今ならそれが愛なのだとわかるのだが、当時はただ、変わらない態度の祖母にひどく安心したものだった。
本当に血の繋がりがあるのかはわからない。
だってわたくしと祖母は全く似ていない。
それに両親のことも死んだ以外のことは一切教えてもらえなかったから。
物心ついてから祖母に抱きしめられた数は片手で間に合ってしまったから。
でもわたくしが裕福な女の子に憧れを持っていると考えたのか、祖母はわたくしを度々お金を持っていそうな女の子たちが食事をしているテラスがよく見える場所に連れて行った。
そして言うのだ、よおく見ておくんだと。
わたくしは頷きよく見た。
彼女たちの食事の仕方、笑い方、体の動かし方、声の出し方、話し方。
するとその視線に気が付いた半分は嫌な顔をし、付き添いの女性や時には腰に剣をぶら下げた男がこちらに嫌悪の視線を向けてくる。
そうなると祖母はわたくしの手を引いて急いで人混みに紛れた。
祖母は辺りを熟知している。追いつかれたことはなかった。
残りの半分の半分はこれ見よがしに大げさに「まあなんてかわいそうなの」とどこか芝居じみた動作と共にお金を渡してくる。
わたくしは祖母に言われた通りに純粋無垢な笑顔でお礼を言い、祖母は「ありがとうございますありがとうございます」といかにも哀れな風で何度も頭を下げわたくしの手を引きその場を後にする。
そうして尾行に気を付けながら家に戻り言うのだ、くそったれ、と。
「くそったれこんなはした金しか持ってないのか」の日もあれば、
「くそったれこんな大金渡されても盗んだのかと思われるだろうが」の日もある。
とにかく祖母からすれば彼女たちは頭の悪いくそったれらしい。
とにかく祖母は口が悪く人のことを簡単に悪し様に罵る。
理不尽には怒り散らし、憐みには気付かれない冷笑で返していた。
悪意には何倍もの悪意で返していた。強い人だった。
その様はある種の高潔ささえ感じられた。
それはまるで負の感情を持ってはいけない人の良い所を見つけないといけない人を悪く言ってはいけないと自分を戒めていたわたくしの感情の捌け口になっているかのような。
そんな気がしていた。
自分の心に湧き出た醜い心を都度押し殺し蓋をし無かったことにするのにも慣れた頃、わたくしは御告げを賜った。
自分がなにの愛し子かようやくわかった。
ワクセイという名の神であるようだった。わたくしはワクセイ様の愛し子だったのだ。
そしてわたくしが何を為すべきなのかも。
なぜ神だとわかったのかと言うと、ワクセイ様はすべての神殿に神託を落としたと仰っていたからだ。
落としたという意味がよくわからなかったが、神託ならば神であらせられるのであろう。
わたくしはその頃にはもう下っ端地方貴族の令嬢程度なら擬態できるまでの立ち振る舞いができるようになっていた。おそらく愛し子としての力も影響していたのかもしれない。
ただ読み書きだけは今の環境では満足に学べなかった。
だから余計な手間をかけさせないためにも知識を手に入れるためにも祖母に恩を返すためにも愛し子として早く名乗りを上げたいと祖母に告げた。
この時、無欲の奉仕の精神で民の役に立ちたい守りたいからという理由が真っ先に出てこなかったのに、それに気が付かないふりをしたわたくしはやはり愚かだったのでしょう。
祖母は御告げの内容を聞き初めは信じていなかった。「ふうん」と言ったきりいつも通りだったからだ。
だからわたくしはワクセイ様に教えていただいたように祈る。
するとわたくしの頭には光り輝くサークレットが出現した。
祖母は、目を見開き唇を戦慄かせたままわたくしを凝視していた。
そうしてしばらく黙った後、「あたしに全部任せるんだ」とひと言だけ言葉をこぼした。
少しした、ある夜、暗くなっても戻らない祖母を心配しているとどこかピリピリした様子で祖母が帰ってきた。
おかえりと声を掛けそれに返事をする祖母は「明後日王都に向かうからね」とだけ言い残し、布で区切っただけの祖母の部屋に早々と消えた。
すれ違いざま鼻を掠めた臭いに、食い荒らされている獣の死骸を目にした時の記憶が蘇り、心の奥底に溜め込んでいるものが顔を出しそうになったがきつく目を瞑りワクセイ様に必死に祈ることで気付かないふりをした。
祖母と暮らしていた町は朝早く馬車で出発すれば暗くなるまでには王都に到着する距離に位置している。
どこからか祖母が手に入れてきた少しだけ裕福な商家の娘のような服を着て、髪を梳かしてもらい、わたくし達にはどう考えても手が出せない上等な乗り合い馬車に乗り、穀倉地帯を抜け、ぽつぽつと現れては消えてゆく家屋を眺め、隣に座っている祖母の硬い表情を時折眺め、建物が段々と増えてゆく様子を、この日を決して忘れまいとしている内に王都に到着した。
王都の神殿は尋ねなくともすぐに判明した。王都に訪れる人々の手続き待ちの長蛇の列に並んでいる間に聞こえてくる会話だけでわかったのだ。皆が皆愛し子の話をしていた。そして愛し子は聖女だとも。国は愛し子でも聖女でも、とにかく早く見つけたいのだろう。
おそらくこの場にいる、現在王都を訪れてる若い女性は皆神殿に向かうのだからその流れを追えば問題はない。
今だけの特例なのか、王都の門は夜が更けても閉まることはなく辺りは煌々とした灯りが広がり、ようやく足を踏み入れた王都内はさらに明るく照らされていた。
「こっちだ」
ひと息つく間もなく祖母はわたくしの手を引きどんどん騒がしい方向へ進んでいく。
常になく強く握られている右手が痛いとは言いたくなかった。
そして一種の見世物であるかのような様相を呈している神殿に集まるサークレットを身に着けた少女達に、その付き添いの集団の列をどんどん追い越し祖母は神殿内に強引に押し入ろうとしてもちろん騎士に止められる。
「お探しの愛し子を連れて来たんだ邪魔をするな」
祖母の言い様に騎士達の雰囲気がざっと険しいものに変わった。
「愛し子の証さえ持たぬ娘を連れて妄言を。この者達を捕らえろ」
何もわかっていないただの人間ごときが祖母の腕を掴む。
「――やめろ」
奥底の蓋から溢れたものを溢れたままにしていると神殿の鐘が狂ったように鳴り始めた。
――下等な生物が触れるな。
ゆったりした動きで祖母の腕を掴んでいる男に手を伸ばす。
突然の鐘の音に驚いていた男は手を伸ばすわたくしの姿を目に入れ驚愕の表情で後退った。
騎士のくせにその程度か。震えて無様なことよ。
溢れ出る嘲笑にハッとなり慌てて表情を取り繕う。
お金を恵まれた時にするあの、あの笑顔を思い出さなければ。
「これが証です」
にこりと頭に出現している眩いばかりのサークレットを指差す。
「その手――離してくださる?」
そこからはもう、あっという間だった。
わたくしはすぐに祖母と引き離され禊と称して神殿の1室に押し込まれた。体のいい軟禁だ。
部屋から出られるのは城や神殿で見世物になる時だけ。あれ以来祖母の姿は見ていない。
心にもない美辞麗句を並べ立てる神殿の人間や城の人間を目にするたび決壊しそうになるものを必死に押し留めながら、思い浮かぶのはあの時、鐘の音を耳にしながら、松明の灯りに照らされ揺らめいていた苛烈と言っていい程の祖母の瞳と見つめ合った瞬間。
最期に抱きしめては貰えなかったけれど、あの瞳を忘れることはないだろう。
翌日にいよいよ神の告げた場所に移るという夜、顔を真っ赤にし喚き散らしながら大神官だとかいうぶくぶく太っただけの男に、わたくしが祖母に売られたと、そんな言葉を投げつけられたが忘れることは決してないだろう。
神が告げた場所には崩れていないのが不思議な程の塔が聳え立っていて、最上階にある告げられた通りの場所に跪いた瞬間、神脈から力が流れ込んできてあの時以来の腑に落ちた感覚があった。
わたくしは愛し子で――
38番目で――
魔をも司る魔女なのだ。
こうしてわたくしは38番目の魔女になった。