我が家のしきたり
「ただいまー! 連れて来たよぉー!」
「はいはい、あらぁいらっしゃい!」
「ふん……」
「あ、あのぼ、僕はお、お嬢さんとお付き合いさせていただけている者です!」
夜、高梨家にやって来た上田はボウリングのピンのように直立したままそう言った。
お手本のような緊張しっぷり。無理もない。彼は結婚の挨拶に来たのだ。
「うふふ、そんなに緊張しなくてもいいのよ?」
「ふん……嫌なら帰っていいんだぞ」
「もー、お父さんったら。ほら、上がって上がって!」
「ひゃ、はい!」
「あ、待って!」
「え、ん? 何して……」
「いいから動きを真似して」
「両手をクイクイッと……これでいいの?」
「あらぁお上手!」
「うん、いいわよ、さ、上がって上がって」
「ふん……」
「あ、じゃあ、失礼します」
「失礼するなら帰っていいんだぞ」
「あなた!」
「お父さん!」
「あ、あははは……」
渇いた笑い。それはこの後も彼の口から何度も出た。その理由……。
座る前に、おなかをポンと叩く。
いただきますと手を合わせた後、その手を離さず下に持っていき、床に着ける。
箸はまず小指と親指で摘まむ。
醤油やソースなどを取る際は、まるで安全チェックするように指で一度さす。
冷蔵庫は開けてから素早く、物を取り出す。
と、最後のはさて置き、先程もそうだが
どうもこの家には妙なしきたりのようなものがあるらしい。
マナーに関しては一通り学び、チェックされることを覚悟し
気をつけていた上田だったが思わず面食らってしまった。
その顔を察してか、彼女が箸を置き(直後、手で丸を作った。それもしきたりだろう)
神妙な顔をして言った。
「……もう、気づいているよね?」
「え?」
「うちにはいくつもしきたりがあるの」
「その、うん……思えば君は飲み会とかでも、たまに妙な行動をしてたね」
「あ、ふふっ、外ではもっと素早くやっていたから気づかれてないと思ってた」
「君の事はいつも見てたから……」
「もう……」
「おい、説明する流れじゃなかったのか?」
「あなた! 二人ともいい雰囲気なんだから邪魔しないの!」
「そうね、説明するわ。ええと先祖代々から続いているのよね?」
「そうだ。言っておくがまだまだあるぞ。車を乗る際だとか人の家に上がった時だとか
しかし、ないがしろにしてはいかん。必ずやらないといけないんだ。さもないと……」
「災い……ですか」
「ふん。その通りだ。だが、そのおかげでうちは先祖代々栄えてきた。
ま、知っていると思うがね。うちの財産目当てだろうし」
「お父さん! そんなわけないでしょ! あ、ゲキョウ!」
「ソバンヌ! ふん。まあ、うちのしきたりについては知らなかった様だな。
ちなみに、今のはテーブルを叩いた時にしなければならない、しきたりだ。
ほうら、そんな風にいちいち呆けた顔をしているようじゃ君には無理だろう。
娘はやれないな。さ、帰りたまえ。母さん、塩を用意して」
「お塩? お土産? あら、そんなしきたりあったかしら?」
「いや、彼が帰った後、玄関に撒いてやるのさ」
「お父さん! 怒るわよ!」
「あの……」
「ふん、なんだね? 意地を張らなくていいぞ。
娘は別に一生結婚しなくてもいいんだから。うちにいてくれればな」
「私はよくないわよ! いい加減子離れしなさい! 孫の顔だって見たくせに!」
「む、ま、孫はな。むぅ……」
「あの……」
「大体、さっきから彼に対してあたりが強いのよ。
お父さんだって婿養子だったんでしょ?」
「それは今、まったく関係がない」
「いや、あるでしょ」
「あの……」
「なんだね、帰るかね? ああ、帰る前にトイレに行きなさい。
便器の中の水を飲むんだ。それもしきたりだぞ」
「そんなのないでしょ! 汚いわね!」
「いえ、その、見ていただきたいものといいますか……」
「ん? ほう、献上品というわけかね? ま、そんなもの貰ってもねぇ」
「嬉しそうじゃない」
「なにかしらねぇ? うふふ」
「し、失礼します!」
「お? なんだね、その手は」
「ちょうちょ?」
「あら、縮こまって……」
「小刻みに揺れて……って何だねその顔は! 腹が立つ! 唇を尖らせるな! 座れ!」
「お父さん静かに! 何か言っているわ!」
「チュッチーチュッチーチュッチーチュウチュウチョウチュウチョォォウ」
「……おい、なんて男を連れて来たんだ」
「いや、私もこんな一面は知らない……」
「あらぁダンスかしらね。お母さんも踊ろうかしら」
「ふぅ……御覧いただけましたね」
「ああ、とくとな。帰れ。さっきとは違う意味で早く帰ってほしい」
「申し訳ありません。結婚させていただくとなると
やはり、言っておかなければならないと思いまして……」
「なに? いや、まさか君……」
「そうです。今のが我が家のしきたりなのです」
「えええっ! それ、ほ、本当なの……?」
「うん、今のは人の家に上がってから
十五分以内に必ず行わなければならなかったんだ。まあ、奇妙な動きだからね。
いつもはトイレで行うんだけど、今日は言い出すタイミングがなくて……」
「人の家に来て早々にトイレに行かれるのも、あれをやられるのも良い気がしないがね」
「はい……ですが行わないと……おわかりですね」
「ああ……だが、待てよ。君がうちの子と結婚するということは」
「はい、必然的に両家のしきたりを合わせることになります」
「おおお……それは、大変そうだな……」
「あらぁ、でも効果も倍々じゃない?」
「そうよ! それに私、彼と結婚するわ!」
「い、いいのかい?」
「もちろんよ! いいわよね? お父さん」
「ぬぅ……」
「はいはい、意地悪したかっただけで本当は元々許すつもりだったんでしょ?
さ、ご飯の続きを、あ、ゴォォォォ……アアアアァァァァァァイ!」
「アアアアァァァァイ!」
「アアアアアァァァァイ! ふふふっ、さあやって! しきたりよ!」
「うん! アアアアアァァァァァァイ!」
その後、彼と一家は嘘のように打ち解けた。
だが、それはなんら不思議な事ではない。
しきたりに縛られる苦労を知る者同士なのだから。
そして結婚し、やがて産まれた彼らの子もまた、しきたりに縛られる。
その子供は大きくなるとある女性と出会うことになるが
その女性もまた、しきたりに縛られている。
だが、その出会いも不思議な事ではない。
そのしきたりの多さに人目を引き、大学や職場、どこでも噂になる彼。
結婚すれば自分も同じことを……とそれを嫌がり、遠のく女性もいれば
その彼女のように『彼となら同じ苦しみを分かち合えるわ』と引き寄せ合うのだ。
そうやって産まれたその子もまた。そしてその子も……
と、その家はしきたりを増やしながら資産もまた増え、栄えていく。
それは、しきたりを守っているから大丈夫だ、という安心感
漲る自信からくる他者からの信頼。
また、しきたりを守るための注意深さ、気配り、細かさなど
本人の人格形成に影響しているなど現実的に考えるならば
理由はそんなところだろう。
遠い昔、一家のそのしきたりの始まりは実は今とは違い、ささやかなものであった。
願掛け。そこに神も悪魔もない。強制されもしない、ただの思い付き。
しかし、その栄華を維持するために代々、子に伝える過激になっていく脅し文句。
『しきたりを守らなければ必ず悲惨な目に遭う』
『必ず死ぬ』
『一家全員苦しみぬいて死ぬ』
『友人も社員もみんな死ぬ』
『国そのものにまで影響を及ぼす』
という言霊と恐怖。積み重ねにより、そのしきたりは目に見えなくとも
確実に形作られているのだ。
破れば起きる、恐ろしいその何かが……。