9.「よもやよもやだ!」
「善明は頭が割れてる状態だった。私が抱き起すと、あの子は虫の息で、身体をふるわせながらこう言った。『カンナンボーシ……』」
「海難法師に会っちゃったってことなの、おばあちゃん!」
「しっ。声が大きい」
「……じゃあ、叔父さんは、そんなことがあったから、頭がおかしくなったわけ? だから内地の病院にずっと閉じ込められてるの?」
「そうとしか思えないね。いくら善明に聞いても同じ言葉をくり返すだけで、怯えてばかり……。あれほど24日に海を見ちゃダメと言ったのに、だからこそあの子は罰を受けたんだ」
羽毛布団のなかで麻衣は身ぶるいした。
物心がついたころ、斎から海難法師の話は聞かされていたし、保育園に通うようになってからも、24、25日は早く寝るようにと保育士から注意された。小学校にあがってからも同じだった。
もっとも、父はその話に触れると怖い顔をし、なにも教えてくれなかった。
とりわけ、その明くる年のことは麻衣の記憶に刻まれている。
物忌みの日がやってくる1カ月前から、網元の六十谷と、近所の真砂が家に出入りし、勝巳となにかの打ち合わせをくり返したものである。ひそひそ話に夢中になっていたのは、いったいどういうことだったのか。
ふすまのすき間から姉妹でのぞき見した。そのときの父は機嫌が悪く、二人の話に首を横にふってばかりいたのが印象的だった。
祀子は本気で物忌みの日に、海の彼方から豊島代官がやってくると信じて疑わなかった。
かたや麻衣はこうして8歳のとき、祖母に教えられたにもかかわらず、どこか他人事みたいに冷静だった。
しょせん大人が、サンタクロースを信じ込ませようとする類と同様ではないかと思っていた。
とはいえ善明がタブーを犯し、じっさいに海難法師と遭遇し、なんらかの被害を受けたとなると、さすがの麻衣も心が揺れた。
いずれにせよ、麻衣はこうして、祖母によって刷り込み学習を受けたのだった。
その祀子も、一緒に夜をすごしてから3年後、脳溢血でこの世を去っていた。
◆◆◆◆◆
「ア――――ッハッハッハッハッハッハッハッハッ!」
大笑いする海難法師。
もっとも葦原 麻衣は頭から腹にかけて、すっぽり肥料袋をかぶっているため、恐るべき亡霊の姿はまったく見えない。
尋常ではない走りっぷりといい、禍々しい造形を思い描いてしまいそうな物音、臭気、気配といい、到底並の人間のしわざとは思えない。したがって、いままで追跡してきたのは海難法師にちがいないのではないか。
ところが――。
「孫と一緒に観たアニメ映画じゃあるまいし、よもやよもやだ! おれも、数えきれないほど頭屋をつとめてきたが、まさかおまえさんみたいな娘っ子から、モヤイの大切さを説かれるとは思わなんだ。モヤイと来たか。こいつは一本取られた!」
「え?」
と、麻衣は袋の中で眼を丸くした。
「そのわりにはなんだ、その恰好は。……麻衣ちゃんの恰好だよ。汚い肥料袋なぞ頭からかぶりよって。妖怪袋女のつもりか。鏡で見てみい。かなり滑稽だぞ!」
ふたたび、袋の向こうで呵々大笑がはじけた。
麻衣は呆気にとられた。
空気の抜けた風船のように、喉までせりあがっていた恐怖がたちどころに萎びる。拍子抜けせずにはいられない。
よくあるテレビ番組を思い出させた。タレントにいたずらを仕掛け、その慌てぶりを映したあと、番組スタッフが仕込みがあったことをばらす内容の……。
頭にかぶっていたポリエチレンの袋を取り払った。
相手を見て、一瞬、ギョッとなった。
が、眼を凝らせば、他愛もない仮装にすぎないとわかる。まるでハロウィン・パーティーから抜け出してきたような拙さ。
一見すると、まさに海難法師を具現化した姿かもしれない。
左には電信柱が立ち、上には街灯がつき、白い光を投げかけていた。
その真下に――仮面をつけ、おかしな恰好をした人物が直立不動で佇んでいたのだ。しかも全身、なぜか泥まみれである。
仮面は無表情な能面だとしか表現しようがない。
おまけに身体じゅう、ワカメらしき海藻を張り付かせた服を着ているのだ。上半身はこんもりと海藻で盛りあがり、下は膝のあたりまで覆われている。やはり裸足だった。たくましい四肢をそなえた人物だった。
しかも頭からヘドロじみた泥をかぶったらしく、真っ黒に汚れており、たしかに夜道で出くわせば腰を抜かしかねない。こんな恰好で走るから、おかしな摩擦音を奏でていたのだろう。
ましてやそのヘドロのせいか、濃縮した磯臭さを放っていた。それこそ養鶏場のようにぷんぷん臭った。
それにつけても、そのビジュアルである。例えるなら、海底から浮上した謎の怪人か、さもなくばゴテゴテにカモフラージュを施した狙撃兵を思わせた。
かたわらには、不法投棄を注意する立て看板が地面に刺さっていた。『ここにゴミ捨てるな。天は見ているぞ!』のおどろおどろしい赤文字。そのコントラストとが、場ちがいすぎた。
しかしながら麻衣はすぐさま見抜いていた。この異形のストーカーこそ、誰かが海難法師を演じていたにすぎないことを。
相手の明るい声に、ひどく聞き憶えがあったのだ。
「この声は――ひょっとして真砂さん?」
と、麻衣。
泥まみれの怪人は、からからと笑いながら仮面をはずした。
「――いかにも。正解だ、麻衣ちゃん」仮面を取ると、見慣れた老人の顔が現れた。なんてことはない。ご近所の現役漁師だったのだ。最年長の78歳である。「みごとな逃げ足だったな。おまえさんにお仕置きしたくて、追いかけたつもりだが、敵いっこなかった。いくら趣味で、トライアスロン大会に出ているおれでも、老いには勝てん。それだけではない。鏡を使ったアイデアも悪くなかった。本当に海難法師が相手なら、もしかしたら効果があったかもな。追いつめられて最後、豊島 忠松の怨みを宥めようとするとか……。いやはや、おまえさんの切り替えのうまさには恐れ入った」
「どういうこと?」
「これほど、頭屋に立ち向かったのもめずらしい。かえって豪胆自慢の大の男が追いつめられると、取り乱すことの方が多いっていうのに……。さすが、勝巳の娘だけはある」
「なんで?――いったい、なんのためにこんな手の込んだことを」
「あれほど『親だまり』『子だまり』の晩に、外を出歩くなと教えられたはずだ。その約束を破りやがって。おれは今年、栄えある海難法師役を仰せつかったのさ。こうして言い付けを守らなかった者に、罰を与える役割を任されておる。ずっと昔から続けられてきた。古くから伝わる、新島の裏の歴史なんだよ」
「頭屋? 罰を与えるって……。まさか善明叔父さんもやられて、あんなふうになった?」
「話せば長い。やっぱり勝巳の娘だな。どうせ、親父の死んだ理由が知りたくて、外を飛び出してきたんだろうが。……よかろう、麻衣ちゃんに教えてやる。島の秘密を」
◆◆◆◆◆
頭屋制によって海難法師を演じてきた歴史は、いつの時代から続けられてきたのか? 文献ではなく口伝によって受け継がれてきたので、いかんともし難いという。
新島では豊島代官が死んで以来、よりいっそう島民同士の結束を固めるべく、1月24、25日は物忌み行事を厳格に守ることにした。
それだけではない。この不幸な事件を風化させないためにも、命日に海難法師として帰ってくるという設定を広め、島じゅうの住民を恐れさせることで、離島で生きるにはなにが大切で、なにがいけないことか戒めてきたそうだ。
豊島 忠松=海難法師の役は、前年、神社の宮司のくじ引きにより、公正に選ばれる。白羽の矢が立つのは主に漁師や養殖業、素潜り漁、マリーナスタッフなどの、海に関係した者が多い。
これを頭屋制といい、1年任期としている。新島の人口も限られているので、おのずと何度も経験するベテランもいた。真砂は高齢者でありながら、過去に十指で数えきれないほどこなしてきたと自慢する。
その海難法師役は、毎年一人どころか、他に三人選ばれる。計四人が任命を受けるらしい。
頭屋になると、物忌みに入る1カ月前から精進潔斎したあと、真砂が扮装しているように、海藻まみれのおかしな恰好をし、代々受け継がれた仮面をつける。そのうえ、新島漁港の海底に沈んだ泥をかぶって身を清め、物忌みの二日間を夜通し、島じゅうを巡回するという。誰か言い付けを破っていないか、火の用心の見まわり人のように、外を練り歩くそうだ。
頭屋の四人は島の各ブロックごとに分かれ巡回。言い付けを守らなかった者を見つけた場合、捕獲し、それ相応のペナルティを与える。
外出した者、あるいは海を見にいった者は捕らえられ、神社裏まで連れられ、頭屋ら関係者に寄ってたかって暴行されることもめずらしくない。
なかには酒を飲んで海難法師役をつとめている者もいるため、手加減がされず、被害者は打ちどころが悪く、重い後遺症が残ったり、悪くすれば死に至るケースもあるとか……。人権侵害も甚だしく、いささか野蛮ともいえた。
被害者には、暴行を受けたことだけは口が裂けても口外しないと誓わせるのを常とした。
せいぜい――海難法師に会ってしまい、とんでもない思いをした、とだけ嘘をつかせる。そうやって海難法師の恐ろしさを後世に伝えさせているのだという。
頭屋として任を受けた者も、その前後のこと、いっさいの口外もまた禁止されていた。




