3.葬儀前のトラブル
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なぜ葦原 麻衣が異形のストーカーに追いかけられる羽目になったか、しばらく時間を巻き戻さなくてはなるまい。
麻衣の父、勝巳は新島の漁師だった。
当時63歳にして、キンメダイなどの底魚一本釣り漁の名人と謳われたものだが、去年のちょうど1月半ばごろ、漁の最中にあやまって海に転落し、行方がわからなくなっていた。
海上保安庁や地元漁師仲間たちによる懸命の捜索もむなしく、勝巳は見つからなかった。
月日は流れ、先日のことである。
特別失踪の手続きを取り、認定死亡を受ける運びとなったのだ。ようやく葬儀を執り行うことになった。それが今日の正午すぎ。
地元では西ん風と呼ばれる偏西風が、ごうごうと吹いている寒い1日だった。
自宅にて、ひっそりと営むつもりだった。ましてや遺体のない葬式である。周囲にはそっとしておいて欲しいと願っていたのだが……。
僧侶が来るまでのあいだ、姉妹だけで待機しているときであった。家族は二人だけだった。
麻衣にとっては実感が湧かないのも無理はあるまい。
去年の年末年始を島に帰り、ともに親子楽しくすごしたと思ったら、突然の不幸の知らせ。
真っ黒に日焼けし、印象的な笑顔がまぶたに焼き付いていただけに、二度と会えないとはにわかには受け容れられなかった。
しだいに近所の人たちが訪ねてくるようになった。
家族葬にしたのでと固辞するも、せめて焼香だけでもと口をそろえて言う。無下にするわけにはいかない。
いまさらながら勝巳の人柄が偲ばれた。大勢の人が姉妹を慰め、そして行く末を励ましてくれた。
葬儀の喪主は姉の斎だった。麻衣とは10も離れている。母は姉妹が小さいころに離婚し、家を出てしまったのだ。
斎は島でグランドホテルの従業員として働いており、すでに結婚し、子どもにも恵まれていた。
麻衣がモデルなみの容姿の持ち主なら、姉も負けじと美人で、とても二人の子どもを出産したとは思えぬほど、身体の線は細い。
弔問客にあいさつをしていたとき、なにやら家の外が騒がしくなった。
なにごとかと、麻衣は玄関の三和土から庭をのぞいてみると――。
島の古老たち五人が、せっかくかけつけてくれた漁師仲間たちに、やいのやいのと叫んでいるのだ。生前の勝巳がかわいがっていた、キンメダイ一本釣り漁の仲間だった。
なんらかのいざこざが起きたらしい。
手を拱いているうちに、助け舟が入った。
人垣を割って、ひときわ眼を惹く、恰幅のいい和装姿の男が入ってきたのだ。角刈り頭で、ひと昔の任侠映画のように肩で風を切るように歩いてくる。
それが新島の網元、六十谷だった。
「おい、威勢のいいのはけっこうなことだが、仮にも忌中の家の手前だぜ。そのへんにしとくこった」
と、六十谷は着物の懐に片手を突っ込んだまま言った。
そのひと言で、古老たちと喪服姿の漁師たちが口をつぐみ、網元に頭をさげた。
軽蔑の眼で男たちを見やり、麻衣のもとへやってきた。
「どうも」
麻衣は硬い表情で口にし、頭を垂れた。
「このたびはご愁傷さま。……やっと、勝巳の死亡届が受理されたようだな」と、六十谷は軒下で言い、眼を細めた。「驚いた。どこのべっぴんさんかと思ったよ。誰かと思えば、下の麻衣ちゃんかい。ずいぶんと見ちがえるようになって」
「それって、いまならセクハラ案件です。よしてください」
「正直に言ったまでよ。他意はない」角刈りの網元は言い、一歩踏み出し、玄関の敷居をまたいだ。「家族葬なのは聞いている。せめて香典だけでも納めてくれ。おれからの気持ちだ」
「いっさい受け取らないつもりです。どうか――」
「おれは島の網元だぜ。勝巳とは大なり小なり衝突し合った仲だが、死んじまったら水に流すさ。むしろ、いままで世話になったことの方が多い。だからこそ納めて欲しい。いまとなっちゃ、面と向かって礼すら言えねえんだ」
「ですが」と、喪服姿の麻衣は立ち尽くしていたが、踏み込んでくる六十谷の迫力に気圧され、思わず後ずさりしてしまった。荒くれの漁師たちを束ねる漁業経営者だけある。本当に反社の親分を彷彿とさせた。「……わかりました。特別に許可します。ですが、焼香のあとはお引き取りください」
「わかった。邪魔するよ」
六十谷は草履を脱ぐと、勝手知ったる家のように、廊下を突き当りに進んだ。
右に折れ、ふすまを開ける。そこが仏間だった。
小さな祭壇が組まれ、白い花に囲まれた遺影と位牌が飾られていた。
写真は比較的新しいものが見当たらず、やむなく5年前、漁業組合の慰安旅行で撮った集合写真を引き伸ばしたものだった。ピンボケ気味の勝巳が白い歯を見せていた。
8畳間は線香の煙に満ちている。
正座した喪服姿の斎が、凍るような眼つきで網元を見た。
「ようこそ六十谷さん。わざわざ網元が足を運んでくださるとは光栄です」
斎の言葉には棘があった。
名は体を表す。文字どおり勝気な性分の勝巳は、ことあるごとに旧態依然たる考え方の六十谷と衝突したものである。家族は知っていた。
酒で管を巻いたことこそなかったとはいえ、ひそかにストレスを溜め込み、父を苦しめていた。
晩年はよく眠れないとぼやいたものだ。そのせいか、海での仕事中、ミスを招き転落した要因となったとしたら、姉妹が網元によからぬ感情を抱くのも致し方ない。
六十谷はおかまいなく、祭壇の前に座った。
着物の袂から香典袋を出し、畳に置く。斎の方へ押しやる。かなりの厚みがあった。
「麻衣ちゃんから許可をいただいた。これは黙って受け取ってくれ」
喪主は正座したまま、泣き腫らした顔で相手を見つめた。
焼香をすませ、六十谷は眼を閉じ、合掌した。
そして眼を開けると、斎と、その横に正座した麻衣に向きなおる。
「あえて『親だまり』の日に、親の葬式をやるたぁ、おれに対する当てつけか?」と、網元は腕組みし、静かな口調で言った。怒気を含んでいるわけでもなく、脅しでもない。「ここいらじゃ、24日、25日は漁すら控える。それが伊豆諸島の忌み籠りだ。昔からの不文律って奴さ。忌中だってそれは同じ。島のやり方に異を唱えるとは、いい度胸している。勝巳も、そしておまえたちも」
「お父さんは」と、麻衣が口を挟んだ。「お父さんは、島の秘密を暴いてやるって言ってた。きっとそのことで、口封じに殺されたんでしょ? 六十谷さん、それって本当なの?」
「やれやれ……。なにを言い出すかと思ったら。麻衣ちゃん、言っていいことと悪いことの区別ってもんがあるぜ」
「去年のいまごろ、父は言ってたんです、はっきりと」と、斎は譲らない。整った細面には、父の死の真相を追及するひたむきさが表れていた。「たしかに島じゃ、物忌みの夜は外を出歩くな、とは言います。父はこの二日間にかけて、ある行事が行われるので、それをやめさせたいと言っていました。それは野蛮すぎると。あの人はいつも、古い慣習を壊し、新しい風を入れるべきだと考えてたんです。そうじゃないと、若い人が定着しないからって」