2.伊豆七島に伝わる来訪者について
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いまを遡ること、寛永5(1628)年の江戸時代のことである。
幕府は八丈島を直轄領にして、同島の役所に八丈島代官を置き、この海域の有人島から年貢を徴収していた。
それが豊島 忠松その人であった。
ちょうどそのころ、伊豆の島々ではたび重なる自然災害に痛めつけられていた。
にもかかわらず、情け容赦ない年貢の取立てに、島民たちはさらに苦しんだ。
ついに我慢の限界に達するときがきた。
伊豆大島出身の若者25人が義憤にかられ立ちあがった。そこで来たる旧暦1月24日に、豊島代官と直談判することを決めたのだ。
どうか年貢の取立てをやわらげてくれと、申し出ることにしたのである。
代官は話を聞いてくれるだろうか?
もしも訴えを聞き入れてくれないなら――そのときは殺すしかない。
万が一に備えた。
会いに行く直前、島民には、「今夜は絶対に外に出てはいけない。海の方角を見るのはもってのほかだ」と、釘を刺した。自分たちの犯行が目撃されないように……。
船上で豊島と議論した。ところが案の定、首を横にふるばかり。
25人の若者たちは暴行をくわえ、代官を海に突き落とし、殺害してしまった(※船底の栓を抜いて水船にし、沈没させて代官もろとも25人も犠牲になった別伝や、大時化になることを知りながら、代官に島めぐりをさせ、転覆させた説もある)。
代官殺しは重罪である。いまに江戸幕府の苛烈な追及がはじまるだろう。
島に火の粉がふりかからぬよう、若者たちは船に乗って立ち去ることにした。
しかし利島、新島、神津島まで南下したものの、どの島でも巻き添えになるのを恐れ、かくまってくれなかった。
そうこうするうちに、神津島の沖合で海難事故にあい、波間に消えたのだ……。
……それ以来、伊豆七島には1月24日の晩に、海の彼方より来訪者がやってくると信じられている。
来訪者の呼び名は島ごとに異なり、正体についても大きな差異がある。その変遷については現在でも、なぜかはわかっていない。
以下、各島での呼び名である。
①大島……日忌様
②利島……海難法師
③新島…… 〃
④式根島…… 〃
⑤神津島……二十五日様
⑥三宅島……海難法師
⑦御蔵島……忌の日の明神
大島の『日忌様』の場合だと、『死んだ25人の若者たち』が戻ってくるという。
直談判に向かう前に残した言い付けを守らなかった者に、災いと死をもたらすためだとされている。この若者たち全員をひっくるめて日忌様と呼ぶ。
ちなみに、葦原 麻衣の地元、新島の場合は上記したように、『海難法師』がやってくるとされ、海難法師の正体こそ『豊島 忠松』だと信じられている……。
このように海の彼方からやってくるモノは、『若者25人の霊』、『殺された悪代官の怨霊』、あるいは⑤神津島の『二十五日様』や、⑦の御蔵島のケースだと『神』として帰還するとされているように、互いの島同士が劇的に離れているわけでもないのに、各島に正体のちがいが見られるのは首をひねらずにはいられない。
むしろ共通事項がある。――24、25日は大声を出すのは慎み、晩は外出を避けて家に籠り、とくに海を見ないようにすることと、神職者のみ屋外へ出て、来訪者を迎える行事があるということである。
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『はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……』
それにしても、見たら災厄がふりかかるという死のストーカー。
いったい海難法師とは、どんな姿をしているというのか?
ダースベイダーもかくやとばかりにくぐもった息づかい。じかに口から洩れる音ではなく、なにかの遮蔽物を介して聞こえる音なのだ。
――こら、麻衣! うしろを気にしないで、しっかり前だけ見て走りなさい! 決してふり向いちゃいけない!
祀子の声が耳もとで甦った。
背後に近づいてくる、ビタビタビタビタビタ……という、軽快な足音。歩幅が小さく、回転の速い典型的なピッチ走法だ。
かなり走り慣れている。というよりも、獲物を追い慣れているというべきか?
禍々しい気配がし、猛烈にふり返って正体を見極めてやりたい欲求にかられる。
さりとて見たら最悪、死ぬという特殊能力は怖すぎた。
――きっと海で溺れ死に、ドザエモンになったんだから、醜く腐敗してるに決まってるんだ!
去年のいまごろ、麻衣の父、勝巳までが海で死んだ。
遺体さえ見つからなかった。先日、所定の手続きを取り、ようやく死亡診断書をいただき、奇しくも今日、葬儀を終えたばかりだった。そのためにはるばる都心から帰島したのだった。
その勝巳が生前、水死体は腐敗が進むにつれ、どんな有様になるか語ったことがある。
腹部ばかりか、四肢や顔までがパンパンに膨らみ、さながら力士のような姿になるそうな。その形相たるや、眼球が突出し、まるで釣りあげた深海魚の口から浮袋が露出したみたいに舌を突き出し、見るも無残な顔面なんだと……。
例え水死体でなくとも、どれほど恐ろしい姿をしているのか。
きっと間近で対面したら、心臓を握りつぶされるほどの造形をしているのではないか。
ある種、最凶にして無敵に近い相手のように思えた。
物理的にうしろを見ずして、逃げきることができるだろうか?
――怖すぎて、どうにかなってしまいそう!
――なんで町には誰もいないのよ! こんなことってある? まるで悪い夢に魘されてるみたい!
――弱った! どうせなら、フェンスを乗り越えて、空港のターミナルビルへ逃げ込めばよかったのに!
――せっかくのチャンスをフイにしてしまった! 私って、なんて馬鹿!
『はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……』
相変わらず荒い息づかいがついてくる。
走っても走っても、決して遅れることのない背後の相手。
さっきより距離を縮められたような気がした。
今回ばかりはあきらめてくれそうにない。どれだけ麻衣の足の方が遅く、かたや海難法師はアスリート並なのか。
旧道はさっきりより街灯の数が少なく、おまけに中央分離帯に松の木を植え込んでおり、しっかり前を見ないと蹴つまずきそうだ。
ずっとこの先、東へ向けて一直線の道路が続いている。さすがの長距離走で慣らした麻衣も根をあげそうになった。