一章 4
清潔で静かな雰囲気と白い幕に遮られた視界は、学校の保健室とそっくりだった。その幕の向こうには健康でない人がいる。先輩の言葉を信じるなら、巨人だ。
ジャックと豆の木の話なんて思い出さなければ良かった。巨人と会うのが少し怖い。
隣にいる先輩の顔は再び青ざめ、胸元に作った握りこぶしが震えていた。
「よく来た。巫女たちよ」
幕が開ききると重々しい女性の声が響いた。今時、女性の校長先生だってこんな喋り方はしない。どんだけ偉そうなんだと、私は顔を探した。
顔を探すも見当たらず、その代わりに白い幕の奥には、巨大な岩が四つ並んでいた。高さも幅も規格外に大きく、どうやって社の中に運び込んだのか疑問だった。人の力では無理だ。右側と左側で二つ一組の形をしており、右側の岩は黒い苔に隙間なく覆われていた。左側は天然の石ではなくて、鉄板が打ち付けられていた。
不思議がっていると、カムナオヌシが二番目と三番目の石の間に向かって歩き出した。
「蛭子さまが、汝らの顔が見たいそうだ」
「へー」
私はおもわず相槌を打った。相手も顔を探しているらしく、親近感を憶えた。
「蛭子?」
先輩は先輩で、相手の名前に聞き覚えがあるのか、視線を落として記憶を探っていた。
カムナオヌシについていくと、私が見ていた四つの岩が岩でないことが判明した。
「あ、え、本当に?」
その大きさに私は左右を何度も見て確認した。大きな岩は足だった。巨大な足の裏だったのだ。先輩が見たという巨人は、確かに横たわっていた。私たちに足を向けて。
「蛭子ってまさか、あの蛭子? でも彼女は海に流されたはず」
先輩から狼狽えた声がした。信じられないことらしく、私と同じようにキョロキョロと巨人の足を観察し始めた。
片方は黒くヌルヌルとした肌をしており、磯の香りを放っていた。もう片方は赤銅色の筋肉質な脹ら脛と太ももだった。男性であると思う。
「蛭子って有名なんですか?」
「有名というか昔の話というか」
私の質問に先輩も答えにくそうにしていた。
「蛭子は日本神話に出てくる神様の子供なんだけど、不完全に生まれてしまったから海に流されてしまったはず」
「神話? 神様の子供? 本気で言ってるんですか?」
「私だって信じられない! でも、いないとも思ってなかったから」
先輩の目は私からそらした瞬間に揺れ動いた。
私だって神社になにかがいる、いて欲しい、いたら良いなと思ってお願いをしたことがある。いないと思ってお参りする人は少ないはずだ。
「わ、私たち、なにか悪いことをしました?」
「こ、今回のことは別件だと思いたい」
二人して借りてきた猫のように肩身を縮こまらせて、カムナオヌシについていった。
「ねぇ、巫女ってどういう意味なの?」
私は気を紛らわせるために質問した。
ヌルヌルの巨人は爪の先までヌルヌルで、赤銅色の巨人においては手がなかった。手があるべき場所には精巧な金属片が複雑に絡み合った義手があり、握り拳を作っていた。
「照子には蛭子さまの、佳那には神殻の神駆りに、神駆りの巫女として務めてもらう」
神殻の神駆り。前にも聞いたフレーズだった。それに名乗った覚えもないのに呼び捨てにされた。少しカチンと来て、横暴な神の使いへさらに質問をぶつけた。
「それが地震となんの関係があるの?」
「地響きは、ある神に関わる。汝らには、それを止めてもらう」
「私たちには関係ないよね?」
「止めなければ、国が滅ぶ。汝らの親姉弟も幸いではいられないであろう」
「でも」
私はなんとしても責任を回避したくなっていた。勝手に責任を押しつけられて、訳のわからない仕事に駆り出されるなんてごめんだった。
「これは物語る司人の天津罪でもある」
カムナオヌシは、私の食い下がりを断ち切るように耳慣れない言葉を発した。
「物語る司人って小説を書く人のこと?」
「そうだ」
先輩の確認にカムナオヌシが肯定した。
わからなかった言葉が気になった。
「天津罪ってなに?」
「この常世にも災いを及ぼす重い罪だ」
「それが物語の尻拭いってこと?」
「そうなる。昔の者たちの織りなした物語が、ある神に災いをもたらし、その神は変わってしまった。変わり果てた神は物語を作った者とその末裔を憎み、滅ぼそうとしている」
「それで地震が」
私は会話を続けられなかった。神様に影響を及ぼす物語があることに驚いたし、それに怒った神様が日本を滅ぼそうとしている話も、途方もなくて現実味を感じられなかった。
「さっき、親姉弟にも影響があると言っていたけど、東京にも地震が来るの?」
「ああ」
先輩の質問にカムナオヌシがあっさりと答えた。
親想いで弟想いの先輩には辛い条件だった。
「怯えないで欲しい。汝らを選んだのは災いを祓うのに相応しいからだ」
蛭子と呼ばれた女性が、遠くから語りかけた。
「どこが相応しいの? 私たちはお祓いなんてやったことないし、神様の怒りを静めるための人柱になる気もない!」
私は主語を拡大し、牙を剥いた。
「人柱など求めていない。もしなるとしても、それは吾と神殻の負うべきこと」
「その神殻ってのはどこにいるの? さっきから一言も喋ってない」
「話したくとも話せないのだ」
「どうし……」
言葉を無くす以外になす術はなかった。
蛭子と言い合いながらやってきたのは巨人の肩口だった。そこから先には頭がある。蛭子にはヌルヌルとした顔があった。それはエイリアンとも魚人とも言えてしまうようなグロテスクさがあり、面と向かい合うにはそれなりの覚悟と準備が必要だろうと思えた。それは恐ろしくはあるが、言葉を無くすほどのものではなかった。
問題なのは神殻である。神殻の頭は完全な金属の塊で、骨も皮も肉もない。原形を留めないというレベルではなく、仏像か石膏の頭を据えたような人工物でしかなかった。
「神殻は生まれてすぐに、父親に首をはねられた。胸や腹、手足も他の神として独り立ちし、残ったのは腕と脚だけ」
それまで滔々とした語り口だった蛭子が、文末を言い淀んだ。
「先ほどから見えていた手足は機械でした。この頭も。神殻は、生きているのですか?」
先輩は言葉を選びながら尋ねた。失礼にならないように喋ろうとしているようだった。
「ああ、差し支えなく生きている。ただし、りはびりが必要だ」
答えたのはカムナオヌシだった。
「リハビリ?」
「然り。神殻は祀られ、蛭子さまも静かに海を漂っておいでになるはずだった。此度のことで、二柱はその身体に義手や義骨で、骨を揃えられた。この国を滅ぼさないために」
カムナオヌシの説明は、美談とも呼べるもので反論の余地がなかった。
「私たちは何をすればいいんですか?」
私が何かを言い返したくて考えていると、先輩が先に質問をした。
「二柱のりはびりを手伝ってもらう。できることなら、黄泉の者たちとも戦って欲しい」
カムナオヌシは和紙の張り付いた顔を私たちに向けて真剣な声を出した。
いい加減に顔を見せろと言いたかった。
「戦うって、どうやって?」
先輩は完全に怖じ気づいており、今にも倒れそうな顔をして尋ねていた。
「汝らの戯れ、えふぴーえすしゅーてぃんぐげーむに近いと思ってくれ」
「えふぴーえす……FPSって、あの?」
「見る方が早いか。オオナオヌシ!」
カムナオヌシが声を張り上げると、蛭子と神殻の上半身がせり上がった。二柱は床に寝ていたのではなく介護用ベッドへ横たわっていた。それもすべて木材でできていた。
「なに? なにが始まるの?」
先輩は轟音で軋むベッドの音を雷のように怖がり、私の背中へと隠れた。
蛭子の右手の近くに見たこともない拳銃が現れた。
二柱の神々の足下にある幕も再び閉じられた。幕には星的が描かれていた。
「ごーぐるを付けてみるといい」
「付けるとどうなる? 現実に帰れる?」
「それぞれの神を駆ることができる」
聞かなければよかった。直感で理解できてしまった。私たちは神をアバターとして操作することになるのだ。
「電算部を逃げ出した私がまたFPSするなんて」
気が進まない。距離を取ったはずの女子グループに出戻りしたような居心地の悪さだ。
「私がFPSをやっているのも調査済みだったわけ?」
神がおもちゃになるところまで来ると、プライバシーを侵害されていたとかは些細なことに思えてくる。見逃してはならないことだけど。
「資格の一つではあった」
「ふーん」
カムナオヌシに気のない相槌を打って、手に持っていたゴーグルを再び付けた。
視界には赤銅色の腕と機械の義手、胴体が見えていた。
「私は神殻の担当なのね」
「汝の身体は今、神殻の内側に移った。ごーぐるを外してみるといい」
「え」
言われるままに外してみると、私は雲の上に立っていた。最初に来た雲の大地でなく、一人用の雲がぽつんと浮かんでいるのだ。そこは空ではなく神殻の頭の辺りにあり、何にも遮られずに外界を見回すことができた。
「へー、こうなってるんだ」
「ごーぐるをつけると汝の首の動きが、そのまま神殻の動きとなる」
「身体を動かすには?」
「こんとろーらーを渡そう。右手を出してくれ」
「神様も色々と勉強してるんだ、ってわぁ!」
右手を前に出すと、右手首に雲から伸びた木の根が巻き付き、掌に木製の拳銃が押しつけられた。
ゴーグルを付けると、FPSでお馴染みのヘッドアップディスプレイが表示され、銃の形と残弾がわかるようになった。その向こう側で神殻が右手で拳銃を掴み、安全装置を外したり、初弾を装填したりしていた。
「持たせたのは木でできた拳銃だ。それを使って動いてみてくれ。汝が動けば動くほど神殻の眠っていた神経がつながっていく」
「なるほど、それでリハビリって訳ね」
「前に的が見えると思う。試しに引き金を引いてみてほしい」
「わかった」
ゲームのチュートリアルだった。手の中にある木のモデルガンみたいなコントローラーには引き金があり、両手で構えると同じように神殻も構えていた。
「マウスで狙うより直感的だけど、クロスヘアがないから難しい」
「くろすへあ……、少し待ってくれ」
カムナオヌシが言うと、ゴーグルの中に手ぶれする十字マークが現れた。
言ってみるものだと思う。
私はさっそくクロスヘアを星的に合わせて引き金を引いた。
落雷の衝撃波みたいな音が響き、星的に風穴が空いた。
「おお、当てたぞ!」
「うーん」
カムナオヌシが喝采を上げたが、私には意味のない成功だった。
「真ん中を打ち抜いている。なぜ、そのような声を?」
「ガンコントローラーって、あまり得意じゃない。それに、視界の中に勝手に相手が入ってきてくれるならまだしも、FPSみたいに自分で敵を見つけないといけなくなるなら、マウスとキーボードの方がいい」
私は断言した。VRの欠点はゲームのような激しい動きをするとプレイヤーの身体能力がもろに出てしまうところだ。本物の戦いではなんの利点にもならない。のんびりと楽しむなら良いだろうが、こういう真剣な場合では機械的な操作の方が良さそうだった。
「そ、そうか。では一度ごーぐるを外してくれ」
カムナオヌシに注文を付けていると、隣で轟音が鳴り響いた。
先輩も引き金を引いたようだった。ただ、その弾痕は的から遠く外れていた。
個人用の雲はカムナオヌシの操作によるものか、ゲーミングチェアのように形を変え、肘掛けを広げたアームレスト兼サイドテーブルもできあがった。そこへ木製の無線マウスとキーボードが雲の中から現れた。
私の推察では、雲がある種のワープホールなのだろう。
「掛けてみてくれ」
「うん」
私は雲の椅子へためらいなく座った。さんざん雲の上を歩いたのだ。今更すり抜けるとは思っていない。
「うーん、雲だ」
体重が吸い取られるような深いクッション性に全身を預けると、思わず眠ってしまいたくなる。うたた寝しないうちにゴーグルを付けて、右手のマウス、左手のキーボードの位置を調整した。
「きーぼーどで身動きが取れるようにした。だぶりゅーえいえすでぃーで動けるはずだ」
「ん」
試しにWを一度だけタイプすると、神殻がベッドから立ち上がって、一歩だけ進んだ。
首を左に振ると、ベッドの上で苦戦する先輩、もとい蛭子が確認できた。
「まうすの右くりっくが照準、左くりっくが射撃だ」
「うん、慣れた配置だ」
私が操作をすると、神殻が銃を構えたまま三百六十度を見回した。
それから私たちは、初めて触れるゲームのように神様の初期設定を入念に行った。
日本が地震で滅ぶという危機感は薄れていた。手の込んだ最新のゲームの導入にしか思えなかった。慣れ親しんだFPSというゲームにそっくりなのがいけないのだ。
私は、早く神殻に乗って銃を撃ちまくってみたくなっていた。