一章 3
人生に見切りを付けるとき、夏と秋の境目に吹く冷たい風が胸元へ停滞する。得体の知れない男の予言のせいで台風のようにかき乱されていた。刻一刻と時が進むにつれて私の体感温度が低下していった。
先輩と作ったカレーも舌の上ではアツアツのルーだったのに、喉を通るうちに冷え固まり、冷たい鉄球のように胃袋を押しつぶした。
カレーを食べ終わったとき、私の人生で最後の食事になるという確信があった。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
私と先輩は同時に手を合わせていた。
死を覚悟するというのは果てしなく悲しいことで、私と先輩は顔を見合わせても力なく笑うことしかできなかった。
普段なら、先輩との楽しい会話をする洗い物の時間も無言のまま流れた。
この異様な雰囲気にも父は全く反応を示すことなく、母の遺影を見つめ続けていた。
「父さん、先輩を送ってくるね」
二度と帰らない外出を告げるとき、私はいつもどんな顔をしていたのかと軽く焦った。父を見るのも最後なのだ。父を一人にする罪悪感と合わせて、込み上げるものがあった。
「あ、ああ。いつもありがとう。申し訳ない」
父は情けない愛想笑いを浮かべて、ちらりと先輩を見て、申し訳程度の会釈をした。
父は別れの言葉だと気づきもしない。
「じゃ、行ってきます」
「ああ」
父はもう母の遺影に視線を移していた。
私は老人のように曲がった父の背中を目に焼き付けてから、玄関を出た。
マンションの廊下では先輩が目を赤くして、労うように微笑んでいた。
「辛いね」
「はい。思ったよりもあっけなくて……、でも、これ以上のことはできなくて」
「私もはっきりとお別れを言えなかった。土曜日だって言うのに父は仕事で朝も早かったから、ちゃんと見ておくことができなかったなー」
先輩が声を震わせながら天を仰いだ。
零れそうなものを乾かしているのだ。
「さぁ、それじゃあ、どこから行きます?」
私は尋ねた。悲しむのも涙を流すのも飽きていた。
「色々と考えたけど、公共の図書館が良いと思う」
「なるほど」
先輩の観察眼に脱帽した。
娯楽をバーチャルの世界に奪われたように、書籍も電子書籍にその座を奪われつつあった。書籍のスペースは削減され、パソコンが代わりに置かれていた。
「あそこなら人がいないし、隠れてゴーグルを付けるだけなら見つからないと思う」
「ですね」
私はミニバッグに、先輩はショルダーバッグに、あの薄気味悪い木製のゴーグルを詰め込んでいた。
「それじゃ、行こうか」
先輩の目にもう涙はなかった。覚悟を決めた鋭い眼差しに、私も頬に力が入った。
「はい」
私が答えると、先輩が先陣をきって歩きだした。
向かうは、思い出のある図書館だった。駅一つ分くらいを歩けばすぐに着いた。
「前に来たのはいつだったかな?」
図書館のガラス扉を前にして先輩が呟いた。
「確か去年の夏だったと思います。私が電算部から逃げ出して、先輩に拾ってもらったのが夏休み前だったと思うので」
文芸同好会の課外活動と称して、先輩と一緒に文学作品を眺めに来たのだ。
「そっか」
「はい」
先輩との付き合いから、ほぼ一年が経とうとしていた。そんな感慨も持ちつつ、図書館のガラス扉をくぐった。
図書館へ入ると、エアコンの冷風が火照った身体にピタリと張り付いた。
私が肌寒さに慣れようと身体を強ばらせていると、受付の女性が紙の箱を持って飛び出して来た。
「あ、マスク」
それを見た先輩が気づき、私も無防備な顔のことを思い出した。
私たちは凄みのある受付の女性に利用者であることを確認され、マスクの着用を求められた。これから人生を放棄するというのに情けないことで、真剣な受付の人には悪いと思いつつ、私と先輩はおかしくてにやにやとしてしまった。
「めちゃくちゃ怒ってましたね」
「ええ、迷惑を掛けてしまった」
真面目な先輩は申し訳なさそうな声を出した。
私と先輩は図書館の案内板を見て、文芸作品のある場所を確認し、そこへ向かった。
「まだ読んでない本がたくさんあるなー」
本棚を前にするなり、先輩は独りごちた。
背表紙を眺めながら、本でも借りるように棚の間を歩いて行く。その仕草があまりにも自然で、先輩はゴーグルのことなど忘れて本を借りて帰ってしまいそうに見えた。
「えっと」
なにを読みたいのか。何冊読みたいのか。そういう後ろ髪を引くような質問ばかりが浮かび、私は言葉に詰まった。
「尻拭いが必要な物語ってなんなのかしら」
「え?」
「ねぇ、佳那。少しだけ探してみない?」
先輩の言葉に、最後にという見えない言葉が乗っていた。
「はい」
私は先輩の遊びに付き合うことにした。先輩は物語を創造することも好きだが、言葉に触れることをもっとも自然に楽しめる人だった。母の死を境に小説を書けなくなった私へ言葉遊びをよく仕掛けてきてくれた。言葉で遊んでいるうちは、言葉を紡ぎたくなってくる。それが不思議でならないし、それこそ言葉が仮想である証明のようにも思えた。
私たちは、文芸の棚をぐるぐると回りながら、まだ読んだことのない本のタイトルや最初のページを見て結末を予想し、尻拭いをするなら何をすべきかと、時に真剣に、時にふざけながら言い合い、戯れた。
「佳那」
先輩に声を潜めて呼びかけられて、私は唇を引き締めた。
棚の間には私たちしかいない。貸し出しカウンターからは死角になっていた。
文芸の不人気のおかげか、利用客がこちらを見ることもない。
「いつでも」
私はミニバッグからゴーグルを出して頷いた。
先輩もショルダーバッグからゴーグルを出した。
作られたばかりの木工のVRゴーグル。特段に怖れる必要もなさそうな極めてマヌケな代物を二人で毒薬の注がれた杯のように捧げ持った。
まるで服毒自殺でもするかのような緊張感で、私は滑稽さに笑い出したかった。
「ついてきてくれてありがとう。向こうで会いましょう」
「水くさいですよ先輩。気にしないでください」
私たちは本棚の作る影の中でひそひそと言葉を交わし、お互いの命数を見届けるように視線を交わしてから、人生に別れを告げた。
しっとりした木の感触が額と頬骨に当たる。ゴーグルの中の鏡は一点の光を放つ。光が強くなるにつれて意識が遠のき、座り込もうとしても地面を感じられなかった。
暗闇に灯った光の粒はトンネルの入り口のようで、その輪郭が大きくなる。図書館で感じていた音やエアコンの風は消え、肌を焼く太陽を感じたのである。
「あ」
思わず声を漏らした。
私は、雲一つない青空の下に立っていた。
傍には先輩もいて、白い床にうずくまっている。
「動いてはダメ!」
ゴーグルを付けた先輩が、私に向けて掌を見せた。
「あ、足下を見て」
「足下?」
先輩に言われて、遅ればせながら気付く。
私たちがいるのは、果てしない蒼穹に覆われた白い雲の上だった。
スネまで沈んだ雲は、干したての綿毛かと思うほど暖かく、先輩の危機感とはちぐはぐだった。先輩は一歩でも動けば地表に落ちると思っているらしかった。
私はバーチャルを越えた質感に感動をしていた。足首から膝までをしっとりと包むきめ細かな水蒸気の塊は、もはや現実にしか感じなかった。
「ごーぐるを外しても構わない」
頭上から声が降ってきた。
私たちの人生を乱しに乱した張本人。いけ好かないカムナオヌシの声だった。
手が震えた。
仮想と現実は決して交わらない。そういう確信をずっと持ってきた。その確信の下に小説を読み、書いてきた。それが覆るかもしれない。
私は意を決してゴーグルを外した。
「嘘」
私は力なく、力のない言葉を吐き出した。
限りのない視界。そこに、輝く青空と広大な白雲の大地があった。
「落ちないの?」
ゴーグルを外した先輩が、上を見上げて問いかけた。
釣られてみると、着物姿の男が浮いていた。顔には習字紙のような暖簾を垂らし、風に吹かれてもはためくことなく、表情はうかがい知れない。どんな顔をしているのか見てやろうと思っていただけに悔しくもあった。
「ああ、落ちない。心安らかに歩くといい」
「あんたがカムナオヌシ?」
私はすかさず問いかけた。
「そうだ。よく来てくれた。こちらへ」
カムナオヌシは空中で方向転換すると、ふいーっと雲の大地を飛んでいく。その飄々とした態度にむしゃくしゃとしたものがさらに悪化した。
「なんなのあいつ」
「前に見たときは、雲の上じゃなかった。木造の建物だったのに」
先輩はスカートの裾を雲から引き上げながら困惑していた。
「前のときは、あのゴーグルを?」
「そういえば市販のゴーグルだった。この木のゴーグルのせいなのかな」
「そうかもしれません」
私たちは動揺から落ち着くためにひとしきり会話をし、それからカムナオヌシを追いかけ、白雲の平原を歩いた。足の裏には草を踏むような柔らかさがあった。
「私たちは、死んだと思います?」
「ここが天国という話なら、答えはノー。なぜなら彼が天使に見えないから」
「そうですよね」
先輩に言われてカムナオヌシの姿を思い返した。
一言で言うなら白黒子。操り芝居にいる黒子の真っ白いバージョンに見えるのだ。白い着物を着ていて、背中には翼もない。架空の存在らしからぬつまらない造形をしていた。
「私たちはまだ生きてるってことになりますね」
「そうね。このあと何かの生け贄にされるかもしれないけど」
「若い女を集めるってそういうことなんですか?」
「ただの悲観よ。もしかしたら、もっと嫌なことかもしれないけど」
「雲の上を生きたまま歩けるなんてファンタジーなんだけどなー」
一面の雲の海を歩くのは、ウユニ塩湖で空にサンドイッチされることより貴重で、映えそうな光景だった。許されるなら動画や画像で保存したい光景だ。
私は試しにスマートフォンで撮影してみようと思い、ミニバッグから端末を取り出してみる。ダメだとすぐにわかった。そこそこ新しいモデルの端末が黒い板になっていて、電源を押しても起動すらしない。
「ファンタジーは、オブラートかも」
私がスマートフォンに悪戦苦闘していると、先輩が言葉をつなげた。端末をいじるよりも魅力のある先輩との会話に集中するため、それをミニバッグへしまう。
「あ、世界は醜悪で残酷だって奴ですか?」
「そう。世間知らずの子供だからか、私はこの先へ進むのもなにかの真実を知るのも怖くてしかたない」
先輩の顔は陽光を反射する雲の上で影を作り、不健全な青白さを際立たせていた。
「日焼け止め、持ってくれば良かったですね」
私は先輩にいつも通りに振る舞って欲しくて、重要度の高くない話題を一番上へ持ってくると言うユーモアを試した。
「そんな場合?」
先輩には心の余裕がなかった。眼光鋭く、軽口に付き合う気はないと言っていた。
本の虫だったことを悔いた。こういうのが人間関係を悪化させるのだ。
「すいません」
しつこくして嫌われるなんてあり得ないので潔く引き下がった。気まずい空気になってしまったことは事実で、なにか話題になりそうな物を雲の海に見つけようとあがく。
「あ、山ですね」
ちょうど進行方向にピラミッド型の不自然な雲を発見した。
私は先輩と一緒に雲の山へ近づき、カムナオヌシの背中へ追いついた。
雲の山は、高層ビル並みの絞った生クリームのようだった。
カムナオヌシは、私たちなど気にせず、その雲の山へ深い一礼をした。
カムナオヌシの顔に垂れ下がった習字紙は、礼をしてもフェイスシールドのように動かない。素顔を見るのは諦めた方が良さそうだった。
礼を受けた雲の泰山は鳴動することなく雪崩を起こした。崩れると言うよりは、どこからともなく吹いた風でゆっくりと霧散した感じだった。
「あ、ちょっと!」
いきなり吹いた風で裾を上げていた先輩のスカートが高くめくれ上がり、私は慌てる先輩と先輩の下着を拝むことができて少しテンションが上がった。うん、先輩には白が似合うと思う。しかも派手なレースではなく、可愛らしい透けるような刺繍だった。解釈が一致した瞬間である。
「なんなの!」
先輩は恥ずかしさのあまり、顔を赤くしてしかめた。
私は愛想笑いするしかなかった。ちなみに私はミニスカートだったけど、風の気配を感じてすぐに抑えたから下着を披露せずにすんだ。
風に吹き飛ばされた雲の下には、これまた新築の社が現れた。ドーム球場のようなものが雲の山に隠されていたのだ。
「中へ」
カムナオヌシが言うと、巨大な木の門が開いた。巨大な神社の拝殿が、海面から突き出したクジラの口のように、なにもかも呑み込もうとぽっかりと広がっていた。
私たちは木の香りが詰まった社へと歩みを進めた。
先輩が辺りを見回して頷く。
「ここだ。私が最初に見た場所は」
「じゃあ、ここに巨人が?」
「ええ、そのはず」
「ジャックと豆の木みたいですね」
「それとは少し違うかも」
社の入り口は白い幕で遮られ、すぐに行き止まりとなった。
天井から吊り下げられた白い幕を見て、どこかで見たような光景だと思った。
「幕を開けます」
カムナオヌシが、幕の内側へ呼びかけた。
なんの気配もないのに幕がするすると左右に開く。
カムナオヌシは、幕が開き始めたときから頭を下げた。
「あ、保健室」
私は見覚えのある光景の正体を探り当てた。