序
言葉とは仮想のものである。
そんなことを有名な国語学者の三代目が言っていた。
権威のある人に言われなくても、言葉で嘘が吐けることを知っていた。幼い頃から嘘の中で生き、今ではバーチャルリアリティという嘘の中で遊んでいるからだ。
「先輩! 飛んで!」
「え、無理無理!」
「バーチャルなんだから死にません!」
「私のアバターが死ぬからっ!」
私と先輩はVRアトラクションというサービスの古代遺跡の中で映画さながらのアドベンチャーをしていた。していたといっても、パソコンの前でゴーグルを付けて専用のコントローラーを握りしめているだけなんだけど。
文芸同好会の先輩が転がってくる大岩の下敷きになるか、崖から飛びそこねて針山の生け贄になるか、それとも私のいる対岸へ飛んでくるかという瀬戸際だった。
「先輩急いで!」
私はゲーム的には意味もないのに手を差し伸べて呼びかけた。
「あー、もうっ!」
金髪の美女に扮した先輩が、先輩の人生ではあり得ないような巨乳を揺らしながら針山の待ち構える直径二メートルくらいの穴を飛び越えようと跳躍した。
「あ」
VRゴーグルの中で先輩の豊満アバターが奈落の底へと落ちていった。
私の伸ばした手は先輩のアバターと接触するもすり抜けるだけだった。仮想現実の世界は、どんなに現実へ近づいたとしても接触できないという致命的な欠陥があった。
「いやああああ!」
ゴーグルに附属されたスピーカーから先輩の絶叫が響いた。
先輩のアバターは剣山へと背中から落ちて五千点のダメージ表記とともに消滅した。
「あー、先輩?」
呼びかけても反応はない。VRアトラクション内では、アバターが近くないと音声のやり取りができないのだ。
「リスポーン地点に戻るかー」
先輩は再開始地点まで送り返されてるし、一人で進んだところで面白くなかった。VRの苦手な先輩が気を使って誘ってくれたのだ。一緒に遊ばずしてなにが同好の士か。
私は先輩の後を追って奈落へと落ちた。私のアバターは木の棘に貫かれて死んだ。
視界が真っ白になり、リスポーン地点へ飛ばされる……、はずだった。
「ん?」
待てど暮らせどリスポーン地点が読み込まれない。ゲームのクラッシュだと思い、VRゴーグルを外そうとした。
「少し待って」
「え、先輩?」
声が聞こえるということは、先輩のアバターが近くにいるということで、この真っ白な空間は壊れていないマップの一部だと考えられた。
「ここはなんです? なにも見えないんですけど?」
「話を聞いて欲しい」
「はい?」
疑問と同時に直感した。先輩はなにか秘密の話をしたいのだ。苦手なVRアトラクションのマップにバグ的な空間を見つけ、わざわざ私を連れてきた。
「他ならぬ先輩の頼みですから聞きますけど」
「ありがとう」
先輩の改まった声が、ちょうど私の部屋のエアコンの冷風と重なった。ノースリーブの肩から下に鳥肌が立つ。これから聞かされる話に良い予感がせず、生唾を呑み込んだ。
「カムナオヌシ」
「なんて?」
先輩の口から出た妙な音の羅列に敬意のない返しをしてしまった。
「高天原へようこそ」
突如、男性の声がして私は身構えた。
バグった空間はそのままに別のプレイヤーが現れた。声はするけど姿はない。
失礼な人だった。
「誰?」
「吾が名はカムナオヌシ。汝に巫女の役目を与えたい」
なんとも胡散臭い喋り方で気が抜けた。宗教の勧誘かのようなナンパだった。
「せんぱーい! さすがにこのナンパはないですよ!」
私は、恋愛小説を書けと先輩にせっつかれていたことを思い出し、先輩の目論見を阻止しようと声を張り上げた。
張り上げたと言っても、せいぜい隣の部屋にいる父親が驚いて様子を見に来ない程度だけど。
「ここにいるのは吾と汝のみ」
「完全にはめられたってことですか」
先輩を信頼していただけに、少なからぬショックがあった。小説のために見ず知らずの男とボイスチャットデートをさせられるとは思わなかったのだ。
「明日より、西からの地響きが国を駆け抜けるだろう」
カムナオヌシとかいうおじさんは、訳のわからない話を続けた。
まともな会話すらできない人間の相手をするのは苦痛でしかない。かといって先輩の面目を潰すのも忍びなかった。
「汝にはカムガラのカムガリとして務めてもらう」
相槌も面倒なので省略。私は色々な打算を重ねて、カムナオヌシの話を黙って聞くことにした。
「ごーぐるを授ける。国が揺れたら身につけるといい。汝を高天原へ導くだろう」
無視しているのだが、男は一向に話をやめない。
私はエモート機能を使って意思の伝達を試みるも、コントローラーがまるっきり反応しなかった。興味のない話を聞くのも辛いのでゴーグルを再び外そうとした。
「汝は、左目でうぃんくはできるか?」
「は?」
「どうなのだ?」
私はいい加減に解放して欲しかったので、条件を付けることにした。
「答えたら帰してくれるの?」
「ああ」
「できる」
「そうか」
カムナオヌシが言い終える頃には、私の目はリスポーン地点へ戻って来ていた。
「ふぅ、ひどい目にあった」
なにか身体に汚いものでも付着したかのような気味の悪さがあり、VRゴーグルを速攻で外した。目を休ませてから開くと、学習机に置いたゲーミングパソコンの画面に先輩のアバターが映っていた。
「あれ?」
慌ててVRゴーグルをかけ直すと、先輩のアバターから音声が聞こえていた。
「佳那! 聞こえてる?」
「あー、聞こえてますよー」
「よかった」
「よかったじゃないですよ。なんなんですかさっきの?」
「話は聞いた?」
「無視してました」
「なんてことを」
先輩はショックを受けたような声を出した。
「地響きが来るとか言ってましたけど、信じるんですか? 私心配です。先輩がいつか悪い男に騙されるんじゃないかと。あ、このネタで小説を書いても?」
「実在の人物をモデルにすると名誉毀損になるからダメ」
先輩はきっぱりと拒否した。
「カムナオヌシからもらった物があるはず」
「えー?」
先輩の言葉を受けて、私はゲーム内のインベントリを開いて確認するものの、それらしいアイテムをもらってはいなかった。
「ないですよ」
「そう」
めったに聞くことのない先輩の深い溜め息だった。
「そんなに残念ですか?」
溜め息を吐きたいのはこっちの方だった。見ず知らずの男の言葉を信じるなんてあり得ないし、なんの予告もなく後輩をナンパさせたことに対する弁明すらない。
「地震がなければ私の思い過ごしだから、気にしなくていい」
先輩は、地響きを地震と解釈しているらしかった。
「地震が来たらどうするんです?」
「彼の言うとおりにする」
先輩は真剣だった。あの変人からゴーグルをもらっているらしい。
「現実に戻ってきてください照子先輩」
後輩ながら、幻想と現実の区別がつかなくなった先輩を心配した。
「そうね。なら現実の話をしましょう。今晩の夕飯は大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「足りなそうになったら連絡ちょうだい」
「ありがとうございます」
「それじゃ、今日は付き合ってくれてありがとう」
「先輩の頼みですからね」
「また学校で」
「はい。誘ってくれてありがとうございました」
「うん」
先輩がゲームからログアウトし、私もゲームを終了した。
VRゴーグルを外し、マウスを操作してパソコンをシャットダウンした。
マウスを操っている手にコンと軽やかな音がぶつかった。
「ん? なに?」
削り立ての木材が学習机の上に置いてあった。
「こんなのなかった。どうやってここに?」
気味の悪さとプライバシーも身の安全も踏みにじられた恐怖で血の気が失せた。
身に覚えのない異物へ震える手を伸ばす。それは、しっとりとした肌触りをしながらもしっかりと乾燥されていて軽く、シールド部分には沸き立つ雲が彫刻されていた。
「木のゴーグル……。木のVRゴーグル……?」
二本の弦が折りたたまれており、裏面には鏡のような板が張り付けられていた。
突如として机に不法投棄された木工細工。普通なら気色が悪くてゴミ箱へ投げ入れるべきものなんだろうけど、捨ててはいけない気がした。
「もし、本当だったら」
地震が来るのだ。日本を駆け抜けるほどの地震が。
「先輩を一人で行かせられない」
あの真っ白い空間に、得体の知れない男がいる空間に、先輩を一人で行かせるのは虫唾が走ることだった。
木製の工芸品はどこからともなく現れた。最初から私の部屋にあったかのように。それだけでも不気味なのに、作りたてのようにしっとりとした木の感触がおぞましかった。
「なんなのこれ」
私は気味の悪さを吐き出してから、不要なプリントの物置と化しつつある学習机の引き出しへ新品の木工品を放り込んだ。