IQが30だって、いいやつはいいやつなんだよ
前の章で描いた繫田さんが画伯になった幼い日のいきさつを書きました。
世界遺産の島にあるこの施設が出来てからちょうど50年が経つのだという。今年は記念すべき50周年だが、昨今の状況もあってイベントなどその手のものはしないことに決まっている。
が、50年は嚙みしめれば自ずと溢れ出るもののある年月だ。
それを感じているのは所長や古株の職員なんかよりも、此処にずっと住んできた人たちだ。その人たちはいつももの静かで穏やかで、昨日よりももっと先にあった遠いむかしのことなんて語ったりはしないけれど、この島にお父さんやお母さん、或いはそれが叶わずに先の施設の先生に手を引かれてやってきた「あの日」から同じペースで落ち続けている砂時計の砂の重さをずっと見続けて生きてきている。
仲のいい子猫たちやものが言えない赤ちゃんたちだけが見つけられる西南の空に浮かぶ少し高い一点、それを同じように見ている目を見出すことがある。
繫田さんはその一人だ。この施設一番の画伯なのはギャラリーのほとんどを埋めているサイン入りの作品ですぐに分かったが、ここの一期生なのは最近になって知った。年かさはわたしよりもかなりの先輩だと思っていたが、来年が還暦で此処には小学校3年生のときにやってきたのだという。
ずっと手元に置くように可愛がっていた母親が亡くなり父親が再婚するタイミングでふるさとの北国からやってきた。「冬でも雪が降らない暖ったかいところだ、天国みてぇな所」だと父親に聞かされてやってきた。
職員がギャラリーと呼んでいる繫田さんの作品が貼られた広い廊下の前で繫田さんがそう話し始めたとき、わたしはうろたえた。大きなお母さんに手を引かれたとても小さな繫田さんが描かれた絵を、世間話のついでのように一緒になって眺めていたのだ。お母さんは姉さんかぶりで、少し腰が曲がって、はじめの生地が分からなくなるほど針の入った刺し子の野良着を着ている。白黒写真でしか見かけたことがない構図だが、典型的な北国の農村の女性だった。その人が手を引いている繫田さんは絵カルタの一寸法師よりも小さな男の子だった。見つけられないくらい小さな顔は笑っている。描かれているのはふたりだけで、茜色の色画用紙に背景のように黄色い小さな丸が5つ添えられていた。小さいのに右端の丸だけが気持ち少し大きかったので、何の気なしに話の接ぎ穂のように尋ねたのだ。
「お母さんは描けるけど、ほかは皆んな忘れてしまった。お父さんも4人いた兄弟も。ぼくが一番下だったけど、兄さんだったか姉さんだったかも忘れてしまった」
うなづくばかりで何も返さないわたしに気付き、気遣い、繫田さんは話しを切り上げた。
「課長さんが何か余計なもの持つことないよ。むかしのことだし、お父さんが言ったとおりここは暖かくて雪であかぎれできなくなったし、それに此処に来なかったらカンタには会えなかったんだし」
カンタとは、先月亡くなった山口幹太さんのことだ。繫田さんと同じ年、この施設の一期生10名のひとりだ。
「山口さんが亡くなって、最初の10人のコドモたちは繫田さんひとりになってしまった。気を落とさずに山口さんの分まで元気でいてください」
お別れの言葉の最後に所長はそう締めくくった。ここは病院ではないから、しばらくここからいなくなって、病気で死んだときは、病院で亡くなったとあとで聞かされる。それに此処は家でもないから亡骸は帰ってはこない。残るのは短い事実の告知だけだ。
繫田さんが思い出す幹太さんとのことは、幼い日が中心になる。もっとも繫田さんよりもずーと障害の重かった幹太さんに幼い頃といった漠然としたあの頃があったのかどうかは分からない。
ー カンタのあだ名って知ってる、ピンボールっていうんだ。そのあだ名しってるのはもうオレだけになったよ。よく頭からぶつかってったなぁ。先生や仲間の誰にでも。かんしゃくとかで、食って掛かるとかじゃないんだ。自分がラグビーボールになったみたいに、ピューっと、体当たりするんだ、横に向かって推進するロケットみたいに。
カンタ、てんかん持ちだったから最初はわざとじゃなかったんだけど、あんまりしょっちゅうだからピンボールってあだ名がつけれれて、そんな名前も意味も分かるはずないのに、あだ名付けられてからかな、目たらめっぽうの突進が始まった。
一番最初に肋骨折ったのオレなんだ。痛かったなぁ、そんなの初めてだからあいつの頭そっくりが胸に残った感じしか痛さは分からなかったんだけど、そのうち息する度にヒリヒリし始めて診療室連れて行かされて、いつもの聴診器もってる山羊髭のセンセイじゃなくて角刈りの柔道でもやってるいたようなごっつ顔のセンセイが一目見るなり「折れてるね」と、ぶえんりょに触ってくるもんだから、そこに当たったときの痛さっていったら、カンタの石頭なんてすっ飛ぶくらいひん剝いたね。でも、「一本だけだから生活の不自由はない」って、すぐにプイっと出ていったよ。それからだな、おれが外科と名の付く医者だけはセンセイって呼ばなくなったの。あいつら、オレたちのこと肉と骨でできたモノとしか見てないんだ。
・・・・・・もちろん、カンタは謝ったりしないさ。出来っこないんだから、仕方ないよ。だからって、外科の医者みたいに嫌いになったりはしない。「ずーと」のいつもどおりは変わらない。
・・・・あいつ、いいやつだからな。
カンタの尖ったビリケン頭が胸に刺さったとき、痛さと一緒にカメが現れたんだ。
・・・・・・そう、石みたいな甲羅を背負ってのそのそ歩くあの亀。石頭から亀の甲羅に繋がって、それがはっきりと前びれの大きなウミガメで、バランスを欠くくらい前びれにクリクリ目が大きな、あーこのウミガメ船から降りてこの島で最初にみつけたヤツだって、思い出した。
産卵していたウミガメの卵が一斉に孵化して、何十何百の小さな生まれたてのウミガメが前びれと目玉ばかりグルグル回しながらその小さな身体を海に運ぼうとしていた。そのすがたを見たら、船に残っているコドモも島に上陸したてのコドモも皆んな荷物を放り出し両手を上げて小躍りしていたね。そんな大きな両手両足のバタつきなんて金輪際したことのない子どもたちに慌てたおトーさんやおカーさんやセンセイたちは砂浜に荷物を放り出して、おのおのの子供たちを捕まえにかかっていく。
船酔いと酒酔いで眠ったままのオヤジが目を覚ますまで、オレはそれを船のデッキから眺めていた。視力だけは2.0以下に落ちたことないから、ウミガメの一匹一匹とそれを取り囲むコドモとその子たちを羽交い締めしようとしている大人たちの狂想曲を一枚一枚シャッターを切るように眺めていた。
その中で一番暴れていたのがカンタだった。
そのときはそれがカンタだなんて知らなかった。けど、こうして肋骨に直にあの頭がぶつかったら、背中の本棚に綴りこんでコレクションしているスナップ写真の束からその一枚だけが抜け出して、現像液からゆるゆるあぶりだされるように立ち昇っていったんだ。
それが、カンタ。
頭と目玉と両手だけあのときの赤ちゃんウミガメそっくりの半魚人みたいな形なんだ。あのとき、大人なちに羽交い締めされなかったら、カンタのやつ、いまごろ、あのウミガメたちと一緒に広い大洋を泳いで行けたんだ。そしてら、きっと、黄色と青の顔料で出来たシマダイや甘そうな白泥色に朱色ろうそくを垂らしたサンゴを見つけて、そのたびにテレパシーでその一枚一枚を、きっと、オレに、送ってくれたはずだ。
だから、おれ、あいつのこと、ピンボールなんて呼ばずにカンタ、ウミガメのカンタっていつも伝えることにしたんだ。その方が、なんか通じ合う感じがして。
肋骨が繋がったあとも、あいつ、ぶつかってきたよ。誰かれ見さかいなくロケット弾を発射するんだけど、オレは不意打ちのドッジボールでも楽しむみたいに、そのハラハラドキドキを楽しんだね。ボール掴むみたいに両手で押さえて、「ハイっ、キャッチ」って伝えると、ウミガメのカンタが掌につけた前びれ恥ずかしそうに外しながらモジモジはじめて、「つかまっちゃった」って顔するんだ。それが楽しくてさ、ほかの子どもと一緒の活動のときはヘッドギアかぶせられていたけど、オレはそんなハンディは嫌だったから、すぐに取ってやったんだ。センセイに見つかるとまたかぶせられてたけど、あいつ、演技しながら素直に被っていたね。「どうせ、すぐに脱いじゃうけど」ってオレの口に人差し指あてるみたいなポーズとりながら。
あいつ、いいやつだからな。
でも、カンタがいいやつだって気づいたいたのは、初めてあっ夜だったかもしれない。
センセイたちの号令で、オレたち10名全員が食堂に集められた。
朝や昼のうちにほうぼうから親たちと一緒にやってきて、荷物の荷解きを済ませてそうした大人たちは帰っていった。
この施設での初めての食事でテーブルに並べさせられて、椅子に座った。椅子に座ってご飯を食べるなんて此処に来て初めてだったんでドキドキで。となりにカンタみたいな変な奴が座ってるのなんて、あいつがオレの配膳から手づかみで肉じゃがの一番大きなダンシャク掴みとるまで分からなかったよ。
ナニしやがるんだって思ったね。家にいるときから食い物にかけては周りを見る余裕なんてなかったからな。弟だろうと姉さんだろうと、あの飲んだくれのオヤジだろうと食いかけだろうと取られたら下手すりゃぁそれから一日中ひもじい思いして膝を抱えてなきゃいけないんだし、お母さんが死んでからおれの身体のことに同情して特別なことをしてくれるような家じゃなくなってたからな。
でもさぁー、カンタ、おっきなダンシャク口いっぱいに押し込んだ掌とは別のきれいな掌でリンゴくれたんだよ。あいつ、青森からやってきて、ポケットの中にりんごいっぱい詰めて食堂にやってきたんだ。「ここのお友達に仲良くしてねってって言ってあげなさい」って、一緒に来たお母さんはに言われ続けて、それだけはきちんと守って渡してくれたんだよ。リンゴ渡してから「ジャガイモ大好きだから一つちょうだい」って言えば済むことなのに、あいつIQ30だから、声は出せるけど話なんて出来ないからしょうがないんだ。あとでセンセイがそう代わりに謝ってきた。
でも、リンゴもらったとき分かったんだ。こいつは絶対いいやつだって。これからずっと仲良くしていけるって。だから、そのとき、何か繋がったものが残ったんだと思う。
カンタとの「お喋り」はロケット弾と食い物のやり取りのときに限られていたけど、オレは辛抱強く待っていたんだ。
ー カンタと繋がる別の手立てがあるって。
どうしてそんなどっしりした気持ちでいられたのか分からないけど・・・・・ほらっ、見たことは覚えてるけど中身をすっかり忘れてしまった映画ってあるじゃない。はなしはすっかり抜けても、それはハッピーエンドで終わるってことだけ覚えていたら、ハラハラドキドキやモジモジイライラなんて起きないだろう。
あれと同なじ。
このお話の起承転結で、何かいいことが転がってくるのは確かだったんだ。
最初の気づいたのは、オレじゃなくてセンセイだった。センセイもそれに気づいたのでなく、いつもとは違うカンタの先っぽから出てきている異物に気づいて、それを漏らしたんだ。
「カンタ、何か無くしたの。探しものでもしてるみたいだけど」
カンタのほか、そばにはオレしかいなかったけど、センセイ、オレやカンタに尋ねた感じじゃなかった。ただ言葉が先に出てしまっただけで、言った先からそれを忘れている顔をしてた。不可思議が訪れる前触れの、砂時計に入ってるキラキラしたピンクの砂が周りに散っていくような小さなメロディーの囁きに聞き耳を立てる合図みたいに、それは始まったんだ。
夕暮れ時だったから、食堂の窓から最後のお日様の光がいっぱいに入っていた。その光を浴びて後ろの壁いっぱいに遠足で描いた皆んなのお絵描きが貼ってあった。サラッとパステル画って言いたいけど、オレが描いた作品の中では一番古いものだから、12色の、それも3人で一箱づつ使いまわすようなクレヨン画で、緑や赤の綺麗な色は上の子たちに独り占めされて群青色と黄土色ばかりの絵だったんだよな。
オレとセンセイとカンタの3人の影がそのまま絵の中に影をつくっていた。オレとセンセイの影は左右あちらこちらにウロウロしてるのに、ピンボールのカンタだけがじっとしている。ひとつの絵ばかりをじっと凝視している。それはオレの絵じゃなくて、いちばんに身体の大きなエイコの絵だった。あの日は、エイコ、赤いクレヨンをずっと独り占めしてグルグルぐるぐる画用紙いっぱいに〇ばかり描いていたんだ。
カンタが見ているのは、そのエイコの絵だった。おれもカンタの隣でジーっと見つめる。カンタは自分の影にオレも映りこんでいくのも気にせずに足の位置を外そうとしない。目線もずっとそこにいったっきりだ。
たぶん、うーんと長かったんだな。センセイは用事を思い出すふりをして、オレにカンタを預けて出て行った。夕焼けの色はどんどん濃くなってオレとカンタのフタコブラクダみたいな影を際立たせる。
オーディオプレーヤーはないのに、月の砂漠がレコード針を落として、一番から流れてきた。
つきの さばくを はーるばると たびの らくだが ゆーきーました
いつもよりもテンポはゆっくりだ。だから歌っているおねえさんの声も少し野太い。食べ過ぎで5キロ太った感じがした。
きーんのくらには きんのかめ ぎーんのくらには ぎんのかめ
かめは水を溜めておくための甕のことで、のそのそ歩く亀のことでないと、後になってしった。しってはみたが、頭に残る月の砂漠は、フタコブラクダでそれにのっかる王子様とお姫様の鞍の先には細い紐で結わえつけられた亀が駱駝の歩みや歌のテンポに合わせていつもよりも早足でついていく光景は変わらない。どぶ川から引き上げられ、何の因果かアチチの砂漠を早足で行進していく二匹の亀、遅れるのはいつもお姫様に繋がっている方で、その度、王子様に繋がっている亀が後ろを振り返りながらハッパを掛ける。そんなゆっくりじゃトロトロ溶けちゃうぞと励まし、もう少しもう少しあと少しとすかし、どぶ川のコケ臭い匂いが恋しいと涙する。
やっぱりかめは甕でなく、二匹の亀にしか聞こえない。
ふーたつの かめは そーれぞれに・・・・・
そこで歌は止まった。もう歌なんてどうでもいい。見つけた、見つけた。エイコの絵の中のカンタを見つけた。
グルグル赤い毛糸の糸玉を透かしてみると、顔が見える。坊主頭の先がビリケンみたいにとんがったカンタの頭のてっぺんが最初に見えてきた。
でこっぱちのおでこに一本線を引いただけの目。鼻はみえないけど、口は大きくあんぐり開けて、手に持ったジャガイモを今にも頬張ろうとしている。目の前のおにぎりじゃなく、真っ直ぐ左に伸ばした左手が隣のヤツのジャガイモを横取りしている。
それを見てもニコニコして眼ばかり大きくて身体の小さな男の子がオレだ。少し泣きべそかきそうになるのを懸命にこらえていたら、カンタのやつ、ポケットからいつも青森のリンゴを取り出して渡してくれるのだ。ジャガイモはしょっちゅう出てくるけど、青森のリンゴが届くのは年に一度だけ、それもカンタのお母さんが生きていた時だけ。その貴重なリンゴを真っすぐにオレにくれるのだ。ジャガイモ頬張っている口がモグモグ言ってるから、いつもにもまして喉の奥がガーガー言ってる音しか聞こえない。
聞こえないけど、きこえてくる。 ーいつも、ジャガイモ、ありがとう。
そして、
「いつも、仲良くしてくれて、ありがとう」
どこまでも近くにやってきたカンタは、そこで、立ち去った。夕焼けがなくなったあとの壁のエイコの赤い毛糸の糸巻きからカンタもオレも見つかりはしなかった。
それからだ。カンタとお喋りするための絵を描き始めたのは。
別棟建ての建物をつなぐために、地下二階に戦中の大本営本部みたいに地下通路がめぐらされている。天井に「中通」と落書きされたメインストリートからムカデみたいな脇道が何本と生えていて、その小路の途中で蛇がガチョウの卵を飲み込んだように膨らんでいるのが「広小路」だ。何のためにこんなシェルターもどきを作ったのか、つくった人たちは今はもう皆んな死んでしまっていて分かるすべもない。反対に、そのひとたちも今はそこが繫田画伯のプライベートギャラリーとなっていることは想像すら出来ないだろう。
普段接している繫田さんの描くものは、ひとりひとりを観察してそのひとの嫌がる部分も含めてデフォルメしたポートレートだ。それに見慣れたわたしには、ウォーリーを探せのようなたくさんの群衆画が多くを占めているのは意外だった。若い頃描いたものだという。30年、いや40年前の幼い繫田さんが描き続けた群衆画のシリーズだ。完成した構図をイメージしてスケッチやドローイングを重ねての工程ではなく、右上から順々にジグソーパズルを埋め込むように人物を載せていく。
ー いちばんに多いときで889人いたんだよなぁ。
廃山した元炭鉱夫が昔語りするように、繫田さんは教えてくれた。人数がそのとおりかと勘定でも始めたみたいに上から順々に頷いていく。小さな声が聞こえる。いち、にぃ、さんの数字ではなく、てつお、きょうこ、かめじろうと名前が返ってくる。
幼いときに諳んじていた仲間の名前を棒読みしているのではなかった。砂鉄みたいに細くて小さな線の片の配置のずれから繫田さんは言い当てている。
さゆり、ほのか、かえでと女の子の名前ばかりが30人続いたあと、矢野センセイ、岡野センセイと先生が続く。そのあたりは確かに白い長袖シャツを着ている上背のある大人が並んでいた。
たけし、ゆきな、こうのすけ、カンタ。
繫田さんが読み上げを止めなければ、山口さんの姿を瞬時に見つけることはできなかっただろう。
この子が幼い山口だ。ピンボールの、ウミガメのカンタだ。
そう見えてくる。それしか見えなくなる。
坊主頭の先にとんがりと書き込まれているのも見えてくる。
「課長さん、あいつ、いつも、これだけの顔の中から、自分の顔を最初の一発でみつけるんだよ。すげーぇだろう」
すげーぇだろうが言いたくて、わたしを付き合わせてくれたのだ。
繫田さんの顔は晴れやかな顔だ。
法事のお経を足の痺れと一緒に聞かされて、坊主がやっとりんを鳴らしてくれたときのような晴れやかな顔だ。
「おれがカンタに話しかけている姿を見つけると、どのセンセイもこう言うんだ。三郎くんはやさしいね。ほかのお友達と同じように幹太くんとお喋りしてくれるもんね。でもさぁー、違うんだよ、センセイ。それって、・・・・・・何にもわかっちゃいないんだよ」
足を崩したまま、繫田さんは生の声で、わかっちゃいないんだよを2回目繰り返した。
「カンタ、ちゃんと話せるんだ、通じるんだよ。ただ声に出したり、顔を振ってイヤイヤしたりできないだけで。
繫田さんは、その度に絵を描き続けた。30人50人と増やしていく。そしてこの施設すべての889人を描ききった
「カンタ、そのとき見つけたのも最初の一発だったんだ。それでも、すごいねぇカンタくんすごいねの感想が一巡するだけ。ほめられて、なでられて、でも、それでおしまい。センセイたちは予定している今日のスケジュールに戻っていく。ほかの仲間も食事のない食堂に用はないから、てんでに散っていって、残るのはいつもカンタとおれのふたりだけ」
そんなエピソードに、それを小さな光だと認め、金の鉱脈でも探し当てたみたいにあらん限りの両手両足を使って彫り広げていく作業にわたしたちを向かわせるには、時代はまだまだ若すぎた。
ノーマライゼーションなんて聞こえたもこなかったし、街の映画館でレインマンもレナードの朝も公開されていなかった。ここのひとたちとわたしたを隔てる溝は確かに横たわり、それを当たり前と信じて疑わない時代だった。
同じように船に乗ってこの島にやってきた所長たちは、誰かに聞かれたら、きっとそんな言い訳をするんだろう。
繫田さんが、そうした絵を描いたのはそれが最後になった。
それは周りがそんな風だからといってあきらめたからではなかった。
翌朝、カンタは本当に遠くへ行ってしまっていた。いつも繋ぐ左手の体温は俺より低い35.5度だったし、ビリケンみたいな頭骨も昨日と同じエッジを立てていたけど、遠くへ行ってしまったんだ。
魂や心がオレと同じところにいない。もっと遠くのうすぼんやりした先までいっている。浦島太郎みたいに一気にジジィの先まで行ってしまったいた。
それにだれも気づいていない。
こっち側に近づいてきているに気づけないのだから、あっち側に遠のいていったって気づきようはないじゃないか。
あのとき、やっぱり、カンタのやつ、ウミガメと一緒に出ていったのかな。それでもむかしの身体が恋しくてときどきはこの島までやってきて、やーしばらく、元気にしてたなんて自分の身体とその周りでちょっかい出している変なやつと遊んでくれていたのかな。
それでも、繫田さんは絵を描き続ける。時間軸の異なる幹太さんが昨日の続きをするようにやって来たらこんなにたくさんのセンセイや仲間たちがこの島にやってきて暮らして来たことをすぐに伝えられるように。
それだから、繫田さんは絵を描き続ける。30年前に亡くなった連れ合いといまでも同じように触れている80を超えた婆さんが一日も欠かさず丘の上の墓に毎日何かを携えて墓守りをしながら生きているように。