山咲さんの作り笑い
少し年齢の高めのひとたちが住む寮に廻る段になってから、鍵を忘れたことに気づいた。わたしたちだけの動線の出入りには鍵の開け閉めがついてまわる。此処のひとたちの動線を断つのは鍵のかかったドアだけだからだ。かなり以前らしいが、管理棟の事務室を施錠せずに帰ったら昼間廊下の窓越しから見ていたカントリーマアムの赤い袋目当てに事務室のすべての引き出しという引き出しがひっくり返された事案が発生した。本当かどうかは怪しいが、机の上の赤いカントリーマアムの袋が記憶に刺さるので、此処の職員で周りから見える場所にお菓子の袋を置くものはいない。それもわたしの椅子に座るものの代々の口伝になっている。
いつも寮へ赴く際はマスターキーを必ず落とさないようにズボンの前ポケットに入れて出るのだが、デスクを立つ前の電話で失念してしまったのだ。あいにく寮長を含めて事務室の中の3人は熱心にメモを取りながらの電話中だ。わたしは廊下を見渡し、お世話係をしている若い人を探した。ひとりお世話から外れて皆んなの絵本を整理整頓しているひとがいた。モデルのような若い人たちと違って、年かさと腹の肉が横にはみ出ているように見えた。 ー お仕事中のところ手を止めさせて済まないのだけれど、寮長に用があって来たんだけど、あいにく鍵を持ってくるのを忘れてしまって
「事務室を開けてくれないかな」と言い出す前に、すぐに管理棟の事務の人だと気づいてくれて微笑みと二つ返事を返してくれる。先程までの無表情で一心不乱に絵本の背表紙とにらめっこしていた顔とは別人のような笑顔である。
彼に連れられ事務室のドアの前に立つ。ポケットか何かから鍵を出してドアを開けて呉れる仕草をいくら待っても、一向に「きおつけ」の掛け声をかけられて固まってしまった蠟細工のような直立不動を変えようとしない。別人のような笑顔だけは、そのままである。先ほどの作業で見かけた顔と身体が逆転したような感じだ。ドアの窓に映るわたしたちに気づいた寮長がこちらに手を振り、もうすぐ電話を終わらせるジェスチャーのように2回丁寧なお辞儀を繰り返したあと、中から鍵を開けてくれた。
「いやぁー課長さん、お呼び立てしてすみません。ところで山咲さんがまた何かしでかしましたか」
ドアをあけた寮長が先に挨拶を掛けてくれてよかった。でなかったら、「いあやぁーお恥ずかしい。ここへくるのに鍵を忘れてしまって、この職員さんのお手を煩わせてしまって」などと赤っ恥をかくような挨拶を始めて冷や汗をかくところだった。
それほどに山咲さんの第一印象は、此処に住んでいる人たちではなく、お世話するわたしたちの空気感が漂っていた。照れを隠しながら用件が終わったあとにそんな第一印象を伝えてみると、「課長さんばかりでなく来たばかりのひとは勘違いしちぃますよ。顔を知らないひとはみんな山咲さんのことをこちら側の人間だと思ってしまいますからね」とさらりと述べた。
それなら、山咲さんも含めて此処に住んでる人たちはみんな向こう側のひと。
このひと言でこの人の本音が透けて見えてきた。きれいごとだけでは汲み取れない長い生活。ぶくぶく太っていく身体は分別を忘れて、この島へやったきた時のモデルみたいだった身体を忘れていく。船を降りたときに感じるエキゾチックな景色は岩陰からオリンポスの神々が現れてきそうな幻覚を否定できずにいても、日常と生活を繰り返していけば、己れの身体同様にエキゾチックのきらめきは姿を消していく。この島にやって来るものは此処に住む人たちのお世話で糧を得ている。ほかに糧を得るのものがないのだから、この施設と此処の人たちが自分らの糧と重なることは致し方ないこと。だから役割を自覚する、バランスを保っていける、大人の対応が出来てくるのだ。
でも、それって、山咲さんも同じなんじゃないの・・・・・
あれから、何度か山咲さんを見つけるたびに彼の無表情から急に反転する笑顔の理由を考え続けていた。整理整頓が山咲さんの日常を表す四字熟語。本棚の並び替え、色鉛筆の並び替え、食器棚のコップの位置の並び替え。「そんなに上手なら、コップばかりじゃなくて茶碗も一緒にやってくれるとありがたいんだけどなぁ。大きさでも色合いでも山咲さんのセンスに任すからさぁー」と寮長さんがいくらヨイショしても一向に聞く耳は持ってくれない。
ー 茶碗の並べ替えはお世話係のお仕事、わたしの並び替えじゃないと、山咲さんのルールがそう話しているに違いない。
いくつかのルールを課して、日常と生活を繰り返す間にモデルみたいにイケメンだった山咲さんの身体も変わってきたのだ。年かさで腹の肉が横にはみ出てきたのだ。それに、わたしたちがお追従や社交辞令でよく使う小道具も覚えた。作り笑いはその一番かも。
朝起きたときと夜眠る前の2回、鏡に向かって練習する。 ー 相手の怪訝を封じ込めるには右側の口角をもう少し上げないと。鍛錬は日々続いていく。