わたしたちのことも
此処の職員は、みんな若い時はスラブ人の若いバレリーナのように美しい。それが3人を抱えるまでに太っていく。それが分かっているから、どんな美しいお尻を見ても、わたしは誘惑に打ち勝つことができるのだ。
カフェ前の自販機で佐々木部長が今日2回目のコーヒーを買った音がした。はじめてそれを見せられたときは、「これっって、どこかほかで売ってるような商品ですか」と聞いてしまった。ビール並みの500mlの缶製で、コーヒーとミルクとシロップをボウルにしか見えないどでかいカップに三すくみから注ぎ込むイラストが添えられている。ロゴの文字なんて誰も読みはしないと、マジックでそのまま書いたアルファベットはひとつとして読める単語がない。
「さぁー、そんなこと一度も考えたことなかったな。オレっ、此処に来てからこれだけを毎日2本飲んでるだんだ。業者が、毎日2本だと綺麗に自販機の補充ができるからって。だから、あの左からの3番目はずーと変わってないの」と、冷えててもむせ返るような甘い液体をぐびぐびやりながら、余った方の手の太い指で自販機の3番目を示した。
何が気に入られたのか。佐々木部長は毎日2度のコーヒータイムを、カフェ前にテーブルではなくわたしの机の上の前と決めてしまったようだ。ここの管理棟までやって来る本当の目的は隣の所長室への「ごようきき」だから、いつもその前後で過ごすことになる。今みたいな真夏だと、その太った身体を収めた白いシャツをたくれるだけたくって、タオルハンカチで汗を拭いながら、エアコンの効いてない長い地下道をとおってやってくるのだ。
いつもコーヒータイムは所長室から出てきたあとの順番なのだが、地下道を通ったあとすぐには入りたくない「今日みたい」な時だってあるから、先にひとくさりが始まるのだ。
そんなときの佐々木部長はいつにも増して饒舌だ。カミさんが拾ってきたオス猫が円形脱毛症になったとか、昨年マイホームを建ててからはじめた家庭菜園のせっかく楽しみにしていたスイカをカラスにかじられたとか、そんな何度も聞かされたはなしを続けざまに3連発するときは、「お気の毒さま」をフェードアウトしながらパソコンに目を移し、聞いてるような流してるような相づちを挟まないポジショニングをとる。こんな絶妙な間合いだから、佐々木部長も息を止めず同じ話の3連発が続けられるのだ。ひとしきり喋り終えたら聞こえないふりをするが、「よしっ」っと気合をいれた小さな声が聞こえて、此処とドア続きの所長室に入いる。
所長は、佐々木部長と同じ体形だが、その太った身体をすべて隠すような黒づくめだ。靴とズボンは言うに及ばず、シャツも下半身と同じ濃を付けた黒だ。長袖シャツの手首まできっちりボタンをはめ、襟元も見せたくないように第一ボタンまで閉めている。そんなだから、所長室をエアコンでどんなにキンキンに冷やしてもスキンヘッドの上からの湯気が立つ。あまり所内を出歩かない人だが、こと夏に限っては出来るだけ外出用務をいれないようにと前任者からの引きつぎがあった。
きっと、むかし、遠山の金さん同様に、若気のいたりか何かで全身の手首足首の首という首の先まで全てに刺青を施して俱利伽羅紋々が少しでも堅気の衆の目に触れないよう、「ゴウモウだから」と夏に体毛を気にする女子みたく、気に病んでるのだ。むかし銭湯のサウナで見かけたウエットスーツを着込んだままかと見間違うほどにいれてたそのスジのひとの腕を組んだ裸身を重ねようとしたが、思うようには重ならない。
唯我独尊を唱えてるようには重ならない。
あのひとたちも宮仕えなのだ。
いい年したおじさん達が、ガチンコしたりされたりの修羅場を日常に抱えながら、それでもマイホームの庭いじりや愛猫の肉球のために我慢しながら過ごしているのだ。それを思うと、「お気の毒さま」は自分にも近づき、共感の熱を帯びていく。
それにしても・・・・と思う。
どうしてここの職員は、皆んなあんな姿に変わってしまうのだろうか。若いお世話係の職員は、山脇さん付きの柴田さんほど二度見するほどの美人までいかなくても、八頭身ばりのモデル体型だ。それは、女性職員ばかりでなく男性職員だって同じで、八頭身の身体の上にシュッとした顔を載せている。所長室で今ごろタイマン張ってるあの二人だって、むかしは彼ら同様モデルみたいだったのに。
妄想、想像、模様替え。
抜けるような白い肌と金髪碧眼のスラブ人たちがひしめくクラシックバレエの舞台裏が、表舞台となって現れてくる。
現役の彼ら彼女らが10人たばになってシーソーに乗っても負けてしまうコーチたちの身体がそこを仕切っている。左に乗った瘦せたモデルたちは一丸となって狭いシーソーの後ろに陣取るためみんなすっ裸になっている。美しい身体は剝いでしまってこうしてダンゴに丸まっても素直なのに、右に乗ったコーチたちの着ぶくれした姿は剝がれない、剝がせない。多分、その着ぶくれがシーソーを余計に重くしている。それは自分でも分かっているのに、本当は身に付けたくなかったのに、身のまといたくなかったのにと腸の声が聞こえてくる。
いったいその布袋腹の着ぶくれの中には何が入っているの。ゆさゆさ揺すると、出てくる、出てくる。
密造したリンゴ酒
成長し臭みが入る前に屠殺したヤギの仔のうしろ肉
三十年前にありもしないリゾート開発業者と交わした契約書
縁の切れない人たちへの付け届け・・・・・等々。
柴田さんたち若い独身者は、旧市街と呼んでいる寮で暮らしている。
千年前、この島が文明の中心だったころから人々が住んできた花こう岩をくりぬいた穴の好きな穴を選んで住んでいる。
乾いた少し温暖な海風のおかげで空調なんていらないし、特別に音楽なんて掛けなくたって潮騒の流れに身を任せていれば幸せなのだ。夜の灯りと少しの食べ物、それと気に入ったパートナーがいれば、いつも天国に半音近づいた気分でいられる。
そんな誘惑に駆られて、美しい若者たちはこの島にやってくる。
この島にむかしから住んでいる人たちのお世話係の方便を頼りに暮していく。
しかし、パラダイスは長くは続かない。
スラブ系の男女の恋の美しさが長く続かないように。
内緒で食すリンゴ酒とヤギ肉はほんのわずかのはずなのに、男を太らせる。
幾人の子どもを産んでも産んだあとも次の子どもが腸の中で巣くっているように、女を太らせる。
たくさんの子どもと持て余す身体のせいで、快適な旧市街はどこの穴も手狭になり、一家はしぶしぶ新開地へと移り住む。その場所で、やってくる前と変わらぬ生活を繰り返す。どの隣とも家の造作は同じだから窓から見える景色は同じ色のガリバリウム鋼板の焼き鉄色。規格が同じマイホームの30年ローンと外の学校へ通う子供たちの教育資金の膨らみはますます腹に溜まり、常にどこかの壁に結わえ付けられた日常を意識するのだ。
あの白い船に乗ってこの島へやってきた若かった日とは真逆な日常を。
梅雨前のカラッとした今日みたいな空と合わせると、砂丘の上から段々に幾十のオレンジの屋根と白い壁の建物が連なっていくこの施設は、世界遺産のドブロブニクに似せたリゾート地のコテージだ。ここへと繋がる生活はやはり、やはり旧市街がよく似合う。風の抜け道もあってリビングとキッチンのほかにちゃんとしたベッドルームまで付いた穴をあてがわれているわたしは、優雅な単身生活を楽しんでいる。旧市街は若い女の子に対し圧倒的に男は少ない。若くもない私もその中に入っている。その手の店はないから、妄想でないホンモノの交流はそれぞれが籠るよりほか手だてはない。わたしは5人の女の子から目を付けられている。その中には立つどまって振り返らずにはいられないほど美人の柴田さんも混じっている。これは妄想ではないホンモノだ。
だけど、甘さに負けて、籠ったら、いずれは新開地が待っている。幾人もの仔の手を引いた太った夫婦が待っている。どんなにモデルみたいに美しい身体でも彼女たちのお尻は大きいのだ。美しい花が何故美しく咲いたのかをしっているお尻だ。
そのお尻を眺めて、わたしは毎日誘惑に打ち勝っている。