佐奈多さんのこと
はじまりは、まだまだ可愛い女の子のままの、コロンとした初老のおじさんをスケッチしました。
今日はお風呂の日だったらしい。
タオルを姉さんかむりにした佐奈多さんのニコニコ顔にうっすら湯気が見える。それに気づいて、事務室の窓を開けた職員がいつものようにふた言ひと言の相づちをうつ。佐奈多さんは小柄だから私の席からだと鼻から下はいつも隠れて顔の上半分しか見えてこない。その度に、藤田まことの「てなもんや三度笠」に出ていた白木みのるが重なってくる。もち米を粉にしてこねる「ちんころ」の可愛い仔犬の顔と重なってくる。幼かった時分に祖母の手伝いでシンコをこねていたときの柔らかな質感が手に蘇ってくる。
だから、いつものようにたくさんの「いいひと」たちののろけをひととおり話してる佐奈多さんの声が聞こえると、手のひらに出来立てのちんころたち現れて、柔らかで可愛い顔したままエッチな仕草を奏ではじめる。
わたしが此処に異動してから2か月とすこしが経った。
すぐ向かいは砂浜の続く海だから、梅雨前のカラッとした今日みたいな空と合わせると、砂丘の上から段々に幾十のオレンジの屋根と白い壁の建物が連なっていく此処は、世界遺産のドブロブニクに似せたリゾート地のコテージみたい。やっぱりリゾートにはロマンスがよく似合う。
「赤ちゃんできちゃった」
バスタオルで抱っこ巻きしていた人形を窓口に差し出す。
避暑地のロマンスを通り過ぎて、ことは所帯の話にまで及んでいた。人形はクマのぬいぐるみ。佐奈多さんのもってる人形はこれしかないから幼いころからいろんな役回りにさらされてきた。
「お父さんはねー、山本くんなの」
相手をしていた小山さんが尋ねるより先にもう答えてしまった。もう早く言いたくて我慢できなかったらしい。山本くんは此処の事務室に机のある中で一番若い事務職員だ。高校出てからの最初が此処だと言ってたから二十歳前後だろう。細くて華奢な今時の男の子という感じだ。今日が出勤の日でなくて良かった。と、聞いてるみんなが本当にそう思った。
「あらっ、佐奈多さんのイイ人って、佐藤さんじゃなかったの。この四月に寮に来た一番若いお世話係のひと」
佐奈多さんの片思いがこちらにまで飛び火しないようにと、小山さんは必死に軌道修正を促したが佐藤さんは遠く追いやられてしまったようで、名前は一言も出ない。山本くん、山本くんのこども、お父さんは山本くんを繰り返す一方。
佐奈多さんの話がループ仕出したので、窓は開けたまま小山さんも席に戻る。パソコンを眺めて、先ほどまで相手をして人間が自分である空間を消していく。佐奈多さんはまだ喋り足りないようなので4度目のループを繰り返しながら窓口からは離れ、事務室のあるこの棟を離れていった。小山さんが窓口を締めると、此処にも他のオフィスと変わらない空気が戻ってくる。
ー それにしても佐奈多さんは多情だね。
みんな頭から佐奈多さんを追い出してしまったので、わたしだけひとりごとで伝えてあげる。寅さんみたいに恋するのはいつも片思いばかりなのに、相手をしょっちゅう変えて子どもをつくる多情なひと。心は乙女なのに、妄想の進め方は本人と同じオッサンだっていうのがちょっと悲しいなぁ・・・
涸梅雨の 多情なひとの 片おもい
最近の佐奈多さんは、こんな感じ
「エっ。また、排水が詰まったの」と云う。聞こえてきたのは設備担当の大黒さんの電話口だ。詰まった寮の名前から前のことが気になって、わたしもいっしょに付いていく。
現場が見えてきたら、ハヤタさんと水回り関係の担当業者の二人が先にそこを囲んでいる。
「こりゃ、前のが全部出あげなかったんだな。壊れた蓋のカッタいやつが中でわるさしてんだ」
転勤稼業のわれわれと違って、ハヤタさんは生粋のこの施設の生き字引だ。設備の子守の委託業者として50年ここに住んでいる。設立時に子ども時分にはいった本当の住人たちはどんどん亡くなっているから、現在85才のハヤタさんは年齢だけでなく一番の古株になっている。
2週間前、シンジ君のパジャマや下着が排水口から出てきた。
トレイが詰まって流れないと連絡が入り、今回同様に外の点検口から曲がる金棒みたいな道具を使って探っていったら、出てくる出てくる、白い巾の端が山のように出てくる。それが、うすいブルーの縦縞の巾に変わっていき、ボタンかがりの脇にシンジ君のフルネームが書かれていて、被害者が特定された。草刈りのヘマで壊わした別の点検口の破片も一緒にくっついていたから、きっと、蓋がなくなって小さな丸い水溜まりがみえるその中に、誰かがそれを投げ入れたのだ。
「きっと、佐奈多さんの嫌がらせね。あのひと、シンジ君嫌いだから」
新任の寮長なのに、由美さんは、名前を云っただけで、即座に答える。シンジ君は几帳面で、自分の下着やらパジャマやらはきちんと自分で洗濯し、乾かし、畳んでおくのだ。土日のお休みの日、ご両親が迎えに来て久しぶりにシンジ君うちに帰ったのだと云う。
本人がいない日に、佐奈多さんは部屋に忍び込んで、几帳面に畳まれたパンツやパジャマを蓋がなくなってできた小さな丸い水溜まりに投げ入れたのだ。
「やっぱり性質が違うから、前々からそりが合わなかったって聞いてたけど、・・・・ほらっ、佐奈多さん、この冬、生きるか死ぬかで入院したっていうじゃないの。テキパキ身の回りのことができて、両親がいて、帰る家のあるシンジ君が羨ましくてたまらないのよ。嫉妬よ、嫉妬。おんなの嫉妬」
由美さんはそういったけど、それは男の嫉妬だと思う。
自分に出来ないことをやるヤツ
居心地のいい家のあるヤツ
優しいお父さんとお母さんのいるヤツ みんな男の、ううん男の子の嫉妬だ。
再びの事件になのか、それとも昼下がりの雑談の匂いになのか、シンジ君が嗅ぎ付けやってくる。
「パジャマは紛失せす、きちんと畳んで棚の中にありますか」と、敬礼でもする口調でわたしは尋ねる。
「パジャマはあります。パンツはあります。キリンさんのてぃシャツはあります。パジャマは洗って、乾かして、畳むものです。キリンさんのてぃシャツは畳むものです。穴の中に入れるものではありません」
「そうです、パジャマもパンツもキリンさんのTシャツは洗濯して乾かして畳むものです。穴の中にいてるものではありません」
わたしも敬礼スタイルのラップ調で返す。
こわれたフタが おのれはフタであったと わすれず フタをする。
すっごくいいフレーズだと思ったが、私と違い本題に顔を向けている大黒さんハヤタさん二人の業者の背中をみたら、そんな軽口まで足を延ばしていたおのれに気付き、おとなの分別がフタをする。
佐奈多さんがベンチに座っていた。玄関扉の真ん前のベンチだから、わたしたちとシンジ君の話の臭いを嗅いで出てきたのだ。
すぐにそれとは気づかいないほど佐奈多さんは瘦せていた。
最近は、事務室への毎日の御用聞きもなくなって姿を見かけることはなくなったが、それにしてもタオルを姉さんかぶりにした風呂上がりの上気した面影はない。
ただ、こちらをじぃーと見つめている。
そこの誰にというでなく、景色を、佐奈多さんの好きだったお花摘みをするときの景色を見るようにじぃーとわたしたちは見つめられている。一度あっちの方までいったことのある、ざんぶと浮世の風呂から抜け出た、穏やかな顔で見つめてる。
だけど、抜けていない。
現の嫉妬は抜けていない。あちこち動き回るシンジ君、見かけたひと次々つかhまえて長話するシンジ君、パジャマを洗濯して乾かし畳んでいくシンジ君が憎いのだ。
「出てきたぞー、おおものだぁー」
もう一度でなおし、物干し竿みたいなマジックハンドを持ってきハヤタさんのお手柄だ。マジックハンドが掴んだフタの残骸は半月より少し欠け、元のかたちを保っていた。
「こんなのが、中で半端ぎれ集めてわるさしたら、流れっこないなぁ」
勝利品の大きなメダルでも掴んだように、ハヤタさんはしみじみ云う。皆んな円陣を組みようにメダルを囲む。
そんな中、わたしだけ中に入れずにいた。
こわれたフタがおのれはフタであったとわすれずフタをする。こわれたフタがおのれはフタであったとわすれずフタをする。こわれたフタがおのれはフタであったとわすれずフタをする。こわれたフタがおのれはフタであったとわすれずフタをする。
それが何度もきこえ、おとなの分別が働かない。
ベンチの佐奈多さんはいなくなっていた。シンジ君は、臭いが切れたから飽きたのか、ひとりお喋りをしながら遠ざかる。
やっと、風が海からに変わり、わたしはこちらにもどることができた。