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勇者のオフタイム

勇者のオフタイム

 次の日の朝を、翼は朝の陽ざしと共に迎えた。スピリィの二度目のリクエストに応えてフェミールに頼んでみたところ、部屋を変えて貰うことが出来たからだ。

「おはよう。今日はいい天気よ」

 スピリィに言われるままに窓の外をみると、そこからは数日ぶりに見る日差しが差し込んできていた。

「おおー……」

 今までの翼にとっては朝なんて憂鬱なものでしかなかったが、いざしばらく離れていると、不思議と恋しく感じる。近寄って窓の外を見てみると、見渡す限り森が広がっていた。その高さを見る限り、この部屋は二階か、それ以上の高さにあるようだ。

 しかし、それよりも目を引くのは一面に広がる森だ。視界一杯に緑が広がっているが、その緑は完全に一緒でもない。日の差す木、差さない木。風にそよぐ木、そよがない木。葉の色も微妙に違えば、突然どこからか小鳥が飛び出してきたりもする。見れば見るほど変化に富んでいる。

「……凄い。こんなに広い森があるなんて」

 翼にとっての森とは、町の所々にある雑木林がその全てだった。だからこのような山の一部としての森なんてものは見たことがなかったし、感動さえ覚えていた。

「凄いでしょ。数百年……いや、もっとあるわね。とにかく、長い長い時間をかけて出来た森よ。この村自体がこの森に囲まれてて、ここの人は皆なにかしらこの森に関わることをして生活してるのよ。だから、この森は人も含めたこの国の自然そのものを守ってるの。凄いのは当然だわ」

 スピリィは、心なしか胸を張って解説を加える。

「あの、あそこに行くことって出来ますか?」

 残念ながら、そんな彼女の解説を聞いていなかった翼だったけれど、その目は専ら自分の興味のために輝いていた。

 言葉にしてみるとこれほど悲しいことはないが、翼がこんな目をするのは滅多にないことだ。特にある程度成長してからは、彼の親でさえもこんな目は見ていないだろう。ただ、この特殊な状況が彼の童心を蘇らせていた。

 一つは、見慣れないこの世界に対する恐怖心が、言葉が通じることになったこととスピリィというアドバイザーのおかげで和らいだこと。もう一つは、全くの別世界に来たおかげで以前までの振る舞いをある程度吹っ切ることが出来て、尚且つ森という人に触れる心配のないものが興味の対象になったことだ。しばらく引きこもっていたというのもあって、今の翼には人目のない森を自由に散策しながら面白そうなものを見て回りたいという欲求があった。

「うーん、どうかしらね。それは、あのフェミールって娘に訊いてみればいいんじゃない?もし森に行くっていうのなら、私が案内してあげられるわよ。多分もうすぐ来るし、そのときにでも頼んでみなさいよ」

 果たして、その言葉を言い終わらないうちに扉がノックされた。

「おはようございまーす。ツバサさん、起きてますか?」

 昨日のようにお盆と椅子を持って、フェミールが入って来る。窓に張り付いている翼をみると、無邪気に遊ぶ子供を見るように微笑んだ。

「おはようございます。なにか面白いものがありましたか?」

「あ、いや……凄く広い森だなー、って……」

「そうですか?私たちにとってはもう見慣れたものなんですけど……見たことないんですか?」

 生まれたときからこの森に囲まれ、今翼が夢見ていることなど数えきれないほど経験してきた彼女にとっては、どうしてそこまで興味津々になるのかは分からない。一緒になって外を見るようなことはせず、てきぱきと朝食の準備をする。

「フェミールさん、一つお願いがあるんですけど、いいですか?」

 フェミールが準備を整えた朝食を受け取りながら、翼は思い切って切り出してみた。

「はい?なんですか?」

「あの森に行ってみたいんです」

「行く?あそこに?」

 フェミールは、全くの予想外だと言わんばかりに目を瞬かせる。改まってなにを言い出すかと思っていたら、その内容が実に他愛ないものだったからだ。

「別に、そのくらいならいいですけど……あ、でも、もし中の方に入るなら、迷うといけないので私が案内しますよ」

「あ、いえ……」

 フェミールの提案はもっともだ。翼は森の広さに感心しているが、それはつまり迷いやすいということでもある。記憶をなくしているらしい救世主候補がそんな所に一人で行くことなど許すわけがない。

 しかし、翼にとってはそれはあまりありがたくない申し出だった。彼女とはそれなりに話せているが、それでもやはり向き合うと緊張してしまう。どうせなら一人がよかった。勿論、完全に一人というのも怖いのでスピリィの同伴は必須だったが。

「えっと、そんなに遠くに行くつもりはないので、一人で大丈夫です。ちょっと散歩したいだけなので」

「そうですか?なら、常にこの建物が見える範囲に居て下さい。それなら大丈夫ですよ」

 無事、フェミールの許可を取ることが出来た。そうなると、あの森に行けるという興奮がすっかり翼を支配してしまった。今日の献立は昨日とはまた違うものだったのだが、それを確認する間もなく彼は平らげ、外に向かう準備に取り掛かった。

「それじゃ、外までは私が案内しますね」

 そう言って歩き出したフェミールの後を追って、翼は外に向かう。

 灰色の石を積み上げた壁に、彼の部屋にあるものと全く同じ扉が幾つも並んだ空間を進み、階段を下りる。最初に翼が居た部屋には窓がなかったが、この建物自体も暗かった。朝方だというのに、フェミールの持つ燭台がないと薄暗い。

 階段を下りた先は、二階よりは明るい。正面に設けられた大きなステンドグラスが様々な色を反射しているからだ。翼の知識でいう待合室、受付のような空間を抜け、観音開きの大きな扉を開くと、そこが外だ。

「…………っ」

 外界に一歩足を踏み出した瞬間、今までどこか寝ぼけていた翼の一部が直感的に覚醒した。

 ──ああ、ここは異世界だ。

 朝だからだろうか、人気は殆どない。しかし、静かに佇む建物やそれが纏う雰囲気はかえって強く翼の感覚に訴えてくる。

 キャンプ場でしか見たことのないような、丸太を組み合わせて作った家のような建物群。その向こう側には、もっと簡素な作りの小屋が一列に並んでいる。その様子は、夏祭りに並ぶ屋台に似ている。道は舗装などされておらず、剥き出しの土だ。今翼が立っている道は他のものよりも明らかに幅が広く、長く長くどこかに続いているようだったが、その先は視界全体をぼんやりと覆う霧の所為でよく見えない。

 そんな、どこか浮世離れした幻想的な風景と、垂れさがる霧の冷たさが翼の頬を撫で、目を醒まさせる。

 ここは、もう今まで居た所とは違うのだ。

「それじゃ、ここを真っ直ぐ進んで下さい。直ぐに森に着きますから」

「あ、はい。ありがとうございます」

 フェミールが指さしたのは、病院の壁伝いに進んで、裏手に回る道だった。部屋の間取りからして、裏側に回れば翼が見ていた森に着けるということなのだろう。

「あ、でも、くれぐれも気を付けて下さいね。今は霧が出てるので、直ぐに建物は見えなくなっちゃいますから。この壁が木の幹に隠れだしたら、直ぐに戻って下さい!」

 そう釘を刺されつつも、翼は逸る足取りで森に向かった。


 言っていた通り、森には直ぐに着いた。窓から見ていたときは見下ろす格好だった木々が、今度は葉を揺らして翼を見下ろしている。

「凄い……大きい……」

 翼はそのうちの一本に手を当てて呟く。

 窓から見ていたときは一面の木の葉を見ていただけだったが、実際にそれを支える一本の木を見てみると、その木もまた翼の知識を遥かに超えるものだ。学校の校庭に植えられていたどの木よりも大きい。

「当たり前よ。この辺りの木は、どれも樹齢数百年は下らないわ。この国で一番歴史が長いのはこの森なんだから」

 スピリィもまた同じように幹を撫でながら、そう解説を加える。

「どうする?入ってみる?」

「え、でも……フェミールさんが、あんまり入らないようにって……」

 壁が見えなくなったら戻るようにと彼女は言っていたが、この木の大きさを見るに、数歩入り込めば殆ど隠れてしまうだろう。

 しかし、スピリィはそんなことか、と肩を竦める。

「それは、素人が一人で入るときのことでしょう。私が居ればそんなことは気にする必要はないわ。それに、この霧も直ぐに晴れるし。だから、貴方が入りたいのなら案内するわよ。こんな機会、そうそうないだろうしね」

「そうなんですか?じゃあ……」

 正直、翼の中にもせっかくここまで来て見るだけというのはつまらないという気持ちがあった。数秒の葛藤の後、スピリィの自信と好奇心に釣られた翼は森に足を踏み入れた。

 翼のイメージする森では、地面は所々に木の根が突き出している他は、踏み固められた歩きやすいものだった。しかし、この森はそんな幻想も打ち砕く。平らな部分を見つける方が難しいほど縦横無尽に突き出した木の根と、水分をたっぷりと含んだ苔の絨毯の所為で、一歩進むのにもいつもの数倍以上の注意と筋力が必要だった。

 しかし、そんな大自然に悪戦苦闘する翼とは対照的にスピリィはすたすたと歩いて行く。所々でジャンプをして見せるほどの余裕だった。

「ちょっ……待って、早……うわっ!」

 先を歩くスピリィの背中に気を取られていた所為で、翼はバランスを崩してしまう。

「よっと」

 しかし、傾く翼の身体が完全に倒れ伏す前に、スピリィの腕がそのバランスを支えた。

「大丈夫?」

「あっ……すみません……って、あれ?」

 助けられたと分かって一瞬明るくなった翼の表情が、今度は怪訝なものになる。

「なによ。どうかした?」

「ああ、いや……なんで触れられるんだろう、って……」

 翼は、驚きの余り彼女を蹴飛ばしてしまったときのことを思い出していた。あのときは、確かに当たったはずなのに、その感触は全くなかった。

「あら、いつもは疲れるからしてないだけで、実体を持つこと自体は出来るのよ?今は調子がいいし、なにより貴方を支えられないと困るから、こういう風になってるの」

「あ、そうなんですか……ありがとうございます」

「それにしても、貴方って本当に歩き慣れてないのね。そうだ、こうすればいいわ」

 スピリィは翼をきちんと立たせると、唐突にその手を取ってそのまま歩き出した。

「え。ちょ、ちょっと、スピリィさん?」

 翼には、誰かと手を繋ぐという経験はない。それなのに、よりにもよって女性の形をしているものに手を掴まれて、彼の顔に一気に血が上る。

 一方、手を取ったスピリィの方はと言えば、そんなことは一向に気にしていない。おそらく、犬のリードくらいにしか思っていないのだろう。翼の気の抜けた抗議も無視して、どんどん歩を進めていく。

 気が付けば、彼女の言っていた通りに霧は晴れていた。しかし、後ろを振り返ってももう病院の壁は見えない。それどころか、来た道も分からなくなっている。そんな状況になって、翼の中に無事に戻れるのかという疑問が湧いてくる。また、自分の手を引くスピリィの様子がおかしいことも気になり始めた。

 先ほどから、スピリィは翼のことなど覚えていないかのようにずんずん進んでいく。目的があるような足取りであるが、時々立ち止まっては辺りを見回し、そしてまた進んでいく。

「あ、あの、スピリィさん!どこに行こうとしてるんですか⁉」

 恐怖と不安に耐えかねた翼がいつになく語気を強めて尋ねても、彼女は止まらない。このままついていくのは不安しかないが、しかしここで掴まれた手を放してしまったら、それこそ帰れなくなってしまう。なすがままについていくしかなかった。

 そのまま、いくら歩いただろうか。ようやくスピリィが足を止めた。

「はあ……はあ……一体、なんなんですか……」

 スピリィはそれにも答えない。ただ、じっとある一点を見つめている。自分をこんなに振り回しているのがなんなのか気になった翼もその視線を追ってみた。

そこにあったのは、一本の木であった。

ただ、周囲にある木とは明らかに違う。まず大きい。他の木も大きかったが、それらよりも更に数倍の大きさだ。幹の太さだけでも数十メートルはある。しかも、ただ大きいだけではない。何故かは分からないが、木自体が僅かに発光しているのだ。白に僅かな緑を滲ませたような、仄かな光だ。最初は蛍かなにかがいるのか、それとも光が反射しているのかとも思ったが、どうもそうではない。

「……なんですか?これ」

 もはや神々しいとも言える異質な大樹に、思わず呟きが漏れる。

「ん?これはね……私にとって、大事なもの。懐かしいもの。しばらく来てなかったけど、ずっと変わらない」

 ようやくスピリィが反応する。しかしその声はまだどこか夢見心地で、ぼんやりとしている。

「え……?」

 スピリィの答えの意味は、翼には分からなかった。

 それでも、光に照らされた彼女の顔はとても優しい、穏やかな表情だった。

 ……相変わらず、とても綺麗だ。


 その後、我に返ったスピリィの案内で森を出たときには、日が高く昇っていた。

「あ!ツバサさん!」

 森の入り口の側にはフェミールが居て、翼を見つけると駆け寄って来る。その様子は、明らかに怒っていた。

「もう、今までどこに行ってたんですか!」

 腰に手を当て、ぐいぐいと迫って来る。その気迫に気圧され、翼は木に背をつけるまで追い詰められてしまう。

「私、ちゃんと言いましたよね?あまり深くに入っていかないようにって。それなのにどこを見てもいないし、おまけに中々戻ってこないし!どれだけ心配したと思ってるんですか⁉」

「あ、いや、それは……本当にごめん、なさい……」

 翼だってそんなつもりはなかった。しかし、当の本人は明後日の方を向いているし、そもそもフェミールにはその姿は見えていないのだから、言い訳にもならない。

「……はあ」

 それでも翼を睨みつけていたフェミールだったが、やがて一つため息を吐いて引き下がった。

「まあ、なにはともあれ戻って来られたんですし、今回はこのくらいにしておいてあげます。でも、次はないですからね。もしこれでツバサさんになにかあったら、怒られるのは私なんですから」

「はい……気をつけます……」

 まさか同年代の少女にここまで怒られるとは思っていなかった翼は、すっかりしおれてしまった。そんな様子を見たフェミールは、仕方ないですねと笑みを零す。

「じゃあ、戻りましょうか。もうお昼なんですよ。そろそろお腹空きませんか?」

 部屋に戻ると、既に昼食が用意されていた。

「にしても、一体どこに行っていたんですか?」

 スープに入っている黄色い麺のようなものを啜っている翼を、その向かい側に置いた椅子に座って眺めていたフェミールが不意に尋ねる。

「へ?あー……、えっと……」

 あのことはどこまでなら言ってもいいのだろう。翼をあそこに引き込んだのはスピリィだが、彼女にはその存在すら知られていないのだから言っても通じないに違いない。

『まあ、言っても意味はないわね。その娘には理解出来ないわよ』

 果たして、スピリィはそんなことを言う。

 だが、一つだけ訊いてみたいこともあった。

「あの森の中って、なにがあるんですか?」

「はい?」

「いや、さっきあの中で不思議な木があって……」

「不思議な木?」

 フェミールは首を傾げている。その表情を見る限り、全く心当たりがなさそうだ。

「なんか、白っぽい光が出てる、凄く大きな木があったんです」

「光る大きな木……?」

 フェミールはしばらく考え込んでいたが、結局首を横に振った。

「私もこの森には何回も入ってますけど、そんなのは見たことがないですね。話も聞いたことないです」

「え……?」

 じゃあ、自分が見たあれは一体何だったんだろう。スピリィに目を向けても、

『だから言ったじゃない。理解出来ないって』

 そう言うだけだった。

 どうしたというのだろう。森に入ったあとの彼女の様子といい、なにか引っかかる。フェミールは見たことがないと言っているけれど、ないわけがないのだ。だって、あの木を見ていたときの彼女の表情や意味深長な言葉を、翼は確かに覚えているのだから。

 これも、「スピリチュアル的ななにか」で片づけるしかないのかもしれない。

 翼がそう結論付けたとき。

 ──コンコン。

 突然音がした。なにか、硬い物を叩いているような。反射的に音がした方を見る──窓がある方を。

 窓に、男の子が張り付いていた。

「うわあっ!」

 まさかそんなところに人が居るとは思っていなかったから、情けない声が出てしまった。

「え?ちょっ、バーディ⁉」

 同じく窓を、見たフェミールも驚いた様子で窓に駆け寄り、窓を開ける。バーディと呼ばれた男の子はするりと部屋に入って来ると、完全に腰が抜けてしまっている翼をじろじろ見る。

「へえー、こいつがクリスト?」

「……へ?」

「こら、こいつとか言わない!」

 フェミールは、バーディの耳を掴んで、強引に引きはがそうとする。バーディはもちろん抵抗した。まずはフェミールの手を振りほどこうとして、それが無理と分かると今度は翼の耳を掴んだ。

「え?あれ?……痛ったたた!」

 バーディが翼の耳を掴んでいる所為で、フェミールがバーディを引っ張れば引っ張るほど翼の耳も引っ張られる。

「あ!止めなさい!」

 そのことに気づいたフェミールは手を放さないわけにはいかない。その瞬間を見逃さず、バーディは翼の後ろに回り込んだ。フェミールとバーディが、翼を間に挟んで対峙する格好だ。

「へへっ、もしまた姉ちゃんがなにかしてきたら、こいつが困るぞ!」

「こいつっ……」

 フェミールはしばらくバーディを睨みつけていたが、バーディが白目を剥いて舌を出すに及んでとうとう諦めた。ため息を吐いて椅子に座り直す。

「ツバサさん、すみません……。あとで回収するので、ちょっとだけお付き合い下さい……」

「あ、はい……。ところで、この子は……?」

「そいつは、私の弟で、バーディって言います。とにかく悪戯が好きで、絶対にツバサさんにちょっかいを掛けるだろうなって思ってたから最初は窓のない部屋に居てもらったんですけど、まさか二階まで来るなんて……」

「姉ちゃんたちが悪いんだぞ!皆が俺を子ども扱いして、除け者にするから!」

 翼の耳元でそう吠える男の子は、大体十歳くらいだろうか。燃えるような橙色の髪、翼の肩くらいの身長、目尻が吊り上がった気の強そうな目。その振る舞いや表情の全てに子供故の無邪気さが滲んでいる。

「実際子供でしょうが。大人は、壁をよじ登って二階の部屋に侵入したりしません」

 フェミールにぴしゃりと言い返されて、バーディは分が悪いと踏んだようだ。矛先を翼に向ける。

「んで、オマエがクリストなの?」

「えっ、と……ごめん、クリストってなに?」

 そんな言葉、翼の辞書には載っていない。しかし、フェミールがすぐに解説してくれた。

「クリストっていうのは、救世主を表す言葉なんだそうです。もともとこの国の言葉ではないんですけど、この前お話しした伝説に、この言葉が載ってるんです」

 こっちの言葉ではない。そう聞いた瞬間、翼の中に微かに引っかかるものがあった。しかし、それを手繰り寄せる前に話が進んでしまう。

「んで、どうなんだよ?そうなのか?皆話してるんだぞ、あの人がクリストだって」

「ちょっとバーディ」

 翼はなんと答えたものかスピリィに目配せをするも、特にアドバイスはくれなかった。どうにでもしろ、ということらしい。

「んー……実は、よく分からないというか、なにも覚えてなくて」

「覚えてない?」

「どうしてここにいるのかとか、ここに来る前になにをしてたのか、殆ど分からないんだ……」

「ふーん?それじゃ、これは?」

 バーディは翼の服のポケットに唐突に手を突っ込んで、中にあったものを取り出す。

「バーディ!すみませんツバサさん、この子、なにかと物を盗む癖があって……ほらバーディ、直ぐに返しなさい」

 フェミールはバーディの手の中にあるものを取り返そうと手を伸ばすも、翼が邪魔で上手くいかない。その間にもバーディは戦利品を改める。

「なにこれ、本?でも、なんて書いてあるか分かんない……」

 確かに、それは本だった。あの日、翼が学校の図書室で読んでいた文庫本だ。

「あ、うん、僕の本だよ」

「ふーん。でもこれ、なんて書いてあるんだよ?全く読めないんだけど」

「それはアンタが馬鹿だからでしょ」

「ちげーし!そもそも見たことない字なんだって!ほら、見てみろよ!」

「えー?……あの、見てもいいですか?」

「いいですよ」

 失礼します、と言ってフェミールが本を開く。その瞬間に彼女の表情が曇った。

「…………え?」

「な?やっぱり読めないだろ?」

 信じられない、と言わんばかりに忙しなく捲ったあと、諦めたように本を翼に返した。

「全く読めない……見たこともない文字です。ツバサさんは、これが読めるんですか?」

 フェミールの顔には疑いの色がありありと浮かんでいる。しかし、疑問は翼にもあった。

 今話せているように、言葉はスピリィのおかげで翻訳されている。しかし、文字は翻訳されないのだろうか。

『いや、してるわよ?ここの文字なら、貴方は見たことはなくても読めるはずよ。でも、私がしてるのはあくまで貴方側から見た翻訳だから、この子たちには貴方の文字は読めないわ。通じるのは貴方が話す言葉と聞く言葉、あとは貴方が読む言葉ね。あ、因みに、貴方が書いた言葉は通じないわ。流石にこればっかりは文字が分からないとね』

 成程、そういうことなのか。翼は一人納得するが、当然あとの二人はそうもいかない。

「あ、じゃあ、ちょっと待っててください!」

 翼がどう説明するか悩んでいると、なにかを思いついたらしいフェミールは走って部屋を出ていく。間もなく戻ってきた彼女の手には文庫本の数倍はあろうかという大きさの本があった。

「あの、これ読んでみて下さい」

 手渡された本を両手で開く。ミミズがのたくったような、草書のような一筆書きの文字が連なっている。もちろん翼には見覚えのない字だが、不思議とその内容は分かった。

「……読めます」

「本当ですかっ⁉え、じゃあ、この文を読んでみて下さい」

 言われた文章を読み上げると、それが正解だったらしい。二人が目を見開く。

「そういえツバサさん最初は上手く話せなかったですよね。それが急に話せるようになって……」

「そうなのか?」

「あ、うん。始めは全く分からなかったんだけど、一晩寝たら急に分かるようになって」

「本当に不思議ですよねえ……。やっぱり、クリストなんじゃないかって私は思うんですけど」

「あはは……」

 そう愛想笑いをしながら、翼はなんとなくうすら寒いものを感じていた。自分の知らないうちに着々と外堀を埋められているような。

「……ところで、」

 愛想笑いの次の句が思いつかずにバーディが本をパラパラと捲っているのをぼんやりと見ていると、フェミールが遠慮がちにその肩を叩いた。

「その本、どんなことが書いてあるんですか?」

 この文庫本は、とある有名なミステリー小説シリーズの一冊だ。実は翼自身もまだ読了していないので、その内容を具体的に説明することは出来なかった。

「あー……なんというか、頭の体操というか、謎を解いていくって内容の本なんですけど……」

「へえー、そうなんですか……」

 フェミールは、そう言ったきりなにも言わずソワソワしている。今までそんなことはなく、翼自身の経験も短い所為で、どうしたらいいのか分からなくなっていると、まだ本を見ていたバーディが助け船を出してくれた。

「姉ちゃん、この本読みたいんでしょ」

「‼」

「あ、そうだったんですか?」

「え、いえ、あの……」

 しかし、フェミールは、顔を真っ赤にして手を振りまわすだけでそうとは認めない。そこにバーディが止めを刺した。

「だって、昔から本には目がないじゃん。しかも、そういう系の結構読んでるし。ホントは興味津々の癖に」

「バーディ!」

 これで何度目か、またフェミールがバーディを叱りつける。しかし、そのむきになっているようにしか見えない様子がなによりの肯定だ。そのくらいは翼にも察することが出来た。

「そういうことなら、読みますか?」

「えっ」

 そう言ったフェミールの表情には、確かに喜びの色があった。だが、直ぐに遠慮がそれを上書きする。

「でも、ツバサさんのものですし……」

「いえ、僕はもう、これは読んでるので。フェミールさんが読んでくれるなら、それが一番いいです」

 そうは言ったが、実際は未読である。でも、もともと翼はそこまで読書が好きではなかった。それが学校で時間を潰すのに一番適していたから、図書館に通い詰めていたに過ぎない。それに、ここまで輝くフェミールの顔を見てしまうと、彼女が一番この本を読むべきだろうと思わずにはいられなかった。

「でも……」

 彼女はそれでも遠慮の素振りを見せたが、翼が本を差し出すとおずおずと受け取った。

「……ありがとうございます」

「あ、でも、このままじゃ読めないか」

 どうしたものか。

『なら、貴方がその本の内容を音読して、それをその娘に書き取って貰えば?』

 成程、その手があったか。

「なら、今から僕がこの本を音読するので、それを文字にして貰うのはどうですか?」

 翼がそのままの受け売りを自分のもののように提案すると、フェミールは目を輝かせて手を打つと、

「ちょっと待っててください!今筆を持ってきます!」

 と言って駆け出して行った。

 結局、その日の午後は文庫本の翻訳の時間になった。

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