終わりと始まり
終わりと始まり
「落ーちーろー、落ーちーろー、落ーちーろー!」
快晴の夏空に、そんなコールが響く。音の出所は、とある中学校の屋上。叫んでいるのは、男女併せて十二人の中学生。縁に追い詰められた一人の少年に向かって、楽しくてしょうがないと言わんばかりの笑顔でコールを続ける。けれど、そのコールを受ける少年の表情は硬い。
落下防止の為のフェンスに背を預け、折れそうになる足を必死に抑えつける少年は、鶏翼翼という。中学二年生の男の子だ。彼は、とにかく気が弱い。憶病と言ってもいいほどだ。そのせいで、彼はクラスメートたちのうっぷん晴らしの標的に選ばれてしまった。彼はここ数か月の間、クラスメートたちから無理難題を押し付けられている。今日もその一環だけれど、今日のは一際酷い。日に日にエスカレートしていったクラスメートの要求は、今日とうとう飛び降りの強要にまで至った。
こうなる前に、翼はなにか行動を起こさなければならなかった。もっと強く拒否するとか、周りの人に相談するとか、解決に向けた積極的な行動を。しかし、翼はそれをしなかった。出来なかったわけではない、しなかったのだ。彼のクラスの担任は、悪人ではない。相談すれば、少なくとも無視はされなかったはずだ。彼のご両親だって、きっと心配してくれただろう。しかし、そのことが逆に少年を踏みとどまらせてしまっていた。
彼は、以前通っていた小学校でも似たような目に遭ったことがある。その内容は今と比べれば格段にやさしいものだったけれど、彼は直ぐに先生に相談した。その結果、彼の周りは上を下への大騒ぎになった。授業は中止され、謎のアンケートが配られ、普段気さくな先生は一切冗談を言わなくなり、生徒が一人また一人とどこかに呼び出され、家に校長先生と担任の先生がやってきて土下座をし、クラスメートとスーツ姿のその両親が入れ替わり立ち替わり菓子折りを持ってきて、挙句の果てには『県教育委員会』と書かれた手紙まで届いた。そんな環境の激変に、在りし日の少年はすっかり怯えてしまい、それが傍目には事件のショックを受けているのだと映り、最終的には転校することになった。
彼の記憶に、今でも鮮明に焼き付いているものがある。彼の家に両親と共に訪れたクラスメートの一人が、帰り際に彼を振り返ったときの目だ。その目には、強い怒りが込められているように彼には見えた。その少年はずっと「あれはふざけていただけだった」と言っていて、そのとき彼は、自分はなにか間違えたのではないかと悟った。
自分は、ただのお遊びを大袈裟に騒ぎ立ててしまったのではないかと。空気の読めないことをして、実は自分が一番皆を困らせているのではないかと。
勿論、そんなわけはない。その当時の彼の辞書には、「逆恨み」という言葉はなかった。それでも、今でも彼はあの事件での一番の加害者は自分なのではないかと思っている。
要するに、彼は憶病者なのだ。憶病すぎて、周りの顔色を必要以上に気にする。勇気とまでは言わずとも、せめてもう少し中立な、臆病風に吹かれない判断力があればいいのに、それすらもない。直ぐに怖気づき、一度怯むと二度と立て直せない。周りの影響は受けるが、そこに自分の判断、自分への信頼は一切ない。弱い人間だ。
そして、そんな人間の末路というのは、古今東西、大体決まっている。
「落ーちーろー、落ーちーろー、落ーちーろー、落ーちーろー、落ーちーろー、落ーちーろー、落ーちーろー、落ーちーろー、落ーちーろー、落ーちーろー、落ーちーろー、落ーちーろー‼」
どんどん勢いを増すコール。そのコールは、着実に彼の判断力を奪っていく。もう既に、彼の頭の中に建設的な打開策を考える余地は残っていない。ただ、この場をどう納めればいいか、どうすれば見逃してもらえるかだけを考えている。
結論が出たようだ。すっかり気圧されて項垂れていた彼は、ゆっくりと顔を上げる。目を合わせることがないようにクラスメートたちの方に視線をやって、それから背を向ける。そして、フェンスの網目に手を掛けた。
途端、彼の背後から歓声が沸き起こる。しかし、今の彼にとっては、それすらも自分を追い立てる恐ろしい存在にしかならない。逃げるように、今度は足も掛ける。
再び、歓声。ただ、その大きさはさっきほどではない。十二人の中には、微かに危機感を感じ始めている人もいた。もちろん、彼にそんなことに気づく余裕はないが。
彼はお世辞にも運動神経がいいとは言えないが、追い詰められたが故の火事場の馬鹿力なのか、するするとフェンスを登っていく。彼の足がフェンスの頂上を跨ぐと、囃し立てる人もいなくなっていた。
ここで振り返れば、彼は気づくことが出来ただろう。彼を追い詰めているモノがただのこけおどしであることや、ここにいる十二人は大した連中ではないことに。それなのに、彼は振り返ることもなく重心を外側に傾けた。
「────」
誰かが息を呑む。
鶏翼翼が飛び降りた。
まさか、本当に飛び降りるとは。誰も予想していなかっただろう。
しかし、こちらとしては、そうであって貰わないと困るのだ。
こういうことをしてしまうような人を待っていたのだから。
どうせ捨てるのなら、その命、私たちに少し貸して貰おう。