1話
豪華な装飾が施された広い部屋、上質そうな絨毯の上に、倒れ伏す2人の男女がいた。男は仰向けに倒れており、腹部に大きな傷が見える。
男は苦悶の表情を浮かべながら傷に手を当てて抑えているが、指の間からは絶え間なく血が流れ続けている。
女はうつ伏せに倒れ、その表情は窺い知る事が出来ないが、その身体の周りの絨毯には血が滲んでいた。くぐもったうめき声が彼女がまだ生きていることを知らせている。
「お父様!お母様!!」
床に倒れ瀕死の重傷を負っている彼らを見て、1人の幼い少女が泣き叫ぶ。少女は頭頂部に獣のような耳を持った、獣人と呼ばれる種族の者だった。
薄桃色の髪を振り乱し、倒れ伏す両親に駆け寄ろうとするが、誰かに腕を掴まれて引き戻されていた。
「姫様!!いけません!!」
彼女の手を掴んで離さないのは、彼女と同じ獣人の女。姫である彼女の身の回りの世話をしている侍女であった。侍女は走り出そうとする彼女を必死で止めている。
しかし、激しくもがく彼女を押さえ続けることは叶わず、彼女は拘束を抜け出して両親の元へと駆け寄ってゆく。
彼女は仰向けで浅い呼吸を繰り返している父親に駆け寄り、膝立ちになりながらその手を握る。
「どうして……どうして……お父様!」
獣人の少女はその金色の瞳から大粒の涙を流しながら、自身の父親である男に向かって必死に呼び掛ける。呼び掛けられた父親の目が、苦しげな表情を残したまま薄く開かれる。
「クラリス……逃げるんだ……早く……」
父親は、今にも消えてしまいそうな声で、クラリスと呼ばれた少女に呼び掛ける。
「いや!嫌です!!お父様達を置いて、私だけ逃げるなんて!そんなの絶対嫌です!!」
クラリスは父親の手を両手でより強く握りしめ、悲痛な叫び声を上げる。
「早く……勇者に、殺されてしまう前に……!」
「姫様!さあ早く!!」
父親の手を放そうとしないクラリスを、侍女が胸の前に抱え上げ、部屋の出口に急いで走る。
「勇者……勇者……!」
『勇者』、クラリスの両親を瀕死の重傷に追い込んだ張本人。その勇者と呼ばれた男がまだ、部屋の中に残っていた。
その黒髪の男は、部屋の中で起きている事など上の空であるかのように、窓に手をつき、外の様子を眺めていた。
侍女に抱えられ、部屋の外へと逃げ出しながら、クラリスは強い恨みが込められた目で勇者を睨みつける。そして侍女の背中越しに手を伸ばし、勇者に向かって大きな声で問いかけた。
「勇者!あなたは……どうして、こんな事を!!」
その問いの答えを聞く事も無く、クラリスと侍女はその部屋から逃げ出していった。部屋に残ったのは、重傷を負ったクラリスの両親と勇者の3人だけになった。
勇者は振り返る事すらせずに、夕焼けの下に広がる街を窓から眺めている。彼の夕焼け空を写したかのような瞳には、眼下に広がる街の様子が映し出される。
彼の見つめる先では、数多もの争いが繰り広げられていた。
立ち上る火の手
崩れ去る建物
逃げ惑う数多くの獣人達
それらが描き出すのはまさに断末魔の悲鳴が飛び交う地獄絵図であった。
「どうして、どうして、か」
彼はその地獄絵図から目を離す事無く、小さな声で呟き始める。
「本当に……俺は……」
消え入りそうな声、彼の手に力が入る。彼の手が置かれている窓が小刻みに震える。
「どうして……こんな事を……!」
勇者の表情は今にも泣きだしそうなほど弱々しいものになり、その夕焼けを写したような瞳を隠すように瞼を閉じたのだった。
その日、『ドレイファス帝国』は、獣人の国である『ハイランド王国』の、王都マンドリニアへと攻め入った。ドレイファス帝国の皇帝は、戦争での勝利の為なら手段を択ばない冷徹な男として有名であった。
今回の戦争においても皇帝は、異世界より5人の『勇者』を召喚し、戦場へと投入していた。
広大な土地を誇り、その獣人元来の身体能力を生かした戦闘を行う兵士達により、ドレイファス帝国の侵攻を難なく跳ね除けていたハイランド王国であったが、異世界より召喚された勇者の持つ圧倒的な力の前には敗北を重ねるほか無かった。
国土の外側より侵略が進み、瞬く間に国土の半分以上を奪われた。勇者の力は、それほどまでに理不尽で強大なものだった。
王都マンドリニアに何万もの兵と共に攻め込み、そしてクラリスの両親であるハイランド国王とその妻を瀕死の重傷まで追い込んだ男も、その召喚された勇者の1人であった。
ハイランド国王が勇者の刃に倒れ、王都に住む獣人たちは兵士達に蹂躙された。黄昏の空が広がる間の、一瞬の出来事だった。
『スレイジ大陸』一の繁栄を極めたハイランド王国はこの日、ドレイファス帝国の手によって滅亡へと叩き落されたのだった。
だが、ドレイファス帝国側も、完全な勝利とは言い切れず、不安が残る結果となった。
まず一つに、ハイランド国王の娘、次期王女となるクラリス・デ・ハイランドの行方が掴めていなかった。後に兵士たちが街中を捜索しても、死体すら見つける事は出来なかった。
そしてもう一つ。ドレイファスの兵士達は、ハイランド国王とその妻の身柄を手土産に、帝国へと凱旋した。帝国の住人は、勇者を英雄だと褒め称えた。
だが、その凱旋の場に、英雄となった勇者が現れる事は無かった。圧倒的な力を振るった勇者は、戦いが終息した後、忽然とその姿を消し去ったのだった。
そして、ハイランド王国の滅亡と勇者の失踪から、10年の月日が流れた。
スレイジ大陸の南部に広がる広大な森林地帯、強力な魔物が闊歩し、手練れの戦士でさえも近付く事が憚られるその森の最深部。
そこには、生い茂っていた木々が少なくなり、緩やかな清流が流れている場所があった。そしてその川のほとりには、一軒の小さな小屋が建っていた。
時刻は早朝、太陽が昇り始めて間もない頃、小鳥のさえずりとせせらぎの音を聞き、小屋の中で目覚める者がいた。
「う……ん……」
黒い髪に黒い瞳の男だった。彼は雑に敷かれた布団から起き上がり、固まった身体をほぐすために伸びをする。そして彼は立ち上がり、椅子に座って机に向かう。
彼は朝食にと用意していた干し肉をかじる。
「あの日から、今日で10年か……」
小屋の壁に刻まれた無数の傷、日付を忘れないために付けられたそれを見て彼は呟く。
朝食を食べ終えた彼は、乾いた喉を潤そうと考え、小屋の前に流れる川で水を汲むために出口へ歩いてゆく。
彼が出口の扉に手を掛けようとした瞬間、外から何かに扉をノックされる。
「……!魔物、か?」
このような奥地に人が来る事は考えにくい。彼は扉に耳をつけ、外の様子を探ろうとする。
「ごめんください!開けて頂いてもよろしいですか?」
再びノックされ、今度は女の声が聞こえた。何故こんな場所に人が、と彼は不審に思いながらも扉を開けた。
扉の前には、先程の声の主だと思われる1人の女が立っていた。彼はその女の容姿を見て、とても驚いたような表情を浮かばせた。
「君、は……」
整った顔立ちに薄桃色の髪に金色の瞳、そして彼の視線はある一点に釘付けになる。それは、女の頭頂部に生える、獣の耳だった。彼を訪ねて来たのは、獣人の女だった。
彼は知っていた。その髪の色を、その瞳の色を。10年前のあの日から、1日たりとも忘れる事は無かった。
「お久し振り、と言うべきでしょうか。私は、ハイランド王国の王女、クラリス・デ・ハイランドと申します」
獣人の女クラリスは、驚き未だに言葉が出ない彼をよそに言葉を続ける。
「あなたを、私達の国を滅ぼした『落陽の勇者』と知って、お願いがあります」
真剣な顔で、ハイランド王国王女クラリスは続ける。
「私の復讐に、あなたの力を貸して頂けませんか?」
「やめてくれ、その名前は『黒歴史』なんだ」
『落陽の勇者』、黒木史紀は、苦虫を噛み潰したような顔でそう言った。
この作品は、自分がメインで書いている作品の息抜きとして書いたものです→https://ncode.syosetu.com/n2135ge/
良ければこちらも読んでみてください