森の王
「この辺りだな」
サモトラが立ち止まる。
随分と奥まで来た。この辺りは魔の森の入り口付近とは違う植生のようで、鬱蒼と茂った木々のおかげでほとんど太陽の光も届いていない。その代わりに、ほのかに発光する綿毛の花を咲かせた苔がいたる所に生えているので、それなりに明るい。
辺りを見回していると、不意に頭上から声が降ってきた。
「何の用だ」
視線を上げると、艶々の見事な羽を持つ魔鳥が、太い枝に留まってこちらを見下ろしていた。
その羽は不穏なほどに深い闇色で、一体どれほどの魔力を持っているものか魔術に縁のないルーヴには分からなかった。だが、長命高位なサモトラの知り合いというのは、この魔鳥に間違いないだろう。
本当に意思疎通できるのだなと傍観者として興味深く観察していたところ、魔鳥はルーヴに視線を向けた途端に目を見開き、大きく羽を膨らませて丸くなった。
「お、お前は…………森の王!?」
「ん?」
知り合いなのか?という視線をサモトラが向けてくるが、ルーヴは森の王ではないし、魔鳥の見分けなどつかないので見覚えもない。
首を傾げて心当たりがないことを伝えると、サモトラが魔鳥に尋ねてくれた。
「森の王というのは、なんのことだ?」
「そこの狩人のことだ。出会えば狩られるしか道はなく、狩られたくなければ近付かぬこと。王者のように圧倒し、全てを狩る恐ろしき森の王。魔の森に棲むものたちは畏怖を込めてそう呼んでいる」
「え、知らなかった…………」
なるほど、だから魔獣たちが寄って来なくなったらしい。
「そもそも、私が魔術師の魔力を欲したのは、森の王が私の群れを根絶やしにせんばかりに狩るからだ!」
「んん、…………そういえば、ちょっと前に魔鳥の巣を見付けて狩りをしたわ」
「おかげで私は深手を負い、治療に専念するための強固な結界が必要だったのだ」
暗い瞳で語る魔鳥を見て、確かに、見事な魔鳥を一匹逃がして悔しい思いをしたのだったな、とルーヴは思い出した。
「なるほど、それで俺の魔力を使ったのか」
「そうだ。いつまた森の王がやって来るか分からないからな」
「うーん、じゃあ、あなたのことはもう狩らないから、サモトラに魔力を返してもらえるかな?」
それともこの魔鳥を今ここで狩ってサモトラに引き渡せば、お礼にあの素敵な魔術カバンを譲ってもらえるかな、とルーヴはこっそり考えた。
「そのような言葉、信じられるものか」
しかしその考えが伝わったものか、魔鳥はばさりと羽を振るい、不機嫌さを表現する。
それがいけなかった。
魔鳥が通常の状態であれば、周囲に漂う高位者の気配により、ほとんどの生き物は近寄って来なかっただろう。しかし今は、治療に専念するために気配も極力抑えていた。
そのため彼と同じ木の上に、森ではおなじみの生き物がいたとしてもおかしなことではなかったし、たまたま彼が羽を振るった余波を受けて、その生き物が枝から落ちてしまったことも、まったく不思議ではない。
ただ、その生き物が落ちたのが木の下にいたルーヴの頭の上で、それが、森の王とも呼ばれる絶対強者な狩人の唯一の天敵といえる生き物だったのは、とても不幸なことであった。
「へび………………」
吐息のような儚い呟きを吐き出し、ルーヴの意識は途切れた。
さわり、さわり。
誰かの手が、ルーヴの髪を優しく梳いている。
大事に大事にされているようで、とても気持ちがいい。
もっとしてほしくてその温もりにすり寄ると、柔らかく笑う気配があった。
「ルーヴ」
ふわりと穏やかに名前を呼ばれて目を開けると、優しい手の主が視界に入った。
「サモトラ…………」
こちらを見下ろす魔術師は、ゆったりと満足そうに微笑んでいる。
その髪は、先ほどまでの儚げな灰白ではなかった。光の当たった部分はやや灰色に見えるが、全体的にはどこまでも力強く他者を圧倒する黒だ。無事に魔力を取り戻せたらしい。
どこかぽわっとしているサモトラには淡い灰白も似合っていたとは思うが、やはり本来の色であるこちらの方がしっくりくるようで、その姿にルーヴは口角を上げた。
「その髪、好き」
そう言うと、サモトラは目を細め、手の甲でルーヴの頬をそっと撫でてくれた。
その仕草から伝わってくるふんわりとした温かさに嬉しくなって、ルーヴも微笑みを深める。
視界に映る景色と頭の下の感触から判断するに、どうやら木の幹に背を預けたサモトラが、足の上にルーヴの頭を乗せて寝かせてくれているらしい。草の上ではあるが、汚れてもかまわない狩りの服装であるし、なぜかサモトラがとてもご機嫌なので、急いで起き上がる必要もないだろう。
この心地よい時間を壊したくなくて再び目を閉じようとしたルーヴは、しかし続くサモトラの言葉で覚醒した。
「ルーヴは蛇が苦手なのか?」
「……………………無理。その名前も口に出さないでほしい」
思わず起き上がって真顔で答えると、その切実さが伝わったらしく、サモトラも神妙に頷いてもう二度と近付けないと言ってくれた。
「しかしそれなら、これくらいの仕置きでは足りなかったかもしれないな」
そう言いながらサモトラが魔術カバンから取り出したのは、艶やかな暗さが蠱惑的な闇色の羽だった。
「君を驚かせた詫びとして、むしり取っておいた」
魔鳥にとって、羽は最も潤沢に魔力を蓄えている部位であり、そのため頑丈でもあるはずだ。これほどの黒さをたたえた羽をむしり取るには、どれだけの魔力が必要なのか。ルーヴのように息の根を止めて採取するのとはわけが違うだろう。
影では黒にしか見えない髪色をちらりと視界の隅に収め、ルーヴは気にするのをやめた。正当な慰謝料として、ありがたく受け取っておこう。
起き上がったことで思考が明瞭になると、先ほどの魔鳥との邂逅が思い出された。
よく考えてみなくとも、この魔術師が魔力を奪われたのは、ルーヴが狩り損ねた魔鳥を逃がしてしまったからではないか。
「…………なんか、ごめん。つまり私がそもそもの発端を作ったってことだよね」
「ん?君は狩人なのだから、狩りをするのは自然なことだろう。魔鳥に狙われたとはいえ、カードに負けてしまったのは俺だからな」
初めて会った時の罠の件と同様、やはりサモトラはルーヴを責めるようなことは言わなかった。
サモトラの寛容さに感動し、次からは狩り逃しの無いようにしようとルーヴが決意したところで、それに、と魔術師が続ける。
「それに、君は俺の所有者なのだから、多少のことはかまわないさ」
「え……………………」
その後、サモトラはそのままルーヴのところに留まってしまった。
素人のルーヴにも分かるくらいに膨大な魔力を持つことを考えると、サモトラは相当に高位の魔術師であるはずだ。おそらくそれなりの立場であるだろうと思うのだが、本人が頑として帰ろうとしない。
ルーヴが狩ってしまったのだから、サモトラはルーヴに所有されるべきなのだと。何度も真面目に繰り返されると、ルーヴも、そうなのかなという気がするようになってきた。
しばらくすると、なぜか魔鳥も遊びに来るようになった。
再び姿を見せた時、むしられたらしい羽はすっかり元に戻っていて、さすが高位の魔鳥は回復力も高いようだ。
魔鳥は主にサモトラとカードをしたりしている。そういえば魔力のやり取りもカードの勝敗で決めていたようだし、魔鳥はカードが好きらしい。
気が向けば、たまにルーヴの狩りについて来ることもある。
魔鳥が頻繁にやって来る理由はよく分からないが、群れが壊滅して仲間がいなくなったので、もしかして寂しいのかもしれない。
まあ理由はどうあれ、天敵であるにょろにょろが魔鳥の気配を恐れて寄って来なくなったので、ルーヴとしてはその訪問を受けるのも吝かでないのだった。