グレン・ザ・ラッシュ
1
大本駿が通信教育を終え、共同宿舎へ帰宅すると、玄関先で男が待ち構えていた。サクチャイ・シングワンチャーである。
「さあ行くよ!」
サクチャイは開口一番そう言い、白い歯を見せて笑った。
「あれ?謹慎明け?」
「もちろん!」
サクチャイは暴力事件に巻き込まれ、一週間の謹慎処分を受けていた。それがはれて解除となるので、さっそく出かけようと言うのだ。
行先は言わずもがなだ。
駿は支度してくると告げて部屋へ急いだ。部屋に置いてあるVR用ギアを急いで袋に詰め込んで戻った。
「シュンに負けてられないからね!」
玄関先で合流すると、サクチャイは走り出しそうな勢いだ。ゲームができなかった禁断症状が出ているのかもしれない。
動く歩道に乗っても、サクチャイはその上をさらに歩いた。
「慌てなくても逃げないよ」
駿が苦笑しても、お構いなしだ。
「大会まで三日しかないよ!時間がないね!」
大会とは、対戦格闘ゲームVSG3のトーナメントだ。VRの格闘ゲームで、二人はこのゲームにのめり込んでいた。
駿はゲーム内でウォン・フェイフォンと名乗り、カンフーを使う。サクチャイは愛称と同じモモタロウと名乗り、ムエタイを使った。
三日後に行われるトーナメントを目指していた。勝ち進めば、全国大会に出場できる。
駿は全国大会で会おうと約束した友人がいた。約束を果たすためにも、勝ち進まなければならない。出場を逃した日には、雄太に何を言われるか分かったものではなかった。
駿はVSGを始めて三ヶ月ほどだが、サクチャイは長くプレイしており、世界大会に出場できるほどの実力者だ。
実力者でも、一週間のブランクは気になる様子で、道を急いでいた。
目的地は居住区のはずれにある住宅街だ。その内の一軒に山科源次郎と言う名の老人が住んでいる。老人はボックスタイプとギアの二つのVRマシンを持っているので、一方を借りてVSGをプレイしようという魂胆だ。
駿は父親が作ったギアがあるので老人の家まで行く必要はないのだが、源次郎に寂しいから来いと言われている。
年寄りに誘われてもさほど嬉しくはないが、行けばお菓子がもらえる。お菓子とサクチャイにつられていくのなら、それもありかと思っていた。
源次郎の住む辺りは一戸建ての住宅が立ち並ぶ。だが、辺りに住人はいない。異様なほど静まり返って、不気味だ。
源次郎の玄関先まで来たところで、サクチャイの端末が通信を告げた。
サクチャイがもどかしそうにポケットからカード型端末を取り出す。通信相手を見て、声を上げて嘆いた。
「人の顔を見て嘆くやつがあるか!」
カードに表示された男性が、眉間にしわを寄せて怒鳴った。
「だって!」
「だっても何もあるか!」
「これからVSGを…」
「ほう…仕事を放っておいて、遊ぼうと言うのか?」
「あ、いえ。直ちに出頭します!」
サクチャイが自分のカード端末に敬礼してみせた。
サクチャイは通信を切ると、全身を使ってため息を漏らした。
「仕事?」
「うん。行ってくる」
サクチャイの声が悲しそうだ。
「仕事してたんだ…」
駿はそのことの方が驚きだった。サクチャイはいつも共同宿舎で駿を待ちわびていた。何をして暮らしているのだろうかと、疑問に思ったこともある。
「めったに入らないのに、よりにもよって今だなんて…」
サクチャイはぼそぼそとぼやきながら、来た道を戻っていった。ただでさえ小柄な背中が、より小さく見えた。
駿はサクチャイが見えなくなるまで見送ると、せっかくここまで来たのだからと、チャイムを押した。
ほどなくして源次郎が姿を現した。
「おう。入れ入れ」
「モモタロウもそこまで来たんだけど、仕事だって」
「おや?そうかの」
サクチャイよりも小柄な源次郎はそう言って片方の眉毛を釣り上げた。それ以上は何も言わず、奥へ戻っていった。
駿はいつものように廊下へ上がり、奥の部屋へ向かった。扉を開けると、部屋の真ん中にボックスタイプのVRマシンが自己主張して鎮座していた。
源次郎はいつものように左隣の部屋でお茶を入れていた。駿はいつもそこでお茶とお菓子をいただく。
源次郎が買うお菓子には少々偏りがある。大福が多いのだ。イチゴ大福、豆大福、はっさく大福、栗大福などなど、意外と種類は多かった。
今日も大福だ。包装に塩味生大福と書いてあった。食べてみると、ほのかな塩味がアクセントになって、おいしい。
源次郎は播磨の大福だと言った。
「播磨ってどこ?」
「兵庫県の南部じゃの」
「兵庫県…」
地理の授業で習ったとは思うが、ピンとこない。
「大阪、兵庫、岡山」
源次郎が短く言った。
大阪の位置は何となくわかったので、駿にも理解できた。
「塩を使った大福は他にもあるのじゃが、これが一番驚くじゃろうと思うてな」
「うん。塩味にも驚いたけど、クリームまで入ってる…」
駿が大福を頬張っているのを、源次郎はまぶしそうに眺め、茶をすすっていた。
「昔は家内と一緒に、あちこち旅をして、ご当地の菓子を食べ歩いたものじゃ」
いつものように、源次郎の昔話が始まっていた。有馬温泉に泊まり、姫路城を見学したと言う。
「あの辺りも海岸付近は海に沈んで、だいぶ様変わりしたじゃろうて」
源次郎が物悲しそうにつぶやいた。
温暖化の影響で海面が上昇し、東京も一部海に沈んだ。駿が生まれる前のことなので、授業で習った程度しか知らない。
地下都市への移住は、そのような自然環境の変化も、影響している。
陸地が減った。消滅した島国もある。
太陽の紫外線が強く降り注ぎ、人体に悪影響を及ぼした。
台風の勢力が増し、数も増えた。再々上陸しては、建物を根こそぎ破壊した。海が荒れ、川があふれ、都市が海に沈む。
人々の生活を守るために、内陸の安全な場所に、自然災害の及ばない地下都市を建設した。
それが、今駿たちのいる都市だ。地熱を利用したクリーンで永久的なエネルギーによって、都市機能を賄っている。
自然災害以外にも、伝染病などのウイルス対策にも、この地下都市が一役買っている。
ウイルスを媒介する虫や動物などの侵入を防ぎ、人の移動も制限していた。
物資は、リニアによって都市間の移動が行われている。なので、駿がかぶりついている大福も手に入るのだ。
駿は大福をたいらげながら、日本地図を思い描いて考えた。地下都市のひとつ、阪神が大阪や兵庫辺りのはずだ。この大福はそこで作られ、リニアに乗ってやってきたに違いない。
そこで一つ疑問に行き当たる。
SNS上で実しやかに語られる噂の中に、地下都市の阪神は存在しないと主張するものがあった。
駿は大福の包みを眺めた。
この大福は幻ではない。現実に食べている。
存在しない都市でこのようなものが作られるはずもない。
やっぱり噂でしかないのだと、駿は少しがっかりしていた。
2
「少年よ。モモタロウがそこまで残念がることかと言っておったが」
源次郎の操る桃子が苦笑を浮かべて言った。
「お前も十分焦っておるぞ」
VSG内の、草原のフィールドにいた。
ウォン・フェイフォンの目の前にはNPCのコウガがいる。最初のNPCで、初心者でも勝てるほど弱い。
しかし、フェイフォンは攻めあぐねていた。
「だって、こんな状態で、三日後の大会に勝てると思う?」
フェイフォンはコウガの正拳突きを、後ろに飛び下がって避けながら、言い返した。
フェイフォンは今、相手の気迫や視線に気後れして、攻めあぐねていた。
「気負い過ぎじゃ」
桃子の指摘を受けて、フェイフォンは一呼吸吐き出して肩の力を抜いた。いざ踏み込んで攻撃しようとすると、コウガの鋭い視線が目に飛び込み、躊躇してしまう。
フェイフォンは再び飛び下がった。
この繰り返しを、数分続けている。
「もそっと気楽にやればよかろうに…」
桃子が片手で目頭を押さえ、首を振った。
「どれ。緊張を解きほぐしてやろうかの」
桃子は顔を上げると駆け出し、コウガの前からフェイフォンをさらった。小柄な桃子がフェイフォンを肩に担ぎ、草原を疾走した。
コウガから十分に離れたところでフェイフォンを下ろした。
桃子がフェイフォンの手を取って、下から見上げていた。大きな目をした可愛らしい顔で見上げられると、それだけでフェイフォンの鼓動は乱れた。
桃子の立ち位置が非常に近い。セーラー服の胸元の隙間がまぶしく、目のやり場に困った。
「どうじゃ?効果あったかの?」
「………」
「仕方ないの。出血サービスじゃぞ?」
桃子がフェイフォンの手を、自分の体に導いた。向かう先に、大きなふくらみがある。
「え?ちょ!」
フェイフォンは一瞬期待してしまった。恥じるように声を上げたが、手を引こうとはしなかった。
「馬鹿者。大事な体に触れさせるわけがなかろう」
桃子はそう言ってフェイフォンの手を離し、突き飛ばした。だが、顔はにやけている。
「酷い…。からかったね…」
「緊張は取れたじゃろう」
「いやいや、緊張じゃないから!」
「別のところが緊張したかの?」
桃子がそう言って大笑いしていた。
「このジジイは…」
フェイフォンは口の中でうなった。いつか倒してやると決意するものの、今のところ、フェイフォンは女性にも攻撃ができず、勝てない。
対女性の対策はおいおい考えるとして、まずは気後れする今の状況を何とかしなければ、スタートラインにすら立てない。
フェイフォンはもう一度、向かってくるコウガの正面に立った。
だが、やはり相手の気迫に飲まれ、うまく動けない。
この程度の敵に勝てないようでは、三日後にあるトーナメント大会で勝ち進めるはずがない。
フェイフォンはそのトーナメントで勝ち進み、全国大会へ行かなければならない。
学友の雄太が、そこで待っているのだ。
彼は、全国大会に出られるようになるまでは自分の相手にすらならないと、不敵に言い放った。
あの雄太を見返すためにも、勝たなければならない。しかし、そう思えば思うほど、フェイフォンの体が重くなったように感じた。
NPCのコウガの表情に、決死の覚悟のようなものが見て取れた。それが戦士の表情なのかもしれない。
フェイフォンは格闘技の経験などありはしない。映画のカンフーにあこがれ、このゲーム内で憧れのカンフーを実践しているだけだ。
コウガほどの覚悟があるわけでもないし、その覚悟を受け止めるほどの意思もなかった。
今までは、たかがゲームくらいの感覚だったのだろう。しかし、冬休みを利用してゲーム内に入り浸った結果、相手の表情や気迫を感じるようになってしまった。
コウガの、お前を殺してやるとでも言いたげなあの視線が、怖い。
数日前、このコウガよりも強い、紅いコウガと戦った。あの時も恐怖を感じ、躊躇した。だが、スーン・スールズ・クリッターを助けるために、奮い立った。
そして勝つと、高揚感が、恐怖心をどこかへ押しやってくれた。
今も、一度勝てば、何とかなるのかもしれない。その一度に踏み込むことが、できずにいた。
コウガを後ろにいる桃子へけしかける。そうすれば、先日のように助けに入り、戦えるかもしれない。
しかし、桃子が大人しくしているわけがない。フェイフォンを盾にでもするだろう。それでは意味がなかった。
フェイフォンは考えあぐねた。
コウガの突きをかわし、蹴り足を避けて後方へ飛んだ。
「少年よ」
後ろから桃子の呆れたような声が聞こえた。
「なんのために戦うのじゃ?」
桃子は戦う目的を見つけるように諭した。
3
フェイフォンはNPCのコウガから逃げると、山岳地帯へ入り込んだ。
中腹に差し掛かると、岩場が目立つようになる。
見上げると、頂上付近から煙が上っている。火山の設定らしく、火口から降りて、溶岩の流れるそばでの対戦も可能だ。噴火することはない。
岩場の急斜面の中に、僅かになだらかな登り坂がある。その坂をたどって登り、雲の上へ出た。
現実世界の登山ならば、短時間で登れるはずもない。数時間か数日かけて登るのだろう。だが、ここはVR世界のうえ、格闘ゲーム用の能力値を持ったキャラクターの足だ。瞬く間に登っていくことができた。
雲の上に出ると、下界が、雲の切れ目から見渡せた。
特殊なNPCである紅いコウガと、初めて対戦したのは、この辺りではないだろうか。フェイフォンはふと思い返し、辺りを見渡した。
急斜面の岩場で、足元が心もとない。少しでも油断すると、足を滑らせて落ちかねない。
登れそうな坂道は、多少緩やかになっており、幅も少しある。この坂道に居れば、大丈夫だろう。
ただ、坂道は蛇のように大きく蛇行している。登るペースが著しく落ちていた。
紅いコウガと戦ったときは、あまり足元について思い至らなかった。
見渡してみると、よくもこのような危ないところで戦えたものだと思えた。おそらくは、この登り坂のどこかで戦ったのだ。
空気も薄いように思われた。
今ここで以前と同じように紅いコウガに襲われたら、戦えるだろうか。
気後れすることを考えから除外する。
斜面の上、山側を背にすれば、戦いやすそうだ。降る勢いで攻め立てることができる。逆に、下から攻めるには、足に負担が及ぶ上に、攻めの勢いが殺されてしまい、不利だ。
魔法を使うキャラクターが上をとれば、ほぼ勝てるフィールドではないだろうか。
ふとそう言う考えが浮かぶと、色々と思い付いた。
遮蔽物の少ない草原も、魔法系が有利だ。逆に遮蔽物の多い街中では、接近戦の得意なものが勝てるだろう。
砂浜はフットワークを重視するキャラクターには不利に働く。
桟橋や岩場の上は、バランス感覚の優れたものが有利だろう。
バトルフィールドの違いで、戦い方の違いが出てきそうだ。
フェイフォンは考えることが楽しくなってきた。せっかくなので、まだ見たことのない火口やその奥の溶岩地帯も見ておこうと、頂上を目指した。
フェイフォンはついでにと、思い描いたとおりの動きができるかどうか、試してみることにした。
蛇行する道から上へ飛ぶ。そこにも道がある。やや道より上に着地し、滑り落ちた。何とか道で踏みとどまる。
上を見上げ、目測を検めた。
再び飛び上がると、今度は上の道に着地した。
次はこれを連続で行った。
順調に行けるかに見えたが、最後は危なく道を踏み外し、落ちるところだった。
フェイフォンは道にしがみつくように座り込むと、肩で息をしながら、苦笑していた。
まだ登りきれてはいない。
斜面がさらに急になり、飛び上がるのも難しくなっているのだ。ここからは大人しく、細くなっていく斜面を登った方がよさそうだ。
フェイフォンは呼吸が整うと立ち上がり、斜面を登った。
急に視界が開けてきたかと思うと、目の前に大きな穴が現れた。その穴から煙が上り続けている。
煙は青い空へ登っていき、風に運ばれて広がっていた。
空気が下界と違うように思われた。高所のためか、息苦しい。が、吸い込むと清々しい。
振り向くと、はるか下に雲がある。雲のさらに下に青々とした大地が広がっていた。
辺りには同じ高さの山がない。かなり遠くまで見渡せた。ただ、遠すぎて何があるのかは判別がつかなかった。
絶海の孤島にでもいるかのようだ。雲が海のようにたゆたい、山が浮かんでいた。
「絶景スポットよね」
後ろから女性の声が聞こえた。
女性はフェイフォンの隣に立った。互いに目であいさつを交わす。
スーン・スールズ・クリッターだ。彼女はフェイフォンをSNSのネタにして、追い回していた。
スーンがそっと、フェイフォンの腕に自分の腕をからませた。特ダネを手放したくないのだろう。
フェイフォンはそれでもいいと思えていた。美しい女性が、自分の腕にもたれかかっていると思うと、嬉しかった。
二人はしばらく黙ったまま、景色を見渡していた。
それで十分だった。
フェイフォンは彼女と一緒にいる、このたわいない時間が、幸せだった。
現実世界で異性と付き合うと、こういう感じなのだろうかと、考えていた。
できるなら、現実世界でもスーンと知り合いたい。だが、桃子と源次郎の例がある。現実を知らない方が、幸せでいられるのかもしれない。
「今日は何しているの?」
「コウガから逃げてる」
スーンが頭を起こし、フェイフォンを見上げた。
「また紅いコウガ?」
「ううん。普通の」
フェイフォンはそう答えて、苦笑いした。
スーンはそれ以上追求しなかった。その対応が嬉しい。
「せっかくここまで来たから、見たことのなかった火口と、溶岩地帯を見ようと思って」
フェイフォンがそう言うと、スーンもいいわねと同意した。
腕を組んだまま、火口に近づいた。
火口から、まるでしつらえたかのように火口内へ下る道があった。穴の外壁を回るその道は、煙の中に消えていた。
細い道だが、密接していれば、二人並んで歩ける。
しばらく腕を組んだまま歩いていたが、煙のために離れなければならなかった。
口と鼻を袖口で覆って隠さなければ歩けなかった。目に煙が入らないよう、顔の前で手を振る必要もあった。
煙で見失わないように、二人はできるだけ近づいて歩いた。
煙が薄くなってきたかと思うと、今度は下から熱気に襲われた。
視界が開けてきたところで下を覗くと、赤いものがゆっくりと動いている。
映像で見たことはあっても、実物は初めてだ。フェイフォンは思わず見入っていた。
しかし、これも本物ではない。VR世界なのだ。熱気と煙のために思わず本物と見間違えた。
スーンも隣で、フェイフォンの背中にしがみつくようにして、下を見ていた。
フェイフォンが体を起こしても、スーンは背中に手を当てたままだ。その手の感触が心地いい。フェイフォンもそのまま触れていて欲しいと思っていた。
スーンも察したのか、手を離さなかった。
二人は前後に並んで、さらに降りた。
熱気が増し、汗が滴った。
振り向くとスーンの赤くなった顔にも汗が伝い落ちていた。彼女の赤く上気した顔を見ると、フェイフォンの心臓が激しく打ち付けた。その衝動が何なのか、フェイフォンはまだ知らない。
スーンが汗をぬぐい、恥ずかしそうに微笑んだ。
フェイフォンは気まずくなり、慌てて振り向くと、さらに下へ向かった。
背後で彼女の息遣いが聞こえる。背に触れた彼女の手が、熱い。
フェイフォンは無性に振り向いて、スーンを抱きしめたかった。なぜそう思ったのか自分でも分からない。しかし、許されるはずがないことは分かる。分かっていても、衝動が激しく気持ちを揺さぶった。
必死で後ろを振り向かないように歩いた。
スーンが現実でも女性で、今のように変わらず、フェイフォンと接してくれるだろうか。接してくれるなら、これほど嬉しいことはない。
しかし、現実のことを尋ねる勇気はない。聞いてしまえば、嫌われ、避けられるようになるかもしれない。彼女は知られたくないと思っているかもしれないのだから。
それに、VR世界のエチケットとして、現実のことは聞かないと言う、暗黙の了解がある。一線を越えた質問をすれば、蔑まれるに違いない。
いつの間にか、斜面が終わり、少し開けた場所に出ていた。足元は不規則に変形している。溶岩が固まってできた足場のようだ。
すぐそばに大きな口が開いており、そこから熱気が噴出していた。
溶岩がほのかな明かりを発しているのか、薄暗いものの、辺りを見渡すことはできた。
壁は溶岩で削られたのだろう。一定方向に削られたような跡があった。
スーンの手が、背中から離れた。彼女が触れていた場所は、手が離れた途端に少し冷たく感じた。
「暑いわね」
スーンが隣に立った。さすがに暑いからだろう。腕を組もうとはしなかった。片手で胸元を広げ、空いた手で風を起こして胸元へ送っていた。
フェイフォンは見てはいけないものを見たように思え、慌てて視線をそらした。見たことがばれると、怒られそうだ。
大きな穴に近づいて下を見ると、顔が熱気によって押し上げられた。目に熱気がしみて開けていられない。呼吸するのも難しい。それでも薄目を開けて、下を見た。
赤いドロドロしたものがゆっくりと流れていた。その赤いものから、この熱気が立ち上っているのだ。そこに落ちたら、骨も残さずに溶けてしまうのだろうか。それとも燃えてしまうのだろうか。
どちらにしても、恐怖しかわいてこない。フェイフォンは震え始めた膝を抑えつけるように、後ろへ下がった。
「すごいところだね…」
フェイフォンは膝の震えを隠し、ゆっくりと振り向いた。
「自然の驚異を真直に感じられるわね」
スーンがまだ胸元を仰いでいた。フェイフォンは思わず、その胸元を見てしまう。
「エッチ」
スーンがそう言って、胸元を押さえた。上目遣いで、フェイフォンを睨んでいる。
フェイフォンにはスーンのそのしぐさと物言いが、無性に可愛らしく見えた。
4
「場所以上にお熱いことで」
不意に、横から不満そうな声がかかった。
振り向くと、大きな丸い頭をした騎士がいた。小さな手足に比べ、不釣り合いなほど頭が大きい。
彼は玉吉だ。プレイヤーキャラクターで、プレイヤーは学友だ。
玉吉は羨ましげに目を細め、二人を見ていた。
「いやいや、そんなんじゃないから!」
フェイフォンは慌てて言い訳をした。玉吉は女性とみると、やれ紹介しろなどとせっついてくる。そのくせ、フェイフォンが女性と一緒にいると、妬むのだ。
「本当にここ、暑いね」
フェイフォンは額に浮いた汗をぬぐった。
「あら?玉吉は妬いているのかしら?」
スーンはそう言うと、フェイフォンに近づき、腕を組んだ。
玉吉は目尻を上げ、頭から湯気でも出しそうだ。
「まったく、お前ってやつは、目立つし、モテるし…」
玉吉がぶつぶつ恨み言を言いながら、近づいてきた。
「何か用?」
フェイフォンは戸惑いつつ、聞いた。
「用がなきゃ来ちゃダメなのか?イチャイチャの邪魔をするなってか?」
「いやいや」
フェイフォンは笑うしかない。玉吉はすねているのだろうか。
「友達がいのない奴め!」
「へいへい」
スーンは面白がっているのか、さらに体を密着させてきた。余計に暑くなるのだが、スーンは気にも留めていない様子だ。先ほどまで服をはだけさせて風を送り込んでいた人物とは思えない。
玉吉はフェイフォンとスーンが密着する腕の辺りを凝視したままだ。
「で。大会は勝ち進めそう?」
玉吉はフェイフォンの腕に向かって語りかけている。その視線の先で、スーンの胸が、フェイフォンの腕に触れている。
目つきで思っていることがバレバレだ。玉吉は羨ましがっている。
フェイフォンは玉吉の願望を無視した。あるいは、優越感に浸っていたのかもしれない。
「どうかな。強くなれたとは思うけど、対人戦の勝率は悪いからなぁ」
フェイフォンはそう答えた。
「NPCにはめっぽう強いのに」
「そのNPCにも勝てなくなった…」
「マジか!」
「うん。コウガから逃げてここまで…」
「で、ついでにデートかよ!」
「いいでしょ」
玉吉の妬みを煽るように、スーンが言った。
玉吉は歯を食いしばってうなった。羨ましい。自分と代われ。そう言う意思がひしひしと伝わってくる。彼の大きな顔で、すべてが分かる。
「大会まであと三日だぞ?大丈夫か?いや、余裕か。だからデートか」
玉吉がやたらとこだわるなと思い、フェイフォンは苦笑した。が、代わってやる気は毛頭ない。
「なあ。どうやったら、対戦の時の緊張や…恐怖心かな?あれを打ち消せるの?」
「は?」
玉吉は目に全神経を集中しているのか、まともに聞いていなかった。
フェイフォンはもう一度同じ言葉を発した。
玉吉はもう一度、素っ頓狂な声を上げた。ただ、今度は聞いていた風である。ちらりとフェイフォンに一瞥をくれ、再び元の場所を凝視した。
「わけの分からないことを言うな」
口ではそう不満を述べた。ゲームの対戦で、なぜそこまで恐れなければならないのだと、彼は言った。
「私は少し緊張するなぁ」
スーンはフェイフォンに同情してか、そう言った。
「いろいろな人に聞いてみたら?実際に格闘技の経験のある人を探してみるとか」
スーンの提案に、一理あるようだ。
すぐに思い当たる人物がいる。モモタロウだ。彼はムエタイの試合に出たことがあると言っていた。友人でもあるので、最適な人物に思えた。
しかし、彼は急な仕事が舞い込み、ゲームにログインしていない。帰宅を待って質問してみるしかなかった。
「ああそう言えば」
玉吉は別れるときになって、フェイフォンを探していたことを思い出した。
「あさって、ボクシングの試合、見る?」
「明後日って、このゲームの大会の前日?」
「そそ。正確には、当日になるかな。夜中だもの」
「えー。大会前だから早く寝るだろ」
「ばかな!」
玉吉が目を見開き、両手で頭を抱えようとした。無理だったが。
「それって、グレン・ザ・ラッシュの?」
スーンが両手を打ち合わせていった。
「その通り!ついに世界タイトルマッチだ!」
「異名の通り、あのラッシュがいいのよね!」
「そうそう!迫力満点!格闘技好きなら、見るだろ!」
「もちろん見るわ!あの筋肉!飛び散る汗!もう最高よ!」
二人はフェイフォンを置き去りにして語り合った。
二人の話から、最近話題のボクサーらしいことはうかがえた。
フェイフォンの好みはカンフーで、ボクシングは興味の外にあった。だが、二人の嬉しそうに語り合う姿を見ると、興味をひかれた。
それにしても、この二人はどうやら趣味が合うらしい。話題のボクサーのデビュー戦から語り始めていた。
二人の様子を見ていると、フェイフォンはどういう訳か、いらいらした。玉吉が邪魔だと思った。だが、話の内容について行けず、割って入ることもできない。
しばらく眺めて、諦めた。自分も試合を見てみるとだけ告げ、フェイフォンはその場を去った。
5
フェイフォンは知り合いを訪ね歩いた。
侍の格好をした、ヤマトタケル。彼は侍にあこがれて、そのキャラクターを作った。しかし、対戦をしているところは見たことがない。
彼が戦ったのは、紅いNPCだけだ。そのためか、傍観者の異名が付いていた。
「戦う目的次第じゃないのか」
彼はこともなげに言った。
「戦う目的?」
「そうだ。殺意でもいいな」
「え」
「相対した敵をどうしたい?殺したいのか?倒したいのか?負けたくないのか?」
「………」
「殺す、倒すつもりで戦うのもありだ。逆に、敵にボロカスにやられるかもしれない。それが怖いのか?」
「かもしれない」
「恐怖心の克服は、人それぞれだな。殺意で恐怖心を紛らわせることもできる。観衆をあおって盛り上げ、その高揚感で恐怖を忘れる手もある」
彼の言い分はもっともなのかもしれないが、フェイフォンには今一つ響かなかった。
「自分は相手より強いと思い込む方法もある。自分より弱い相手に恐れをなすこともなかろう」
フェイフォンが難しい顔で首をかしげていると、今度、参考になりそうなやつを紹介してやると、ヤマトタケルは言った。
カンフー使いの女性、ユウに出会ったものの、彼女には声をかけ辛かった。
以前彼女に対戦を申し込んだのはいいが、女性に手を上げることができず、何もできなかった。
彼女は、戦う気がないなら対戦を申し込むなと、言い残して去っていった。
以来、フェイフォンはユウに苦手意識があった。
金髪で銀色の鎧をまとったランスロットと出会った。
ヤマトタケルと同様に傍観者と呼ばれる彼も、同じようなアドバイスだ。唯一違う主張は、守るべきものがあるかどうか、だった。
守るべきものと言えば、フェイフォンはスーンを守る形で、紅いNPCたちと戦ったことがある。誰かを守るのであれば、確かに戦えそうに思えた。
「信念を守ることも、戦う糧となる」
ランスロットはそう言いおいて去っていった。
「自分自身に勝てないやつは、消えていくだけだ」
ダーククローはにべもなく言い放つと、今回も対戦せずに去っていった。大会までは対戦友達であるフェイフォンとの戦いを避けているようだ。
「恐怖心を失ってはいけない。無謀な戦いを挑んで負ける結果となる」
鉄拳の異名を持つオウガはそう言っていた。彼は実物よりも大柄なキャラクターだった。見るからにタフガイで、その膂力のすべてを乗せて放つ拳は、何物をも打ち砕くのだろう。
オウガのプレイヤーは警察官だ。職業柄、格闘技の経験がある。その言葉にはどこか説得力があった。
オウガは、ゲーム内では初対面にもかかわらず、気さくに接してくれた。自分から名乗り、そのうち、一度手合わせを願うと言っていた。
フェイフォンは面識のある人物を探し出しては、同じ質問を繰り返した。
結果、恐怖心は消すことができないものとの考えに至った。
恐怖心に打ち勝つ方法は、まちまちだ。自分に合った方法を見つけるしかないことも分かった。
だが、その方法の見当がつかない。
モモタロウのアドバイスを聞きたいが、その日は帰宅すらしなかった。
フェイフォンは次の日もGSV3の中でさ迷い歩き、恐怖に打ち勝つ方法を探した。
その日も収穫に乏しく、そろそろ終わりにしようかと思っていた時、その男は現れた。
現実のモモタロウよりも小柄と思われるその男は、横幅が異常に広かった。腰の辺りは細い。肩が異常なのだ。
服の上からでも、筋肉の鎧をまとっていることがうかがえた。
彼は軽い足運びでフェイフォンの前へ来ると、見上げるようにして言った。
「お前さんがウォン・フェイフォンだな」
「はい」
「俺はラッシュ。ヤマトタケルの友人だ」
昨日、ヤマトタケルが紹介すると言った人物は、彼のことだったのだ。
ラッシュと言われて、一つ思い当たる。玉吉が言っていたボクシングの選手だ。彼は、その選手を模したキャラクターを作っているのかもしれない。
「対戦者と対峙すると、怖いか?」
「うん。雰囲気とか、目とか」
「これか?」
ラッシュはそう言うと、ボクシングのように拳をあごの前にそろえ、右足をひいて構えた。
拳の上から覗く目に、刺すような光を帯びていた。
体も大きくなったように見える。小柄なはずが、フェイフォンの上から覆いかぶさるような雰囲気すらあった。
フェイフォンは思わず後退っていた。
ラッシュは構えを解くと、笑った。
「ゲーム内でそれを感じるとはな」
ラッシュはそう言うと、フェイフォンの腕を軽く叩いた。
「お前を倒してやると言う、気迫、闘志だな。のまれれば、お前のように勝手に退いてくれる。だが、誰しもこの気迫を発するわけではない。よく観察してみることだ。こんな芸当ができるやつは、百戦錬磨の闘士だけだ」
ラッシュは自分で言うのもなんだがと付け加え、笑った。
「それにはどうやって打ち勝てばいいの?」
「お前も相手を倒してやると言う気構えを持てばいい。だけど、打ち消せるわけではない。対戦の始まる前に、互いに相手を気迫で押し合い、これで勝敗が決することもある」
不意に、ラッシュが拳を打ち出し、フェイフォンの目の前で止めた。
「この拳が怖いか?」
「う、うん。怖い」
止まるとは思わず、フェイフォンはとっさに手で受けていた。
「相手の攻撃が怖いのは当たり前だ。当たれば痛い。当たりどころが悪ければ、死ぬことすらある」
ラッシュは手を引っ込めた。自分の拳と、フェイフォンの手を見比べていた。
「あらゆる攻撃を想定し、それらに対処する方法を学ぶことだ。右に避ける。左に避ける。構わず突っ込んで攻撃する。対処は色々ある。対処できると分かっていれば、それほど怖くはない」
「防御、ですか」
「そう。堅守であれば、少々の不安もものともしない。まあ、そううまくも行かないがな」
ラッシュは一歩下がると、シャドーボクシングを始めた。動きが早く、次の予測がつかない。
その動きはゲームだからこそできるのか。それとも、模したのではなく、本当のプロボクサーだからこそできるのかもしれない。フェイフォンには分からない。その動きが尋常ではないことは理解できた。
「無駄に考えるより、動くことだ。それで解決できることもある」
ラッシュのシャドーボクシングは続いていた。汗が飛び散る。その汗をすべて避けるかのような、キレのある動きだ。
「このゲームはいい。とてもリアルだ」
ゲーム内でも体を動かせば、気晴らしができるとでも言いたげだ。だが、一理あるように思えた。
フェイフォンも、カンフーの型を、映画の見様見まねで試そうとした。
「見えない敵がいると想定してやるんだ。攻撃を避け、相手の隙を見つけて打ち込む」
ラッシュがシャドーを続けながらアドバイスした。
相手を思い浮かべることは、意外と難しい。うまく考えがまとまらない。
フェイフォンは記憶を探り、カンフーで対戦した相手を思い出した。紅いNPCのロンだ。
ロンの動きを思い出す。
互いの拳で攻撃とけん制と受け流しとを繰り返した。体を入れ替え、追うように拳を振るう。
相手の蹴りを避け、瞬時に懐へ飛び込む。
気が付くと、ラッシュがじっと見つめていた。
「いい動きだ。そうやって相手を想定して訓練すれば、色々な場面で対処できる。恐怖しても、体が動いてくれる」
「体が動く…」
「そうだ。条件反射に近いな。それで命拾いすることも多い」
ラッシュは時間だと言った。
「これから出かけるのでね。次は対戦しよう」
「はい、ありがとうございます!」
ラッシュが去った後、フェイフォンは一人、空想の敵と戦った。
ラッシュのアドバイスが参考になったかと言えば、はっきりしない。格闘技の経験がないフェイフォンには、どこかピンと来ない話だった。
しかし、シャドーは体を動かすので、気晴らしになった。それに、色々な攻撃に対処できるようになれば、心強くもある。
フェイフォンは思いつく限りの攻撃方法を、空想の対戦相手に使わせた。それを避け、または迎え撃った。
6
次の日、フェイフォンは火口付近へ移動し、シャドーを試した。
いくらやってみても、ラッシュのような機敏な動きができない。
仮想の敵の動きを想像し、確認するように、体を動かす。ゆっくりとであれば、想像の攻撃を避け、反撃ができる。だが、早く動くと、イメージとちぐはぐになる。
何か参考になる動きはないかと悩み、ふと、学友の河原優希が早朝に行っていた体操を思い出した。太極拳と呼ばれるもので、全身を使ってゆっくりと動く運動だ。
ただの体操のはずなのに、どういう訳か、手や腕を動かす。まるで何かの攻撃を防ぐかのような動きだ。
カンフーとしての太極拳からあの運動が生まれたはずだ。攻防一体の動きが取り込まれているに違いない。
ゆっくりと動くあの運動を、もしも素早くできれば、カンフーになるのではないか。
逆に考えれば、今はゆっくりでも確認しながら攻防をイメージしてシャドーを行い、慣れてきたら動きを速めればいいのではないか。
フェイフォンはぎこちなくてもいいから、ゆっくりと、確認するように動いた。
次第に夢中になってシャドーを行っていると、急に声がかかった。
「今度は何の修行かの?」
セーラー服姿の桃子だ。
「シャドーだよ。ラッシュって人に教わって、試してるの」
フェイフォンは動きを止め、答えた。
「ラッシュ?グレン・ザ・ラッシュ・ハワードかの?」
「ただのラッシュ。このゲーム内のキャラクターだよ」
フェイフォンは答えて、疑問が浮かんだ。玉吉たちが口走っていた名前を聞いたように思えた。
「ご老公。ボクシング見るの?」
「日付変わった真夜中じゃろう?さすがにライブでは見んの」
「後で見るんだ」
「こういうゲームをするくらいじゃからの」
暗に、格闘技が好きだと言っていた。
「ラッシュはわしも初戦から知っておるぞ。何せ、初戦が鮮烈だったからのう」
初戦、デビュー戦と言えば、玉吉とスーンもその話題で盛り上がっていた。
「そんなにすごいの?」
「ボクシングの世界ではの、体重別で階級が細かく分かれておる。階級が違えばリーチの長さやパンチの威力が違ってくるのじゃ」
桃子が語るところによると、ラッシュのデビュー戦は二階級上のランキング保持者だった。いわゆるかませ犬として選ばれただけの無名選手として登場した。
ランキング保持者の戦績を上げ、かつ、鮮烈に勝つところをアピールするのが目的だった。ラッシュは負けるための試合を組まれたのだ。
第一ラウンドからハプニングが起こった。
ランキング保持者が腕力に物を言わせて早々にけりが付くと思われていた。ところが、大振りしたところをラッシュが見計らったように滑り込み、至近距離からボディブローを放った。
面食らったランキング保持者の顔面を、ラッシュが小気味よく連打した。
第一ラウンドでマットに倒れたのはランキング保持者の方だった。ただ、審判はラッシュの敵だった。スリップを宣告し、ダウンをとらなかったのだ。
そこからはランキング保持者が本気になり、ガードを固め、リーチとパンチ力を生かしてラッシュを圧倒するかに思われた。
ラッシュは機敏にマット上を動き回り、一度も触れさせなかった。
ランキング保持者側は、デビューしたての、しかも二階級下の選手がフットワークを生かした戦い方をしても、数ラウンドも持たないと考えた。
ランキング保持者はガードを固め、ラッシュの足が止まるのを待った。もちろん、けん制のジャブや、飛び込んできたラッシュを狙い澄ませたパンチも忘れない。
ラッシュは相手のガードの上から打ち込み、脇からボディを抉った。すぐに離れて、右に回り、左に回り、また詰め寄る。
第四ラウンドに入り、異変が起こった。
ランキング保持者の膝が折れたのだ。
ガードさえ固めていれば、背の高さの違いで、ラッシュに顔面を狙われる危険は少なかった。それが、狙える高さに落ちた。
第一ラウンドのダメージと、度々もらうボディブローの影響だと思われる。
ラッシュは相手の崩れを見逃さなかった。相手が苦し紛れに打ち出した拳に正面から飛び込んだ。苦し紛れとはいえ、二階級上の強力なパンチに飛び込んだのだ。
一見無謀に見えたその突進から、ラッシュたる所以が始まった。
相手の拳よりも先に、ラッシュのジャブが、カウンターのように当たる。腰を回転させ、ボディブローを左右に打ち込む。
対戦者のガードが、たまらずに下がった。
ラッシュはすかさず、ガードをこじ開けるように下から突き上げ、顎を打った。
対戦者はのけぞりながらも、拳を振った。
ラッシュは頭を左右に振ってかわし、戻り際にパンチをお見舞いした。通り過ぎては一歩踏み込み、戻り際に相手の顔面をとらえる。さらに通り過ぎ、再び踏み込んで戻りながら相手の顔面を殴る。
ラッシュの攻撃は徐々に速度を増し、相手をロープ際に追い詰めると、容赦のない、左右の連打を浴びせた。相手は倒れることすらできず、打たれるままだ。
ラッシュの攻撃の速度はさらに増した。
相手の腕は力なく垂れ下がり、背をロープに預けていた。
タオルが投げ込まれ、審判が割って入った。
「あの連打は壮観じゃった。ゆえに、ラッシュのあざ名がついたのじゃよ」
桃子が顔を高揚させていた。聞いているフェイフォンも、何かが沸き起こる感覚を味わっていた。
「じゃが、それ故に、ラッシュは業界から締め出された」
「え?なんで?勝ったのに?」
「勝ったからじゃ。初めから負けが決まった試合に、あろうことか勝ってしまったがゆえに、誰も試合を受けてくれなくなったのじゃ」
「理不尽な…」
「そうじゃの」
「それからどうなったの?」
「先の対戦相手はラッシュとの試合から落ちぶれての。負けが混んで試合を組んでもらえなくなったのじゃ。そこで、雪辱と再起をかけて、ラッシュに試合を申し込んだのじゃ。それが一年後の因縁と言われておる」
「今ラッシュが活躍してるってことは…」
「そうじゃ。再び勝った。相手は身を崩し、三階級も上になっていたのじゃが、ものともせず、ラッシュは開始三十秒でKOを決めおった」
一年前の対戦で、ラッシュは無謀な攻撃をしたと批評され、実力を評価されなかった。だが、今回は有無を言わせぬ勝ち方をしたことで、再び陽の目を見ることになった。
ラッシュは一年間、腐ることなく、自分を鍛え上げていた。その差が、二度目の圧勝につながった。
世間は彼の連打を見て、ラッシュと呼び称えた。
人気を得た彼に、連日試合が組まれ、瞬く間に勝ち上がった。そしてついに、世界タイトルマッチに至ったのだ。
桃子の説明を聞いて、フェイフォンは興味を覚えた。漠然と、試合を見ようかと思っていたが、今は見なければならないと思えた。
試合を見たら、ほぼ寝る時間がなく、VSG3のトーナメントに参加することになる。それでもかまわなかった。
桃子はところでと切り出した。
「モモタロウのやつを見かけたかの?」
「ううん。今日も見てないし、宿舎にも戻ってないみたい」
「あやつ、大会に出たがっておったが、間に合うのかの」
「僕も聞きたいことがあったんだけど」
「以前にも、しばらく戻らないことがあったのかの?」
「知り合ってまだ数ヶ月だけど、今まではなかった」
「ふむ。仕事でよほどのトラブルでも発生したのかの」
友人のことを心配してみても、彼がどのような仕事をしているのか知らないので、予想すらできなかった。
桃子が急に、邪悪な笑みを浮かべていた。
「少年。修行中じゃったの」
「え?う、うん」
フェイフォンは桃子の笑みの理由に予測がつかず、警戒した。
「お色気修行もしておくべきじゃないかの?」
桃子はそう言って、スカートの裾を少し引き上げた。顔はニタニタと笑っている。
「その修業はいらないから」
フェイフォンは視線をそらした。声に不満が乗っている。
桃子が大きな笑い声をあげていた。
足音が聞こえ、振り向くと、ユウがいた。
ユウはフェイフォンと笑い続ける桃子を見比べた後、フェイフォンを睨みつけた。
「女の子と戦えないくせに、手は出すのね」
ユウは冷たく言い放つと、踵を返して去っていった。
フェイフォンは彼女の言わんとするところが理解できなかったが、嫌われていることだけは分かった。
以前、ユウに対戦を申し込んだものの、女性に攻撃することができず、負けていた。
「戦う気がないなら対戦を申し込まないで」
確か、ユウはそう言い捨てて去ったはずだ。
あの一件で嫌われたのだろう。
訝った桃子にそのことを話した。
「そればかりではないように思えるがの」
桃子は思わせぶりにそう言うと、若者はいいなどと言いながら去っていった。
7
フェイフォンはシャドーを繰り返していた。
河原優希の太極拳を思い出し、マネをしてみる。彼女の体操は、目に焼き付いていた。優美な動きがフェイフォンの脳裏に刻まれている。
ぎこちなく試してみると、意外と理にかなった動きではないかと思われた。手の動きは攻撃をさばくのに似ていた。
そもそも、太極拳はカンフーの一つだ。戦うためのものである。だからこその、その手の動きなのかもしれない。
ユウも太極拳を使う。彼女の場合は、戦う方の太極拳だ。円を描き、敵を取り込んで翻弄する。
河原優希とユウの動きは一見違うものに見えて、動きの切れや速さが違うだけで、同じなのかもしれない。もちろん、運動に不要な動きは省かれているので、格闘技のそれとはかなり違う。が、自然の流れを示すような円の動きは、同じだ。
河原優希とユウ。同じように思えたが、フェイフォンは強く否定した。
河原優希は学友で、助けてくれたことのある人物だ。
ユウはフェイフォンを嫌っている。性格もきつそうだ。
太極拳を使うと言うだけの共通点だ。運動と拳法では、やはり雲泥の差がある。
この二人が同一人物とは思えなかった。
フェイフォンはユウの動きを想定して、シャドーを行ってみた。円の動きに巻き込まれないように気を付け、踏み込む。いざ攻撃するとなると、手が出せるか疑問だ。
正面から女性の体を打ち付けるのは、フェイフォンには抵抗があった。かといって、ユウほどになると、背後をとるのは至難の業だ。
いくらシャドーを繰り返してみても、背後は取れなかった。
悩んでいると、小柄な人が訪れた。昨日会ったラッシュだ。
「やっぱり対戦してもらえないか?」
ラッシュはそう切り出した。
「本当はお前が恐怖に打ち勝てるようになってからと思っていたんだが、どうにも我慢できなくてな」
ラッシュの目が落ち着きなく、動いていた。
「試合前はどうにも落ち着かない。さっさと始めて欲しいところだ」
「試合?」
「ああ。うすうす気づいているだろう?」
「本人なの?ファンとかじゃなくて」
「間違いなく、本人だ。ファンごときに闘志を出されてたまるか」
「あと数時間?」
「二時間だな。とはいえ、俺の自由にできる時間はもうわずかだ」
「そんなときにゲーム?対戦?」
「悪いか?気を紛らわせるにはちょうどいい」
ラッシュはそう言ってから、自分の膝を叩いた。昨日、対戦相手に恐怖すると言うフェイフォンの相談をしたからだろうか。ラッシュは恥じることなく、言った。
「俺だって試合前は怖い。足だって震えている」
確かに、膝の辺りが小刻みに震えているように見えた。
「だいたいな。勝負時に怖がらないやつは、どこかで大けがをして終わる。お前が抱いた恐怖は大事にしておけ。それが勝負の世界で生き残る術でもあるんだ」
「でも、怖がってたら、勝負も何もないでしょ」
「ああ。怖くても、やれると思ったときに、一歩踏み出す勇気が必要だ」
ラッシュのその言葉に、桃子が語った、グレン・ザ・ラッシュ・ハワードのデビュー戦のことが思い出された。
第四ラウンドでラッシュは、無謀とも思えるカウンター攻撃を仕掛けた。もしも怖がって二の足を踏めば、ラッシュが倒れる側だったに違いない。
目の前の人物は、その一歩を踏み出せる。どうすれば、フェイフォンにもその一歩を踏み出せるのだろうか。
「恐怖を打ち消そうと思うな」
「え?でも…」
「否定してもごまかしでしかない。同じ場面で、また同じように恐怖し、足が止まるだけだ」
ラッシュが胸の前で拳を握った。
「怖がっている自分を受け入れろ」
人は恐怖するからこそ、危険を察知し、生き延びる術を身に着けるのだと言った。
「恐怖心を胸に。勇気を背中に。雄志を持って歩め」
「何かの明言?」
「いや。俺が勝手に言っているだけだ」
勇気を絞り出せるような、戦う目的を持つことだと、ラッシュは言った。
「どうやって?」
「こうやって気晴らしするのは、初めてだな」
ラッシュは素直に言った。自身の試合の直前に、気晴らしが必要なほど、緊張し、恐怖していた。
「単純なものでもいい。それで勇気が出せるならな」
ラッシュは例えばと、続けた。
試合の賞金を手に入れたい。名声を得たい。ベルトが欲しい。そういう思いで奮い立つこともある。
あいつにだけは負けたくない。あいつが見ている前では、強い俺でいたい。見栄で戦うこともある。
勝利の味を覚え、もう一度味わいたいと願うのでもいい。
「だけどな。俺の一番は、この拳がどこまで通用するか見たい」
ただの戦闘狂だと笑った。そして、お前はどうなのだと、聞いた。
特に目的はなかった。ただ、映画のようなカンフーを使ってみたかった。勝利の味は、確かに打ち震えるほどだった。だが、それを求めるために戦うのは、違う気がしていた。
フェイフォンの学友に雄太がいる。彼と全国大会で相見える約束がある。しかし、これも勇気を絞り出すには足りそうになかった。
「何にしても、今は俺と対戦してくれないか」
ラッシュは焦っている様子だ。それもそのはずだ。現実世界では世界タイトルマッチの開始が刻一刻と迫っている。いつまでもゲームの中にいるわけにはいかない。
現実でも実力者の彼と戦う。それは色々得るものがあるのではないかと思われた。言葉では理解しきれなかったものを、肌で感じることができるかもしれない。
戦うのは怖い。だが、戦ってみたい。相反する気持ちに揺れ動いた。
フェイフォンは思い切って頷いた。
「ありがとう!」
ラッシュはそう言うと、上着を脱いだ。それが合図であったかのように、手にはボクシング用のグローブが現れていた。
「時間が限られるからな。三分間の勝負としよう」
ラッシュはそう言って顎にグローブを当て、何やら考え込んでいた。
「勝敗は、三分間でお前が倒れなければ、お前の勝ち。倒れたら俺の勝ち」
「それって、あまりにも僕が有利では?」
「おお、意外と言ってくれるね」
ラッシュは驚いたように言うと、笑った。
「ねじ伏せてやるよ」
ラッシュの意気込みに、フェイフォンは気圧された。同時に、自分が有利すぎる条件で、是正したいとも思った。
今いる場所は火口で、足場は砂地だ。平地もわずかしかない。
ボクシングはマットの上で行う競技だ。砂地や斜面では足場が難しいのではないか。
「場所を変えませんか?」
「かまわないよ」
「じゃあ、街へ」
フェイフォンが提案すると、ラッシュは頷いた。
フェイフォンはいつもなら、自分の足でフィールド間の移動を行うが、時間がない。コマンドメニューを呼び出して街へ移動した。
瞬時に当たりの景色が変わり、石畳の上に立っていた。商店らしい建物が、道の両脇に立ち並んでいる。
建物の奥行きはあるものの、中に入ることはできない。すべて背景に過ぎなかった。
目の前の空間にラッシュが現れた。
遅い時間のためか、あるいはボクシングの試合開始が近いせいか、またはVSGのトーナメント大会が近いせいか、プレイヤーの姿は皆無だった。
普段なら数人いて、そこから情報が回って、観客が増えていく。今回は静まり返っていた。
「始めよう」
ラッシュが右手を差し出した。
フェイフォンはその拳に自分の拳を軽く当てた。
視界の隅に、カウントダウンが始まっていた。
二人は互いに一歩下がると、身構えた。
フェイフォンはいつものように、右半身を前に、右掌を空に向けて構えた。
対するラッシュは、右半身を後ろに引き、両拳を目の下あたりにそろえていた。グローブのおかげで、顔の大部分が見えない。
小柄なラッシュの姿が、フェイフォンに覆いかぶさるように見えた。
フェイフォンは思わず、一歩下がっていた。
気が付くと、ラッシュの頭が目の前にあった。
背筋に冷たいものが走る。
右側からグローブが迫っていた。鋭い動きで、かわす余裕はなかった。
フェイフォンはとっさに右手を押し上げてグローブの軌道を反らした。
視界の隅に何かが動く。
右手を使ってラッシュの右フックも軌道を反らした。ところが、顎の下に風圧を感じる。
フェイフォンが慌てて仰け反ると、ラッシュの左が空に向かって突き抜けた。
フェイフォンは飛び下がって距離をとった。
「やるじゃないか」
ラッシュはすぐには追いかけず、嬉しそうに言った。
「そうこなくちゃな!」
ラッシュが地面を蹴った次の瞬間、姿が消えていた。
消えたのではない。地面すれすれにいた。地面からせり上がるように、右拳を振り上げた。
フェイフォンはとっさに両腕をクロスさせてブロックした。だが、ラッシュの右は止まらず、フェイフォンのガードごと押し上げた。
フェイフォンはとっさにラッシュの肩を踏み台にして後方へ飛んだ。
この人はすごい。フェイフォンは驚くと同時に、嬉しくなった。
フェイフォンの好きな映画に、イップマンという武闘家の生きざまを描いたものがある。その何作目かに、ボクサーと戦うシーンがあった。
今のフェイフォンと同様、三分間耐えきれるかどうかの勝負だ。
映画と同じ勝負をしていると思うと、嬉しくて仕方なかった。
ラッシュの拳が怖いと思うものの、映画のワンシーンを自分で体験できる嬉しさの方が勝った。
この勝負を逃す手はないのだ。
フェイフォンは着地と同時に、右半身を前にするいつもの構えをとった。足の緊張が解け、緩やかな構えだ。
ラッシュが猛スピードで間合いを詰めてきた。同時に左ジャブが飛んでくる。
フェイフォンは下から外に向かってはじくと、一歩踏み込んだ。その背後にラッシュの右が突き抜けた。
ラッシュの腰が横回転を始めていた。次は左のフックが来るのだろう。
フェイフォンはぶつかるように右ひじを打ち出し、ラッシュの腰の回転を止めた。そして自分も腰を回転させ、左の拳を打ち出した。
ラッシュは上半身を器用に振ってかわした。かわすと同時に、次の攻撃に移っている。
超至近距離での打ち合いが始まった。
だが、どちらの攻撃も当たらない。
フェイフォンは全てをいなした。
ラッシュは全てをかわした。
ラッシュの攻撃は、すべてに重みがあった。手で受け止められそうにない。一発でももらえば、意識を刈り取られ、一気に連打を浴びせられる。
一瞬も気を緩めることができなかった。
ひしひしと背中に感じるものがある。怖がって後ろに下がれば、恐ろしい結末が待っていると訴えているかのようだ。
だが、目の前の拳圧は、背中のそれよりも大きい。
下がることも、前へ出ることも難しくなっていた。
これがプロボクサーの実力なのだと、感心していた。
ラッシュが体を左右に振る。その動きが少しずつ早まっていた。体が戻ってくるたびに、重たいパンチが横から飛び込む。動きが早くなるにつれ、そのパンチの重みも増す。
いなしきれない。
フェイフォンはとっさに、ラッシュの体を蹴って、後方へ倒れるように飛んだ。
ラッシュが猛然と追いかけてくる。フェイフォンの着地の瞬間を狙って、再び打ち込もうと言うのだ。
フェイフォンは空中で体を回転させた。足が地面についた瞬間、再び飛び上がり、体を回転させて足からラッシュに飛び込んだ。
無影脚を打ち込むつもりだったが、ラッシュは膝を折り、背を地面につけんばかりに仰け反ってかわした。そしてその体制から、パンチをフェイフォンの背中に打ち込んでいた。
ラッシュの体制が不十分だったために、大したダメージではないものの、フェイフォンの肝を冷やすには十分な攻撃だった。
フェイフォンは何とか着地すると、体勢を立て直した。
無用な飛び込みは避けなければならない。かといって、至近距離での打ち合いは、ラッシュに一日の長がある。
フェイフォンは正直、打つ手がなかった。だが、その窮地に、恐ろしいはずの対戦に、心が躍った。
映画のラストバトルのように思えた。主人公が苦戦する。それでもチャンスを待って耐え、僅かな隙に逆転を演じる。
逆転まではいけないかもしれない。ラッシュはそれほどに強い。あの回転がさらに速度を増し、左右からのパンチの連続をもらったら、もう止まらない。一発もらった時点で負けが確定だ。
緊迫感で、頭が真っ白になる。
でも、もっと戦っていたい。それがフェイフォンの思いだった。
ラッシュが頭を左右に振りながら走り込んできた。射程内に入ると、先ほどの攻撃が始まるのは間違いない。
フェイフォンは先手を打って、立ち蹴りを出した。ラッシュがかわした方向へ、その足を払う。それでもラッシュは止まらなかった。
ラッシュの体が左に沈んだ。
フェイフォンは急いで蹴り足と軸足を入れ替えて一回転し、ラッシュを迎え撃つように蹴り下ろした。
蹴りを迎え撃つかのように、ラッシュの右パンチが昇ってくる。
ブザーが鳴り響いた。
いつの間にか、時間のカウントが終了していた。
フェイフォンの蹴り足が、ラッシュの顔の前で止まっていた。
ラッシュはその足を見上げるようにしている。だが、右の拳はフェイフォンの目の前にあった。
カウントが終わっていなければ、どちらが先に当たっていたのだろうか。当たっていれば、どちらも大きなダメージを受けていた。
フェイフォンはHPが低い。たとえ相打ちになったとしても、そのダメージで負けていたはずだ。
二人はゆっくりと体制を整えた。
ラッシュが拳を差し出した。
フェイフォンは戸惑いつつ、その拳に自分の拳を打ち合わせた。
「いい勝負だった。次は俺が勝つ」
ラッシュは微笑んでそう言うと、その場でログアウトしていた。
8
日付はとうの昔に変わっていた。
駿はVRギアを外すと、大きなため息を漏らした。汗で服が重たい。
ゲームを終えて、これほど汗をかいていたことはない。ラッシュとの対戦で、これだけの汗が出たのだ。
手足が震え、思うように力が入らない。それでも、急いで風呂に入ってこなければ、ラッシュの試合が始まってしまう。
駿は着替えを持って、ふらつきながら共同浴場を目指した。
ひと風呂浴びるとさすがに落ち着いた。まだ手や足に、ラッシュとの対戦の余韻が残っていた。
その余韻は、なぜか心地いい。
駿が自分の拳を見つめながら部屋に戻ると、部屋の前でサクチャイが待ち構えていた。
「あ、おかえり」
「シュン!対戦しよう!」
サクチャイは目をしばたかせていた。心なしか、目の下にクマがあるように見える。
「今から?ごめん、ボクシング観る」
「なんだって!」
「ほら、グレン・ザ・ラッシュ・ハワードの試合」
「ラッシュ…」
サクチャイは下を向いて、呟くように言った。
「それは、観たいじゃないか!」
サクチャイは顔を上げると、人の部屋に早く入ろうと言う。
駿は苦笑しつつも部屋に入り、サクチャイを招き入れた。
駿の父親が作った小型のノート型PCを部屋の窓型モニターに接続し、ライブ配信を映し出した。どこかのリングが映っている。
すでにリング上に、小柄な男が立っている。ゲーム内のラッシュとそっくりで、肩の筋肉が盛り上がっていた。
「グレン・ザ・ラッシュ!」
サクチャイが大きな声を上げていた。
「ファンなの?」
「もちろん!カッコいいじゃないのさ!」
サクチャイの声はいつものように元気だが、顔はやはり疲れの色が見えた。駿と並んでベッドの端に座る彼は、一回り小さくなって見えた。
画面に動きはほとんどない。チャンピオンの登場を今か今かと待ちわびているようだ。
英語の解説が聞こえる。その声にかぶせるように、日本語の解説もあった。
ラッシュは英語圏の人間なのだと、駿は改めて思った。先ほどまでは、名前から、漠然と向こうの人と考えていただけだった。
ゲーム内では自動翻訳のおかげで、言葉の境はない。国も関係なく遊べる、自由な場所なのだ。だからこそ、駿はラッシュとも知り合えた。
彼との対戦の余韻が、体の芯に残っている。余韻が駿の体を奥から熱くした。
駿にとって、多くの物を得た対戦だった。まだ漠然としているものの、恐怖に対する方法が分かったように思えた。
実践するには、まだまだ場数を踏む必要がある。なので、数時間後に迫った大会には間に合わない。このまま臨まなければならないが、体の芯に残った余韻が、いい方向へ後押ししてくれそうに思えた。
少し前まで、対戦の時の恐怖について、サクチャイにも聞こうと思っていた。しかし、ラッシュのおかげで、聞くまでもなくなったと思えた。
気になることと言えば、ここ数日、サクチャイはどうしていたか、である。
駿が仕事はどうだったのかと尋ねると、サクチャイはうんざりしたように顔を押さえ、唸り声を上げた。
「今回は大変だったよ。大会に間に合わないかと思ったよ」
「間に合ってよかったね」
「寝る時間も練習する時間もなさそうだけど」
サクチャイはそう言って、眠そうに目をこすった。
「少し寝たら?僕は寝られそうにないから、ここでどうぞ。時間が来たら起こすよ」
「いや、いい。この試合も観たい」
その時、会場の端にスポットライトが当たった。チャンピオンの入場だ。
ローブをまとっているのでよくは分からないが、体格的にはラッシュと同じくらいだ。
「技巧派チャンピオン!」
サクチャイはチャンピオンを知っているらしく、拳を握りしめて言った。
「でも、ラッシュに勝って欲しいよ!」
「僕もラッシュを応援する!」
先ほど対戦したラッシュに、断然、感情移入していた。源次郎にほだされて観る気になっていたが、今は応援するつもりだ。
夜はまだ明けない。
部屋は明るく、盛り上がっていた。