父からの便り
1
目の前の紅いコウガが消えた。
大本駿は、自分が操作する、ウォン・フェイフォンの目を通して見ていた。
倒した相手が消えるのを見ると、やっと助かったのだと実感できた。勝った実感よりも、助かった、であった。
そこはVSG3という対戦格闘ゲームの中だ。VRによって、現実世界のように見える。
殺風景な岩肌の斜面が続いている。下は広大な景色だ。上は火口になっている。
駿は荒い呼吸を整えた。まだ足に力が入らない。
目の前に、二人目のNPCが現れた。これもいつもと違う、紅い色をしている。
「うそだろ…」
駿は先ほど、死ぬ思いをして、紅いコウガを打ち取ったばかりだ。疲労のために、まだ立ち上がれずにいた。その目の前に、紅いフェルナンドがいる。彼はコウガより強い。
駿は勝ち目がないと諦め、腰を落とし、目を閉じた。その時を待つ。
妙な掛け声とともに、足音が脇をすり抜けていった。
駿が目を開けてみると、浅黒い肌をした、上半身裸の男が、紅いフェルナンドの頭を抱え、膝蹴りの連打を浴びせていた。サクチャイ・シングワンチャーの操る、モモタロウと言うキャラクターだ。
モモタロウは着地すると、フェルナンドの空手突きをかわすように頭から地面に倒れた。片手をついて側転のように足を上げ、その足でフェルナンドに二撃を与える。
紅いフェルナンドは無造作に足を振りぬき、モモタロウを蹴り飛ばした。
モモタロウは空中で体勢を立て直し、岩場に着地すると、再び紅いフェルナンドに立ち向かった。素早い動きであっという間にフェルナンドの懐に飛び込むと、左右の肘で連打した。そして飛び上がり、膝を相手のあごに入れた。
紅いフェルナンドが空中へ弾き飛ばされた。
「そのまま戦うかい?」
駿の後ろから声が上がった。振り向くと、侍の格好をした、ヤマトタケルがいた。
「代わって!」
モモタロウはそれだけ言うと、後ろに飛び退いた。
ヤマトタケルは一瞬で、落下中の紅いフェルナンドに詰め寄ると、いつの間にか抜き放った刀で袈裟懸けに斬っていた。
紅いフェルナンドの体が二つに割れ、KOの文字が躍った。
「僕があれほど苦戦するのに、一撃だよ…」
モモタロウが駿の脇にやってきて、ぼやいていた。
「紅いコウガ、倒したの?無茶するね」
「ん?負けたんじゃないのか?額の向こう傷が残っているぞ?」
ヤマトタケルも駿の目の前に来ていた。いつの間にか、刀を鞘に納めている。
「僕が来たときはもうフェルナンドだったよ」
「マジか。シンクロ率50パーで勝てるのかよ」
ヤマトタケルはそう言うと、駿の額に触れた。
「いいな、その傷。天下御免の向こう傷!」
ヤマトタケルが訳の分からないセリフを吐いていた。
「旗本退屈男じゃの。なるほど、三日月傷ではないが、それらしい位置じゃ」
いつの間にか、セーラー服姿の桃子が駿の顔を覗き込んでいた。愛らしい目で見つめられると、胸の奥が締め付けられる。
だが、桃子の中身は好色な老人だ。駿はそうと分かっていても、桃子の目で見つめられると、心臓が高鳴ってしまうのだった。
「俺にその傷をくれ!サムライらしい!」
ヤマトタケルはそう言って両手を広げていた。
駿は自分の額に触れてみた。縦に溝がある。どうやらこれのことを言っているらしい。
いつの間に付いた傷かと悩んで、思い当たった。紅いコウガと対戦し、一度は負けた。その時、額に攻撃を受けていた。その傷が残っているようだ。
普段なら、一つの対戦が終わると、傷などの状態は消える。なのに、この傷は残っていた。
紅いコウガと戦い、負けると能力値が下がるペナルティがあると言われていた。駿はそのことを思い出し、確認してみると、HPの上限値が少し下がっている。どうやら、これが原因のようだ。
「少しHPの上限が下がった…」
「それ、ペナルティね。って、一度負けたの?」
「うん。勝てる気がして、すぐに戻った」
「それで、勝った?」
「マジか!」
ヤマトタケルをはじめ、周りの人々が口々に驚きの声を上げていた。
「お前ら。そんなところで油を売っていると、巻き込まれるぞ」
聞き覚えのない声が聞こえた。
銀色の甲冑に身を包み、金髪の男が剣を構えていた。名前はランスロットと表示されている。
ランスロットと対峙するように、NPCの紅いミーナが立っていた。
紅いミーナは遠距離攻撃を得意とする。すぐに下がって攻撃しようとするのを、ランスロットが一瞬で追いすがり、手にした剣の一突きで仕留めていた。
「えげつねー」
ヤマトタケルが言った。だが、彼もフェルナンドを一刀のもとに斬り捨てている。駿から見れば、どちらも戦いたくない相手だ。
「やはり武器かの」
「武器はダメージ大きいね」
武器を使わない、桃子やモモタロウが羨ましがった。
「その代わり、コンボがつながらない。コンボのボーナスダメージがない!」
ヤマトタケルは逆に、無手で戦う人々の連打にあこがれている様子だ。
見たことのない人々が次々と現れた。一様に嬉しそうな顔をしている。
「祭りだ!祭りだ!」
「わっしょい!」
人々は口々に何か言いながらも、次のNPC、片手剣を持ったガーランドに、集団で挑んでいた。
「今日こそは一発入れて、逃げる!」
「また死ぬなよ!」
「もうペナルティは勘弁してほしいね!」
新たな集団が現れ、NPCに群がっていった。
イベントか何かが発生したかのように、プレイヤーキャラクターが続々と集まっていた。
丸い大きなものが空中で回転して、斬撃を放っていた。あの独特な動きは、玉吉だ。駿の学友、渡辺一志が操作するキャラクターだ。
周りの人々は慌てて間合いを取り、玉吉の攻撃が終わると再びNPCへ殺到した。
周りの動きを巧みに利用し、まるで踊るように戦う女性武闘家がいた。名前の表示はユウだ。
駿は何が起こっているのかよく分からなかったが、とりあえずもう安心らしいとは分かった。膝を伸ばして岩場に座り込み、人々の戦う様をぼんやりと眺めていた。
「リプレイを見させてもらった」
ランスロットが駿の傍に立っていた。駿が見上げると、ランスロットは胸鎧を叩いて見せた。
「貴公の手練、見事なり」
「おー、すげー」
ヤマトタケルの目がうつろだ。何かを確認しているらしい。
「119ヒット!マジか!100超えてるじゃないか!」
「そんなにすごいの?後で僕も映像探してみよう」
モモタロウは今見られないことがもどかしいと言わんばかりだ。
「まれにみる妙技だ。ウォン・フェイフォン対エクストラコウガは、ここ最近で一番の注目を集めるだろう」
ランスロットはそう言って、駿に右手を差し伸べた。駿の手を取り、力強く握手した。
「我々武器組に対抗できる武闘家が、生まれたのかもしれない。いつか、我らと一戦交えようではないか」
「VSG3は武器が強いともっぱらの噂だからのう。次いで魔法組じゃ。無手組は最近、人気が落ちておる」
桃子が駿の肩に手を置いて言った。
「僕は魔法組に負けたことないけどね」
モモタロウが白い歯を見せてほほ笑んだ。
「確かに俺らはひと斬りすりゃ勝つが、素早い動きの武闘家も厄介だぞ」
ヤマトタケルが指示した。
五人目のNPC、ロンが暴れていた。カンフーを使う紅いロンは、群がるプレイヤーを寄せ付けない。
「お二人さん、助けに行かなくていいのかの?」
「まだ大丈夫でしょ」
桃子の問いに、ヤマトタケルは素気無く答えた。胸の前で腕を組み、傍観者を決め込んでいる。
「魔法組が参戦したな。大丈夫だ」
ランスロットは剣を岩に突き立て、柄頭に両手を置いていた。
集団の中から、両手の間に炎をほとばしらせた男が突出した。その横を氷の槍が、ロンに向かって飛ぶ。
「フェイフォン。君も参加するかね?」
ランスロットは駿を振り向きもせず、言った。
「いえ、止めときます。コウガですら、死ぬ思いだったんだから」
駿はまだ、動く気にはなれなかった。もう立ち上がれそうな気はするのだけど、胸の奥や頭の中は、紅いコウガとの対戦の余韻が残っていた。
「そうか」
白銀の鎧に包まれた女性剣士が現れた。NPCのワルキューレだ。その白銀の鎧も紅く染まっている。
ワルキューレは空中移動もできる、厄介な敵だ。だが、遠距離攻撃のできる魔法組が先陣を切って戦えば、何とかなりそうな雰囲気だ。
駿は通常のワルキューレにもまだ勝てたことがない。もはや天上の戦いが、そこに広がっていた。映画のワンシーンでも見るような気持ちになっていた。
丸い頭の玉吉が、集団の中から抜け出し、駿の元へやってきた。
「そろそろ撤退だ」
玉吉はそう言うと、駿の傍に座り込んだ。彼も傍観するつもりのようだ。
「よくやるねぇ。僕はコウガにすら苦戦したのに」
「その額はもしかして…?」
「うん、コウガに一度負けた」
「で、戻ってコウガを倒した」
駿と玉吉の会話に、ヤマトタケルが一言添えた。
「なんですとぉ!」
玉吉が顔全体に広がるほど目を見開いた。
「まだ始めて一ヶ月かそこらだよね?それで倒しただ?あり得ね!」
「一ヶ月半、かな?」
「そのうち一ヶ月はインしてなかったけどね」
モモタロウが面白そうに割り込んだ。案の定、玉吉が面白いほど表情を変えて驚いた。
「先生方、油を売ってる場合じゃないの」
桃子の言葉に応えるように、ランスロットが剣を持ち上げた。ヤマトタケルも剣を抜き放った。
七番目のNPC、ポレドが出現した。駿がまだ見たことのないキャラクターだ。
ポレドは武器を持っていない。ただの中年に見える。だが、周りのプレイヤーたちはわれ先に逃げ出していた。
ユウが円を描くように移動していた。その先にポレドがいる。ユウの拳が触れようとしたとき、ポレドの体が煙のように消え、新たに三人のポレドが現れた。
ランスロットとヤマトタケルがポレドめがけて駆け出した。
三人のポレドのうち一人に対し、炎使いの男が拳にまとった炎で殴り掛かった。だが、そのポレドが消え、なぜかユウがいた。
駿はユウがやられる、と思っていた。ところが、ユウはどうしたことか、炎使いと体を入れ替え、難を逃れていた。炎使いは勢い余って岩に激突する。
「すごい…あれ、太極拳…」
駿はユウの動きにくぎ付けだった。同じカンフー使いとして、興味がわいたのだ。
「うん、ユウちゃんもいいね」
玉吉が同意した。そして声を落とした。
「それよりも、そこのかわい子ちゃん、紹介しろよ」
駿は玉吉の言う意味を理解できず、思わず見渡した。桃子の白い太腿が視界に飛び込んだ。駿は慌てて玉吉に視線を戻す。
玉吉はちらちらと、桃子をうかがい見ているようだ。玉吉はライバルとしてではなく、女性として、ユウや桃子を見ているのだ。
駿は玉吉を非難する気持ちになったが、自分もあまり人のことを言えないと思いなおした。桃子と対戦した時、女性であることを意識しすぎて、手を出せなかったのだ。
微かに触れた、桃子の胸の感触は、今も思い出せそうだ。
駿は頭を振って考えを追い払った。
桃子の中身は、小柄な男で、老人だ。仲良くなった所で、玉吉の望むような展開はあり得ない。
しかし、プレイヤーを知っているからと言っておいそれと人に教えていいことでもない。無難な紹介だけして、逃げるに越したことはないようだ。
「ご老公。こいつ、僕の学友の玉吉。玉吉。桃子さんだ」
「こんなかわいい子を捕まえてご老公とは何だ!」
玉吉が怒りをあらわにしていたが、駿は相手にしなかった。
「よろしくね」
桃子が妙にしおらしい声で言い、微笑んだ。
玉吉の目が、まさしくハート形になっている。駿はため息を漏らすと、紅いポレドの動きを追った。
いつの間にか、モモタロウがポレドの一人に肉薄していた。飛び膝蹴りを入れると、たまたま実体に当たったようで、驚きの声をあげながら、連打につなげていた。
モモタロウがふいに腰を落とす。するとそこへヤマトタケルの、横なぎの一撃が入った。まるで後ろに目があり、見えていたかのような連携だ。
さらに、ランスロットも斬り込んだ。ヒット数が5になっている。
ユウが続いて肉薄し、可憐な手さばきで連打を入れた。
体勢を立て直したランスロットが再び斬りつける。ヒット数もカウントを増やし続けていた。
ヤマトタケルが上段に構えた剣に体重を乗せて振り下ろした。
ポレドはその一撃で倒れた。
八人目のNPCはアリシアという名の女性だった。モデルかと思うほどの美女だ。彼女は目に見えないバリアを張って、攻撃を防いだ。サイコキネシスで岩を動かし、周りのプレイヤーに向けて飛ばした。
「ガードを外すよ!」
モモタロウがそう叫んでいた。正面から飛び膝蹴りで踊り込んだ。
アリシアは目に見えないバリアでそれを防いだ。
ユウがアリシアの斜め後ろから滑り込み、アリシアの脇腹へ手刀を入れた。その攻撃に続くべく、モモタロウが肘打ちの連打を見舞った。ヒットカウントが始まる。
ランスロットが体重を乗せた剣を突き上げた。入れ替わるように、モモタロウが横へ飛んで逃れていた。
ランスロットの突きが当たると同時に、ヤマトタケルが横合いから三段突きを放った。
ランスロットが体を一回転させ、片膝に体重を預けながら、横に剣を薙いだ。分かっていたかのように、ヤマトタケルはすんでのところで飛び下がって、巻き込まれないようにしていた。
紅いアリシアが岩場に倒れた。KOの二文字が空中に踊る。
遠巻きに見学していたプレイヤーたちが思い思いに声を上げ、手を叩いた。
2
NPCは九人までいるが、最後のキャラクターは現れない。駿が疑問に思って聞くと、ハウルは特定の場所に閉じ込められているのだと言う。
「今からハウルのいる場所に行けば、紅いハウルが見れると思う」
通りすがりに駿の疑問を聞きつけたプレイヤーたちが口々に言った。
「でも、通常のハウルすら、誰も倒せていないからねぇ」
「ハウルに挑戦してもいいけど、逃げてはいけない。逃げるとハウルが追って、外へ出てしまう」
皆、ハウルという九人目のNPCを恐れているようだ。
「外へ出たらどうなるの?」
駿は疑問を口にした。
「世界の終わり…」
プレイヤーたちはそう言って去っていった。
「前に出たことがあったのじゃ」
桃子が話を引き継いだ。
「どうなったの?」
「破壊の限りを尽くし、まさしく、蹂躙したの」
「………」
「セイントと言う名のプレイヤーがどこからともなく現れて、ハウルをもとの場所に誘導して、難を逃れたのじゃ」
「そうなんだ」
玉吉も一緒になって聞いていた。彼も知らない話だったようだ。
「じゃから、ハウルに挑戦してもいいが、おとなしく負けて来い、ということじゃの」
「ヤマトタケルやランスロットでも勝てないの?」
「無理だった」
答えたのはヤマトタケルだった。いつの間にか傍に来ていた。ランスロットの姿は見えない。
「あれには手を出さないことだ」
「でも、ハウル初討伐すると、賞金が出るでしょ」
玉吉が言った。
「賞金は欲しいね。でも、勝てる気がしない」
モモタロウも挑まない方がいいと言う。
駿は、まだワルキューレにも勝てないのだ。ラスボスなど、まだまだ先のことで、考えに及ばない。
そもそも、駿が苦労して倒した紅いコウガより強いNPCを、目の前の人々は簡単に倒して見せた。それだけの力量差があるのに、強者たちが口をそろえて、勝てないと言う。駿がそのハウルの足元にも及ばないことが推し量れようというものだ。
辺りから人々がほとんどいなくなると、お開きとなった。
駿は玉吉たちに別れを告げ、適当にNPC戦を楽しんだ。
ひとしきり遊んで終了する。
ボックス筐体から出ると、なぜか、拍手喝さいで迎えられた。順番待ちや、一息ついて巨大モニターの前にいた人々が、一斉にこちらを向いて、手を叩いている。
何事かと思っていると、その巨大モニターに、ウォン・フェイフォンが紅いコウガと戦う様子が映し出されていた。何度もリプレイされているらしい。KOの文字が躍った後、再び、紅いコウガの背中越しの映像になり、ウォン・フェイフォンと向き合っていた。
拍手する人々の中に、サクチャイやダーククローのプレイヤーの青年もいた。以前、駿にからんだ三人組までいる。
人々が口々に誉め言葉を叫んだ。以前、駿にからんできた三人組も例に漏れない。
駿は戸惑い、頭をかきつつ、モニターの前に行って、自分の戦いを眺めた。
自分で見ても、驚きだ。もう一度やれと言われても、できそうにない。よくもあれほど、コウガの動きを封じられたものだ。攻撃が読めたものだ。あの時、どうしてそれが分かったのか、思い返しても、分からない。
まぐれだったとしか言いようがなかった。
駿は人々に歓迎のしるしに、肩を叩かれ、背中を押された。
駿は恥ずかしくなり、そそくさと外に逃げ出すのだった。
サクチャイが追い付いてきた。
「大人気だね!次からたぶん、対戦の申し込みが殺到するよ」
サクチャイはそう言って白い歯を見せた。
「みんな、駿の強さを体験してみたくて!」
「あれはまぐれだ。もう一回やれって言われても無理だからね」
「ご謙遜を!」
サクチャイはそう言って、駿の背中を叩いた。細身の割に筋肉質な彼の一押しは、強烈だった。
駿はむせ返り、サクチャイを睨みつけた。
「ごめんちゃい!」
サクチャイはそう言うと、白い歯を見せて笑った。
後日、ゲームにログインすると、見知らぬ人から対戦を申し込まれた。それも多数である。
大半はそれほど強くなかったので、苦も無く勝てた。だが、何人かには負けた。
アグニと言う炎使いの男性に、燃やされて負けた。彼が紅いNPCにも挑んでいたのを駿は覚えていた。
あの祭り状態でNPCに挑んだ大半の人に、駿は負けた。
「やっぱりあれはまぐれだった」
駿は念を押すように呟いた。それでも挫けず、ゲームに興じた。
駿からも人に対戦を申し込んだ。太極拳使いのユウだ。
ユウは目の前で見ても優雅な動きだった。それでいて、俊敏である。円を描く足運びで動く。その動きには隙がなく、攻防一体だ。
気が付くと、足元に、陰陽太極図が描かれていた。その軌跡が、ユウの動きそのものなのだ。
駿はその太極図の中心に沈められた。負けはしたが、どこか清々しい。が、ユウの反応は違った。
「攻撃もできないのに、挑んでこないでちょうだい」
ユウは言い捨てるように去っていった。
彼女の言い分ももっともだ。駿は挑んだものの、女性の体のどこを攻撃していいのか分からず、手が出せなかったのだ。
駿は苦笑いするしかなかった。
駿の負けが込んでいると分かると、だんだんと対戦を申し込まれなくなっていった。
「意外とたいしたことなかったぞ」
「対人に弱いってことだな」
などとうわさも流れた。
「おやおや、寂しくなったね」
結局残ったのは、いつものメンツだ。モモタロウに、桃子。この二人は駿のことを構い続けた。
「シンクロ率も伸び悩んでいるようだね」
モモタロウの指摘通りだ。駿は最近、自分のシンクロ率を確認しながら戦っていたのだが、50パーセントから上には上昇してくれなかった。
対戦仲間のダーククローとは、五分の勝率に戻せたが、他が振るわない。
「シンクロ率が上がれば、力も素早さも底上げされて、けた違いになるからね」
「同じ動きでも、別物になると言うものじゃ」
モモタロウと桃子が、シンクロ率についてそう言ったことがあった。
だからこそ、駿もシンクロ率を上げたいのだが、方法が分からない。そこで、二人にアドバイスを求めた。
「慣れることじゃの」
「熱くなればいい!」
「好きこそものの上手なれ、じゃぞ」
「怒りだ!怒ってサイヤ人になるんだ!」
桃子とモモタロウのアドバイスは、あまり役に立たないらしい。
3
駿はサクチャイに先に行くように告げ、自分はカウンターに立ち寄った。最近負けが込み、クレジットが残り少ない。
VSG3用のカードを店の機材に差し込み、駿の小型ノート型PCを接続させた。PCのモニターに残高と、プリペイドの購入履歴、購入額の選択肢が現れた。
駿は履歴を見て、手が止まってしまう。小遣いと定めている金額を、すでに使い切っていた。これ以上は食生活に影響が出てしまう。
駿は対応した店員に、やはりやめておくと謝った。
駿は悩んだ。プレイ回数が減れば、シンクロ率を上げるどころではなくなるだろう。今のままで、目指す大会に出場して勝ち進めるのだろうか。
あと一ヶ月半ほど先に、世界大会へ続く大会がある。その大会で勝ち進み、全国大会へ行かなければならない。
その全国大会で、駿をVSG3に誘った、学友の雄太が待っている。是が非でも会いに行きたいと、駿は思っていた。
だが、ここ最近の勝率を思うと、全国大会出場も危ぶまれる。何か抜本的な方法はないものかと悩まずにはいられない。
駿が物思いにふけりながらゲームセンターを出ると、サクチャイがカード型の端末を片手に、何かの情報を見ながら待っていた。
「シュン。面白いネタがあるね」
サクチャイがそう言って端末を駿の目の前に向けた。それはどこかのSNSらしい。
日本の政府は嘘だらけ、という文言から始まり、地下都市が十あると言う政府の主張は真っ赤な嘘であると告発していた。
根拠には、たった五年でこのような都市を、幾つも作れるはずがない、と上げていた。
ここまでの流れは、今までの噂とさして変わらない。ところがこの情報にはさらに、実際の都市数は四つだと言い切った。北東京、ニュー東京、岐阜、岡山である。
駿が授業で習った話では、北海道、東北、東関東、阪神、四国、九州の六ケ所が加わる。情報にあった岐阜は、東海として習った。岡山は中国だ。
小さな疑問は以前からささやかれていた。なぜ、駿たちがいる都市を、北関東とは呼ばず、北東京なのかと。また、ニュー東京だけ、なぜ海中都市なのかと言う疑問もあった。
ニュー東京はさらに特殊で、都市間をつなぐリニアが発着しない。完全に独立した都市だ。
SNSの情報は、六つの都市が、架空のものだと告発していた。
各都市、一千万人規模の収容人数を誇ると、政府は喧伝してきた。
十年前のIT崩壊事件後、人口が大幅に減少した。サイバーテロによって引き起こされた一連の事故で、多くの人々が命を落とした。
十もの都市があれば、一億人の国民を収容できる。都市への移住が開始されたころ、日本の総人口は一億人を割り込んでいたはずだ。
都市の入居は五年前だ。駿が中学に進学する年だった。なので、多少なりと覚えている。ニュースで、全国民の安全が確保されたと、喧伝していたのだ。計算上では、その通りのはずだった。
このことにもSNS上で実しやかにささやかれていることがある。
全国民を収容できたのなら、なぜ、入居者を抽選で選ばなければならなかったのか。なぜ、都市への入居を拒んだ人々がいたのか。さも、人があふれ、入りきらなかったかのような現状の、説明ができないではないか。
この新たな情報は、そういった疑問の裏付けのように見えた。
実際の都市が四つしかないのなら、収容できたのは都合四千万人だ。いくら十年前の事件で人口が減少したとはいえ、さすがに全国民を収容できるはずもない。入居者を抽選で選ぶと言うのもうなずける。そういった動きに反発し、自ら入居を拒んだ人々がいても、おかしくない。
だからこそ、サクチャイは面白いネタがあると言ったのだ。
駿にとっても興味深い話だ。どこか陰謀めいた事柄に、筋が通ってくると、妙なときめきを感じてしまう。
「すごいネタだね…。これなら色々説明が付きそう…」
「だよね。日本、まだまだ面白い国ね」
サクチャイは日本にあこがれて、移り住んできたと言う。はたから見れば、日本と言う国に幻滅しそうな話だが、サクチャイは面白いと言う。サクチャイも陰謀話に胸を躍らせる一人なのかもしれなかった。
二人で連れ立ち、居住区まで下りると、サクチャイが思い出したように言った。
「ご老公が新しいギア買ったって」
「え?本当に?」
「ほんとほんと」
「でも、ボックス筐体も持っているって言わなかった?」
「うん、持ってるよ」
「一人で両方は使えないし、意味ないじゃん!」
「そうでもないよ。僕らが押しかけても、二人同時にプレイできるね!」
サクチャイに言われて、駿はひらめくものがあった。
「サクチャイ!」
「水臭いな!モモタロウと呼んでよ!」
「今度、ご老公の家に行こう!そこでプレイしよう!」
駿は、あわよくば、無料でプレイできるのではないかと、皮算用していた。無料プレイならば、色々試せるのではないか。シンクロ率を上昇させる方法を探せる気がしていた。
「うん!行こう!明日にでも行こう!」
サクチャイも乗り気だった。
駿にとっては乗り気なサクチャイはありがたい。説得する必要がないのだから、大助かりだ。
駿はご老公こと山科源次郎の自宅を知らない。知っているサクチャイに連れて行ってもらわなければならないのだ。
サクチャイが乗り気になれば、本当に明日にでも、彼が誘って連れて行ってくれるだろう。
駿はゲーム代に困った矢先の、棚から牡丹餅のようで、嬉しかった。
帰宅後、うまくいったと思いながらノート型PCを開き、目を疑った。
見たことのないメッセージが表示されていた。
「VSシステムとの接触を確認。CR起動。既定の処理を実行しました」
メッセージを何度も読み返してみても、理解できない。
このノート型PCは、現在行方不明の父親が残した、自作PCだ。駿も何が仕込まれているのか知らない。
父親が何かを仕込んでいたとしか考えられない。が、何が起こったのか、見当もつかなかった。
PCの異常動作に不安になる。同時に、父親の影がちらつき、色々な感情が押し寄せた。
「父さん…どこにいるんだよ…」
父親が行方不明になって、五年近くが経つ。
最近はサクチャイのおかげで寂しさもそれほど感じていなかったが、駿一人で暮らすのは時々、無性に侘しくなる。
母親はIT崩壊事件の時に亡くなった。父親は都市への入居後、すぐにいなくなった。
父親が行方不明になると、駿は今の共同宿舎に移され、一人で生活する羽目になった。共同宿舎ならば、食事の心配はないので、あのまま一人で取り残されるよりはよほどましであった。
だが、頼れる相手が一人もいないことには変わりなく、不安が募り、不安定になった時は、いなくなった父親を恨まずにはいられなかった。寂しさを嘆かざるを得なかった。
VSGをするようになって、せっかくそのことを忘れかけていたと言うのに、PCの異常動作で父親の影がちらつく。
いい迷惑である。
「こんな仕掛けするくらいなら戻って来いよ!」
駿はPCに向かって文句を言った。
父親が冷たくあしらうかのように、PCは何の反応も示さなかった。
4
駿は寝付けなかった。PCの異常動作の原因と結果を確認しようと、つつきまわしていた。そうでもしていないと、父親のことを思い出し、寂しさに押しつぶされそうだった。
やっと眠気に誘われ、寝ようかと思ったら、窓の表示が朝焼けに変わっていた。
駿の部屋に窓はあるものの、そもそもここは地下深いところにある。外界の景色が映りこむはずはない。
この窓は液晶モニターになっており、住人の希望に合わせた背景が表示されるようになっていた。駿は外の景色を選んでいた。なので、時間に合わせて、色合いも変わる。
窓の映像で見るとおり、実際に、日の出頃の時間なのだ。
駿は眠い目をこすった。このまま寝たら起きられそうにない。
駿は部屋を出て、共同トイレの水道で顔を洗うと、身支度を整えた。
駿は通信教育の講義を、いつも外で受けている。部屋で聞いていると、だらけて寝てしまったり、他のことをしてしまったりしそうだからだ。
駿はまだ人通りのない外に出ると、憩いの広場のフロアを目指した。
フロアにつくと、遊歩道を歩いたり散歩したりする人々の姿が見えた。早い時間帯や夕方に、そのような人々が多く見受けられた。とはいえ、早朝の状況を見るのは、これが初めてだ。
ロボットペットを連れて散歩をしている人もいる。
駿は遊歩道を外れ、芝生を横切って、いつもの噴水を目指した。
ふと横を見ると、芝生の上で、ゆったりと体を動かす女性が目についた。足を移動し、手足をゆっくりと振る。体重移動を繰り返すその様は、踊っているようにも見えた。手や腕の揺らめきは、風のようでもある。
駿が興味を抱いたのは、その動きが太極拳だと思ったことだけではなかった。
ゆったりと時間の流れも取り込んで動く。風に流れるように、芝生の上を泳ぐように。その太極拳の動きはとてもきれいだ。そして太極拳を演じる少女も、まぶしかった。
ポニーテールを揺らし、黒ぶちのメガネの奥に、目に見えないはずの風をとらえているかのような瞳があった。
駿は彼女の名前を知らない。雄太に教わったのだが、覚えていない。
ポニーテールの少女は以前、駿が講義で教授にからまれた時、助けてくれたことがある。だから、顔は覚えていた。
前に、居住区ですれ違ったときは、声をかけることができなかった。
駿は足の向きを変え、踊る少女を目指した。
少女は目の前に来た駿を一瞥したものの、太極拳の動きは止めなかった。
「おはよう」
駿は勇気を出して声をかけた。言葉がかすれたような気がする。
「おはよう」
少女はそっけなく答えた。
駿は言葉に詰まる。以前のお礼を言わなければと思うのだが、のどが渇き、張り付いて、言葉が出ない。
「何か用?」
少女が不審そうに駿を見た。それでも太極拳は続けていた。
「健康のための運動よ。文句ある?」
何も言えずに見つめる駿のその目が、少女には不信の目に見えたのかもしれない。彼女はぶっきらぼうに説明した。
「ないよ。すごくきれいだったから、その…」
駿は誤解を受けたことに焦り、半ば自分で何を言ったのか分からなくなっていた。頭の中は真っ白で、考えることもできない。
少女の動きが止まっていた。
駿は何かまずいことを言ったのだろうかと、焦った。
少女は長いこと駿を見つめた後、呟くように言った。
「そう。ありがとう」
駿は数十分睨みつけられたような気持ちになり、少女の言葉を聞き逃していた。
少女は芝生の上に置いてあった鞄とタオルをとると、駿に背を向けて歩き出した。
駿は焦った。以前も声をかけようとして、できなかった。それが今は、何か失敗したかもしれないが、声はかけられたのだ。この場を逃す手はない。
駿は少女の背に声をかけた。
「この前はありがとう!」
「この前?」
少女が振り返り、不審そうに首をかしげた。
「この前っても、もう二ヶ月くらいになるかな?いけ好かない教授にからまれた時に、助けてくれたでしょ」
駿は勢い込んで説明した。
少女は首をかしげて思い返している様子だった。駿の顔をもう一度見て思い出せたようで、礼なんていらないと言った。
「また会いましょう」
少女はそう言って去っていった。
駿は足の力が抜け、芝生の上に座り込んだ。頭に血が上り、考えることもできない。胸が激しく打ち付け、まるで走り込んできたかのようだ。
駿はしばらくそのまま呆然としていた。
少女の踊るような動きが目に浮かぶ。背筋が伸び、優雅に演じた太極拳は、駿の心にしっかりと刻み込まれていた。
武術の太極拳とは違い、先ほどのものは、言うならば、ラジオ体操と同じようなもののはずだ。健康のための運動だ。
なのに、少女が演じると、とても華やかに見えた。駿の心をつかんで離さなかった。
駿は余韻に浸り過ぎ、講義に遅刻することになった。
5
「おい雄太!あの子の名前、なんて言ったっけ?」
駿は休憩時間になるとすぐに友人の雄太に通信を入れた。
「あの子?どの子?」
雄太は話が見えないと顔をしかめていた。
「ほら、僕がいけ好かない教授にからまれて単位落としそうになった時、助けてくれた」
「あったっけ?そんなこと」
「おいおい。その時に雄太が、憂さ晴らしが必要ならVSGはどうかって勧めたんじゃないか」
「んー。そんなこともあったっけか」
駿は内心イラっとしながらも、根気強く尋ねた。雄太から聞き出せるまでは、おとなしくしているほかない。
駿は必死だった。今朝見かけた太極拳の少女の名前を、どうしても知りたかった。なぜそこまでこだわるのか、自分でもよく分かっていない。でも、知りたいのだ。
「ほら、学友で、ポニーテールに黒ぶちメガネの女の子」
「ポニー…黒ぶち…ああ!」
雄太が手を打ち鳴らした。
「なんで知りたいの?」
素直に答えない雄太であった。
駿はさらにイラついたが、表情に出すわけにもいかない。雄太の機嫌を損ね、教えてもらえなくなると困る。雄太の質問に答えて、多少は真実を告げた方がよさそうだ。
「いや、街ですれ違って。同じ都市にいたんだなって」
あながち嘘はついていない。実際にすれ違ったことはあったのだ。だが、太極拳を演じる彼女を見て気になったとは、言わない方がいい。変な勘繰りをされても困る。
「何だと!そこにいるのか!画面に出せ!」
「いやいや、近くにはいないって」
「あんなかわいい子の傍に住めるとは…俺と代われ!」
雄太がすごい剣幕でまくし立てた。
「無理だろ」
駿は無慈悲に答えた。だが、それでへそを曲げられても困る。慌てて核心を尋ねた。
「それで名前は?」
「河原優希だ」
雄太は意外と素直なようだ。あるいは優しさなのかもしれない。駿をおもんばかってくれたのだ。
駿は口の中で何度も復唱した。それだけで、なぜか胸が締め付けられる。
「おいこら!俺が先に目を付けたんだからな!」
雄太はおもちゃを取り合うようなことを言う。
駿は意味ありげなほほえみを返し、礼を述べた。これくらいの仕返しは、許されるだろう。
雄太はさらに念を押すように、手を出すなと言い続けていたが、授業が始まると言って通信を切ってやった。
次の講義が終わるか終わらないかというタイミングで、雄太から通信が入った。
「俺たち、友達だよな?」
想念を押すように言ったうえで、告げた。
「VSG3の全国大会で、雌雄を決しよう。そこで勝った方が、彼女に告白する!」
「え、ちょ、待って!告白って何!」
駿の想定外の提案がいくつも並び、当惑した。VSG3で戦うというのはいきなりの宣言だけど、まだいい。以前にも似たような話はした。だが、告白とは何だ。聞き捨てならなかった。
「ん?駿も河原優希に惚れたんだろう?」
「ホレ…いや、見かけたから名前を知っておきたかっただけで…」
駿は耳が熱くなるのを感じた。言い訳がましいことを言ったようにも思う。だが、ホレたのハレたのということは、考えもしていなかった。
風を誘うように動く彼女の腕。ゆったりと体を移動する脚。駿の目に、先ほどの光景が浮かんだ。
なぜあの光景が脳裏に焼き付き、離れないのだろうか。雄太の言うとおり、これがホレたというやつだろうか。
「違うのか?違うのなら、良い」
雄太は疑わしそうににらみながらも、そう言った。
「どちらにしろ、俺に勝つまでは彼女に近づくな!」
「なんでだよ!」
駿と河原優希は同じ都市に住んでいる。近づくも何も、ばったり出会う機会もあるだろう。
それに、見かけたら、また声をかけたいとも思っている。それを、雄太の一方的な思惑のために、やるなと言われて、はいそうですかとはいかない。
「なんでもだ!」
「グッ…。じゃあ、キャラ名教えろ!今日、対戦申し込みに行ってやろう!」
「それはできんな」
「は?」
「駿は初めてからまだ二ヶ月ほどだろう?まだまだ俺の足元にも及ばんよ」
雄太はそう言い放つと、次の授業の時間だと言って通信を切った。
先ほどの仕返しをされたらしい。
駿は思わず叫び声をあげていた。ハッとして辺りを見渡すが、幸いにも近くには人がいなかった。
雄太はよほど強いのだろうなと訝った。同時に、わだかまりが胸の奥につかえて取れない。
駿は講義に集中できなかった。
駿は今まで、恋をしたことがない。そういうことがどういうものかも分かっていない。
河原優希。
改めて彼女の名前を思い浮かべると、どこか落ち着かない。それでいて、口に出して呼んでみたい気がする。が、喉に言葉がつかえて言えないだろう。そんな気がしてならない。
これが恋なのだろうか。雄太と同じなのだろうか。
駿はふと疑問に思った。ということは、雄太は彼女のことが好きだと、駿に告げたようなものではないか。次の仕返しは、このネタで揺さぶるのがよさそうだ。
やはり講義に集中しきれない。イヤホンマイクから聞こえる内容は聞いているものの、目は辺りを見渡していた。
背後には、光の当たり具合で水が流れているように見える、噴水がある。駿はその噴水の縁に腰かけていた。
膝の上に、ノート型PCがあり、講義の内容を映し出していた。
足元は芝生が広がっている。
遊歩道の向こうに、林が見える。遊歩道沿いにいくつか建物もあった。更衣室であったり、公衆トイレであったり、休憩所であったりする。
遠くに見える中央の柱に、宣伝用の巨大なモニターがある。時折ニュースを流すが、大抵は何かの宣伝だ。PCを操作してチャンネルを合わせれば、音も聞くことができるが、今はまずい。さすがに講義の内容を聞いていないと、課題に対応できなくなる。
新型VRギアのCMが流れていた。
その映像の中に、何かが紛れた。
駿は気になって見つめていると、再び映像が乱れた。ほんのわずかな瞬間で、誰も気づかないだろう。だが、駿は見分けることができた。
映像の中に、VSGらしい映像が紛れていたのだ。
暗がりで顔立ちのよく分からない男が、口元をゆがめていた。
駿の見たことのないキャラクターだ。もしもNPCならば、見たことないのはハウルだけだ。
あれがハウルなのだろうか。それとも、新しいキャラクターなのだろうか。あるいは、プレイヤーキャラクターということもあり得る。または、全く関係のない別のものかもしれなかった。
駿がいくら頭を悩ませたところで、答えが出るものではなかった。
駿は気持ちを切り替えるように背伸びをすると、ノート型PCのモニターに視線を戻した。
6
サクチャイの案内で訪れたそこは、居住区の端、外壁傍にある一軒家の集落の中にあった。特に変わった特徴もなく、似たり寄ったりの家々が並ぶ中に埋もれていた。
一軒家が多く立ち並ぶ割には、人通りはなかった。サクチャイと連れ立って歩く間に、一人も見かけなかったのだ。表で遊ぶ子供すらいない。
ひっそりと静まり返っている。これで建物が古いと、ゴーストタウンに見えたかもしれない。
源次郎はそんなうらびれた町に暮らしているのだ。寂しくはないのだろうかと、駿は訝った。
周りに人がいる環境でも、駿は寂しいと思う時がある。ここのように人気がない場所で、寂しく思わないのだろうか。それとも、たまたまひと気がないだけで、普段は近所の人々が行き来しているのかもしれない。
チャイムを鳴らすとほどなくして、源次郎が玄関を開けた。
「よく来たの。ま、上がれ上がれ」
小柄な老人はそう言うと、中に引っ込んだ。
サクチャイは以前にも訪れたことがあるようで、遠慮なく中に入ると、駿にもついてくるように促した。
廊下の先の部屋に入ると、部屋のど真ん中に、ゲームセンターでいつも利用している、ボックス型のVRマシンが、存在感を主張していた。
ど真ん中では邪魔ではないかと思うものの、周りには大して物がなかった。
「ご老公。シュンが金欠ね!プレイさせてやって!」
サクチャイはそう言いながら、早くも、VRマシンの電源を勝手に入れていた。
「モモタロウも遊んでいくつもりじゃろう」
「もちのろん!」
サクチャイはボックス筐体の扉を開けると、駿に入るように促した。
「それで、ギアは?」
サクチャイがそう言うと、CMに流れているのと同じ形のギアを、源次郎が差し出した。
「わしはいつでもできるからの」
源次郎はそう言って、若者二人に先を譲った。
サクチャイは嬉しそうに礼を言うとギアを装着した。
「そのギアは多少、体の感覚が残る。夢遊病者のように暴れるでないぞ」
「分った!」
サクチャイは駿に、中で会おうと言って、フローリングの上に寝そべった。
源次郎がボックスの扉を閉じてくれた。
ボックスの中は、ゲームセンターのものとまるで同じだった。唯一違うところは、クレジットを必要としない。
ただでVSG3ができると思うと、駿の心は踊った。現金なものだと思うが、嬉しくて仕方ない。
ゲームクレジットは、今月はもう追加ができない。ゲームセンターでは後僅かしか遊べないのだ。
VSG用のカードを差し込むと、いつもと同じ動作をして、駿をゲーム内へいざなった。
駿がウォン・フェイフォンとしてログインすると、早速、ダーククローが対戦申し込みを飛ばしてきた。
砂浜の波打ち際にいると、ほどなくしてダーククローが現れた。
「今日は見かけなかったのに、ログインしたんだな」
ダーククローはそう言うと、身構えた。
「今日は別のところから」
駿はそう答えて、笑った。半身に身構え、ダーククローの変化をうかがう。
今日の対戦は、瞬く間に終わった。ただで遊べるとなると、気持ちが緩むらしい。
「今日のお前は、覇気が足りんな」
ダーククローが勝ち台詞を残して去って行っても、悔しくなかった。
「ただだからって負けていると、強くなれないよ」
いつの間にかモモタロウがやってきていた。
駿はログインしなおした。
「でも、どうやったら強く…シンクロ率を上げられるのかな」
シンクロ率の高さで、能力値の底上げがある。シンクロ率が高い方が確実に強いのだ。ならば、強くなるには、シンクロ率を上げればいい。
「フィーリング?」
モモタロウは現実でもムエタイをやる。さらにはキャラクターも本人そのものなので、シンクロ率を上げやすかったに違いない。
彼のやり方は、参考になりそうにない。駿はそう思い、別の方法はないかと考えた。
せっかくただでプレイできるのだから、ゆっくりとこの世界を見て回るのもいいかもしれない。いつもは後ろで順番待ちをしている人々のことも考え、あまり長い時間をかけて遊ぶことはできなかった。
ここなら気兼ねは必要ない。源次郎が苦情を言いだすまで、問題ないだろう。
「せっかくだから、ゆっくりと見て回ってみるよ」
駿はモモタロウにそう答えた。
「モモタロウは?」
「大会も近づいているからねぇ。ライバルたちと対戦して、感覚を取り戻してくるよ」
モモタロウはそう言うと、誰かに対戦を申し込んでいるらしく、中空を睨みつけていた。
駿は腰を下ろした。砂地にお尻が食い込む。
砂を手ですくうと、さらさらと落ちた。
これが現実世界なら、この砂が温いのかもしれない。あるいは冷たいのかもしれない。湿って、重いのかもしれない。
空を見上げると、太陽がさんさんと輝いている。風景と照らし合わせると、ここは暖かい場所ではないだろうか。
手にすくった砂がさらさらとこぼれ落ちる。これが現実ではなく、プログラミングの世界だと思うと、不思議でならない。この手触りが偽物だと、どうして思えようか。
モモタロウが行ってくると言い残して走り去った。
モモタロウが足を踏みしめるたびに、砂が鳴った。
VRだから、これほどのリアル感を伴えるのだろうか。
駿はふと、ゲームを始めたころを思い返した。あの頃も、草や砂の感触を味わったように思う。思うが、今ほど現実味を帯びていなかったのではないか。
当初と比べて、駿のシンクロ率は僅かしか上がっていない。だが、その僅かが、当初との差ではないか。
駿は確かめる気になって、砂浜を離れた。
そこは広い草原だ。優しい風が、草をなびかせている。先ほどの場所と比べれば、こちらは秋のような雰囲気だ。
駿はもう気候に関する記憶があまりなかった。小学生のころ、夏休みや冬休みに外で遊んだとは思うが、暑かったのか寒かったのか、まるで記憶にない。
風景の雰囲気で、この草原が秋ではないかと思っただけである。
駿は地面にしゃがみこんで、手で触れた。砂浜の物よりもごつごつして、粒も大きい。小石も混ざっていた。
生い茂る草は、何かにおいも発していそうなほどだ。
プログラマーはそこまで細かくデータを作り上げたのだろうか。それとも、VRをプレイするプレイヤーが、脳内保管でそう感じているだけなのだろうか。もしも後者であれば、今の感覚は駿だけのものということになる。
脳内保管するにしても、駿はこのような草原を見た覚えはない。海水浴は行ったことがあったと思うので、砂浜の感触は、もしかしたら、覚えているのかもしれない。
草原に関しては、脳内保管する情報がないはずだ。なのに、初めてこの草原に来た時よりも、よりリアルに見えているのは、どういうことなのだろう。
違いは、シンクロ率ではないか。
初めてプレイした時、40パーセント台を記録した。今は50パーセントで止まっている。この僅かな差で、世界の見え方が変わっているのかもしれない。
駿は草むらに座り込んだ。
ここにいて、周りの自然に身を任せていれば、もっとリアルに近づけるのではないか。
風を感じ、草の動きや香りを感じ、地面の熱を感じれば、それだけリアルに思えるに違いない。リアルに感じるということは、シンクロ率が上がったということになるはずだ。
源次郎のところでプレイさせてもらえれば、ゲーム代は気にしなくていい。順番待ちも気にしなくていい。気長にここで過ごしてみるのもいいのではないか。駿はそう思えた。
ログアウトして、源次郎に頼み込んでみると、あっさりと許可が下りた。
「よかろう。思うままにやってみなさい」
源次郎の表情に、包み込むような微笑みがあった。
駿は、老人の親切に感謝し、甘えた。
7
「大本駿」
イヤホン越しに、教授が呼ばわった。三ヶ月ほど前、駿に、単位を与えないと脅した、あのいけ好かない教授だ。
今回の声には、何かを押し殺したような響きがあった。
「君のレポートは思いのほか、いい出来だ。少々SNSのデマに踊らされているきらいはあるものの、よく過去の出来事を掘り下げてある。私はできるものには正当な評価を与えるのだよ」
押しつけがましさはあるものの、駿は黙って聞いた。文句を言って、また単位をやらないと言われては困る。
「もう少し情報源の精査と真偽を見極めるように」
教授の嫌味節は、隠しきれていない。だが、その表情は苦虫でもかみつぶしたかのようだ。その理由は、すぐに分かった。
教授は吐き捨てるように、駿の成績を告げた。教授としてはつけたくない、好成績なのだ。だから、しかめ面をしているに違いない。
それもそうだろう。一度は授業態度を注意され、単位を出さないとまで言われたのだ。落第点か、それに近い評価にしたかったはずだ。
「Bプラス」
無機質を装って発せられた教授の声が、僅かに震えていた。
最高成績はAプラスだ。まずその成績は出ない。実質の最高成績はAで、Aマイナス、そしてBプラスと続く。
Aにしなかったのが、せめてもの教授の抵抗なのかもしれない。だが、駿が嫌われていたことを加味すると、教授は評価すると言う言葉を有言実行したのかもしれない。
嫌味が多い教授だが、公平な目を持って評価している、良い教授なのだ。そうは思っても、駿は今更、この教授のことを見直す気持ちはなかった。
小型ノート型PCのモニターから教授が消え、代わりに雄太の通信が入った。
「おい!なんだその成績は!いつの間に勉強しやがった!」
雄太が、ずるいぞとまくし立てた。
駿は特に勉強したわけではない。ただ、源次郎の昔話に付き合っただけだ。ゲームをただでさせてもらう代わりに、源次郎の話に付き合っていたおかげだ。
彼の話は現実味を帯びていて、興味をひかれた。授業の無機質な物とは違い、源次郎の声色から変化し、彼の思い出と絡んで、色彩豊かに聞こえた。
VRマシンを使わせてもらうのだから、老人の思い出話くらい聞いても損はないと思っていた。損がないどころか、恩恵まであった。
源次郎から聞いた話をまとめてレポートに書いたら、この結果だった。
駿はどうやって源次郎に感謝しようか、悩んでしまう。
モニター越しに雄太が、秘訣を聞き出そうと粘っていた。
「雄太も街の年寄りと親しくなってみな」
駿は親切に、ヒントを出してやった。が、雄太には通じなかったらしい。なんだそりゃとぶつくさ言いながら、またなと一言いいおいて通信を切った。
駿は他の講義の成績も、無難に収めることができた。これで晴れて、冬休みだ。
都市の中にいると、季節感はない。冬休みと言われても、冬の実感はなかった。ただ、多めの休みがあるだけだ。駿には、その休みが重要だ。
「よし!VSGに入り浸るぞ!」
駿は独り言ちると、噴水傍から離れ、居住フロアを目指した。
駿が共同宿舎の玄関をくぐると、呼び止められた。
同じ宿舎に住む中年の男性が、荷物を預かっていると言った。駿はお礼を言い、一抱えもする大きな箱を受け取って、自室へ戻った。
部屋の真ん中に箱を置いた。誰からだろうかと思い、宛名を見た。大本聖とある。住所はない。聖は駿の父親の名だ。
父親の名前を見ると、無性に苦しくなる。ここ最近はサクチャイたちのおかげで忘れていたが、駿は一人なのだ。母親は十年前に亡くなり、父親は行方不明。その事実を、思い出してしまう。
何が入っているのか見てやろう。駿は勇ましく覚悟を決めて、箱を開けにかかった。
箱を開けようとしていると、ノックが聞こえた。駿がどうぞと答えると、サクチャイが入ってきた。
サクチャイは部屋に入るとすぐ、大きな箱が目についたようで、何が届いたのと覗き込んだ。
「おおもと、せい?」
サクチャイは送り主の名を読んだらしい。
「違うよ。あきらと読む」
「日本語の漢字、難しいね」
「いろんな読み方あるからね」
「で、アキラって?」
「僕の父さん」
「ダディ!ちょっと早いクリスマスプレゼントかな?」
サクチャイの方が嬉しそうにしている。早く開けろと催促までしていた。
開けてみると、無機質な箱の中に、クッション材に包まれたギアが入っていた。
「おお!VRギア!」
駿も見た瞬間、嬉しくなった。欲しかったものを、連絡も取れていない父親から、送られてきたのだ。どこで駿の欲しいものを調べたのだろうか。
疑問よりも嬉しさが勝った。これがあれば、休みの間中、誰に気兼ねすることなく、VSGに没頭できるのだ。
「羨ましいね、この野郎!」
サクチャイも嬉しそうに、駿の背中を叩いた。サクチャイの喜びようが、駿の気持ちをさらに高めた。
箱の中身はほかに、USBメモリーが一つとリストバンド、アンクルバンドが入っていただけだ。
「このギア、ちょっと違うようだよ」
ギアを手に取ってみていたサクチャイが、不思議そうに言った。
駿も受け取ってじっくり見る。が、巷に出回っているギアをまともに見たことがない。
駿はノート型PCを操作して新型ギアの画像を出し、窓のスクリーンに映し出した。そして手にしたギアと並べ、見比べてみる。
まず、デザインが明らかに違った。スクリーンの物は流線型で、スタイリッシュな印象だ。色合いも黒と青が基調で、かっこいい。
対して、手にしたギアは、黒一色だ。装飾もない。
駿はまたかと思った。こういった機械類は、父の手作りの場合が多い。ノート型PCもそうだ。
「たぶん、父さんの自作ギアだよ」
駿は少しがっかりしていた。自作ギアにがっかりしたのかもしれないが、こんなものを作ってよこす暇があったら、連絡くらいよこせばいいのに、と思ったからだ。
「シュンの父さん、そんなもの作れる人なの?」
サクチャイは感激していた。
「いいね。どれほどの性能なの?」
「さあ。説明書なんてないし」
「そのメモリースティックは?」
サクチャイに促され、駿はノート型PCにスティックを差し込んだ。ほどなく、モニターに画像が表示された。
8
大本聖がそこにいた。以前より、頭髪が少し白くなっている。それ以外は特に変わりないようだ。
姿を見た途端に、駿の胸が締め付けられた。
『駿。元気にしているようだな』
モニターの中で、聖が言った。その声が、駿の中で温かく震える。
「何が元気そうだ、だよ。連絡一つよこさないで」
駿は返事がないことを分かっていても、文句を言わずにいられなかった。元気にしていたかの一言で、ほだされるわけにはいかない。文句の一つでも言って、気持ちを保たなければならなかった。
サクチャイが駿の肩に手を置いた。おしゃべりな彼にしては珍しく、口は閉じたままだ。
『お前がVSGをやっていると聞いてな。これを作ってみた』
モニターの中で、聖が黒いVRギアを手に取った。
『見た目はあれかもしれんが、例のごとく、最高スペックに仕上げた。これならば問題なくVSGもプレイ可能だ』
聖はそう言って、説明を続けた。ただ説明しているだけなのに、駿はこみあげてくるものを感じ、必死に耐えた。
VRギアに、VSGをインストール済みで、VSGのカードを挿入してやれば、いつでもできると言う。
独自のセキュリティも入れてあるから安心して使えと自信満々だ。
『市販のVRギアよりも高い没入感を味わえるはずだ。使用するときは戸締りをしっかりして、ベッドで横になって使うように』
ノート型PCと接続すれば、VRシティにも入れる。付属のリストバンド、アンクルバンドを使えば、VRのショップで服の試着なども行える。
『無駄遣いは避けろよ』
聖はそう言った矢先に、裏腹なことも言う。
『金に困っているように見えたら、いつでも追加する』
「見張ってるのかよ!」
駿は思わず突っ込んでいた。もちろん聖は答えない。僅かに声が上ずっていた。何かのきっかけがあれば、駿の中から感情があふれだしそうだ。
聖が言葉に詰まった。そして言い難そうに、切れ切れに言葉を発した。
『すまんな。駿を、一人にして。私も、できれば一緒に、居たい。だが、傍にいると、迷惑を、かけることになる』
そこから先は、聖が昔を懐かしむ様子が映し出されていた。
サクチャイがそっと肩から手を離し、部屋を出ていった。
駿は聖の言葉に、一つ一つ文句を返していった。そうしないと、別のものがあふれそうだった。
駿の声が震えている。駿は自分でも何を言い返しているのか、分からなくなっていた。
駿の頬を涙が伝った。あふれたそれは、感情の堰を崩していく。
「会いたいよ…」
『何時か、必ず戻る。待っていてくれ』
駿の言うことが伝わったのか、聖がそう答えた。
伝わるはずはない。相手は記録された映像だ。しかし、あまりにタイミングのいい答えだったので、駿は返事が返ってきたように思えた。
感情があふれ、止めようがない。戻ってこない父親に腹を立てようとしても、押し流された。
駿は抵抗を止めた。涙があふれ、声が漏れた。
駿は泣きじゃくりながら、早く帰って来いと訴えた。
モニターの中で、聖が頷いていた。