転機
1
西園寺公直は日を追うごとに変化した。
ショッピングモールから帰ると公直は風呂へ直行した。あまりに出て来ないので心配した矢野莉紅や河原優希が風呂場へ行ってみると、公直は胸を赤くはらしてなお、ボディタオルで胸をこすり、洗い続けていた。矢野と優希がタオルを奪うまで続いた。
公直がそれ以上自分で肌を傷つけてはいけない。そこで矢野と優希が二人がかりで公直の身体を洗った。普段の公直であれば、その状況に喜び、優希や矢野の身体を触ろうとしたに違いないが、公直はなされるがまま、じっと鏡に映る自分を睨みつけていた。
次の日の公直は無口で、部屋に閉じこもりがちだった。矢野は任務で出かけたので、優希がつききりで様子を見ていた。昨夜のように公直が自分の身体を傷つけないように見張る意味もあった。
この二日間、大本駿は公直とも、優希とも顔を合せなかった。三日目にやっと、公直と顔を合わせた。公直はいつものように毅然とした表情を作ろうとして、失敗していた。
駿はかける言葉が見つからず、挨拶を交わした程度で終わってしまう。そのことを後悔してみても、駿になんの解決策もなく、ただ変化を待つしかなかった。何もできない自分が歯がゆくて仕方なかった。
三日目からは優希と共に通信教育の講義を受けた。優希が学業の遅れを気にしたためである。駿と優希は駿の部屋で、ベッドの端に並んで腰かけ、通信教育の講義に参加した。公直はその後ろで大人しくしていた。
この講義は荒れた。警察関係者が見張っており、駿が回線をつないだ途端に矢継ぎ早の尋問を始めてしまい、講義が始められなくなってしまったのだ。警察は駿の接続先を探ろうとして失敗すると、脅しをかけるように駿に迫った。講師が再三、授業の邪魔になるので後にしてくれと頼んでも、警察は聞き入れなかった。
他の受講生たちは興味本位で回線をつなぎ、駿と警察のやり取りを見守っていた。中にはあからさまに、何でログインしたんだと嫌そうな顔をしている同級生たちもいた。不測の事態に怖がり、泣きだしそうな女生徒たちもいた。
駿の友人たちは事態を面白がっていた。雄太は意味もなく、駿に通信を入れ、目配せしてみせた。それが合図だったかのように、他の友人たちも顔を見せては消えていった。
駿は、初めの内こそは警察の恫喝に恐れをなし、縮こまっていたものの、こちらの回線を特定できずにいる様子が分かってくると、そっと警官の音声を小さくして、聞こえないふりを決め込んでいた。警官は警官で、その駿の態度にいらだった様子で、さらに声を荒げるのだった。
らちが明かないと見たのか、総指揮官の西園寺光隆が現れた。駿も一度、顔を合わせたことのある、陰湿な雰囲気のある美青年だ。駿の記憶が確かなら、大上裕翔の上司に当たるはずである。
西園寺光隆がその綺麗な顔を怒りにゆがめて何かを言っていたが、音を小さくしていたので聞き取れなかった。
公直が駿の後ろで動き、すぐに隠れるようにしていた。駿はさすがに自分の後ろを見るわけにはいかなかった。どこにいるのか分かるようなものを映り込ませるわけにはいかない。そして、傍に誰かいるのかも、同様である。後ろが気になるが、見ないように我慢し続けた。
隣で優希がどうしたのと、声を潜めていた。公直がベッドの上を這うようにして優希の傍へ行くと、優希のホログラムを下から指差した。
「叔父だ。やばい…」
公直の小声はさらに小さくなり、聞き取れなかった。優希は公直が映り込みたくないことを理解した様子で、端末を少し上に向け、下にいる公直が映り込まないように工夫していた。
「そこまでにしていただこう!」
きつい声が響いた。声の主は別の授業を担当する講師だった。彼とも、駿は因縁があった。一度は忌み嫌われ、受講から追い出されかけたことがある。一度は駿のレポートを気に入り、将来も学びたいのなら、その道を紹介すると言ってくれた。言葉の端々に嫌味なところのある講師なのだが、まじめに授業を教える、生徒思いの講師なのではないかと、駿も見直していた。
「基本的人権である学ぶ権利を、たとえ警察といえど、奪う権限はありません。お引き取り願おう!」
反論する西園寺光隆に対し、講師は毅然と対応し、時間外にしていただこうと追い返してしまった。
駿は助かったと、礼を述べた。が、藪蛇だったらしい。
「お前もお前だ!早急に出頭し、罪を償え!もしもやましいところがないのなら、なおのこと、出頭して嫌疑を晴らしたまえ!」
講師は言いたいことを言うと、おどおどと様子を見ていたこの時間の講師に、どうぞと言いおいて、回線を閉じていた。
横を見ると、優希が微妙な表情で駿を見つめていた。公直も面白がって、下から見上げている。
一通り講義を受け終えると、雄太から通信が入った。
「おいおいやるねぇ!逃亡犯!」
雄太はそう言って笑った。
「堂々と現れるとは思わなかった」
そう言いながらも、駿がいなかった間の講義のまとめや課題の写しを送ってくれた。
「それで?どうにかなりそうなのか?」
「なんとも。とりあえず隠れるところはできたよ」
「どこどこ?」
「教えるわけないだろ…」
「いいじゃないか。警察になんて教えないから、こっそり…」
「だめ」
雄太が駿の後ろを見つめて固まった。駿が雄太の視線を追って後ろを見ると、公直が顔を上げ、覗き込んでいた。
「ども」
公直が笑顔を作って手を上げていた。
「おいこら!隠れ住んでるんじゃないのか!誰だそりゃ!女か!女なのか!ずるいぞ!」
雄太がまくしたてるように言い続けている。用は紹介しろということだ。駿は頭が痛くなった。ため息を漏らしても、この痛みは消えそうにない。
「切るぞ」
ああなった雄太に教えたくなどない。教えるつもりがあっても、あの態度で嫌になる。駿は通信を切りにかかった。
「あ、待て!こら!友達がいのない奴…」
雄太の声はそこで途切れた。面倒くさい奴だと、駿はもう一度ため息を漏らした。原因を作った公直はけろっとしたもので、駿の肩にあごを乗せていた。そして胸をポリポリと掻いた。
「やめなさい」
優希が公直の手を取った。
「だって痒いんだ」
「仕方ないでしょ」
「じゃあ、優希がさすってくれ」
「お断りします」
「じゃあ駿でいいや」
その言葉に駿が振り向くと、公直は言葉とは裏腹に、身体が壁際まで逃げていた。気遣う余裕もなく、駿は優希の平手を顔に受け、もんどりうった。
「ちょ、何もしてないじゃない!」
駿はベッドから落ちて、優希を見上げる形で抗議した。
「知りません!」
優希がそっぽを向いている。公直を見ると、舌を出していた。
元通りの公直に戻ったように見える。しかし、先ほど身体が後ろに逃げた様子は、まだ引きずっており、条件反射で逃げたようにも見えた。駿を挑発して、わざと逃げたようでもあれば、駿が急に振り向いたので驚いて逃げたようでもある。
どちらにしても、今はそっとしておくべきかもしれないと駿は思い、何も言わずにベッドへ座りなおした。頬の痛みだけが、余分なものとして残った。
優希はやり過ぎたと思ったのか、小さな声でごめんなさいと言った。誤解が解けたのなら、それで十分だった。駿は頬の痛みを忘れようとした。
「ところで叔父って言った?」
駿は気になっていたことを訪ねた。
「そう、叔父。西園寺光隆」
公直が不満そうに答えた。
「美形で頭いいくせに、自分の立身出世しか興味のない冷血漢だ」
昔は優しかったのにと公直は口の中で付け足していた。
「あーそんな雰囲気あったなぁ」
駿はその程度の感想しか浮かばなかった。
叔父のことを人が悪く言うと、公直は気分が悪かった。できるだけ表情に出さないように気を付けた。
優希は警戒する色を顔に浮かべていた。公直の叔父が警察の幹部ならば、公直も警察の味方をするのではないかと恐れたからだ。
「駿を差し出したりしないで」
口に出して警告しなければ、気が済まなかった。
「しないしない。俺、あいつ嫌い」
優希が納得した様子を見せないので、公直はさらに続けた。
「あいつ、俺のこと見下しているんだぜ。そんな奴の手助けを、誰が好んでするかよ」
優希はその言葉で一応納得していた。公直が見下されているのは事実だ。そして疎遠になっている。それでも、叔父に面と向かって頼まれたら、自分に断ることができるだろうかと、公直は不安を抱いた。できることなら、優希と交わした今の約束を、公直は守りたかった。
2
四日目になると、公直は表面上、元の自由奔放な状態に戻った。しかし、行動の端々に、駿は以前よりも壁があるように感じていた。
以前の公直は無造作に、男友達のように駿の肩に手を回していたのだが、今は駿の背中に飛びついてくるものの、横から前方向へ接近することはなかった。駿の手が届かないところからスキンシップを図っているようでもある。
優希に対しては、以前と変わらず、真横から肩を抱きに行き、その手を払い落とされていた。
扱いの違いに、駿はおもろくなかった。しかし、女の子の身体で、男のように接せられても、それはそれで対応に困る。ある意味、これでよかったのかもしれない。公直がちょうどいい距離感を見つけてくれたのだと信じることにした。
五日目に、公直が胸の前をさするように掻いているのを見かけた。かさぶたができて痒いのだろう。胸の可愛らしいふくらみの間を押さえ付けるようにしているので、服の上からもふくらみが見て取れた。
公直は駿と視線が合うと、何気ない風を装って、背を向けた。そうかと思うと、駿の背後から、駿の両肩をつかみ、駿に登るようにして、頬が触れそうなほどに接近した。
公直は意外と軽く、駿は背にまつわりつかれるのに慣れると、いつしか心地いいとまで感じていた。
六日目になると、公直の表情から陰りは完全に消えていた。ショッピングモールで暴漢に襲われたことなど微塵も感じさせない。明け透けな少年か少女と言った面持ちになっていた。
公直のあまりの立ち直りの速さに、駿は感心していた。公直はやはり芯の強い人物なのだ。駿が逆の立場だったら、少なくとも数ヶ月は引きずりそうだ。その駿の予測も、軽すぎるものなのだが、駿の人生経験からは推し量れないもので、致し方なかった。
女性の立場からすると、やはり心配が尽きない様子で、矢野が任務の合間をぬっては公直をかまった。優希も、公直のスキンシップを、あまり邪険に扱わなくなっていた。
公直が肩に手を回すと、優希が微笑んで迎えていたことに、駿は驚いた。いつの間に優希は公直にそこまで許すようになったのだろうか。毎日同じ部屋で過ごすから、親しくなるのだろうか。駿は二人の様子を羨望の眼差しで見つめていた。
夜になると矢野も交えて、三人で、周りの立ち入りを許さない雰囲気を醸し出し、優希の部屋に戻っていった。
次の日、駿はさらに驚かされた。
「俺、杉本明花莉になる」
公直は静かに、そして毅然とした態度で、宣言した。
身体は女の子だけど、男として育てられた公直は、心が男なのか女なのか白黒つけようとしていた。今後の人生を左右する一大事である。それを公直、改め、明花莉は、たったの一週間で決断してしまった。それも、西園寺の姓をやめる決断まで添えていた。
男として育ててきた西園寺家から見れば、女を選択した時点で、明花莉は家の期待を裏切ったことになる。放っておいても勘当されるのかもしれない。文句を言われる前に自分から離れるあたり、明花莉らしいと言えた。
まさか明花莉で、男になるとは言わないだろうと思ったものの、駿は念のために確認した。
「じゃあ、これからは、女の子として過ごすんだね?」
「ああ。昨晩の莉紅姉さんの話が参考になった」
「莉紅姉さん?」
駿は明花莉と優希の顔を見比べた。優希の顔が見るからに赤く染まっていった。矢野をくわえた女の子三人で、昨晩、一体何を話し合ったのだろうか。駿は疎外感を味わった。明花莉の人生を決定づけるほどの、何が語られたのか、気になって仕方ない。
莉紅姉さんという呼称も気になるものの、話の内容ももっと気になった。駿は仲間に入りたくて、内容を尋ねた。
明花莉は明け透けに、女の感情でと言い差した。それを優希が慌てて口をふさいで止めた。
「ばかなこと教えないの!」
明花莉が優希の手を外して振り向いた。
「いいじゃないか。せっかくの話の実証も取れる」
「絶対にダメ!」
優希が真っ赤な顔で否定した。その様子で駿はさらに気になった。話の内容と、実証とは何のことなのだろうか。明花莉と二人になった時に、それとなく聞いてみようと考えていた。
「ふーん。まあいいや。俺が先越しても怒るなよ」
明花莉が優希に向かって言っていた。
「な、何の話?」
「とぼけるならいいぜ。俺は俺で積極的に行かせてもらうぜ」
明花莉は優希にそう告げると、意味ありげに駿に近づき、駿の二の腕に触れた。
「それもダメ!」
明花莉は優希が伸ばした手から逃れると、笑い声をあげていた。
明花莉の笑い声は久しぶりに聞いたように思えた。駿にはよく分からない状況だが、明花莉が自分らしさを取り戻したのなら、これで一安心だと思えた。
女の子として暮らすのなら、それを尊重しよう。今まで男か女かはっきりしないので、駿ははれ物に触れるような思いが頭の隅に付きまとっていた。今後はそのことで悩む必要はなくなったのだ。歓迎すべきことである。
「じゃあ、公直…ではなくて、明花莉ちゃんと呼ぶべきだね」
駿がそう言うと、ちゃん言うなと即答で怒られた。
「明花莉でいい」
「わ、分かった」
「ほら、呼んでみな」
改まって、身構えられると、言い難いものだ。女の子の名前を呼び捨てにするとなると、駿にも覚悟が必要だった。今までの関係がすべて変わるように感じた。明花莉の懐へ、そこまで踏み込んでいいのかと二の足も踏んでしまう。
駿が戸惑って優希を見ると、彼女も優しく頷いていた。駿は優希のことは名前で呼んでいる。あれはどういうきっかけだったのだろうかと思いだそうとしてみても、思い出せなかった。優希はすんなりと呼び捨てにできたのに、明花莉となると、なかなか口から出て来ない。この違いは何なのだろうかと駿自身も戸惑った。
明花莉の右足が、駿の足を打った。
「早く呼べ!」
明花莉の顔が赤く染まっていた。駿がなかなか呼ばないので、恥ずかしくなってきたのかもしれない。恥ずかしいと思うと、なお一層呼びにくい。が、駿が呼ばない限り、この場はおさまりそうになかった。明花莉が許さないぞと言いたげに仁王立ちしている。
駿は勢いよく自分の頭をかきむしると、手のひらで頬を叩き、明花莉に差し出した。
「改めてよろしく。明花莉」
勢いに任せて言いきった。
「よろしくな。駿」
明花莉が真っ赤な顔で、駿の手を握った。駿の汗ばんだ手で、彼女を不快にしないかと思ったが、彼女の手も汗ばんでいた。どうやらお互い様らしい。二人は見つめ合うと、はにかむように微笑み合っていた。
3
「報告します」
部下がホログラムを開いて報告書を読み上げていた。近隣の地上都市のあちこちで、抗議集会が開かれている。所轄とトラブルに発展するものもあったが、警官が取り押さえようとすると、武装した何者かが現れて妨害され、その間に集会に集まった人々が逃げ去った。
部下は、集会にからんだ逮捕者はゼロだと報告を終えた。
「武装した何者かが、か…。これだから地上の野蛮人どもは」
西園寺光隆は口の中で呟くように言った。
「は?」
「何でもない。大本駿の捜索はどうなった?」
「そちらも進展がありません。学校のサーバーを強制捜査しましたが、ログすら見つかりませんでした」
「やはり恐ろしい犯罪者だ。都市から逃がす前に捕まえるべきだった」
部下は返事に困り、直立したままだった。
「ニュー東京から盗まれたロボットの行方は?」
「そちらも追跡できておりません。電源が入れば信号を受信すると思われます」
「盗んだやつが間抜けであるならばな」
「それはどういう…?」
「信号発信機を取り除いて起動すると考えるべきではないか?特にこれだけ日数を経た後であれば、なおのことだ」
「なるほど」
「なるほどでは困る。他に追跡の手段はないのか」
「本部に確認中ですが、目下のところ、無いようです」
「分った。もういい」
西園寺光隆は顔の前で手を振ると、部下を下がらせた。所轄も低能だが、ここもろくな者がいないと、毒ついた。
大上裕翔はあからさまな怠慢ぶりを見せている。上官に盾突き、さらには職務怠慢ときた。だが、彼ほどロボットを巧みに操れる人材が他にいない。
現状を見渡すと、さいたまスーパーアリーナで遭遇した銀色のロボット、RD‐01prtの相手をできるのは、大上以外にいなかった。更迭してやりたいが、今はかなわない。あの盗まれたロボットを取り戻すまでは、大上を使わなければならない。
捜査本部の後方で、両足をテーブルに投げ出した大上を見ると、怒りがこみあげてくる。西園寺光隆は平常心を保つためにも、執務室にこもっていた。少なくとも、大上のあの態度を見なければ、いちいち腹を立てずに済む。
それにしても、今回の件はすぐに片付き、出世の足掛かりになるはずだった。西園寺光隆の思惑から外れ、北東京などと言う辺鄙なところに長期滞在する羽目になってしまった。彼にはどうしてこうなったという思いが強い。
西園寺光隆の努力を、部下たちがことごとくつぶしてくれる。決定的チャンスを、大上がつぶした。大本駿本人と直接会ったというのに、奴が、嫌疑が固まっていないと拒否さえしなければ、あの場で捕まえられたのだ。捕まえていれば、さいたまスーパーアリーナでの惨劇も起きなかったし、囮につかった河原優希をみすみす逃がすような落ち度もなかった。
西園寺光隆は熟考すればするほどに、大上ただ一人に妨害されたとしか思えなくなっていた。図体ばかり大きく、胆の小さい男だ。あれでは功績を上げることもできない。
やはり大上は更迭すべきだと結論付けた。
西園寺光隆はホログラムを起動し、オペレーターを呼び出した。ホログラムに映し出されたオペレーターが緊張で表情を引きつらせている。
「河原優希の行方は分かったか?」
「それが…」
オペレーターが口を濁した。西園寺光隆は舌打ちすると、作業手順を確認した。
「目標が北東京を出た後から順を追って監視映像の確認を行っておりますが、跡は追えていません」
「犯罪者大本駿がどこで接触したかは?」
「容疑者の接触も今だ…」
オペレーターが消え入りそうな声で言った。西園寺光隆の険しい表情に、オペレーターはですがと慌てて付け加えた。
「こちらの映像をご覧ください」
オペレーターはそう言うと、駅構内の映像を出した。
「こちらは寄居駅です」
「それがどうした」
西園寺光隆は要点を言えと催促した。
「はっ。こちらとこちら。河原優希と似た女性が、それぞれ別の路線に乗っています」
あらかじめ編集された映像が流れていた。そのどちらにも、若く、髪の長い女性がホームに向かっていく姿が映っていた。
「変装して他の路線を利用した可能性もあるのではないでしょうか」
オペレーターの問題提起に、西園寺光隆は暫時思考した。
「あるいは、大本駿が映像に何らかの手を加えたか」
大本駿は、VSGでのアカウント乗っ取りといい、北東京からの脱出といい、さいたまスーパーアリーナからの逃走の手際といい、河原優希の奪取といい、高校生とは思えない事柄を平然とやってのけてきた。監視映像の加工もお手の物に違いない。
「不正なログがないか確認しろ。それと、念のために各路線の映像も確認しろ」
西園寺光隆はオペレーターに指示を与え、通信を切った。椅子に腰を深く落とし込むと、呼び出しが鳴った。休息の間すらないのかと独り言ちながら、姿勢を正して回線をつないだ。
誰だと言いかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。映し出された相手は初老ながらも鋭い眼光の持ち主だった。西園寺家の現当主、公康だ。
「父上!いえ、御屋形様。ますますのご栄達の…」
「光隆」
老人とは思えない威圧感のある声だ。西園寺光隆は挨拶の言葉を飲み込み、当主の言葉を待った。
「速やかに帰参せよ」
「何事が発生しましたか?」
「公直が逃亡した」
「あの半端者め…」
西園寺光隆は罵ると、顔を上げた。
「いったいどれほど周りに迷惑をかければ気の済むことやら」
「公直も所詮、血の貧しさに抗えんということかもしれん」
西園寺光隆は同意の意味で頭を下げた。公康の物言いからすると、後継ぎ候補の公直に対しての考えを変えたようだ。後継者候補の再選定の可能性が垣間見えた。もしも見直しがあれば、自分も後継者候補に名を連ねるのである。帰参を求めるのはこの一事も含まれているとみるべきだ。
だが、飛びついたのでは易い男と見くびられる。西園寺光隆は素知らぬ顔で、別のことを提案した。
「あやつ一人では何もできますまい。情報をいただければ、こちらで捜索いたしますが」
「そちの言うとおり、公直一人では何もできん。奴が関与しおった」
「奴…?西園寺亮ですか?」
「奴を我が一族に迎え入れた覚えはない」
「失礼しました。杉本亮ですか」
老人は苦々しく頷いた。
「姉上もどうしてあのような愚にもつかない男と…」
「桜子は精神を病んでおった」
「ですね。でなければあのような男に魅かれるはずもありません。それで姉上の容態は?」
「先日息を引き取った」
「そんな…」
「そのどさくさに、奴は便乗しおった」
「なんと姑息な!…もしや奴が何か細工をして姉上の死期を早めたのでは?そして公直を拉致し、逃亡…」
「十分にあり得る」
「分りました。こちらで大至急、奴を探し出してごらんに入れましょう」
これは格好の事案である。西園寺光隆は内心ほくそ笑んだ。警察に身を置く以上、捜索はお手の物だ。杉本亮を見つけ出し、公直を引きつれて帰参すれば、己の有能さを見せつけることができる。他の後継者候補の一歩前に立てるに違いなかった。
「いや、それには及ばん」
しかし、公康は断った。西園寺光隆の予測外の返事だった。
「は?しかし、我が一族に歯向かった奴を野放しにするわけにはまいりますまい」
「奴を野放しにするつもりは毛頭ない。が、例の法案が施行されれば、奴は直に捕まろう」
「ごもっともですが、やはりこの手で捕らえ、制裁をくわえませんと」
「間接的でもよかろう」
「といいますと?」
「光隆。お前に二つ、頼みがある。故に帰参せよと言っておるのだ」
「いかようなことでございましょうか?」
「この場では言えぬ。戻れ」
西園寺光隆は手柄を立てる機会に固執するよりも、従う方が有利と打算し、不承不承といったていを装った。この断りは、すでに手を回しているはずだ。
「しかし、私も職務で出向しております。直ちにというわけにはまいりません」
「いや、直ちに帰参せよ。警視総監にはすでに内諾済みだ」
西園寺光隆の予想通りの返事だった。
「はっ。光隆、帰参いたします」
老人は満足げに頷くと、回線を閉じた。
西園寺はほくそ笑むと、すぐに笑みを消した。捜査の指揮権を託す後任を選出し、執務室に呼び出すと、捜査資料をすべて渡した。目下の進捗状況を手早く説明し、今後の指示も与えた。
大上を更迭しておきたいが、今はそれもできない。それが大きな心残りになっている。西園寺光隆の頭の中で、大本駿の存在価値が掻き消えていた。もはや功績をもたらすことのない相手に興味はなかった。
西園寺光隆は少ない荷物をまとめると、北東京を後にした。
4
大本駿、河原優希の二人がレジスタンスの指令室に呼び出された。
なぜ呼び出されるのか理由が分からないものの、世話になっているので無視もできない。二人は連れ立って指令室へ向かった。なぜか、呼ばれていない杉本明花莉も、二人に同行した。
明花莉の表情に陰りは微塵もなく、今度は何をやって楽しもうかと、思案している様子だった。
優希の肩に手を回し、楽しそうに何かを話し込んでいた。駿は最近、明花莉のスキンシップがなくなり、疎外感を味わっていた。せめて会話に参加させて欲しいのだが、その内容は聞き取れない。ひそひそと言い合っては、クスクスと笑っていた。
その様子を眺めていると、明花莉も随分女の子らしくなったと思えるのだが、油断は禁物だ。明花莉は唐突に、優希の唇を奪いにかかったり、胸を触ろうとしたりするのだ。
明花莉が無防備な優希の頬に顔を近づけていた。駿はとっさに詰め寄ると、間に手を差し挟んだ。手の甲に優希の弾力のある頬が触れた。指の腹に明花莉の唇が触れている。どちらも柔らかい。駿は鼓動が跳ねるのを感じた。
「邪魔すんな!」
明花莉が腰に手を当てて、駿を睨んだ。
「ありがとう」
優希はそう言うと、駿の後ろに隠れた。
「あ。そんなに逃げるなよ」
「ほんとに油断も隙もあったものじゃないわね」
「何だよ。いいじゃないか。減るもんじゃあるまいし」
明花莉の主張は、男目線のものだなと、駿は思った。彼女は男として育てられただけに、そういう思考が抜けず、こびりついていた。
「女の子は減るものなの」
案の定、優希は明花莉の考えを全否定していた。
「えーとそうだ、俺は女の子になったんだ。女の子同士なら、ノーカンだろ」
おかしな理論を並べて説得にかかっても、優希はなびかなかった。
駿は自分の手のひらを凝視していた。この指に触れれば、間接キスになるのではと思ってしまった。あるいは、手の甲に触れれば、優希に触れたことになるのではないか。
そんなことをすれば、優希と明花莉に怒られることは明白だ。それでも、おかしな誘惑が駿の胸の中で渦巻いた。
駿はおかしな思考を振り払うように頭を振り、手を服に押し当てた。
「何だよ。俺の唇はきたねーってか?」
「え?いや、そんなことはないけど」
「あ、分かった。そのまま残してたら間接キスしそうだったんだろ」
明花莉に図星を突かれ、駿は動揺した。
「そ、そんなわけないだろ」
声が上ずったように感じた。駿が取り繕うとすればするほど、声や身体が不調をきたす。
「あれだ。その、唾がついたから、拭いただけ」
「なんだよ。図星かよ!」
明花莉はやけに嬉しそうだ。
「違うって言っただろ!」
駿が否定しても明花莉は信じなかった。
「まったく。間接キスなんかで悶々とするな。言ってくれれば、ぶちゅっとしてやるぜ」
明花莉が面白そうに唇を突き出してみせた。その様は、女の子というよりは、悪ふざけをして楽しんでいる男の子だった。
「最低」
明花莉と対照的に、優希は低気圧の嵐を置いて先に行った。彼女の言葉は、駿だけに対したものではなかった。そのことに明花莉は気付いていないそぶりで、キスする真似をして駿に迫っていた。
駿が一歩前に乗り出せは、キスできるのかもしれない。あるいは、明花莉が怖気づいて逃げるのかもしれない。しかし、駿にその一歩を踏み出す勇気はなかった。逆に後ずさりした。
駿は嬉しそうな明花莉をひと睨みすると、優希の後を追った。あまり近づくと嵐に巻き込まれそうな雰囲気が漂っているので、一定距離を保っていた。
指令室に到着すると、児島仁志、野沢美郁、杉本亮、三島和彦の四人が待ち構えていた。
「よく来た」
児島は入り口傍まで駆け寄り、駿たちを迎え入れた。呼んでいない明花莉も、快く中へ通された。
「明花莉君もちょうどいい」
児島はそう言って三人に椅子を進めると、テーブルの反対側へ回り込んだ。
「君たち若者なら、VRをやったことあるな?」
「年寄り臭い言い方しなさんな」
三島がぼそりと言っていた。児島にねめつけられても気にしていなかった。
「VRが何かは分かるね?」
三人の返事がないので、児島は念を押すように言った。
駿と優希が頷き、明花莉が分かるぜと答えた。
「よし。君たちにネット上で協力して欲しいことがあるんだ」
「何でしょう?」
優希が聞き返していた。
「ネット上にある、とある情報集積拠点を奪いたい。その手助けをしてもらいたい」
「情報集積拠点って、サーバーのこと?」
今度は駿が聞き返した。
「そうかな?すまん、私はその辺りに疎くて」
「サーバーなら、その施設を物理的に奪った方が早いぜ」
明花莉も言った。
「それだと実行部隊の人手が足りなくてね。そこで、杉本氏が開発したプログラムを利用して、ネット上から情報集積拠点にアクセスし、管理権限を奪おうというのが今回の作戦なんだ」
「それって、違法ですよね」
優希が怪しいことをやらされそうだと警戒していた。
「違法だな。だが、本来国民に知らせるべき情報をそこで遮断している。我々には知る権利があり、また同じ国民の皆に知らせる義務がある」
「意義はともかく。あなたたちに私たちのイデオロギーはあまり関係ありませんものね」
野沢が口をはさんだ。
「とりあえず、方法を聞いて、その後で協力してもらえるかどうか、考えて欲しいの」
聞いたら戻れなくなるようなことではないらしい。児島も野沢も、拒否する権利が三人にあることを明言していた。
駿が頷くと、児島は杉本に発言を求めた。
「僕の作ったプログラムでネット内に実行部隊のアバターを作ります。アバターはVR機器によって操れます。言うなれば、仮想空間で特定の場所へ侵入し、サーバーの管理者権限をハッキングする、というのが概要です」
明花莉の父親は娘を主に見つめつつ、簡単な説明をした。
「VR空間でスパイごっこすると思えば、簡単でしょ」
「簡単そうですけど、違法ですよね」
優希は明らかに乗り気ではなかった。
駿はスパイごっこの響きに心惹かれていた。明花莉も同じ様子で、目を輝かせていた。
「特に危険なことはないはずです。目的地まではナビゲートしますし、セキュリティーは僕のプログラムを受けて擬人化されるので、アバターで倒してしまえばいい」
「倒すって、格闘ゲームみたいに?」
「そう。VSGとほぼ同じだと思ってくれればいいよ」
駿は驚いた。大人の口からVSGという単語が出てくるとは予想していなかった。知り合いで、いい大人もVSGをプレイしていたが、ここの人たちには縁がなさそうに思えていたのだ。
児島と野沢はVSGと聞いて、きょとんとしていた。やはりこの二人は知らない様子だ。
「VSGと同じ…」
スパイごっこに惹かれ、さらに、久しくプレイできていないVSGのごとくできるというのであれば、駿はますます乗り気になっていた。最後の一線に、これは犯罪行為だという警告があるものの、そこを飛び越えるのは簡単だ。
「駿君には利点のある作戦だと思うよ」
児島があと一押しとばかりに告げた。
「僕に利点?」
「そう。さいたまスーパーアリーナでの実際の映像も、そこにあるはずだ。少なくとも、あの一件の無実を証明できる」
「すべての情報がそこにあるわけではないのだけど」
野沢がそう言い置いて続けた。
「あなたたち、海外のニュースを最近聞いたことがあるかしら?ないでしょ。そういう海外の情報も、そこで遮断されているのよ」
「何のために海外の情報を遮断しているの?」
優希が疑問を口にした。
「情報が多いと選択肢が増えるの。逆に情報を狭めれば、選択肢も狭まる。選択肢を狭めることで、国民の行動を管理しやすくするのが目的ね」
「いきなり国民ときたか」
明花莉がせせら笑った。
「おかしな話でしょ。でもね。今の政府はそれこそ、江戸時代の鎖国をよみがえらせようとしているの。政府は海外の情報は国を乱す元凶と位置付けているの。害をもたらす情報のすべてを遮断しようとしているわ」
「全国民の権利を、政府が踏みにじろうとしている。我々はそれを阻止したいだけなのだ。どうか、協力して欲しい」
児島がそう言って頭を下げた。
「君たち、VSGはやったことある?」
杉本亮が駿たち三人の顔を覗き込んだ。駿と優希が頷いた。驚いたことに、明花莉まで頷いていた。駿は思わず明花莉を見つめていた。
「何だ?」
駿は首を左右に振った。
「VSGは最近遊べないよね」
杉本はそう言って言葉を切ると、三人の顔をもう一度見渡した。
「これ、VSGとそっくりに遊べるんだけど、遊んでみない?」
「やる」
駿は思わず即答していた。自分でも驚いて、口を押さえ、左右の友人を見た。二人の視線が痛い。そう感じるのは、駿に罪悪感があるからだろうか。抜け駆けしたやましさがあるからだろうか。あるいはその両方かもしれない。
「あ、いや、その…」
言いつくろうとしてみても、遊びたい一心が、駿を突き動かしていた。VSGにログインできなくなって、だいぶ経つ。アカウントをハッキングされ、持ちキャラのウォン・フェイフォンを失い、しばらくは喪失感で沈み込んでいたが、何かをするたびに、VSGを、そしてフェイフォンを思い出していた。
先日、暴漢を蹴った時にも思った。フェイフォンであれば、一撃のもとに明花莉を救い出せたはずだ。あのフェイフォンの感覚を、もう一度味わいたい。
「ちょっと待ちなさい。犯罪行為なのよ?」
優希が駿の腕を引いていた。
「でも、VSGやりたい」
「犯罪なのよ?」
優希もVSGはプレイしたいのだろう。駿の手を引く力が強くなったり弱くなったりしていた。
「それに、僕、すでに指名手配犯だもの」
開き直ってしまえば、これほど清々しいことはない。犯罪行為だと言われて、恐れをなす必要もなかった。
「駿がやるなら、俺もやろうかな」
明花莉が参加を表明した。
「では、駿君と明花莉君の二人にお願いしよう」
児島は二人の気持ちが変わらないうちに取り込もうと、話を締めにかかった。
「よっしゃ。VRボックスを用意してあるから、そっち行こうか」
三島が口を開いた。彼はそのために呼ばれていた。機械のセッティングを任されていたのだ。
駿と明花莉が優希に別れを告げ、三島について部屋を出た。廊下を少しばかり進んだところで、後ろから誰かが駆けてくる。振り向くと、優希が頬を膨らませてやってきた。
「あなたたちだけに任せたらめちゃくちゃになるに決まってるわ」
優希は断言すると、一行に加わった。
5
三島が案内した部屋は、駿たちの部屋のある南東区画の北側に面していた。駿の部屋と同じ間取りで、ベッドの代わりにVRのボックス筐体が、所狭しと並んでいた。筐体と筐体の間は身体を横にして通らなければ進めない。左右に二台ずつ、計四台が納まっていた。
「好きなのを選べ。肘掛けの先にセンサーがある。そこでお前らの指紋や静脈承認用のデータをとる。次回からはそこに触れるだけで個人用セッティングに変更される仕組みだ」
三島が説明した。
「VSGみたいにカードがあるの?」
「いや、無い。センサーで個人を照合するだけだ。ファイルはこっちに保存される。あとはゲームと同じで、アバターの作成から始まる。アバターは複数作ることも可能だ」
三島はそう言うと、さっさと入れと三人を奥に押しやった。先頭にいた駿が必然的に奥側に入った。細い通路を挟んだ隣に優希が入った。優希の顔が期待で上気している。彼女も久しぶりのVSGに興奮しているのだ。
「閉めるぞ」
三島の声が合図になり、ドアが上から下りてきて小さな密室を作った。駿の座った椅子が動き、楽な姿勢へと変化した。椅子の高さが変わり、足を自然に伸ばしていればいい。
目の前のモニターの位置も、ちょうどいい目線へ移動した。腕が持ち上げられた。肘掛けもちょうどいい位置に止まる。その肘掛けの先、手を置いたあたりにタッチパネルがあった。
頭の上にヘッドギアが見える。一度ヘッドギアが下りて駿の頭から顔を覆うと、細かなサイズ調整が行われた。そして一旦、頭上へ離れた。
目の前のモニターに明かりが灯った。VSGのように派手なタイトルロゴはなかった。代わりに、VirtualSecurityGuardシステムと表示された。バージョンは3.6となっていた。
VSGuardiansと名前を変えれば、ゲームのタイトルだ。この類似点には何か意味があるのだろうか。バージョンの数字も似ていたように、駿は思えた。
すぐにアバターの作成画面になった。VSGのキャラクター作成と同じである。著作権に問題ないのかなと、駿は不安になりつつも、久しぶりのVSG感覚で、気分が高揚していた。些細な疑問などすぐに頭の隅へ追いやると、どんなキャラクターにしようか思案し始めていた。
VSGで使っていたウォン・フェイフォンと同じキャラクターを作るのなら、姿も名前も決まっているので作業は早い。フェイフォンを失った喪失感はだいぶ薄れている。今はもう一度フェイフォンになりたいと思えていた。フェイフォンなら、悩まずアバターを作り上げることができる。駿はフェイフォンを復活させようかと本気で考え始めていた。
『おっと、忘れるところだった』
三島の声がどこからか聞こえてきた。
『個人を特定されるような名前を付けるな。後、VSGで使っていた名前もやめておけ』
それだけ言うと、後は静かになった。
彼の忠告を受け入れるなら、ウォン・フェイフォンは使えないことになる。駿はアバターの姿を作成しながら名前のアイデアを絞った。
VSGと同じように遊べるのなら、やはり格闘家だ。武器は使わない。グレン・ザ・ラッシュ・ハワードのようなボクサータイプもいいなと思うものの、今回は足技主体にしてみようと考えていた。ウォン・フェイフォンは手技から入り、蹴り技に移行し、無影脚という必殺技につなげるコンボで戦った。今回は足技に特化させるのも面白そうだ。
長身で、足の長い青年が出来上がっていた。
名前は、と考えて、行き詰まった。思いつかない。好きなカンフー映画を基にするなら、足技の名前を考えて、それを名乗る手もあるのだが、その技名すら思いつかない。
ウォン・フェイフォンの時に使っていた無影脚という技がある。足技なのだが、これを使うのはまずいだろう。個人を特定される恐れがあるのではないかと思えた。
駿はいい名前が思い浮かばず、かといって時間をかけすぎてもまずいと思い、適当に決めてログインした。
ヘッドギアが下りて、駿の頭と顔を覆った。目の前を光が流れ、光の流れに呼び込まれるように、引き込まれた。
モニターではなく、瞬きする目で、辺りを見渡していた。駿の実際の手よりやや大きく、肉付きもいい。足元が普段より遠く感じた。
辺りは手抜きのポリゴン背景だ。足元や壁など、線で描かれている。が、足に触れる感覚はしっかりとあった。地面というよりは、コンクリートのような感触だ。
背景は手抜きだが、このアバターはリアリティのあるものだった。手で自分の身体を確認すると、しっかりと肌に触れる感触がある。飛び跳ねれば、身体が軽く、数メートル跳躍できた。
足を振ってみると、想像した通りに上がり、空を切った。
いい感じだ。
駿はいやがうえにも気持ちが高ぶった。この感触は、キャラクターこそ違えど、VSGと同じだ。VSGに帰ってきたと思えた。
優希や明花莉がログインしてきたら、少し対戦してみるのもいいかもしれない。そう考えると、いいアイデアに思え、二人が早く現れないかと待ち遠しくなった。
あまり待つことなく、二人が現れた。
一人は若い男で、身長もさることながら、筋肉で横幅も広かった。厚い胸板を自分で叩き、確認していた。
もう一人も若い、女性で、矢野莉紅を思い出させるような格好だった。ショートカット。動きに邪魔にならないように、肌にフィットしたシャツ。迷彩柄のズボンといった出で立ちだ。矢野と異なる点は、顔と、筋肉のつき方だろう。この女性は、見た目ではそれほど筋肉がなかった。だが、アバターである。実際にはかなりの力を発揮するはずだ。
筋骨隆々の男はライトという名前になっていた。矢野似の女性はキーユである。駿はそれぞれが誰であるのか、即座に理解した。
「キックって、変な名前」
ライトが太い指で駿を示し、高らかに笑った。ボイスチェンジャーを使っている様子で、明花莉の声と違い、低い男らしい声だった。
「ライトだって変じゃないか」
「どこが」
「名前のまんま」
「うっせ」
ライトはそう吐き捨てると、キーユよりはましだと言った。
「どこがよ」
「確かに。個人を特定できる名前はまずいよ」
駿こと、キックも指摘を付け加えた。
「時間がなかったんだから、仕方ないでしょ」
キーユこと優希は頬を膨らませて抗議した。
「キックってことは、蹴り技?」
ライトがキックの身体を上から下まで眺めまわしていた。
「そそ」
キックは自慢げに足を振り上げてみせた。
「いいね。せっかくだし、一戦交えて行こうぜ」
ライトは言うが早いか、身構えていた。キックも勝負することにやぶさかではない。右足をやや浮かせた体勢で身構えた。
ライトがたった一歩で長い距離を一気に詰めた。キックは冷静に右足を蹴り上げ、迎え撃った。対するライトは右拳を振りぬこうとしていた。
キーユが二人の間に割り込むと、背中越しにキックの足を右手で、ライトの右拳を左手で、それぞれ掴み、それぞれの勢いを利用して投げ飛ばした。キックは横へ、ライトは前方、キーユから見れば後方へ飛ばされたのだ。
キックは咄嗟ながらも、太極拳を昔受けた経験から、空中で宙返りして体勢を立て直した。ライトの方は勢い余って顔から地面に落下していた。
「勝負なんて後になさい」
犯罪行為だと一番乗り気ではなかったキーユが、目的を忘れて勝負しようとする二人に、何をすべきか思い出させた。
「しゃーねーな」
ライトが顔をさすりながら起き上がった。
「その代わり、キーユも後で対戦させろよ」
「後で皆でやろう」
キックも、後の対戦が楽しみになった。
『どうだい?VSGみたいだろう?景色はあれだけども』
杉本亮の声が頭の中に響いた。
「うん。景色は残念だけど、アバターはよさげ」
キックが軽く跳躍してみせた。
ライトが地面を殴りつけると、地震が起こったように揺れた。
二人とも満足そうに微笑み合った。
「あの、失礼ですけど、これってVSGの盗作になるのでは?」
キーユが生真面目なことを言い出した。
「いいじゃないか、そんなこと」
ライトが言い立て、キックもライトに同意した。
『私がVSGの開発者だからね。その辺りは大丈夫でしょ』
杉本亮がさらりと言ってのけた。あまりにあっさり言うので、キックは事の重大さに気付けなかった。
「マジで?」
ライトは気付いて、驚きの声を上げていた。
「へー。ふーん。見かけによらないな。いや、見直したぜ!」
精一杯、ライトなりの言葉で、褒めているようだった。
遅れて理解したキックが、驚きの叫び声をあげていた。
「名前は言わないのよ」
キーユは驚いた表情をしているものの、落ち着いた声で、危険性を先に指摘していた。指摘されなければ、キックが杉本亮の名前を叫んでいたに違いない。
『背景や格闘部分は人の手を借りてますけどね』
杉本の声がどこか照れ臭そうに聞こえた。
『おい。時間がないぞ』
三島の声が割り込んできた。
『そうでした。矢印が出てくるので、その指示に従って移動してください。相手のセキュリティーに遭遇したら戦闘になりますので、よろしくお願いします』
杉本の説明通り、空中に矢印が現れた。キック、ライト、キーユの三人は互いに顔を見合わせると、矢印の先に向かって走り出した。
6
山科源次郎が客にお茶を出した。客が、彼が孫、あるいはひ孫のように感じていた大本駿であれば、大福餅を添えたのだが、この客に出すわけにはいかなかった。駿に出していた大福餅は正規のルートで入手したものではない。この客に不正に入手したものを出せば、どういう事態になるのか、容易に予測できた。
客は椅子がおもちゃに見えてしまうほど大きな身体をしていた。使い古したスーツに身を包んだ大上裕翔である。
「や、恐縮です」
大上は老人に茶を入れさせたことを詫びると、受け取った茶をすすった。
源次郎が大上の向かい側に腰を下ろすと、大上は聞きたいことが有りましてと切り出した。
「大本少年のことなら、わしはあまり知らんのじゃがの」
「ああ、いえ、彼のことではありません。まったく別のことです。ああそうそう。彼の話が出たついでに」
大上は茶でのどを潤すと、頭を下げ、声を潜めた。ここは源次郎の自宅で、周りで聞き耳を立てるものなどいないのだが、それでも誰かに聞かれたくない思いがそうさせていた。
「うちの上官が本部へ戻りましてね。少年の行方がつかめないこともあって、彼の捜索は行き詰まっていますよ。いやはや、ここの脱出といい、その後のフォローといい、そつのなさに感服いたします」
「まるでわしが手を尽くしていると言われているようじゃの。わしは何もしておらん」
「少年の着ていたあの服に、意味があるのでしょ。あ、いえ、決してあなたをどうこうしようとここへ来たわけではありません。家紋の意味に気付いたので、別のことを聞きたくなったのですよ」
大上が慌てて言いつくろった。
「警察としてではなく、一個人として…少し違いますね。一個人の知的好奇心もそうですが、やはり警官のサガでしょうか。疑問は晴らしたいのですよ」
源次郎は警戒の視線を大上に向けたまま、茶をすすった。表情が変わらないのは、年の功といえた。面の皮が熱くなったものだと、内心の自嘲も含まれている。
「ここの建設にかかわられたあなたに、ここのエネルギー事情をお尋ねしたいのです」
「エネルギーに関しては、わしは素人じゃの」
「まま。以前からうわさにもありましたが、地熱エネルギーの利用を謳いながら、実際は外部の原子力に起因するエネルギーを利用していると」
「SNS上で飛び交っておる噂じゃの」
「ええ。そのことを裏付けるような情報を入手しましたので、その真偽を確認したいとうかがったわけです」
「情報…昨今、頓に減ったようじゃの。来月施行されるはずの法案など、都市内での情報は皆無じゃ」
「ご存じでしたか。我々にも情報が下りてきておりません。政府は、いや、ニュー東京の連中が一体何をやろうとしているのか、はなはだ疑問です」
大上は本題から遠ざかるように語った。今までも、政府首脳の暮らすニュー東京から、押しつけとも言える政策の数々が発せられてきた。列挙する様子は、大上の愚痴のようにも聞こえた。
必要な情報の隠蔽や工作で、捜査が二転三転することがよくあると言った。不審に思い、ニュー東京の動向に注視していたさなか、大上はとあるデータに気付いた。
そのデータは、北東京、東海、中国の三都市から、物資、エネルギーがニュー東京へ送られていることを示していた。
それほど余剰のエネルギーが発生しているのかと、訝っていたが、データを精査するうちに、地熱から得たエネルギーの大半が、ニュー東京へ送られていることが判明した。
それではこの都市のエネルギーはどこから得ているのか。残った僅かなエネルギーで賄えるほど、小規模な都市ではない。
「大本少年の件で外部と接触する機会が出来まして、彼らの一部がエネルギー問題で困窮していることも分かりました。彼らは、都市に電力を食われるからだと言いましたよ」
大上は、集められる限りの情報を集め、外部の原子力発電によるエネルギーが北東京に送られているのではないかと推察したと言った。
源次郎は大上の目を見つめた。彼の目には、嘘や打算の色は見えない。腹に隠したものがないといえば嘘になるが、少なくとも、源次郎をだまして何かを企む様子ではなかった。
「それを知ってどうするのかの」
源次郎は静かにお茶をすすった。
「どうにもできんでしょうな」
大上が即答で、笑った。
「知的好奇心とやらかの」
「ですね。我ながらお恥ずかしい限りです。警察という体制の中にありながら、政府の不正の証拠、虚偽の証拠を得たとしても、何もできんのですから」
「かもしれんの」
源次郎のそっけない答えに、別の含みもあるように思われた。源次郎には何か手段があるのかもしれない。大上はそう推察したが、追及はしなかった。
「それで、実際のところは?」
「おぬしの調べの通りじゃの。ここの地熱エネルギーはそのままニュー東京へ送られておる。代わりに外部から電力を引き込んでおるの」
「やっぱりそうか!」
「しかし、稼働から六年も経って、今さらじゃの」
「そうかもしれません」
大上はそう言って笑った。
「最近暇だったものでつい。上司に逆らって閑職に追いやられまして。暇なものだから気になることを調べていました」
大上は長年の疑問が晴れたと喜んだ。
「これが分かったところで、何になるわけでもないのですがね。ああそうそう。情報統括及び国民保護法案、例のロボット配備法案の影響で、すでに情報統制が強まっています」
「そのようじゃの」
源次郎はわしに何の関係があると、冷ややかな目線で大上を見上げていた。
「VSGの運営会社をご存じで?」
「確か、同じVSGの略号じゃったの」
「ご存じでしたか。あのゲームも法案に引っかかるとかで混乱に任せて放置されていましたが、近々、そこの社長が変わって方針転換するとの噂です」
「ほう。それで、やっと重い腰を上げて、VSGの混乱を治めてくれるのかの?」
「そうあって欲しいものです。何せ情報源があの、海賊放送のスーン情報局ですから、どうなるか分かりません」
大上が苦笑した。警察に身を置きながら、正しい情報を集められない不甲斐なさに、もはや笑うしかないと言った心境だった。
「スーンかの」
源次郎も笑った。ただ、こちらの笑みには親しみが含まれているようだ。
「あるいは真実かもしれんて」
「そうですね。もしもVSGが通常に戻ったら、また対戦しましょう」
「本当はウォン・フェイフォンと戦ってみたいのじゃろう?」
「彼とももちろん戦いたいですな」
大上も源次郎も、ウォン・フェイフォンとの対戦はもう無理だろうと考えていた。必然的に二人とも表情が曇る。
駿が、いくら濡れ衣を着せられたとはいえ、その濡れ衣を着せている張本人がどうやらニュー東京の高官たちである。彼ら権力者が実権を失わない限り、駿が自由になれることはない。それこそ政府が転覆でもしない限り。源次郎はそう考えて、わしにも転覆の兆しを作る手段がないわけではないのと思い至り、どす黒い笑いを浮かべていた。
源次郎は考えを改めた。その一手のみでは、政府はびくともすまい。一時の感情で暴走するのは若手に任せ、年寄りはほんのちょっと手助けするだけのものだ。源次郎は茶でどす黒い感情を飲み下した。
源次郎がもし、北東京ではなく、地上のどこかに暮らしていたとすれば、小さな一手でも手を打つ気になっていただろう。ロボットが全国に配備され、監視されることになるのなら、それを全力で阻止したい。しかし、北東京にはロボットが配備されない。情報統制はされても、ロボットによる監視まではないのだ。それ故に、源次郎としても、少し他人事の意識があったことは否めない。
もっとも、地上にいたら、情報統制のために、法案のことを知らずに過ごしていた可能性が高い。
地上の多くの人々が、何も知らず、平和に暮らしている。そしてある日、突然、身近にロボットが配備され、人々の言動を抑制し始めるのである。歯向かえばロボットに連行され、いずこへ連れ去られるかもわかったものではない。この未来図が、一ヶ月後に現実のものとなるのだった。
もちろん、悪いことばかりではない。トラブルが発生すればすぐにロボットが駆けつけ、手助けや仲裁をしてくれる。いの一番でロボットが救助に駆けつけてくれるという安心感は、計り知れない安定をもたらすだろう。もはや犯罪におびえる必要はないのだ。
人々は自由を失う代わりに、理想の平安を手に入れることになる。
果たして本当に平安が訪れるのだろうか。
北東京など、地下都市とか隔離都市とか言われる巨大都市は、都市運営当初から情報統制され、カメラやドローンによる監視が始終行われている。おかげで大きな犯罪は起きないものの、小さな犯罪やトラブルは、頻発しているのである。
そもそも、犯罪やトラブルが発生しないのであれば、都市内に警察などの組織が必要ないのだ。大上が給料にありつけるということは、それだけ需要があることになる。
政府は情報統括及び国民保護法案をもってして、犯罪の撲滅を謳う。国民の安全を誓った。
犯罪の撲滅や恒久的な安全は、夢物語に過ぎないのではないか。逆に、行き過ぎた措置は反発を招き、混乱を引き起こすことになる。
混乱が始まった時、源次郎は自分の身の振り方を、改めて考えなければならないと思案していた。
7
キック、ライト、キーユの三人が案内に従ってたどり着いた場所に、何かが待ち受けていた。動くものが見え、三人は慌ててポリゴンの背後に隠れ、様子をうかがった。
そっと顔を覗かせた先に、何かの入り口がある。その入り口を守るように、数十匹のドーベルマンがいた。
本物のドーベルマンと違う点は、入り口を守るように座って微動だにしないところだ。生きたドーベルマンなら、伏せていたり、寝転がっていたり、各々が楽な姿勢で守っているはずだ。物音やにおいに気付いた一頭が吠え、すべてのドーベルマンが瞬時に臨戦態勢をとる。
キックは想像して、背筋が冷たくなった。
「かわいい犬だ」
ライトが無造作に歩きだしていた。
「あ、ちょっと」
キーユは腰が引けているのか、ポリゴンの影から出ようともしなかった。手が届かないだけですぐにライトの制止を諦めていた。
ドーベルマンたちが一斉にライトを見つめ、警告の唸り声を上げた。
ライトはかまわず近づき、一匹の頭をなでようとして、咬みつかれた。とっさに手を引っ込めたので傷はおっていない。
「ちょっとなでさせろよ」
ライトが懲りずになでようとするものの、数十匹のドーベルマンが一斉に、ライトへ襲い掛かった。
キックは助けに行こうと飛び出したものの、キーユは恐る恐る覗くとまた引っ込んでいた。
「キーユって犬怖いの?」
「こ、怖くなんてないわよ」
キックの問いに、キーユは即座に答えた。
「ただ、あの牙、当たったら危ないでしょ」
キックは怖がっていると結論付けると、ドーベルマンに揉みくちゃにされているライトを助けに走った。
飛び込みざまに蹴りの連打を放って次々とドーベルマンを排除した。
突然、爆発するように、ドーベルマンたちが一斉に、外側へ向かって弾き飛ばされた。キックは咄嗟にバク転し、向かってきたドーベルマンを空中へ蹴り上げた。
ライトは体中から血を垂らしながらも、掴んだドーベルマンを武器代わりに振り回して、周りのドーベルマンを排除していた。
これが現実世界であれば、ドーベルマンの統率力に手も足も出ず、返り討ちにあっていただろう。だが、仮想世界のライトやキックは尋常ならざる力を有していた。
飛び掛かってくるドーベルマンを、それぞれが拳や足で迎え撃ち、着実に撃退していった。
混戦の中で、キックはあえて手を使わないように心掛けた。足を振って撃退し、さらに身体を回して軸足を上げると、もう一匹の飛込に合わせて蹴りだした。着地と同時に別の方向へ蹴りの連打を放つ。後ろを、と考えてやめた。後ろはライトに任せればいい。
ライトは豪快にドーベルマンを叩き伏せていった。少々咬みつかれても、硬い筋肉でものともせず、むしり取っては叩きつけた。
ものの数分で、数十匹いたドーベルマンは全て消え去った。最後に残ったドーベルマンが今、ライトの手の中でもがいている。ライトは問答無用で頭をなでていた。ひとしきりなでて満足したのか、あるいは相手がなでられることでダメージを受けたのか、そのドーベルマンも光の粒となって消えさった。
全てが消え去ると、キーユが物陰から出てきた。何事もなかったかのように、キックの横をすまし顔で通り過ぎ、先に進んだ。
「ちょっとケガしちまった。休憩して治そうぜ」
ライトが身体を見渡して言った。VSGなら、対戦が終わった後、少し時間を置くと回復した。ライトは同じ感覚で考えていた。
『いい忘れていましたが、傷は本部に戻らないと治せません。HPが0になると消滅するのでお気を付けください』
見計らったかのように、杉本の声が頭に響いてきた。
「何だと!俺、スタートからダメージ負ってたんだけど?」
ライトが憤って見ても、返事はなかった。スタートのダメージを負わせた張本人も、早く行くわよと素知らぬ顔で催促していた。
「何だよ。回復なしの連戦か。先に言って欲しかったぜ!」
ライトは愚痴りながらも立ち上がるとキーユの後を追った。
キックは幸い、傷一つ負っていない。今度も気を付けようと、ライトを見て思った。その顔がほころんでいるのをライトに気付かれ、おもしろがりやがってと指差された。
「猫よ!」
先を進むキーユが嬉しそうな声を上げていた。キックとライトが駆けつけてみると、猫にしては大きな生き物が数匹いた。
「あれヒョウじゃない?」
キックが冷静に指摘した。
「猫よ。誰がなんと言おうと、猫なの」
キーユは頑なにそう言うと、かわいいと身もだえしている。確かに、見ようによっては、そして近づかなければ、かわいくも見える。だが、ドーベルマンよりも殺意のこもった目で見つめられると、かわいさよりも残忍さの方が目立つ。
「猫は爪が嫌だ…」
ライトが間の抜けた感想を呟いていた。隠れはしないものの、キックの後ろに控え、前に出ようとはしなかった。
「え?何?今度もまた戦うの二人だけってか、キーユも戦わないパターン?」
キックは先が思いやられた。ライトは後ろに控え、キーユは座り込み、手を伸ばしてヒョウを誘い出そうとしていた。
ヒョウの数が少ないことが救いだった。さらにその内一匹は、良くも悪くも、キーユが引きつけてくれている。キックはそこを無視することに決めると、残りの数匹に向かって駆けこんだ。
ヒョウが上から飛び込んでくる。その下も、地を這うようにもう一匹が迫った。
キックは足を空中へ高々と上げると、背を回して空中のヒョウを蹴り落とした。そのヒョウが下のヒョウとぶつかる。二匹がかたまったところへ、キックは体重を利用した蹴りを数発打ち込んだ。
横から飛び込んできたヒョウを、身体をひねってかわす。別のヒョウも飛び込んできたが、こちらは下から蹴り上げ、無防備な胴体にもう一発蹴りをお見舞いした。
背後から迫るヒョウに、蹴り足を合わせると、周りのヒョウは全て消え去った。
キーユの前に、まだヒョウが残っていた。キーユはどこをどう使っているのか、ヒョウの攻撃をすべて受け流し、ヒョウを身動き取れないように抑えつけた。そしてお腹を、よしよしと言いながらさすった。
ひとしきりなでると、ヒョウが消えた。キーユが満足そうな笑みを浮かべていた。
「えっと、僕たち、何しに来たんだっけ?」
キックはわざとそう言って、満足そうなキーユと、何もしなかったライトを見つめた。
「なんとかなったんだからいいじゃないか」
ライトはそう言ってキックの肩を叩くと、先に立って歩きだした。
「細かいことは言わないの」
キーユも、言い放っていた。
次の部屋は、三頭のライオンが待ち構えていた。
「あの。擬人化って言わなかった?」
キックが疑問を口にした。
「言ってたわね」
「人ではなく、動物じゃない。擬人化?」
「どうでもいい。一人一頭な」
ライトは指を鳴らしながら、勝手に段取りを決めると、一番大きそうなライオンを自分の相手に選んでいた。
「ライオンて、なでていいのかしら?」
キーユが上気した顔で言っていた。キックは返事をせず、自分も別のライオンと対峙した。
百獣の王などと言われるライオンも、三人にかかればひとたまりもなかった。覆いかぶさるように迫るライオンのあごを、キックが蹴り上げると、ライオンは自分の舌をかみ切り、もんどりうった。
ライトがこめかみを強かに殴りつけたライオンは昏倒した。留めとばかりに、倒れたライオンを一撃で殴り消した。
キーユは飛び込んできたライオンを投げ飛ばし、ポリゴンの地面に頭からめり込ませていた。そのお腹を軽くさすると、ライオンは光の粒となって消えた。
ライトのエンジンがかかってきた様子で、次の戦いを望んでいた。キーユも満足そうな笑みを浮かべ、次に何が出てくるのか期待していた。
キックは、久々の戦いを楽しむことにした。戦いを楽しんでも、この三人ならなんとかなるだろう。HPが回復できない仕様でも、楽しんでいける。
「さーて、次行こうぜ、次!」
ライトが意気揚々と進んで行った。キックの高揚した気持ちに反応したかのようだ。キックにはそれが心地よく、嬉しくなってキーユと微笑み合った。
8
西園寺光隆がこの屋敷を訪れたのはいつ以来だっただろうか。公直を後継とした後は、一度も来ていないはずだ。とすると、ニュー東京に入居して間もなくから来ていないことになる。
西園寺家の屋敷は広大な庭に囲まれ、地下都市内とは思えない雄大な自然に包まれていた。そもそも、地下都市とは語弊がある。ニュー東京は、一部海上に顔を覗かせていることを除けば、その大部分が海中に位置していた。
他の地下都市と違い、ニュー東京は常に受け続ける海流からエネルギーを生み出していた。また、この都市は外殻と内殻に分かれ、内側は波の影響を受けないように自動制御されていた。他の都市にも付随している機能だが、常時稼働しているのはここだけだ。他の都市のものは地震対策である。
敷石の上を歩いていると、地上の屋敷を訪れているような感覚に襲われた。今朝の海は大荒れで、ヘリの着陸に一苦労したものだが、ここは足元の揺れなど一つも感じない。
大きな玄関にたどり着くと、使用人が整列して待ち構えていた。
「ようこそお越しくださいました」
背の低い中年がそう言い、西園寺光隆を奥へ案内した。廊下を歩くと、横手に庭が望める。手入れが行き届き、波打った庭石が見える。その向こうに池が見えた。
池の手前でアジサイが色鮮やかに咲いている。西園寺光隆には、あでやかな花が咲いている、程度の感慨しかなかった。
池の奥に、規則正しく並んだ林もあった。その中で、松がいびつな形に腕を伸ばし、その存在感を自己主張していた。
西園寺光隆にとって、さしたる思いれのある庭でもないのだが、こういうものに興味のない人間にも、どこか清々しいにおいを感じさせる庭だった。
長い廊下を歩き、いくつかの角を曲がった先で、ようやく一つの部屋に通された。
「当主がお待ちかねでございます」
背の低い中年男が頭を下げ、西園寺光隆を部屋の奥へいざなった。男は背後で障子を閉めると、静かに廊下を去っていった。
西園寺光隆は障子に移る人影を見送った後、振り向いて、光隆ですと一声かけ、ふすまを開けた。
畳張りの何もない部屋の中央に、初老の男が座っていた。男の周りにいくつかホログラムが表示されている。男はホログラムに目を通すと、一部を操作し、処理を終えると押しやって別のものを表示した。
「よくきた。すぐに終わるゆえ、しばし待て」
男は入ってきた西園寺光隆に視線を向けることなく言った。西園寺光隆は静かに、男の正面に座った。
目の前の男は齢六十を超えている。だが、その目に強い精気が宿っている。持て余した精気が、まっすぐ伸びた背筋を、力強く見せている。
西園寺公康。それが彼の名前だ。彼の子供のうち、末子が、西園寺光隆になる。
西園寺の跡取りといわれていた公直は、長女の息子に当たる。光隆と公直は、年齢に一回りの差があった。
光隆にとって、この甥は厄介だった。甥と呼んでいいのかも怪しい。甥は、女のように生白い肌をして、ひ弱だった。どういう訳か、光隆は公直に気に入られ、付きまとわれて面倒くさかったことを覚えている。
いつのことだったか、光隆の寝室に公直が入り込み、眠っていたことがあった。姉がそのことに気付くと激怒したものである。光隆には何を怒られているのか見当もつかなかった。だが、そのことで、公直と関わると面倒だと思い至るようになった。
公直は何をやらせてもどんくさかった。足手まといになるくせに、光隆についてきたがった。だが、あまりかまうと、姉が意味もなく激怒する。光隆は次第に、公直を邪険に扱い、遠ざけた。
遠ざけた理由はもう一つある。光隆の心の奥底に隠す、秘事である。あれは公直が後継とえらばれる少し前のことだ。まだ十歳かそこらの、あどけなさの残る公直の表情に、光隆はどうした訳か、女を垣間見た。
光隆は恐怖した。自分は少年を愛する性癖の持ち主なのだろうかと。まるで変質者ではないか。西園寺家の末子たる自分が変質者の仲間入りをすれば、どのような謗りを受けるか分かったものではない。
公直の顔を見るたびに、光隆は心の中で葛藤する羽目になった。一回り年下の公直に、自分が欲情しているのかと恐怖した。同時に、公直のどこにそのようなものを感じたのか、知りたくなった。だが、知ろうとすれば、男色の、少年愛をより自覚することになるのではないか。解明したい思いよりも、恐怖が勝った。答えを出してはいけない。そこは踏み込んではならない世界なのだ。
公直の顔に、憧れの姉上の面影を見たのかもしれない。それならあり得ると公直は考えた。だが、相手は年端もいかない少年なのだ。憧れだけで済ますには、公直から受ける印象が強すぎた。やはり触れない方がいいと、光隆は考え直したのだった。
公直の顔を見ると葛藤してしまうのなら、見なければいいのだ。
以降、光隆は本家の敷居をまたぐこともなくなった。学業、そして就職へ向けて忙しくなったことも手伝った。光隆はこれ幸いと、公直から離れ、自分の性癖も封印した。
光隆の心の中に、しこりとして残ったのか、聞くとはなしに、公直のその後を聞き及んでいた。西園寺家に属する以上、後継者の動向は聞こえないはずもない。ないのだが、光隆は自分が心の奥底のしこりが、意識させるのだと、自覚していた。
聞こえてくる公直の噂は、あまりいいものがなかった。公直は運動神経が悪いわけではないのだが、スポーツで同級生に勝てない。学力もあまり振るわず、中程度だ。その公直がVSGというゲームにのめり込み、成績を落としていったと聞こえた。
どれもこれも不甲斐ない物ばかりだ。もしも光隆が傍にいたら、注意し、指導したに違いない。だが、そのために光隆が新たな性癖にハマる恐れもある。傍にいても、何もしなかった可能性もあり得た。
ある時、公直が何らかの持病を抱えているらしいと伝え聞いた。光隆について回っていた公直に、病気らしいそぶりはなかった。心配になり、姉に尋ねてみても、答えは得られなかった。それどころか、姉はまともな受け答えすらできなかった。
ほどなくして、姉が入院したと聞いた。姉の入院は公直の持病のせいだと、皆がささやき合っていた。公直のせいで大事な姉が…。そう思うと、光隆も公直に対して憤ったものだ。
「待たせた」
公康の声が、光隆の回想を中断させた。顔を上げると、ホログラムはすべて消えていた。
「早速本題に入る」
公康はそう言うと、新たにホログラムを一つ表示させた。
「グループ企業にゲームを運営している会社がある」
ホログラムに、公康の言葉を補足するように会社の概要が表示された。
「ゲーム会社には似つかわしくない名前のところでしたね」
光隆はバーチャル・セキュリティー・ガードと口の中で呟いた。
「奴が手掛けたセキュリティーソフトを基にしておる」
公康のいう奴とは、長女の桜子の婿、亮のことだ。公直の父親でもある。
「この分野の世情に疎く、詳しくは分からん。なんでも、不特定多数の協力が必要ということで、ゲームに改良され、運営していた」
公康は自分の説明も正しくは理解できていない様子だ。
「内容はともかく。このゲームとやらの中で、有益なものが生まれたそうだ」
公康がホログラムを変更すると、ハウルという名の男が映し出された。
「これはAIだという。AIだとかいうものもなんだが、ただのゲームにだぞ?こういう話をしていると、私は時代遅れだと思えてくる」
公康が苦笑していた。
「AIは別名人工無能とも言われ、初めに膨大な知識を教えなければなりません。教えなければ、現実で利用できないのです」
光隆はそう言うと、失礼しますと、ホログラムを操作した。資料にざっと目を通す。
「これは、偶然の産物のようですね。ほぼ必要な情報を教え込んだAIが、ゲーム内で偶然に出来上がったようです。そして都合のいいことに、このAIは増殖します」
光隆はこのAIの可能性が垣間見え、興奮していた。AIのコピーは元々可能なのだが、コピー同士がおかしな作用をして、不具合をきたすことが多い。その点、このハウルは問題なく増えると、資料にあった。
また、AIを人間と同程度の知識と思考力、認識力にしようとすれば、膨大なデータと、そのデータを即座に処理する能力が必要になる。AI一つにつき、一つのスーパーコンピューターが必要といわれるほどである。
巷で出回っているAIは、AIにさせたい一部の事柄に限定し、特化させたもので、人のような汎用性はなかった。
汎用性を追求したAIをコピーすると、互いがおかしな作用をして、不具合を起こす。まるでクローンに出会った人物が精神に異常をきたすかのようだと、とあるAIの権威が言っていた。
あれは誰だったかと、光隆は資料を眺めながら記憶を探った。その権威は今、AIを人と同じ環境で育てた場合、そのAIは果たしてプログラムか、あるいは新たなる知的生命体なのかを研究しているはずだ。AIの人権論まで語っていた。
「ふむ。お前を呼んだのは正解だった」
公康の声が、光隆の思考を遮った。
「政府がこのAIを利用したいと申し込んできた。これは商機である。我が西園寺グループの商品として、このAIを売り出す好機だ。が、現VSGの幹部連中はゲームとしての利用価値しか見出しておらん」
「ええ、このAIなら、商品になりましょう。特に、情報統括及び国民保護法案の、配備予定のロボットに役立つことでしょう」
「その通り。政府からもそのように打診されておる」
「ということは、私にこのVSGへ行き、AIの販売を行えとおっしゃるのですね?」
「それだけではない。光隆。警察を辞めよ。代わりに、VSG社の社長と、西園寺グループの要職の座を用意しよう」
光隆に警察を辞めよと言われるのは、少々抵抗がある。が、西園寺グループの要職の座となれば、別の権力が手に入る。そして、グループ内でのし上がれば、後継者候補としても有利になる。
それに、単純に警察を去るわけでもない。将来配備されるロボットに、VSGが所有するAIを搭載させるとなると、国民統治の分野でかかわることになる。光隆の支配欲が、この旨味に気付かないわけがなかった。
「謹んでお引き受けいたします」
ほぼ即答だった。警視からゆっくりと階級を登るよりもよほど近道ができる。警察の外部から、警察組織を支配すれば、もはや警視総監など目ではないのだ。
光隆は野望に胸を躍らせ、新たなる門出を迎えた。門出を歓迎するように、不意に名前を思い出した。
AIの権威の名は、小神保だ。彼は今、地下土地中国に住み、研究を続けている。
AIを扱うのならば、一度、小神保と連絡を取り、AIについて学んでおく方がいいだろう。彼が今研究しているAIは確か、雄太と名付けられていると、どこかで見た資料の記憶が脳裏によぎった。
権威の意見と、そのAIを参考にさせてもらおう。
光隆は早くも、将来の展望を見据え、今後の方針を定め始めていた。