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サイバーレイン  作者: ばぼびぃ
20/26

涙の跡

  1


「ハウルだと…」

 大本聖が、まさかと呟いた。

「何だ?聖氏の知人だったのか?ならば話が早い…」

 児島仁志が勢い込んで問うのを、聖は手を上げて止めた。聖の視線は、大本駿をとらえたまま離さない。

「あのハウルか?」

「あのって?」

「VSGのハウルか?」

「そう。そのハウル」

「あれが表へ出てきたのか…」

 聖はテーブルに両手をついて、うなだれた。

「二人で話してないで、教えてもらえないか?」

 児島が戸惑ったように、聖と駿を見比べた。

「ハウルというのはVSGというVRゲームのNPCです」

 優希が代わりに答えていた。

「ああ、すまん。略語が多すぎて年寄りには理解できない」

「VRゲームは、バーチャルリアリティ。仮想体験型のゲーム。VSGはゲームのタイトルだから気にしなくていい」

 三島が矢野の胸を凝視したまま、宙を睨む左眼で、児島のうろたえている姿をとらえているかのように言った。

「NPCというのは?」

「ノンプレイヤーキャラクターの略」

 説明を受けても、児島は理解できず、きょとんとしていた。

「ゲームのキャラクターがどうしてロボットに関係する?」

「NPCということは、プログラムでしょ。ロボットなんて操れないのでは?」

 厨房から戻ってきた野沢美郁が疑問を口にした。

「あれはAI…。いや、現状だと、バーチャル世界の生命体と言ってもいいほどだ。やはり私のプログラムが影響を及ぼしたか…」

 聖が答え、何かを悔やんでいた。

「つまり?NPCでもそのハウルというの?そのキャラクターなら、ロボットでも乗っ取れると?」

 野沢は聖の苦悩の様子を無視し、専門家としての意見を求めた。聖はうなだれたまま答えた。

「分らない。が、息子の言葉を信じれば、すでに乗っ取って行動しているようだ」

「何でもいい。そいつが使えるのなら、レジスタンスには大歓迎だ」

 児島は銀色のロボットを貴重な戦力と捉えていた。それもそのはずだ。警察が持ち出したレールガンの弾丸を弾くという離れ業をやってのけた、かのロボットがいれば、実行部隊の大きな戦力となり得るのだ。隊員の命を守る立場上、見逃せない戦力だった。

「使えるかどうかは怪しいな。それに、その発想は政府と同じだぞ」

「聞き捨てならないな。聖氏」

「今度配備されるロボットのAIに、そのハウルを採用するつもりのようだ」

「法案のロボットか?」

「そうだ。一からAIを開発するよりは既存のものを使う方が早く、安いとの考えらしい」

 聖の説明に、児島はあご髭をつまんで考え込んだ。使えるものなら使おうという政府の考えと、児島の銀色のロボットを歓迎する気持ちに、同じ気質のものを感じた。

「権力者と同じ発想…」

 呟くように言うと、腰が砕けたのか、椅子に落ちるように座った。同じレベルの発想と思えたことが、児島に衝撃を与えた。忌み嫌う権力者と同等にはなりたくない。ただそれだけの想いで、自分の提案を白紙に戻した。

「ハウルって、あのゲームをめちゃくちゃにしたやつじゃ?」

 それまで黙っていた酒井航が言った。

「プレイヤーのアカウントを盗みまくってるウォン・フェイフォンってやつの親玉って話だ」

「フェイフォンは悪くない!」

 駿が思わず大きな声を上げていた。酒井に迫ろうとする駿を、優希が後ろから止めた。

「な、なんだよ」

 酒井が気圧され、身体を逸らした。

「そのフェイフォンのプレイヤーが駿なんです。彼もアカウントを盗まれた被害者」

 優希が手早く説明した。

「ご、ごめん」

 酒井が素直に謝ると、駿は床を踏み鳴らしたものの、優希の静止に従って、椅子に戻った。

「ちょっと前にゲームで不正が横行しているとニュースであった、あのことね?」

 野沢が確認し、答えて酒井が頷いた。

「どういうことかしら?大本先生は事情をご存じのようですが」

 野沢が妙にかしこまって聖に問うた。聖はその声色に、顔を引きつらせた。

「こちらに影響することであれば、隠し事はやめていただきたいわ」

 野沢が静かに言い放ち、聖を見据えていた。

「この件は…。昔の…。あれは…」

 聖が急にしどろもどろになった。顔が青い。口を閉じ、顔を伏せた。その後はいくら待っても、何も話さなかった。

「それで、あの銀色のロボットは今、どこにいるんだ?誰か知っているものは?」

 児島が自己嫌悪から立ち直り、皆の顔を見渡した。ロボットのことを聞く辺りに、彼の未練が垣間見えた。

「あたしは知らないわ。興味もない」

 矢野莉紅が胸の前に向けた背もたれの上に顔を伏せていた。ふと顔を上げると、本題とばかりに言いだした。

「それよりも別動隊はいつ戻るの?そっちの心配をすべきでしょ」

「柊が迎えに行った」

 児島が短く答えた。矢野もその言葉で納得できた様子で、腕の上に頭を下ろした。

 駿には柊という名前に聞き覚えはない。その人物は矢野に信頼されるほどのメンバーなのだろう。隣の酒井とは違うらしい。

 酒井はちらちらと横目で矢野の様子をうかがい見ていた。

「誰かあのロボットの行方を知らないのか?」

 児島はもう一度問うた。

 駿が優希を見ると、彼女も駿を見ていた。二人ともハウルの行き先を知っていた。言うべきかどうか、そこが悩みどころである。

 ハウルのことを守り、隠す義理はない。だが、ここの人たちが信頼できるかどうかが問題だ。ハウルを利用したがっているのは間違いない。ハウルを利用して、例えば政府機関の破壊工作を考えているのではないかと疑われた。破壊工作をすれば、そこで働く人々に危害を加えることになる。ハウルのことを教えれば、その手引きをしたことになるのではないか。

 それに、再びハウルが暴れると、世間のニュースでは駿が首謀者扱いされるのではないか。さいたまスーパーアリーナでの事件は駿がロボットを操ったことになっていた。だからこその指名手配である。すでに指名手配されているのだから、これ以上罪状が増えようと変わりない気もするが、自分が周りから極悪人としてみられるのは、不快極まりない。罪状が増えれば、確実に、人々から石を投げつけられる存在になる。

 児島たちがそのような利用はせず、ただ防御の一員としてハウルを考えているだけなのかもしれない。それなら協力してもいい。

 ただ、駿たちが知っている情報は明確なものでもなかった。ハウルが放浪し、最終的に立ち寄る場所を知っているだけのことだ。教えたところで何にもならない可能性も考えられた。

 駿は考えあぐねた結果、言わないことにした。駿が小さく首を左右に振ると、優希もよく見ていなければ分からない程度に頷いた。

「それで?大本先生?」

 児島が皆に問い質している中、野沢が聖に話を催促していた。

 聖はその声に顔を上げたものの、影が張り付いたような表情をしていた。その表情に、駿は背筋が震えた。その表情に、古い記憶が呼び覚まされた。

 駿は聖のこの表情を、十年ほど前に見ていた。子供のころの記憶はほとんど残っていない。聖の影に包まれた表情を着たから思い出せたのだが、他のことはやはりなにも思い出せない。ただぼんやりと、前に見たと思えた。

 いつ頃見たのだろうか。暗く沈んだ表情をしたころといえば、やはり十年前だ。IT崩壊事件の惨劇が起こったころだ。駿自身はあの惨状をすでにほとんど忘れている。あるいは忘れようと心が勝手に記憶から消したのかもしれない。

 とにかく父さんのことだ。駿は自分の思考を修正した。当時、駿の母親が亡くなった。そのころに、父親の表情に影が張り付いていたのを見た。

 今思い返してみれば、聖のあの表情は亡くした妻を惜しみ、嘆いていたのではないかと想像できた。ただ、それだけではないようにも思えた。当時の惨状に絶望していたのかもしれない。あるいは何かしら別の理由もあったのかもしれない。

 十年後の今、同じ表情をするということは、聖が言い渋る内容に、妻の死を想起させる何かが含まれていたのではないか。あるいは、妻の亡くなる原因がそこにあったのではないか。そしてその原因を聖が作ったとすれば…。

 駿は自分の考えに驚いた。母さんの死んだ原因に父さんが…。そんなはずないと、すぐに打ち消した。聖が妻を大事にしていたことはよく覚えている。二人の仲が良かった記憶しかないのだ。

 十年前のことに関係がありそうだとは思うものの、当時の記憶が残る大人にとって、思い出すのも辛い記憶であるはずだ。聖にとって、亡き妻のことを思い出させる、記憶なのだから、離したがらないのも当たり前だと、駿は思った。

「すまない。やはり私の口からは言えない」

 聖は消え入りそうな声で言うと立ち上がり、野沢の呼びかけにも答えず、背を向けた。その背中が、闇に沈み、周りの明かりを拒んでいた。



  2


 レジスタンスの施設内はとにかく四角い。大きな正方形をしている。外周は廊下だ。正方形の中心から東西南北につながる廊下が伸びていた。そのために、施設内は四つの区画に仕切られている。

 北東の区画に各隊員たちが居住していた。南東も居住区で、大本聖や河原優希に宛がわれた部屋は南東区画にあった。

 北西の区画の北側は食堂で、壁を隔てた南側に共同浴場があった。

 南西区画の北側は駿たちが最初に案内された部屋で、レジスタンスの司令部と言える部屋だった。

 駿たちが地下駐車場からこの施設に入った場所は、北東の東側に面した壁だった。左に曲がり最初を右へ進み、十字路を過ぎれば左手に、駿たちが最初に入った司令部の入り口があったのだ。

 そのことが分かった駿は、やっぱり遠回りしていたんだと納得した。どういう道順で歩いたのかは思い出せなかったものの、四角く区切られた施設内を右へ左へと案内されたことだけは分かった。

 駿は食後、散々迷った挙句、この施設の構造を理解したのだった。

 やっとのことで聖の部屋へたどり着いたものの、パネルに触れても反応がない。ノックをしても返事がなかった。

 食堂の片づけと明日の仕込みを終えた千葉信弘が自室へ戻る際中に、通路の向こうから駿の様子に気付き、野沢を呼び出して、駿に新しい部屋を用意してくれた。

 千葉は口を利かなかった。というよりも、口が利けないらしい。声にならない音を喉から発し、不格好に唇を動かしたとき、駿は初めて違和感を覚えた。思い返せば、駿が背を向けて話した内容は聞こえていないそぶりだった。

 そうと分かった途端に、駿は驚き、千葉を尊敬する気持ちが一気に高まった。耳が聞こえず、会話できないのに、彼は素晴らしい料理を作る。喋る口は必要ないにしても、耳は必要なはずだ。調理中の状態を確認するのにも、見た目と音は重要な判断材料だ。大きな判断材料の一つを失っているのに、彼の料理は一流だった。ハンデを感じさせない料理だった。

 千葉は身体にハンデを追いながらも、誰にも負けない技術を習得し、立派に生きている。何も生産していない駿よりよほど役に立つ人材だ。駿は生産していないどころか、学業もここ最近疎かだし、指名手配されるという形で、社会からもつまはじきにあった。もしも優劣を競うのなら、千葉の圧勝である。

 その千葉は気負うことも、駿を見下すこともなく、優しく接してくれた。困っているらしいとあたりをつけ、解決できる人物を連れて戻ってきた。彼の判断は的確で素早かった。

 千葉に連れられてきた野沢はこの施設の管理を任されているのか、逡巡することなく、駿を連れて廊下を回り、別の部屋へ案内した。部屋のロックを解除し、ここを使いなさいと、駿を押し込んだ。

 部屋の間取りは聖のものと同じ程度のようだが、ここは二段ベッドになっていた。ベッドの反対側にクローゼットがあった。奥の壁際に小さなテーブルもある。入り口脇に洗面所とトイレもあった。

 駿が一人で過ごすには十分なスペースだ。

「ベッドは手入れしてあるから、そのまま使いなさい」

 野沢はそれだけ告げると、立ち去った。

「あらお隣さん」

 開いたままだった入り口から、優希が顔を覗かせていた。

「お隣さん?」

「そ。お隣」

 優希は短く答えると、指で隣を指し示した。

「部屋の間取りは同じね」

 優希が辺りを見渡しつつ、中に入ってきた。駿は女の子が部屋に入ってきたと思っただけで、舞い上がった。手をつないで買い物をした仲だというのに、部屋に入ってきただけでなぜこれほど緊張を強いられるのか分からなかった。

 優希の手に着替えらしきものが見えた。淡い色のものが見える。駿は見覚えがあるような気がして、何なのか思い出そうと見つめていた。

「えっち」

 優希が胸に押し付けて隠した。その行動で理解できた。あの淡い色のものは、下着だったのだ。

「あ、その、ごめん」

 駿は恥ずかしさと後ろめたさで話題を変えようとした。

「これからお風呂?」

「うんそう」

 話題を変えても、駿の頭に下着がちらついていた。あの下着は昨日、駿と一緒に買ったものだ。駿が支払ったので、見まいとしても、ついつい目が行って、脳裏に残っていた。

 見まいとしたのはあくまで罪悪感があったからだが、興味がないわけではない。正直なところ、見たかったのだが、凝視すれば、周りから変な目で見られ、蔑まれるだろう。斜眼の三島のようにじろじろ見る度胸は、駿にはなかった。

 あの下着を優希がつけるのだと思うと、思わず想像してしまう。

「ちょっと?聞いてる?」

 優希の顔が目の前にあった。

「え、なに?」

「やっぱり聞いてなかったのね。あのニュースのこと、ちゃんと、詳しく、教えて」

 優希がかみ砕いて言った。一言一言に感情がこもっているように思われた。

「うん、分かった。話す。でも、お風呂入ってくるんじゃなかったの?」

「そうよ。だからまた後で声をかけるわ」

 優希はそれも言ったんだけどと言いたげな口調で告げた。くるりと向きを変え、出口に向かった。途中で足を止めると首だけで振り向いた。

「駿もお風呂入りなさいよ」

「ん?一緒に入るの?」

「ばか」

 優希は鼻にかかったような声で怒ると、駆け出していた。

 駿はとっさに馬鹿なことを言ったものだと自分でも呆れた。これでは斜眼の三島の視線を馬鹿にできない。彼と同レベルの思考が、駿にもあるということだろうか。それはそれでショックだった。

 それにしても、優希の最後の一言が妙に嬉しかった。言葉自体は蔑む意味だ。なのに、声色にとても引かれた。優希の声に駿の胸が高鳴り、心地よくリフレインした。

 僕はばかにされて喜ぶ性癖でもあったのだろうかと訝ったが、脳内リフレインを続けるうちに、違うと気付いた。

 言葉は関係ないのだ。優希の声の響きに、優希の感情を垣間見たように思えた。少なくとも、駿が嫌われていることはない。嫌われていたら、吐き捨てるように言われるだけだ。

 あの言い方は、どちらかと言えば、好意を持っているのではないか。それは駿の希望的観測に過ぎないかもしれない。しかし、好意だと考えれば、駿を舞い上がらせているものの正体が腑に落ちる。

 それに、優希は自分の窮地に、駿を頼ったのだ。好意を向けられていることは間違いのない事実と思われた。その好意の程度については分からない。しかし、女の子から好意を寄せられていると考えると、駿はこみあげてくる嬉しさで、顔の筋肉が勝手に緩み、戻せなくなっていた。

「おい、気持ち悪いな。何ニヤついてやがる」

 部屋の扉はまだ開け放ってあったらしい。酒井航が勝手に入り込み、駿を見下ろしていた。

 駿が驚いて顔を上げると、酒井は問答無用で駿の腕をつかみ、部屋から連れ出した。

「人手がいる。手を貸せ」

 酒井は廊下を突き進みながら、それだけ言った。それ以降は口を開かない。駿が何をするのか尋ねても答えなかった。

 行先は地下駐車場だった。

 三台目の車が停まっていた。大型の車両で、後部ドアが開いていた。その周りに、数人が集まっていた。

 矢野莉紅と三島和彦もいた。

 見たことのない人が五人いる。

 一人は背が高い若者で、たくましい体つきをしていた。矢野と同じ迷彩柄の服を着ているので、この人が柊なのかもしれない。

 一人は背の高い、細身の若い男性で、フリルのついたシャツを着ていた。お尻が妙な角度に突き上げられている。背後から見ると、女性と見紛うスタイルだった。

 一人は、明らかに子供だった。短パンにシャツを着込んでいる様は、ランドセルが似合いそうだ。

 一人は白髪の混ざった中年男性で、白衣を着ていた。車に酔ったのか、下を向いて荒い息をしていた。その背中をもう一人がしっかりしろと叩いていた。

 もう一人は駿と同い年か、少し下と思われる少年だった。駿より頭一つ低い。身体つきは細すぎず、かといって太ってもいない。

 駿が柊ではないかと思った人物は、やはり柊で間違いなかった。後で分かったことだが、彼は柊守美という名前で隊員のリーダー格だった。

 柊は酒井の姿を見ると車の荷台にある荷物を運ぶように指示し、自らも作業に加わった。

 まるで鉄の棺のように見える長い箱を取り出した。前を酒井が持ち、後ろを柊が持った。左右から、子供と白衣の中年が支えた。

「こっちも運ぶわよ」

 フリル付きシャツの男性が妙な声を出した。細い身体の割に、意外と力はあるようで、鉄の棺を女性の矢野と二人で引き出した。駿も手招きされ、もう一人の少年とともに左右から支えた。矢野が先頭を持ち、フリルの男が後ろを持った。

 車から離れ間際に男が片手で後部ドアを閉めた。片手を離しているのにバランスが崩れないところから、この男性、身体に似合わず、相当な力持ちと見受けられた。あるいは矢野が、女性とは思えないほどの力持ちなのだ。

 駿と少年は左右から支えているのが精いっぱいだ。負荷がかかれば倒れてしまう。

 狭い扉を抜けるのに一苦労し、次第に汗が噴き出していた。

 駿はこんな重い物を運んだことがない。手がしびれ、落としてしまいそうだ。向かい側の少年も必死の形相だ。

「ちょっと!あたしの大事な子供なんだからね!手を離さないで!落とさないで!」

 後ろから妙な声色で、男が、再々途切れそうになる駿の気力を刺激した。

 廊下を南へ向かい、突き当りを西へ進んだ。右の、施設の中央へ向かう廊下を横目に通り過ぎ、扉が見えてきた。そこが目的地だった。ここは指令室の南側に当たる。少し大きめの扉が開け放たれており、あまり苦労することなく通過できた。



  3


「おい、狭くなるじゃないか」

 部屋では三島が待ち構えていた。

「ここじゃないと整備できないでしょ?あたしの子供たちの世話をさせないつもり?」

 フリルの男は曽我部力也と名乗った。

「あたし、こう見えて、オカマなの。りっちゃんと呼んで」

 曽我部は恥ずかしげもなく言ってのけると、駿の頬をひとなでした。

「若いっていいわね。後でもっと触らせてくれる?」

 駿は思わず後退って、壁際に逃げていた。

「あら?恥ずかしがり屋さんなのね」

 曽我部はそう言ってふふふと笑った。

 子供が三島に詰め寄っていた。

「分った分かった。またおもちゃは作ってやるから!」

 あの三島がたじろいで及び腰だ。

「あの子は清水天翔。天翔けると書いて、テントと読むのよ」

 曽我部がいつの間にか傍に来ていた。もう一人の少年の頬をなでながら、紹介している。

「あっちのハンサムさんは柊守美。いい身体でしょ?惚れ惚れしちゃうわ」

 少年に手をはねのけられ、睨みつけられても、曽我部は気にしていなかった。

「そっちの白衣のおっさんは西園寺亮だったかしら?で、こっちの美少年が西園寺公直くん」

 曽我部はそう言うと、駿に手のひらを向けた。駿に、初見の人たちに向かって名乗るように促しているのだ。駿は名乗りを上げた。

 特に注目を集めたわけでもなかった。西園寺公直が、年代の近い駿を値踏みするように、上から下へ眺めまわしただけで、後の人々はちらりと駿を一瞥した程度である。

「そこの、西園寺!端末を出せ!そのままにしておくと探知される。ほら、いいからこっちへ出して」

 三島が、もう一人の西園寺の個人端末に端子をつなぎ、何かの処理を行っていた。右眼で西園寺公直を見つめ、手を差し出している。

 曽我部は離れ際に駿のお尻をひとなですると、持ち込んだ棺のようなものの蓋を開けた。中に白と黒でカラーリングされたロボットが納まっていた。胸と額に桜の代紋がある。

 ロボットは大上裕翔たち警察が使っていたものと色合いは同じだが、こちらの方がより洗練され、滑らかな人型をしていた。色は違うが、ハウルが操っている銀色のロボットの方が、形状は近い。

 ケースの蓋に、RD‐11Pと書かれていた。

 西園寺公直が駿と同室になると、柊に言われたので、駿は彼を伴って部屋へ引き揚げた。彼の端末も処理が済んでいた。通信にスクランブルがかかるのだそうだ。

「狭い部屋だな」

 公直は部屋に入るなり、不満そうに言った。

「俺が上もらうぜ」

 言うが早いか、端末を上段ベッドの上に投げ入れた。

「あー苦しい!熱い!」

 公直はシャツを脱ごうとするものの、胸の辺りが動かないのか、一苦労していた。

「手を貸すよ」

 駿はそう言ってシャツを引っ張った。

「わりい」

 短い言葉の後に現れた公直の身体は、胸の辺りに包帯を巻きつけていた。お腹の辺りは細く、きれいな肌をしていた。上の包帯と対照的だ。

 包帯の下にはよほどの傷でもあるのだろう。公直は身体を動かしにくそうにしていた。

「駄目だ、熱い」

 公直が包帯をほどきにかかるので、駿は心配になり、取っても大丈夫なのか聞いた。公直は答えず、せっせとほどき、緩んできたところをもどかしそうに引っ張って下へずらした。引っ張りながら身体も回っていって、駿に背を向けた。

 包帯が下に落ちると、お腹と同じように綺麗な肌が現れた。どこにも傷はない。胸の部分にあるのかもしれないが、背中からは分からなかった。

 公直は脱いだシャツを着ると振り向いた。

「やっと楽になった」

「そんなに苦しいの?」

 公直が深呼吸しているので、駿は思わず聞いていた。

「苦しいなんてもんじゃないね。俺の自由を奪うものなんて、もう今後一切つけてやるものか」

 包帯が憎いらしく、足で踏みつけていた。

「あまり動かない方が…」

「なんで?」

「いや、ケガしてたんじゃないの?」

「いいや。どこもケガしてない」

 公直はそう言ってシャツの前を引っ張って隙間から自分の身体を眺め、手を離した。そのシャツが胸まで戻らない。

 駿は不思議に思って見つめた。どうやら、胸がほんのり膨らんでいる様子だ。太った体型なら胸の膨らみのある男も見たことがあるが、公直のような細身でそれは見たことがない。よくよく見ていると、膨らみの上に小さな突起まである。

「何見てんだ?」

 公直が一歩踏み出し、威嚇した。その胸が身体の動きに合わせて、軽く弾む。

「え、まさか…」

 鈍い駿でもそれが何なのか、理解できた。しかし、彼は男ではないのか。名前だって男のものだ。

「性転換手術?」

 たどり着いた答えを口にしていた。

「してねぇよ!」

「え、だって、それ…胸でしょ?」

「ん?ああ、これか。胸だな」

 駿の望む答えや反応は帰ってこなかった。駿は公直の顔と胸を見比べた。顔は、駿が見ても思うほど、美形である。中性的な美男子の顔がそこにあった。少々えらが張っていても、美的感覚を崩すものではなかった。

 駿は言葉を探した。長い時間沈黙したように思えた。公直が足で包帯を拾い上げると、ゴミ箱へ押し込んでいた。

「えっと、君って、LGBTの人?」

「は?」

「だからほら、身体は男性だけど中身は女性だったりとか、その逆とか、さっきのオカマみたいな人とか」

「ちげーよ」

 公直は即座に言ったものの、小首をかしげた。

「いや、ある意味違わないのかもな」

 自嘲するような笑みを浮かべた。

「えっと、失礼かもしれないけど、聞くよ?」

 駿はそう前置きをして、恐る恐る尋ねた。

「身体は女の子なの?」

「ん。そうだ。女だ」

「え、女の子なの?」

 予想して質問したはずなのに、駿は答えが信じられなかった。

「身体はな」

「でもでも、名前は男の子だよね?」

「そうだな」

 公直の声が低く沈んだのだが、駿にはその変化の意味が分からなかった。それどころではなかった。目の前の現実への理解が追い付かず、頭の中をかき回されたように感じていた。

「つまり、心は男の子?」

 公直が口を開いたものの、声を出す前に止まり、首をかしげた。

「やっぱり女の子?」

「よく分からん」

 投げ出すように公直が言い、駿は不満の声を漏らしていた。

「どっちかにしなきゃいけないのか?」

「そんなことはないけど。男でも女でもないって人もいるわけだし」

「ならいいじゃないか」

「いや、でも、身体は女の子でしょ?僕と一緒の部屋はまずいでしょ」

「何が?」

「いや、まずいんだって。でも、心が男の子だったら、女の子の部屋に行かせるのも問題だし…」

「何がまずいんだ?」

 公直が駿のすぐ前まで進んでいた。あと少しで小さな胸が触れそうだ。下から駿を見上げている。

「僕が変な気を起こして襲うかもしれないだろう!」

 自分ではありえないと思うものの、周りから見れば当然の心配のはずだ。当人ならなおのことである。駿が真っ赤な顔をして必死な思いで言ったのに、公直は噴き出していた。

「俺って、そんなに魅力的なのか?」

 公直は一歩下がると、妙なポーズをとってみせた。何を参考にしたポーズかは分からないが、色気のかけらもない。

「ほらほら。襲ってみろ」

 公直はニヤニヤしながら大胆なことを言った。

「襲わないから」

「何だ?意気地のない奴だな?」

 公直はそう言って、シャツを脱ぎ捨てた。駿は思わず目を逸らし、硬く目を閉じた。だが、一瞬見えた可愛らしく小ぶりな胸が、脳裏に焼き付いていた。

 公直が駿の手を取ったらしい。その手のひらに、何か柔らかく、温かいものが触れた。小刻みに揺れている。

「え、ちょっと!」

 駿は目を開けるとまずいと思い、閉じたまま、抗議した。

「ちょっと!何やってるの!」

 唐突に、声がして、駿の手を乱暴に引っ張った。声から判断すると、優希のようだ。

「おお、ちょうどいいところに」

 公直はそう言うと、次の瞬間、優希が短い悲鳴を上げていた。優希が襲われているのなら、助けなければならない。駿は目を開けた。

 公直の胸に、優希の手があった。公直が優希の手を自分の胸に押し付けていた。もう片方の可愛らしい胸が見えている。駿は慌てて、再び目を閉じた。

 あれは、襲われたわけではないよな、と駿は自問していた。少なくとも身体は同性同士が触れあっている。まさか女の子同士で、と考えて、駿は頭がのぼせるのを感じた。慌てて頭、特に鼻を上にあげた。

「ちょっと、本当に何やってるのかしら?」

 優希の声が冷たい。が、部屋に飛び込んできたときのような悲壮めいた響きはなかった。

「駿も何やってるのかしら?」

 こちらは非難するような響きが含まれている。

「え、その、あの」

 鼻血が出そうだとは言い出せなかった。鼻に触れてみても血が出た様子はなかった。

「もう目を開けてもいいわよ」

 優希がため息交じりに呟いた。

 目を開け、ゆっくりと下を向いた。鼻血は出ていないようだ。

 公直の胸は再びシャツの下に隠れていた。少し残念に思う気持ちがあることに、駿は驚いた。

「説明してもらえるかしら?」

 優希の冷たいセリフに、公直は動じていなかった。駿の手と優希の手を取って、見つめていた。

 駿はまた胸に手を導かれるのかと思い、期待していた。しかし、それ以上は何もなかった。

「どっちに触れられても、特に何ともないな」

 公直はそう言うと手を離した。

「どういうことかしら?」

 優希の声のトーンが落ちている。

 公直は意に介さず、二人とも俺と恋愛してみないかと言った。

 駿と優希が同時に聞き返していた。



  4


 優希が警戒するように、壁際へ下がった。駿は立ち尽くしているだけである。

「俺と、お前たちそれぞれと、恋愛してみないか?」

 公直は下段のベッドの端に腰を下ろすと、自分と駿、自分と優希との順番で指差した。

「な、なぜそんなことしなくちゃいけないの?恋愛は押し付けてするものじゃないわよ!」

「えーそっか。じゃあ他の方法を探そう」

 公直はあっさりと引き下がった。

「他の方法?何を確かめようとしたの?」

 駿は公直の言動に何か理由がありそうだとみた。

「簡単な事さ。俺が男と女のどっちを好きになるかで、自分の性別を決める」

 公直の答えに、優希と駿が再び声をそろえ、聞き返した。

「異性に触れられたら、特別な感じがあるかと思ってたぜ。なんともないとは…」

「そういうものかな…?」

 駿には分からなかった。優希に手を握られたら確かにときめいたが、同性に手を握られても、ドキリとする。駿にはその違いを説明できるとは思えなかった。同じだと言われれば、そうだと信じただろう。

「それはそうでしょ。好きな人に触れられないと、特別な反応はないわよ」

 優希も言い立てたが、途中から聞き取り難い声になり、最後は完全に聞き取れなかった。顔を真っ赤にしているところを見ると、恥ずかしいことを言ったのだ。

「そう。だから、恋愛してみて、好きになった相手に触れてもらえば、分かるかと思った」

 公直には聞こえていた。

「だからって、恋愛相手は誰でもいいってわけではないでしょ」

 今度の優希の言葉ははっきりと聞こえた。

「ちょっと二人とも上半身裸になって」

 公直が唐突に切り出した。

「なんで!」

「女性の身体と男性の身体、どっちに欲情するかで判断するため」

「よ、欲情」

 優希が真っ赤な顔をしていた。腕で胸を隠すようにしていた。

「見せるくらいなら」

 駿はそれくらいなら減るものでもないしと思え、シャツを脱いだ。

「ちょ!」

 優希が両手で顔を覆っていた。その指がかすかに動いている。

 公直は立ち上がると、すぐそばで駿の骨ばった胸を眺めた。そっと胸をなでる。

「くすぐったい!」

 駿は思わず肩を寄せ、胸を縮めた。

「いいじゃないか。俺の胸を触ったんだから、おあいこだ」

 公直はそう言うと、手のひらを駿の胸に押し当てた。駿の鼓動が早鐘のように撃ちつけている。この鼓動が公直にも伝わるだろう。何を興奮しているんだと、あざ笑われるのではないか。

「そっちの君も触らせてくれないか?」

「誰が!好きでもない人に触らせるものですか!」

 優希が再び胸を隠した。駿の裸に目が止まる。ふと思い出したように、後ろを向いた。

「じゃあ腕でいい」

 公直はあっさりとそう言うと、優希の二の腕に手のひらを当てた。優希がびくりと身体を震わせた。

 駿がシャツを着終わると、公直はベッド端へ座りなおしていた。

「今のところ、駿に軍配だ」

「そんな勝負、受けた覚えはないし、勝ちたいとも思わないわ」

 優希はそう言うと、どういうことかちゃんと説明しなさいと語気を荒げた。

「うーん。次の方法は…。いや、そうか。恋愛チャレンジのためにも、二人に俺のことを知っておいてもらった方がいい」

 公直はお試し恋愛を諦めていなかった。

「その前に君の名前を教えてくれ」

 そう言って西園寺公直だと名乗った。

「河原優希」

 優希は胸を隠したまま、ぶっきらぼうに答えた。

「話が長くなると思うぜ。座ってくれ」

 公直は自分の隣を叩いた。

 優希がそこに座るつもりがないことは見て取れた。駿は奥の椅子を引っ張り出して優希に差し出すと、公直の隣に腰を下ろした。優希がにらみつけるので、最大限離れた場所へ座りなおす。

 公直は二人の顔を見つめると、話し始めた。

「俺は、名前から分かるように、男として望まれた。男として育てられた」

「誰に?」

「誰にって、親に決まっているだろ」

「酷い親ね…」

 公直を警戒するそぶりは崩さないものの、優希が同情するようなことを言った。

 親といえば、先ほど同じ西園寺を名乗る中年がいた。あの人が父親に違いないと駿は思った。

「おやじは家から逃げだした。おふくろは、俺が男だと思い込んでいたな。御屋形様が俺を男と言ったのだから、当然と言えば当然だ」

「御屋形様?」

 駿と優希の声が重なっていた。

「俺の祖父だ。西園寺家の当主、公康。跡取りに男の子が欲しいと、俺をこう育てた張本人さ」

「でも…。あなたいくつ?」

 優希が何かを言いかけてやめ、公直の年齢を聞いた。

「十五」

「じゃあ、もう…」

 優希が言い差して、駿をうかがった。

「その、身体の変化はあったのでしょ?」

「血の出るやつならとっくに」

「ばか!」

 優希が慌てて口止めした。

「それについて、ちゃんと教育を受けた?」

「いいや。なにも。ズキズキお腹が痛むし、何かの病気だろう?御屋形様は放っておけば治ると言われた」

「呆れた。それは…。駿。そばだてて聞かないの。まったくもう。それは後から教えてあげる」

「別にいい。あ、いや、二人っきりになる?いいぜ」

「大事なことなの。変なことしたら許さないわよ」

「へいへい」

 公直は軽い返事を返すと、駿に片目をつむってみせた。

「優希に変なことしたら僕も許さないよ」

「おや?君ら付き合ってるのか?」

「ち、違う!」

「違うわよ!」

「ならいいじゃないか」

「よくない!」

「分った。じゃあ、三人でいるときにしよう」

「それもダメ!」

「わがままだな」

「どっちがよ!」

 優希が赤い顔をして立ち上がっていた。ひとしきり公直を睨みつけた後、ため息をついて座りなおした。

「それで、胸の膨らみはなんて言われていたの?」

「病気だ。さらしを巻いておけ。だったな」

 公直が即答した。

「あれは苦しくて仕方なかった。ここへきてすぐに捨ててやったぜ」

 誇らしげに笑ってみせた。

「ということは、下着のことも知らないし、その身体の役割も知らないのね。分かったわ。明日、服と下着を買いに行きましょう。身体についてはこれから教えてあげる」

 優希がそう言って立ち上がり、出口へ向かった。

「何しているの?ついてらっしゃい」

「お?積極的だな。嫌いじゃないぜ」

 公直はそう言うとベッドから立ち上がり、優希の傍へ行った。

「汗臭いわね。先にお風呂へ入りなさいな」

「風呂?めんどくせーよ」

「いいから入りなさい」

「お、おう」

 公直は優希の気迫に押され、素直に従うことにした。が、次の瞬間、素直でないことが発覚する。

「駿、一緒に風呂入ろうぜ。場所も分からんし、ほら、行こうぜ」

「ばかなこと言わないで!」

「いや、俺、心は男かもしれないぜ?それなら男同士の風呂の付き合いもあるだろう?」

「じゃあその胸と下半身は削り取ってもらおうかしら?」

 優希の過激な言葉に、さすがの公直もたじろいだ。

「わ、分かった。別々に入ろう。そうだ。身体は女なんだ。優希。一緒に入らないか?ダメ?分かったから、そんなににらむな。場所だけ案内してくれ」

 二人が連れ立って部屋を出ると、一気に静かになった。

 公直が常識では考えられない環境で育ったことを打ち明けたというのに、悲壮な雰囲気はまるでなかった。

 絶えず、駿や優希にちょっかいを出そうとした。駿の手を取り、身体にまで触れさせた。駿の方が恥ずかしくて目を閉じたというのに、彼は、いや、彼女は恥ずかしくなかったのだろうか。

 駿は手のひらを見つめた。柔らかい感触がまだ残っている。目を閉じていたから余計に感触が強く残っていた。あの可愛らしいふくらみが、この手に納まっていたと思うと、心臓が激しく打ち付け、身体が熱くなった。

 駿は不謹慎だとは思うものの、優希の胸に触れたらどんな感触なのだろうと考えてしまった。すぐに不道徳な考えを頭から押し出そうとするものの、手のひらに残る感触が、駿のみだらな考えを増長し、離れてくれなかった。

 とにかく違うことを考えよう。駿は自分に言い聞かせた。

 公直は自分の生い立ちを不幸だとは思わなかったのだろうか。思わなかったから明るく過ごしているのかもしれない。

 駿と優希に、それぞれと恋愛しようなどととんでもない提案をしてきた。一目ぼれならともかく、出会ったばかりの駿や優希にする提案でもないと思えた。人に対する警戒心と言うものもないのだろうか。

 自分の胸に他人の手を当てて平気でいられるのだから、警戒心は薄いのかもしれない。

 そう考えたところで、駿は違和感を覚えた。柔らかい感触の残る手を見つめた。

 そうだ。なんともないはずはない。公直の胸の感触に全神経が行っていたため、分かっていなかったが、思い返してみて、手に伝わった別の感触を思い出せた。

 それは公直の鼓動だ。胸の上下も速かった。伝わってくる鼓動はもっと速かった。公直自身も緊張していたのだ。決死の覚悟であのような蛮行に及んだのだ。

 駿たちに恋愛しないかと持ち掛けたことも、それなりの覚悟をしていたのではないか。あるいは、自暴自棄だった可能性もある。

 自暴自棄になって、胸を触らせた。いや、それではやはりあの鼓動の速さが説明できない。

 柔らかい肌はかすかに震えていたのではないか。さすがに注意を払っていなかったので、そこまでは思い当たらない。しかし、あの鼓動の速さを思えば、震えていてもおかしくないと思えた。

 あれでいて、公直は本気で男か女かはっきりさせたかったのではないか。それだけ自分の身体について、思い悩んでいたに違いない。

 自分の育った環境から自暴自棄になったことも十分考えられる。手段の選択がハチャメチャなのはそのせいなのかもしれないと駿は考えた。

 精神科医の診療にかかる手もあるし、ネット検索で情報を集め、自分なりに判断する手もあったはずだ。それらが選択肢にないのは、育った環境で、そのような手段があることを教わっていない証拠である。

 LGBTを扱った情報番組は探せばすぐに出てくる。女性の身体の仕組みについてもそうだ。そういうものを見られない環境にいたに違いない。

 公直はかわいそうな子なのだと思え、駿は公直の探求に付き合う気持ちになっていた。ただし、肉体的かつ、性的な事柄については、注意が必要ではあるが。

 もう一度あの可愛らしい胸に触れられるなら、触れてみたいと思うものの、この気持ちは心の奥底に封印しようと決意した。特に優希に知られたら、太極拳で吹き飛ばされるに違いない。



  5


 駿はそのあと一人で妄想に取りつかれた、訳ではなかった。まず、風呂から上がった公直が、当然のごとく駿の部屋に戻ってきた。それだけならまだしも、においをかがせてみろと押し迫り、駿の身体中をにおって回った。

 さすがに下半身は避けたのでホッとしたものの、指の間をにおわれるのがあれほど恥ずかしいものだとは思わなかった。

 公直はひと通り嗅ぎ終わると、今度は駿に嗅げと言ってくる。

「いや、無理だって」

「なんで」

「だって、その、身体は女の子じゃない」

「心は男かもしれない。男同士しなら遠慮することないぜ」

 公直はそう言って、手を駿の鼻先に突き出した。

 手ならいいかと駿も鼻を近づけた。が、これがどうしたことか、異様な緊張感が生まれ、いけないことをしている気分になっていた。

 そこへ優希が駆けつけたものだから、駿は縮こまって詫びた。優希の視線が容赦なく突き刺さり、変態などと罵られた。ショックでふらふらとベッドの端に崩れ落ちたほどである。

 優希が公直を強制的に連れ出した後、駿は部屋の静けさと同様に心が沈んだ。優希に変態扱いされたことがショックだ。少し前はエッチだとかバカだとかで済んだというのに、優希の中で駿の価値が落ちるところまで落ちてしまった。

 それもこれも公直のせいなのだが、あの子を責める気にもなれなかった。公直は公直で、早急に自分自身が何者かを決めようと焦っているからこそ、おかしな言動に出ている。接し方に困るから、公直が早急に男か女かを決めようとしていることに反対はしない。あまりの刺激の強さに頭がくらくらするのも、ある意味楽しいかもしれないと思い始めていた。

 駿が一人物思いにふけっていると、また公直が来襲してきた。

「忘れ物」

 公直は嬉しそうにそう言うと、駿の目の前だというのに平気で上のベッドに伸びあがった。目の前で服の裾が持ち上がり、奇麗なおへそが顔を覗かせた。その下は男物の肌着をつけている。それがまた、見てはいけないものを見たように思え、駿は顔を真っ赤にして、視線を逸らせた。

「あったあった」

 公直の手に端末が握られていた。

「じゃな」

 短い挨拶で去りかけた足が止まった。公直は振り向かずに、今夜は優希と楽しむぜと言い残し、部屋を後にした。

 その一言がまた、駿を妄想に駆り立てた。妄想を振り払おうと風呂にも入ったが、ベッドに落ち着くとまたその妄想が戻ってきた。

 隣の部屋に優希と公直が二人だけでいると思うと、もうとりとめがなくなった。公直が駿にしたことを優希にもするだろう。それ以上のこともするに違いない。

 駿が無理に寝ようとしても返って目が覚め、公直の責めに困窮する優希が思い浮かんだ。優希を助けたいと思う一方、その様子を見たいと望む気持ちがあった。不謹慎極まりないと思うのだが、その考えは止められなかった。

 公直もあれで、一線を超えるようなことはない。駿はそう確信していた。公直なりにかなりの勇気を振り絞って行動していると思えたからだ。

 公直を信頼しても、やはり隣の部屋が気になる。気になると眠れない。駿は小一時間ベッドでもんどりうつと、寝るのを諦めた。

 部屋を出て、優希の部屋の前を通る。中の音は聞こえない。駿が以前暮らしていた地下都市同様、防音が行き届いているようだ。

 そこで立ち聞きしていても仕方ないので、駿は別の好奇心を満たすことにした。ロボットを運び込んだ部屋はラボと呼ばれていた。あの部屋に、駿の興味をそそるものが多数あったように見受けた。誰もいなかったら、それらをじっくりと見て回ることができる。

 心配なのは扉が開くかどうかだったが、ラボに行ってみると、あっさりと扉が開いた。それもそのはずだ。室内は煌々と明かりがともり、三島と曽我部がロボット相手に格闘していた。二人は駿が入ってきたことに気付いても、怒ることはなかった。

 ロボットについていた桜の代紋がなくなり、色も変わっていた。明るい赤に、落ち着いた青、それに銀色も見えた。全体的に明るい感じで、子供のころに見たアニメの正義の味方のようだ。

 ロボットはもう一体あり、そちらも桜の代紋を取り外し、色を変えていた。緑と濃紺に金色まで使われている。金色が要所に使われているおかげで色合い的に暗くはない。それどころか豪華なイメージに仕上がっていた。

「どうかしら?かっこいい子に育ったでしょ?」

 曽我部が自慢の我が子を誇らしげに紹介した。名前はまだ考え中らしい。

「きれいですね。そっちは正義の味方みたい」

「まだ塗装が乾いてないから触るなよ」

 三島はそう忠告すると、塗装に使った道具を片付けにかかった。

「正義の味方…そうね。シルバーではなくてホワイトを入れたら、もう主人公機そのままだわ」

 曽我部は気付かなかったわと言って笑った。

「そっちは変わってますね。でも、なんかカッコいい」

「あらありがとう。ゴールドとブラックの組み合わせは定番なの。でもそのままじゃ面白くないから、ネイビーにして、モスグリーンを使ってみたの」

 色の組み合わせだけ聞くとどうなのかと思えたが、目の前のロボットは金色がアクセントになり、上品でありながらも野生的な雰囲気になっていた。

「このロボット、どうするんです?」

「うーん、それはまだ決まってないわね。この子たちの可能性は無限大よ」

 曽我部が恍惚の表情を浮かべ、ロボットにさせたいことを列挙していった。

「せっかく来たのなら、ナノマシンの調整をさせろ」

 片づけを終えた三島が駿に声をかけてきた。曽我部が語り続けていることは無視している様子だ。

「ああなったら止まらない。放っておきな」

 三島が駿の耳元でそう言うと、問答無用で駿を奥のテーブルまで引っ張った。

「ほら。ナノマシンを出しな」

「あ、はいってどうするの?」

 出せと言われて、固形物を差し出すようにはいかない。ナノマシンは今、駿の使うノート型PCのスロットに収まっている。このPCごと差し出せというのだろうか。

 駿がPCを持ち上げてスロットを指し示した。すると三島は右眼でそれを見つめ、左眼で駿を見上げていた。

 三島が無造作にスロットをつかむと、蓋を取るようにそれが外れた。右眼でじっくりと眺めまわした後、重さを確認するように手を振り、指で押した。

「おい。少し減ってないか?」

「え?分かるんです?」

「分るもんか」

 じゃあなんで聞いたんだよと駿は口の中で呟いた。

 三島は透明な箱を取り出すとその中へナノマシンを入れ、蓋をした。そして箱の周りに機材を並べていく。何かの光か電波でも当てているのだろう。次第にナノマシンが分散し、霧のように箱の中を漂った。

「やっぱり減ってやがる」

 三島が計器を確認して、ぼやいた。

「減ってるって、どのくらい?」

「極僅かだ。極僅かでもこいつは貴重品なんだ」

 減っていると言われて、駿は一つ思い当たることがあった。

「あー、それなら、ここにあるかも」

 駿はそう言ってこめかみを指し示した。

「頭の中だと言いたいのか?」

「え、中に入るの?」

「入れようと思えばどこでも」

「それはちょっと…」

 三島が残りを出せと手で示す。

「えっと、そうだ。ちょっとその箱開けてもらえます?そう、そのナノマシンが入ってるやつ」

 三島は訝しそうに機材を止めると、透明な箱の蓋を開けた。するとナノマシンが霧のように漂い、駿の頭部に集まり、まるで脳波コントロール用のデバイスのような形をとった。

 駿は手でデバイスを外すと、三島に差し出した。

「たぶんこれで全部くっついたと思います」

 三島は駿の手からデバイスをひったくると、箱に入れて蓋をした。再び機材を動かすと、ナノマシンが霧のように、箱の中で拡散した。そして計器を確認し、うめいた。

「ありやがる」

 三島の右眼が駿を睨んだ。

「今の、どうやった?」

「どうって、あの…」

 駿はうまく説明できるか分からなかった。言葉が思いつかない。

「えっと、一部をここに付けて…」

「常にか?」

 三島の右眼が見開かれた。駿の言わんとしていることが分かったのだろう。駿がはいと言ったとたんにその目は確信へと変わった。

「ナノマシンで脳波を読み、それによって操っていたのか?」

「あ、はい。たぶんそうです」

「どこでそんな方法を思いついた!お前天才だ!」

 三島が駿を絶賛していた。

「あれはそのデバイスでプログラム操作することで扱えるように設計していた。それをショートカットして、脳波コントロールか!確かに、それが一番理にかなっている。が、使い手の意志に迷いがあればこいつらに影響が出るはずだ…」

 三島がぶつぶつと想定されるメリットデメリットをあげつらい始めた。こういうところは、向こうでロボットの魅力を語り続けている曽我部と同じ人種に見えた。三島もただ矢野をスケベな目で見ているだけの人ではないのだと、駿は改めて思った。

 三島はナノマシンを増量してくれ、今度使うところを見させてくれと言った。駿に断る理由はないので、快く受けた。

 駿はその後、ラボの中を見て回った。その中で、布に覆われた大きな物体が駿の目を奪った。そっとはぐって見ても、中が暗くてよく分からない。

 三島が気付き、にこにこしながら近づいてきた。妙に張り付いた笑顔が、この布の奥のものが見られたくないものだと告げていた。

 隠すものは見たくなるのは人のサガなのだろうか。駿は分かったと手を離し、別の方向へ進むと見せかけた。三島が背を向けた途端に振り向き、勢いよく布をはいだ。

 それを見た瞬間、駿は頭に血が上り、鼻血を垂らしていた。

 そこにあったのは、等身大の矢野莉紅だ。それも、素っ裸である。細部まで本物そっくりに見える。もちろん駿は彼女の裸など知らないが、目の前のものは生きている人間にしか見えなかった。ただ違うのは、瞬きしないことと、呼吸のための胸の動きがないことだった。その胸に豊かな双丘がある。その下は筋肉質に割れた腹筋がある。さらに下は、さすがに確認する勇気がなかった。

「ばか!」

 三島が慌てて布で覆い隠した。後ろを振り向いて、曽我部を確認したが、彼はロボットに夢中なようで気付いていなかった。

 三島が聞こえるほどの安堵の吐息を漏らすと、右眼で駿を睨んだ。

「おい坊主。このことは口外するな」

 三島は駿の肩を抱き寄せ、耳元に口を近づけて、唸るように言った。駿が分かったという間で念を押し、肩を揺さぶった。

「よし、口止め料だ。好きなだけ触ってゆけ」

 三島はそう言うと布を持ち上げ、曽我部には見えないようにしたまま、矢野莉紅の人形前にスペースを作った。そこへ駿を押し込む。

「いい、いいから、言わないから!」

 駿は慌てて目を閉じ、後ろに逃げた。

「そうか?触りたくなったらいつでも来い。皆には内緒だぞ」

 駿はラボから逃げだした。

 あの人はやっぱりスケベなのだ。いつも矢野を凝視していたのは、あの人形を作るための寸法を目測していたのだ。あれは本人の許可など得ていないだろう。本人に言えば、マシンガンでも持って乗り込んでいくに違いない。

 これは後日になるのだが、実際に矢野にばれ、彼女はラボへ乗り込んだ。マシンガンではなく、ハンドグレネードを放り込んで全てを隠滅したのだった。三島が爆発に巻き込まれなかったことを残念がっていた。

 それにしても、今日は女性の胸に縁のある日だと、駿はつくづく思った。可愛らしい胸も、迫力満点の胸も、どちらも駿の脳裏に焼き付いて離れなかった。

 今夜はどう頑張っても、眠れそうにない。



  6


 次の日、優希と公直が買い物に出たいというと、野沢や児島が反対した。優希は駿を追うために、警察にマークされている。公直はニュー東京からの脱走者なので、当局から追われている。二人が公の場で顔をさらせば当局に見つかるというのが反対の理由だった。

「じゃあ顔がばれなきゃいいんだろ?」

 三島がそう言って、駿に目配せした。彼は昨日の夜に言ったように、駿がナノマシンを使うところを見たい。その恰好の状況が出来上がったと言いたげだった。

「坊主がやっていたように、ナノマシンで変装すればいい」

 三島はそう言うと、駿に実演させた。駿の顔が別人に変わる。ナノマシンでの変装を見たことのある優希以外は驚きの声を上げた。矢野や酒井も一度目撃していたが、何度も見ても驚くものらしい。

 駿はナノマシンを操って、優希の顔を変え、髪を短く見えるようにした。そして公直の顔を別人に変えた。

 それぞれの顔が変わる度に、周りの人々がどよめいた。

「三島っちにしては、いいもの作ったじゃない」

 矢野が珍しく三島を見ていた。

「お褒めに預かり、恐悦至極にござります、姫」

 三島が白々しく頭を下げた。矢野が褒めて損したと言わんばかりにため息をついて視線を逸らしていた。三島の返事に、揶揄の意味合いが強いと感じたのだ。

「それで検索はごまかせるのか?」

「顔認証が主だからね」

 三島はそう言って請け負った。

「では外出を許そう。ただし、護衛に、そうだな。矢野。行ってもらえるか?」

 児島が言った。矢野は腕組みしたまま、頷いていた。

「ちょいと問題があって」

 三島が口をはさんだ。

「そのナノマシンは今、坊主が操っている。坊主がある一定距離離れると解除される」

「それはつまり、彼も行かなければ意味がないということか?」

「そう言っている。で、ついでに、ナノマシンの検証のために、俺もついて行く」

 児島は仕方ないと言った。矢野は明らかにいやそうな顔をしたが、何も言わなかった。

 居合わせた酒井や柊は特に口を利かなかった。曽我部は一緒に行きたがったのだが、定員オーバーだと矢野に言われ、泣く泣く断念していた。

 清水は目の前の食事にも手を付けず、新しくもらったドローンを念入りにチェックしていた。

 聖は姿を現していない。部屋に閉じこもったままだ。駿が呼びかけても反応がないので、野沢も諦めていた。

 もう一人の西園寺は公直の前に歩み寄り、視線を合わせて辛そうにしながら、公直の肩をとった。

「僕は杉本姓に戻るよ。明花莉はどうする?」

 隣で聞いていた駿と優希は思わず顔を見合わせた。が、優希はすぐにそっぽを向いた。昨夜のことで駿を避けている節がある。駿は変態まで格下げされたので、仕方のない反応なのだ。

「もう少し考える。先に俺自身のことを決めたい」

「分った。行っておいで」

 名を杉本亮に改めた、公直の父親は、はにかむような笑顔を向けて下がった。

 五人は乗用車へ乗り込んだ。矢野が運転席で、三島が当然のように助手席へ乗り込んだ。矢野の刺すような一瞥にも素知らぬ顔で過ごしていた。

 後部座席は、優希、公直、駿の順で並んだ。公直は二人に囲まれて嬉しいらしく、執拗に二人の肩を抱こうとした。

 駿は恥ずかしくて逃げ回っていたものの、捕まった後は大人しくしていた。優希は公直の手をつねって持ち上げると肩から外した。

 車が走り出すと、優希が公直に尋ねた。

「ねえ。あかりって?」

 駿も気になっていたので、ちょうどいい質問だった。

「ん?ああ、あれね。おやじが勝手につけた俺の名前だって。戸籍上は公直だぜ?」

「へー?女の子の名前があったんだ?あ・か・り・ちゃん」

 優希が妙に嬉しそうな声を出していた。名前が女の子になれば、女の子の友達ができた感覚なのだろうか。

「ちゃんはよしてくれ。恥ずかしい」

 公直はぶっきらぼうに答えると、話題を変えにかかった。

「それにしても、夜は激しかったな」

「は?」

「激しい?」

 優希が絶句し、駿が聞き返していた。二人とも公直の手の上で遊ばれていた。それもいとも簡単にかかるのである。名前の話題からすぐに逸れたので、公直は秘かにほくそえんでいた。

「そうさ。しかも積極的なんだぜ」

 公直は駿の顔を見つめながら言った。嬉しそうに語っている。

 駿は何をしていたのか気になり、必死の形相で続きを待った。

「ちょっと待ちなさい。何を積極的ですって?」

 優希は変な話をされたくない様子で、公直の肩を引き寄せようとした。公直はますます駿に身を寄せ、ほとんど駿の耳元で、優希がすごくエッチな映像や情報ばかり見せたんだと言った。

 駿は耳元でささやかれ、背筋を震わせた。公直の吐息が耳にかかる度に、背筋が震える。しかしなぜか、それが不快だとは思わなかった。できればもっと耳元でささやいて欲しい。もちろん、それは相手が優希でも構わないのだが、優希ではここまで積極的に顔を近づけないだろう。

「ちょっと!妙なこと吹き込まないでくれる?あれは大事なことなの!」

「だって。エッチなお勉強を一晩中…。積極的に…。激しすぎて眠れなかった…」

 公直が優希に引っ張られ、駿から離れた。その勢いのまま公直は身体の向きを変え、今度は優希の耳元へ顔を近づけていた。

 優希は自分で引き戻したはずなのに、驚いて窓際まで身を引いていた。

「何だいハニー。昨日の続きをしたいのかい?」

 公直は面白がるように優希へ迫った。

「帰ったら、二人だけで、ゆっくり…」

 優希の耳元でささやいていた。優希の顔が耳まで真っ赤になっているのが見えた。

「あれはあなたの身体のための情報なの。誤解しないで」

「あんなもの見せられたら、誘っているのも同じだぜ」

「誘ってません!」

 優希が公直の肩を押した。

「まったくもう!思考は完全に男子ね!もういっそのこと、胸をとってあれを生やしたら?」

「優希のためなら喜んで」

「しなくていいの!」

「どっちなんだい?俺はこのままでも、手を加えても、どちらでもいいぜ」

 再び公直が優希へ迫った。

「ちょっと!駿、助けて!」

 優希は駿を避けていたはずなのに、そのことを忘れたかのように助け船を求めていた。助け舟を求められて嫌な気持ちはしないので、駿は優希の求めに応じて、公直の肩を引き寄せた。

「あらやきもち?俺モテモテだな」

 公直は上機嫌に、座席に深く座りなおすと、両腕を伸ばして駿と優希の背中に触れた。

「いやー外に出てほんとによかったぜ!」

「お楽しみのところ悪いんだけど、そろそろつくわよ」

 矢野がぶっきらぼうに告げた。ナノマシンによる変装をしろという催促だ。駿は背中の手をどけると、急いでナノマシンを操作した。

「おお。優希の髪の毛が消えた」

 公直が感心したように言い、優希の背に回していた手を上げた。

「モノがなくなったわけじゃないだ」

「そうだよ。見えなくしてるだけ」

 公直は見えない髪の毛を指でなぞるように触れていた。

「駿。髪の毛を見えるようにして」

 優希がやや低い声で言った。逆らってはいけないように思えたので、駿はすぐにナノマシンを操った。

 優希は見えるようになった髪の毛に触れた。ポニーテールに留めているゴムバンドを外すと、手を回した。どういう訳か髪の毛がクルクルと頭にまとまっていった。片手で頭に押さえつけ、ポケットからヘアクリップを取り出して要所を留めると、手を離した。

 長い髪の毛が消え去り、優希の首筋からうなじがしっかりと見えた。普段もポニーテールなのだから見えているはずなのだが、駿は初めて見るような感覚に襲われた。

 駿が緊張した面持ちで優希を見つめるせいか、優希の顔まで変わって見えた。公直も同じように思ったようで、女の子って化けるななどと呟いていた。

「これで化粧でもすれば、本当に別人になれるわよ」

 優希はすまし顔で言うと、駿にやってと指差した。

 駿は一瞬、何をと悩んだものの、ナノマシンによる変装だと思い至り、優希の顔を変えた。続いて公直の顔も変える。公直の顔は特に大きく変えたわけではなかった。元々中性的な顔立ちをしているので、頬を少し膨らませ、張り出したえらを目立たなくすれば、すぐに別人の女の子らしくなった。

 最後に駿自身の顔を変えた。今回は服まで変える必要はない。この前買った新しい服を着ているからだ。

 公直が駿の頬を指でつついた。

「ちょっと違和感あるな」

「触るとね」

「その顔は坊主の想像か?」

 唐突に三島が声をかけた。

「え?ああ、たぶんそう」

「そりゃそうか。脳波コントロールだった」

 三島は自答するように呟いた。

「そいつにデータベースも加えられたら、色々幅が出来そうだ」

 前を見ると、矢野の手がハンドルから離れていた。いつの間にかオートドライブを利用していた。車が自走し、駐車場の空きスペースを見つけると奇麗なライン取りでバック駐車した。

 車を降りて辺りを見渡すと、そこは何となく見覚えのある場所だった。場所や、昼と夜との違いはあるものの、先日、優希と買い物をしたショッピングモールだと分かった。優希も気付いた様子で、駿と目が合うと微笑んでいた。

 優希の機嫌が直っている。急に変わるものだと思いながらも、駿は優希の笑顔を歓迎した。



  7


 優希が公直を連れてランジェリーショップへ入っていた。駿は恥ずかしいので外のベンチで待った。そのベンチから店を眺めると、マネキンが肌着をつけてポーズをとっている。駿は慌てて目をそらすことになった。

 それでも気になって、時々店内の様子を探った。

 入り口付近で矢野が見守っているのが見えた。その視線を追うと、優希の頭らしいものが見えた。公直は見えない。優希の傍にいるはずだが、優希よりも背が低いので見えない。

 三島は少し離れたベンチに腰掛け、右眼でランジェリーショップを睨み、左眼で駿の後方を見ていた。

 駿の傍に若い男三人が腰かけ、めぼしいのいたかなどと小声で言っていた。駿は気にせず、視線を泳がした。ふと、また下着を身につけたマネキンに目が留まった。

 恥ずかしくなって目を逸らそうとしたが、違和感を覚えてもう一度見た。マネキンの数が増えている。それも、子供のようなマネキンが増えていた。値札の見える肌着を上下身に着けて、隣のマネキンと同じポーズをとっていた。

 子供のようなマネキンと目が合った。すると片目をつむるではないか。駿は驚いて声を上げそうになった。あれは公直だ。ナノマシンで顔を変化させているので気付くのに遅れたが、間違いない。恥ずかしげもなく、下着姿でショーウィンドに立っているのだ。

「おいあれ」

 隣の男性三人のうち一人が気付いたらしく、ランジェリーショップを指差していた。

 駿が、馬鹿、止めろ、と口を動かしてアピールしたが、公直には通じなかった様子だ。

「幼女!」

 男性三人のうち一人が興奮したように呟いていた。今時珍しい眼鏡をかけ、髪の毛を七三に分けた真面目そうな男である。

「くいついた!」

 残りの二人が声を押し殺して仲間の反応を笑っていた。この二人も、仲間を馬鹿にした割には、サングラスを押し上げ、しっかりと見つめていた。

 ランジェリーショップで変化があった。異変に気付いた優希が駆け寄り、公直の耳を引っ張って奥へ連れて行ったのだ。

 あれは痛そうだ。駿は耳が痛くなったような気がして、自分の耳をさすった。公直は優希にこっ酷く絞られるに違いない。ご愁傷さま。でもおかげで、優希の駿に対する風当たりはますます弱くなりそうで、駿としては歓迎だった。公直の裸が隣の男どもの目にさらされたのは不満だったが、このことを主張しても公直が取り合うかどうかわかったものではない。

 しばらくして、耳をさすりながら公直が出てきた。気持ちの納まらない優希が公直の後頭部を睨みつけている。

 いつの間にか隣の男性三人がいなくなっていた。あの三人が出てきた公直を見たらなんと言っただろうか。居合わせなくてよかったと、駿は安堵した。

「ああいうこと、一度はやってみたいだろう?」

 公直が駿に同意を求めた。公直本人は平気で、悪いことをしたと思っていなかった。ちょっとした悪戯なのに、その程度で怒らないでと言いたげだった。

「小学生の頃ならやったかもね」

「俺は小学生か!」

 公直は声を上げたものの、怒りはしなかった。

「いっつもあれはダメこれはダメと言われ続けたんだ。ちょっとくらい羽目を外したっていいだろう?」

 言い訳めいたことを言っていた。

「つまり、やってみたかったんだね…」

「見事に紛れ込んでただろ!」

「女の子は自分の身体を人目にさらすようなことしないわ」

 優希が低い声で言い放った。

「小学生なら気にもしてない」

 三島が言いながら近づいてきて、公直にボク何年生などとからかった。さすがに公直も面白くない様子で、三島を睨み返していた。

 矢野は特に何も言わなかった。黙って、皆の様子に目を配り、何気ない仕草で回りも確認していた。何も言わないだけで、顔は不満そうだった。目立つことはするなと言いたいのかもしれない。

 それからの買い物も、行く先々で公直が悪ふざけをやらかした。やることなすこと、小学生レベルである。スカートを頭にかぶってみたり、店内の棚を利用してかくれんぼをしてみたり、奇麗に陳列されたものをすべて触ってみたりした。

 優希がもう知らないと店を飛び出すと、公直は俺が悪かったと追いかけた。すると公直はひとが変わったように、落ち着き払った態度で優希の隣を歩いた。扉を開け、優希を先に出入りさせた。自動ドアでも、自分の身体でドアが閉まらないようにふさぎ、優希が挟まれないように気遣うのである。

 無用な気遣いにも思えたが、一人の紳士が現れたようにも見えた。駿の知らない世界がそこにある。公直は私服を着込んでいるだけなのに、スーツをラフに着こなした粋な紳士に見えた。

 優希が公直に取られてしまったように思えて駿は焦った。取られるも何もないのだが、とにかく面白くなかった。まるで公直に負けたような気分が漂う。このまま負けてなるものかと駿は決意するのだが、対抗する手段を思いつかず、小学生のように、二人の間に割り込むだけだった。

 駿は二人に荷物を押し付けられた。戸惑っていると、優希がお花を摘みに行くと言い、公直が俺はトイレと言った。

 トイレ傍のベンチに荷物を置くと、駿はその隣に腰かけた。矢野は端末が鳴った様子で、少し離れた先で壁の裏側に消えた。三島は誰よりも早くトイレの中へ飛び込んでいった。お腹をさすっていたので、下ったのかもしれない。

 優希は公直についてくるように促し、女性の方へ入った。ところが公直は入り口で迷った挙句、男性向けのトイレへ入っていった。

 駿が所在無げに待っていると、優希が最初に戻ってきた。

「公直…明花莉…あの子は?」

 優希も呼び方に困っていた。言いなおした挙句、あの子で落ち着いた。

「男子トイレ入ったまま」

 駿はそう答えると、僕もトイレと、優希に荷物を任せた。

 トイレに入ると、人がいなかった。ただ、一番奥の個室から、誰かの足がはみ出していた。その足が多い。数人で入り込んでいるのだ。

「止めろ!」

 その言葉は途中で、何かにふさがれ、くぐもった。だが、駿にはそれが、公直の声だと分かった。

 奥の個室からサングラスの男が一人出て、こちらを見ていた。

「使用中だ」

 男は威圧するようにそう言うと、見るなと言いたげに駿をサングラスで睨みつけていた。

 もう一人、サングラスの男が出てきて、二人して駿を威圧する。だが、駿も黙って下がるわけにはいかない。公直の悲鳴が聞こえたのだ。可能性があるのはあの奥だ。何とか公直の無事を確かめ、助け出さなければならない。

 駿は震え始めた足を鞭打って、少しずつ奥へ向かった。男たちが近づいて、道をふさいだ。

 近くで水を流す音が聞こえた。駿はとっさに、三島だと思った。

「三島さん、警察呼んで!」

 駿の呼びかけに、男たちが駿を取り押さえに寄ってきた。そこへ個室の中から、もう呼んだと声が返ってくると、サングラスの男二人は顔を見合わせ、駿を押し倒して逃げ出した。

 駿は急いで立ち上がると奥へ急いだ。

 公直が便器の上に座らされ、両手を上で男に捕まれていた。公直の衣服が乱れ、下着が外れているのが見えた。男が公直の胸の辺りに顔を近づけ、何かしていた。

 公直と目が合った。悔しそうに顔をしかめている。口に何かを詰め込まれ、うめく音が漏れているだけだった。公直の腿の上に男が乗っているので、足も動かせないでいた。

「何やってんだ!」

 駿は自分を奮い立たせるために、声を張り上げた。そして震える足を振り上げ、男の側頭部を蹴った。が、VR内ならともかく、運動神経のない駿では狙い通りに足が上がらなかった。

 駿の蹴り足は男の脇腹から脇の下にかけて当たった。たいした威力もない。だが、公直を押さえていた手が緩んだ。公直はその瞬間を見逃さず、手の自由を取り戻すと、下から男のあごを突き上げた。

 男がふらついて駿の方に下がってきた。駿はその男の脇腹を殴りつけた。

 男がうめいた次の瞬間、悲鳴を飲み込むようにして硬直し、膝をついた。公直が男の股間を強かに蹴り上げていたのだ。

 公直はそれでも気持ちが納まらないらしく、男の頭をつかんで膝蹴りを叩きこんでいた。男はもんどりうってトイレの床に顔をうずめた。

 もしかして僕の手助けは必要なかったのかなと、駿はあっけにとられていた。

 公直のシャツのボタンがなくなり、前がはだけている。可愛らしいふくらみが見え隠れしていた。先ほど買ったばかりの下着は膨らみの上に載っていた。

「大丈夫?」

「気持ち悪い…」

 駿の気遣いに、公直はうめくと、別の個室に飛び込んで扉を閉めた。が、すぐに開いた。

「なあ。これ、着けてくれないか?つけ方がわりゃしねぇ」

「ぼ、僕が知るわけないでしょ!」

 駿は胸元を広げてみせる公直を個室に押し込んだ。襲われたというのに、公直は普段と変わらない様子で、駿は呆れると同時に、安堵していた。

「仕方ない。やってみるか」

 公直はそう言うと個室を閉めた。

 扉の向こうですすり泣く声が聞こえた。さすがの公直でも普段通りとはいかなかったのだ。駿はそっと、聞こえないふりに徹した。



  8


 三島が呼んだのは警察ではなかった。誰も呼ばなかったわけでもない。

 駆けつけたのは矢野だった。

 トイレから逃げだす男二人を、矢野は瞬殺すると、トイレの中に引きずり込んだ。手早く男たちの持ち物を調べた。三島はいったいどう連絡したのか、矢野は逃げ出したサングラスの男性二人が暴漢の仲間だと分かっていた様子である。出会い頭に急所を強かに打たれた男性二人はぐったりとした様子で矢野の足元に転がっていた。

 三島は個室から出ると手も洗わず、奥で倒れている男の顔を上げさせた。そして眼鏡を奪い取った。続いて矢野が失神させた二人からサングラスをそれぞれ奪った。

 三島が辺りを見渡し、駿の腰に目を付けた。

「端末を貸してくれ」

 駿は三島が差し出した手を見て、首を横に振った。この手に触れて欲しくない。特に今は。

「時間がないんだ。ほら」

「手を洗って。でないと貸さない」

 駿がはっきりと告げた。

「ほら!急がないと人が来る!」

「手を洗って」

 駿がきっぱりと言い放つと、三島は首を横に振って諦めた。自分の端末を取り出して眼鏡たちを接続した。ホログラムによる仮想キーボードを作り出すと、何やら指を動かした。すると、眼鏡から取り出したらしい映像が空中に現れた。

「やっぱりな」

 三島は呟きながら、空中の映像をつかんで忙しく左右へ動かした。多数のファイルから目的のものを探しているようだ。

 映像の中に小さな枠が無数にあり、それぞれ別の映像が表示されている。その一つ一つが映像ファイルなのだ。どの映像も、乱れた服装の女性が映っていた。恐怖に歪んだ表情を浮かべている。

 三島がとあるところで止めると、今いるトイレらしい映像がいくつかあった。

「あったあった」

 三島は宝物を見つけたように言うと、公直に関連する映像をすべて消し去った。作業を終え、閉じようとする。それを駿が止めた。

「一番下の、右端、うん、それも消して」

 ランジェリーショップのショーウィンドの映像だ。公直のためにも、残してはならない。他の映像も消した方がいいように思われたが、三島はすでに眼鏡との接続を切っていた。

 三島は続いてサングラスも接続し、同じように映像を検索して、該当するものをすべて消し去った。もう一つのサングラスは全く同じ作業なので、三島はとても素早く作業を終えた。常人であれば見えない速さだったが、駿には見えていた。消した後に、それぞれに何かをやっていたことも気付いていた。

 三島は用済みになった眼鏡たちをそれぞれの持ち主の上に投げおくと、何もなかったかのように外へ出て行った。

「同類だから隠し撮りに気付いたのか?」

 矢野がからかうように言い、三島の後を追っていた。それでも、三島が公直の恥ずかしい映像が公になる前に防いだことに、矢野も感謝している様子だった。女性同士の妙な連帯感のようなものが、そこにあるのかもしれない。

 辺りが静かになったころ、水を流す音が聞こえ、公直が出てきた。駿の顔を見ると一瞬驚いた様子を見せ、怯えた顔に無理して笑顔を浮かべようとしていた。倒れている男に目が行くと、その笑顔も消え、怯えと怒りの入り乱れた表情になっていた。

「まったく。俺ってつくづく非力だ…。泣けてくるぜ」

 公直の頬に涙が伝い落ちていた。涙を隠せないので、言いつくろったのかもしれない。あるいは口を聞いたばかりに、感情が溢れ出したのかもしれなかった。

「帰ろう」

 駿はそれだけ言うと、手を洗い、出口前で待った。公直が執拗に手を洗っていた。

「くそっ!気持ち悪い!全部脱いで洗いてぇ!」

 公直は吠えるように言うと、駿を振り向いた。気丈に振舞おうとして、できていない。表情が崩れた。

「俺が身体洗いたいって…どうかしてるぜ…」

 自分の感情にも驚き、振り回されていた。

「お風呂とかって、あまり必要性感じないもんね」

 入らなきゃ入らないでもいいじゃないかと駿が言うと、公直がおうよと答えた。一瞬だけ笑顔が戻り、すぐに苦悶する表情になった。

 トイレを出ると、優希がすぐに駆け寄り、公直に上着をかけた。そう言えば胸が見えていたんだったと駿は今になって思いだした。僕が服をかけてあげればよかったんだ、気付かないなんてと後悔した。

「なんで男子トイレなんて入ったのよ」

 優希の目がそう告げていたが、口に出したのは別のことだった。

「どうして男子トイレで襲われたのかしら」

「男色だったのかもな」

 三島が興味なさそうに答えていた。

 ここで襲われたのは、あくまで偶然だ。ただ、暴漢たちに駿は見覚えがあった。向こうもそうだったに違いない。利用中のトイレに、目をつけていた公直が入ってきたので、その場の勢いで襲ったのだ。

 そのことを言えば、公直はさらに責められることになる。きっかけを作ったのは公直の悪ふざけなのだ。下着姿のままショーウィンドのマネキンの真似をしていたからだ。それを目撃したあの三人は、公直に目をつけていたに違いない。

 あんなことをしたからこんな目に遭う、などと公直が責められるのが分かっている。駿が言えば、ショックを受けて沈み込んでいる公直に追い打ちをかけることになる。

 駿は黙ったまま、歩いた。車に乗り込んでも黙っていた。

 公直は行きしなとは違い、縮こまって下を見つめていた。何か口にすれば、胸の内にたまっているものが溢れ出すのかもしれない。顔を上げ、心配そうにしている優希の顔を見ると、その胸に顔をうずめて泣きたくなるのかもしれない。普段の公直なら、喜んでしそうな行為だが、今はやらないだろうと思えた。

 駿には泣くところも見られたのだから、それほど遠慮することはない。だが、公直にしてみれば、見られたこともプライドが許さないのかもしれなかった。もしかしたら駿に助けられたことも、自分を許せないと感じているのではないか。

 だから公直は下を向き、必死に自分を押し殺しているのではないか。自身を責め続けているのではないか。

 隣で公直が震えていた。泣いているのかもしれないが、ここは気付かないふりをしていた方がいい。駿はそう思え、外の景色を眺めていた。

 駿の肩に何かが触れた。

 公直の頭だ。駿はそれと分かると、気付かないふりを続け、外を見た。が、景色はまるで見えていなかった。見えていないはずの公直の顔が、視界にちらついていた。

 口惜しさと、恐怖に歪み、打ちひしがれている。見えないはずなのに、駿の脳裏に浮かんだ。公直の頬に涙の跡が残っていた。

「ありがとう」

 消え入りそうな公直の声が聞こえた。それは駿の頭の中だけで響いた声だったのか、肩の傍で聞こえたのか、よく分からなかった。

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