山科源次郎
1
「お頭。チェック項目すべて洗い終わりましたぜ」
「ようし、ばかやろうども!ご苦労!引き上げるぜ!」
「ヘイ!」
これは夢なのだろうか。小気味よい掛け声が耳に響いていた。大本駿はぼんやりと、その声を聞いていた。
地面が揺れている。
何かがバタリと鳴った。
すると、小刻みな振動が伝わってきた。次第に揺れが大きくなる。
パリパリと、まるで何かを踏みつけているような音がする。
「それで、社長。これ、どうするので?」
「ばかやろう!棟梁かお頭と呼べ!」
「ヘイ社長。で、どうするので?」
「そいつぁ丁寧に扱え!」
「ですがお頭。こいつぁ、脱走者か侵入者ですぜ。検問で…」
「そいつは隠せ。もし見つかったら、そいつはアルバイト。俺が連れ込んで、連れ帰る。それでいい!」
何人かの声が聞こえているようだ。これはいったいどういう夢なのだろうか。
確かめたいが、暗く何も見えなかった。
「お頭がそうおっしゃるのでしたら…」
「この紋、いったい何なんですかね」
「やろうども。それも知らんのか?シナの葉に山形。俺たち土建屋にゃ超有名な紋だぜ?」
「しがない工務店に?」
「工務店言うな!ばかやろう!」
「すんません!」
「で、お頭」
「そいつぁな…」
「おっと、検問でさ」
「おい!隠しておけ」
声が小さくなった。揺れも治まってくる。
「ご苦労さん。何が原因でした?」
少し遠くから声が聞こえた。
「ボルトが一本腐食して、そこから湿気が入っていましたよ。ボルトを換えて、念のために補強処理もしておきましたので、もう異常は出ないかと」
あれだけ威勢の良かった声が、今度は神妙に答えていた。
「それはよかった」
遠くの声が、どうぞお通りくださいと言っていた。
再び揺れが大きくなった。
「よし!シートを外してやれ」
すると、明るくなった。それでも何も見えない。
「そのシナの葉に山形って?」
「おう。そいつぁな。山科組の家紋よ」
「山科組…ってあの?」
「そうだ。小さな土建屋が、六十年かけて隔離都市一つ造り上げた、あの山科組よ!」
「社長、そんなにスゲーんですかい、その組?」
「ばかやろう!お頭と呼べ!おう!すげーも何もあるかい!土建屋の誇りじゃねぇか!」
「でも社長。スゲーっていやあ、やっぱ、海上の隔離都市でしょ」
「あれは技術も工期もあり得ねぇ代物でさ」
「確かにな。だがな。何度も設計図からやり直され、それでもめげずに六十年!あの海上都市と見劣りしねぇ都市を造っちまったんだぜ!山科のだんなぁよぉ!」
「ほぇ」
「モノづくりの血が騒ぐってもんよぉ!」
「お頭は好きだねぇ」
「おうよ!」
「社長入れて四、五人しかいない工務店じゃ、スケールが違いまさぁ」
「おい!」
「ヘイ」
「棟梁かお頭と呼べ!」
「ヘイ、社長!」
「このトンチキめ!」
「えへへ。おほめに預かりまして」
「褒めてねぇ!」
「でも社長、トンチキとかばかやろうとか、褒めるときにも叫んでらっしゃる」
「ハハ。お頭、どうやら一本取られたようですよ」
「やかましい!」
「で、お頭。この子、どうなさるので?」
「そうさな。いったん家で預かる。この家紋を背負ってる以上、土建屋として、放っておけねぇ!それにな。山科のだんなにつながるなら、だんながどうなさっているのか、聞きてぇじゃねぇか」
「そんなもんすかね」
「たりめぇよ!山科組を知らねえやつぁ土建屋を名乗れねぇ!シナの葉に山形の家紋は土建屋の免罪符ってな!」
「なんて言っちゃあいますがねぇ、お頭。俺たちゃ山科組のおこぼれに預かって生活しているだけでしょうに」
「身も蓋もねぇこと言うねぇ!」
「あいた!」
急に静かになった。
何かの振動音と、時折揺れるだけだ。
何か別の音もあった。ツトツトと何かが当たる音。まるで水が飛び散るような音。
どれも、都市内では聞いたことのない音だ。
不思議に思ったが、それらの音を聞いていると、意識が遠のいた。目の周りが明るいのも、気にならなくなった。
夢が終わったに違いない。
再び、深い眠りについていた。
2
大上裕翔はノックをためらった。
扉の向こうから話声が聞こえている。一人はニュー東京から派遣されてきた上官の西園寺光隆だ。もう一人の声は記憶にない。
執務室には西園寺しかいないはずだ。すると、誰かと通信中ということだ。
通信を邪魔しては悪いと思い、扉の前で待った。というのは建前だ。話の内容が気になり、手が止まったというのが、本音である。
「閣下。申し訳ありません。大本駿に逃げられました」
「たかが子供一人にか?地下都市でどこに逃げられるというのか」
「目下、範囲を広げて捜索中です」
「まったく。西園寺家は。最近、ろくなものがおらんな」
通信相手が数人の名前を上げて、こき下ろしていた。大上の知っている名前もあった。西園寺亮だ。大上の探している人物の一人である。
西園寺公直という名前には聞き覚えがなかった。通信の相手はその西園寺公直が気に入らないのか、執拗に欠点らしいことをあげつらっていた。
西園寺光隆は耐えているのだろう。声は発しなかった。
「ところで、大本駿が何者か、分かっているな?」
「はい」
西園寺光隆が短く答えた。
通信相手はどうしても言いたかったのだろう。自分の認識を語った。
「政府転覆を狙う犯罪者の息子だ。何をしでかすか分かったものではない。現に、VR世界に混乱をもたらしている」
「父親は父親で、国家機密を持ち出し、姿を消しております」
西園寺光隆も同調するように言った。
「うむ」
通信相手が満足そうに答えた。
「あやつのことだ。いつか必ず、テロを引き起こすぞ」
「だいそれたことです。必ずや、この西園寺光隆が、その息子を捉えます。息子を足掛かりに、大本聖を捉えてご覧に入れます」
「その言葉に二言のないことを願おう」
「はっ」
音から察するところ、西園寺が敬礼をしたようだ。
西園寺光隆は警視クラスに当たる。二十代で警視になれる人間は、エリートだ。彼らはとんとん拍子で位を上げていく。
大上とは別次元の人々だ。
西園寺光隆は何か手柄を立てれば、どこかの署長ならすぐになれるだろう。対して大上は四十を超えている。警部補には上がったものの、この辺りで頭打ちだ。あるいはお情けで警部になれるかもしれないが、その上の警視など、雲の上だ。
北東京という地下都市に配属されているので、地方勤務より待遇はいいのだが、やはり本庁のあるニュー東京は、別次元なのだ。西園寺光隆のようなエリートしか、所属できない。
そのエリートがかしこまって相手をするとなると、通信の相手はよほどの高官のようだ。
大本駿の話をしていたところを見ると、警視総監辺りが該当しそうだ。
部屋の中が静かになっていた。
大上は思考を打ち切ると、ノックした。
「入りたまえ」
声に従い、扉を開けると、身体を屈め、斜めに入った。大柄な身体には、入退室が不自由で困る。
「本官をお呼びでしょうか?」
西園寺が机から目を上げた。机の上にホログラムによる書類が複数、投影されていた。
「サクチャイ・シングワンチャーおよび河原優希の身柄をこちらに引き渡せ」
西園寺は用件から入った。
「それは出来かねます」
大上が即答で答えた。要求されることを予測していたからだ。西園寺光隆と視線を合わせないよう、天井を見上げていた。
「警部補ごときが、何の権限を持って主張するか!」
「お言葉ですが、両名は容疑者でも、犯罪のほう助をしたわけでもありません。念のために任意で、捜査協力をお願いしたにすぎません。すでに取り調べを終え、お帰り頂いたので、本部に差し出すことはできません」
「それを決めるのは私の仕事だ。私を愚弄する気か!」
「いえ、決してそのような…」
「もういい!」
西園寺は怒気を発したものの、それ以上追求しなかった。
「して、件の容疑者の捜索はどうなっている?」
「はっ!」
大上は天井を見つめたまま、敬礼した。上官が二人の身柄に関して妥協したのだ。次の要求には誠心誠意答えなければならない。
空中に資料を表示させると、詳細を説明した。
「他部署から応援を借り、また、警備ドローンを導入して各フロアの洗い出しを行っております」
「フロア間移動は?」
「完全に掌握しております。説明の必要はないことだと存じますが、基幹エレベーターの利用はIDが必要になります。容疑者のIDに制限をかけておりますので、基幹エレベーターの利用は不可能です。そして利用しようとすれば、通報が入る仕組みです」
「よろしい。本庁はそう急なる解決を求めてきた。ドローンと人手を倍増し、洗い出しを急げ」
「はっ!」
大上はもう一度敬礼すると、西園寺を見ないように、踵を返して退出した。
扉を閉め、廊下を狭そうに歩く。
若造の命令に服従しなければならない。以前なら、胸に含むところもあったが、今や平気である。
顔と頭がいいだけの本庁の役人に楯突いたところで、自分が損するだけだと、骨身にしみて理解した。自分が損するだけならともかく、部下にまで被害が及ぶこともある。
上官とのトラブルは避けなければならない。感情的にならなければ、やり過ごす術はある。
大上は、相手の顔を見ず、天井を見つめることにしていた。少なくとも、相手の表情に腹を立てることがなくなったので、おのずとぶつかる回数は減った。
それにしても、であった。
立ち聞きした西園寺の通信は、少々危険な含みがあった。
大上の調べた範囲では、大本聖は政府転覆を狙うような思想犯ではない。身の危険を感じて雲隠れしているのは事実だが。
政府の側が、大本聖を煙たがっている。そのことから、確かに大本聖は何か重大な事を知っていると推察できる。
だが、姿を消して五年数ヶ月、彼はその情報をリークすることなく、どこかに潜伏しているのだ。
国家の転覆に利用するのなら、すでにどこかへリークしていてもおかしくない。しかし、そのような情報は一切なかった。
大本聖の握る情報が、国家絡みの不正である可能性。もしそうなら、立ち回りに気を配らなければならない。
正義の徒である以上、たとえ噂や可能性であっても、裏をとりたくなる。そのためには、大本聖を探し出さなければならない。だが、大本聖の潜伏場所は一向に知れなかった。
西園寺やニュー東京のお歴々よりも先に見つけなければ意味がない。
西園寺光隆が何か重要な情報を隠していない限り、エリートといえど、大本聖を見つけ出すのは難しいだろう。
一方、大本聖の息子、駿は、大上が手を回して都市外へ逃亡させた。関わったことが知れると懲戒免職では済まない。
しかし、大本駿は、権力者の怨恨から犯罪者に仕立てられているにすぎない。本来正義を執行すべき警察が、権力者の手先になって権力を乱用しているのだ。
無実と分かっている大本駿を逃がして何が悪い。正しいことを行えない、今の警察の方が間違っているのだ。
まともな調査も行わず、幼気な少年を追い回す警察に、嫌気がさしていた。
大上は大本駿を逃がした罪が発覚しようとも、別に構わないと考えていた。ただ、願わくは、できる限りの正義を執行したい。
VSGの混乱の真犯人を見つけ出すこと。事態を収拾する手段の模索。そして権力者の息子たちの横暴の証拠を見つけ、彼らの行いを正すこと。
これらを何とか解決したかった。
だが、大上に打つ手は残されていない。他力本願だが、都市外に逃亡した大本駿が、大上の期待する成果を上げてくれると、信じるしかなかった。
幼気な少年のやわな背中に、すべてを背負わせなければならない。思うと、大上は自責の念にとらわれ、自嘲したくなった。
大上はポケットからカード型端末を取り出し、履歴を確認した。
大本駿の境遇を思い、ただ待つのも、身につまされる。
大上は巨体を大きく震わせて、大きなため息を漏らしていた。
3
大本駿は柔らかい物の上で、寝返りを打った。温かく、心地いいものにくるまれている。
身体がだらしなく沈みこんだ。
これはベッドに違いない。自分の部屋のベッドで寝ているのだ。
長い階段を歩いたのも、悪い夢だったのだ。初めから、自分の部屋のベッドで、まどろんでいるだけだ。
いや、ベッドより柔らかいように思えた。
駿は目を開けた。
茶色い天井が見える。何かの模様なのか、奇妙な線が走っている。
見覚えのない天井だ。
駿は飛び起きた。
駿が眠っていた場所は、ソファーのようだ。身体の上にある毛布が心地いい。
見覚えのないテーブル、調度品の数々。
窓が見えた。
窓の外で、木の枝が揺れていた。とてもリアリティーのある映像だ。駿はそう思った。
立ち上がろうとして、足に痛みが走った。筋肉痛のようだ。痛みに耐え、力を加えていく。何とか立ち上がれた。
窓に近づき、触れてみる。
自分の部屋の窓と、感触が違う。硬く、冷たい。
窓が横に滑った。
冷たい風が身体をなで、体温を奪っていく。
むせ返るようなにおいが押し寄せた。
目の前で、何かの木の枝が、風に揺れていた。
映像ではない。
駿がいた場所では、こんなに様々なにおいを感じることはなかった。風も人の体温を奪うほど吹き付けることはない。
嗅いだことのないにおい。風に乗って、何がにおっているのだろうか。
それは、土のにおい。草のにおい。木々のにおい。水のにおい。他にも色々なものが混ざっているのだが、駿はもう五年以上嗅いだことがなく、忘れ去っていた。
風に揺れる枝が、葉っぱが、色鮮やかだ。モニターで見るものと同じはずなのに、どういう訳か、生き生きとした印象を受けた。何か、力強さのようなものを感じた。
色も、映像よりはるかに鮮やかだ。
枝が揺れるごとに、葉の色が変わった。日の光を浴びる場所、影になる場所でも違う。
「一昨日からの雨がやっと上がったからな。雨の後は緑が映える」
誰かの声が聞こえ、慌てて振り向いた。
「痛いところはあるか?」
五十代くらいだろうか。丸い顔にしわが多く見えた。額の端が反り返っている。その上の頭髪も、妙な塊に見えた。パンチパーマと言うものなのだが、駿の知らない髪型で驚いた。
男は大きなおなかを揺すりながら近づいてきた。
駿のまるで知らない人だ。
「筋肉痛くらいはあるかもな。なんにせよ、腹が減っただろ?」
男に言われてお腹を意識すると、急に腹の虫が騒ぎ立てた。
男は豪快に笑い声をあげると、こっちだと言った。
男について廊下に出て、別の部屋に入った。
大きなテーブルが部屋の中央にある。壁には食器棚のようだ。
外がよく見える大きな窓と、大きなモニター。そしてその前にソファーもあった。
「女房は仕事に出てね。有り合わせで済まんが」
男はそう言いながら、冷蔵庫から食べ物を出し、テーブルに並べた。
テーブルに添えられた椅子の一つに、山科源次郎がくれた作業着がかけてあった。
駿は近づいてその作業着に手を触れた。
「そいつぁお前さんが着ていたものだ。お前さん、山科組の所縁かい?」
男はカップラーメンまで用意していた。地下都市内では珍しい品物だ。
「おっといけねぇ」
男はそう言うと、山辺組の棟梁、渡辺恒昭と名乗った。
「棟梁かお頭と呼んでくれ」
そう言いながら、駿に椅子に座るように促した。
「カップ麺が気になるか。よし」
渡辺は言うが早いか、包みを開いてお湯を注いだ。
ポテトサラダやジャガイモの煮物、唐揚げまである。
コップと麦茶のボトルも出していた。コップに麦茶を注ぐと、駿の前に置いた。
「水分もしっかりとれよ」
渡辺は冷蔵庫をあさりつくすと、台所の棚を一つ一つ開けて回った。
「米は…ないな…すまん」
「いえ」
駿が答えると、渡辺は遠慮せずに食えと言った。
駿のお腹が大きな音と立てている。
「少なくとも、一日以上食ってねぇはずだ。慌てずに食え」
目の前のカップラーメンが、いいにおいを、湯気と共に立ち昇らせていた。
唾があふれだして止まらない。
駿は用意された箸をつかむと、メンを掴めるだけ掴んでかぶりついた。
渡辺が面白そうに駿を眺めていたが、駿は食事に集中しており、気付かなかった。カップラーメンのスープまで飲み干し、唐揚げに手を付けていた。
渡辺が声をかけた。
「山科のだんなは元気にしているかね」
駿は初め、何のことを言っているのか分からなかった。
「ほら、その作業着の」
「それ、おじいさんにもらった」
「おや?お前さん、孫、いやひ孫かい?」
駿はどう答えようか迷った。山科源次郎は駿のことを孫のように言ってくれていた。だから孫と名乗ってもいいと思えるのだが、だからといって、本当の血縁者ではない。
「孫ではないけど、孫みたいなもの、かな」
正直に答え、唐揚げを頬張った。
「そうか」
渡辺は近くの棚からボトルを一本出すと、グラスを持ってテーブルに着いた。
「あのだんなも、もう八十代か」
グラスに透明な液体を注ぎながら、懐かしむように言った。
「いえ」
駿は口の中身を麦茶で流し込んだ。
「もう九十超えてますよ」
「もうそんな歳か!元気だったか?」
「ええ。VRゲームなんてやってますよ」
「ジジイのくせして、また…」
渡辺はそう言いながらも、笑った。グラスから透明な液体を、グイっとあおる。
「おれぁ、わけぇころ、だんなのもとで修業させてもらったこともあるんだ」
もう一度グラスをあおると、再びボトルから液体を注いだ。
「ジジイに似合わない美人の奥さんがいてな」
グラスに想像の姿を思い描いているのか、しばらく見つめていた。またグイっと空ける。
「奥さんが大福が好物で」
グラスに液体を注いだ。昔を懐かしんで笑っている。
「僕もご老公から大福もらってました」
「ご老公?ハハハ!確かにご老公だろうさ!こりゃいい!」
渡辺は何が気に入ったのか、ひとしきり笑い飛ばしていた。
「だんなが中でどうしてるか、色々聞かしてくんねぇ」
渡辺がそう言って身を乗り出した。
「何せ、メンテナンス用通路に倒れてたお前さんを助け出したんだ。それくらいの見返りは望んで差支えあるめぇ」
「倒れてた…?」
「そうさ。その作業着を着てな。そいつを着てなかったら、不法侵入者か脱出者だと、どこかに突き出したか、見捨てていただろうよ」
駿の手が止まっていた。目は源次郎の作業着に止まっている。
駿は運がいいのだ。倒れたまま、野垂れ死んでもおかしくなかった。誰かに捕まってもおかしくなかった。
「山科組の紋は、俺たち土建屋じゃ知らねぇもんはいねぇ。そいつを見せりゃ、俺たちに対する免罪符さ。知っているやつぁ、誰でも手を貸してくれる。そういう代物さ」
渡辺はそう言って作業着をつかむと、駿に差し出した。
この事態を見越して、源次郎は駿に作業着を着せたのだろうか。だとしたら、源次郎に感謝しなくてはならない。
作業着に触れると、源次郎の手が触れたような気がした。離れていても、源次郎は駿を保護してくれているのだ。駿の祖父のようなものだと言ったのは、言葉だけではなかった。
駿は思いをはせると、目頭が熱くなった。
駿は作業着を受け取ると、羽織った。源次郎の優しさに包まれれば、これほど心強いことはない。
「だがな、その代わりっちゃなんだが、だんながどうなったのか、気になるってもんよ」
渡辺は自分のグラスを空にすると、また液体を注いだ。
目の前の男性は、駿を担いで、地下都市の最下層から地上に上ってくれたのだろう。そして今、食事も施してくれた。
源次郎のことを話せばその恩の一部でも返せるのなら、喜んで話そう。それくらいお安い御用だ。
駿はポテトサラダを口に運びながら、自分の知る源次郎を語った。
4
河原優希は気を揉んでいた。
警察では大した取り調べもなく、解放された。
ただ、監視は続いているようだ。
駿やサクチャイが住んでいる共同宿舎と同様に、女性限定のものがある。優希はそこに一人暮らししていた。
宿舎へ戻るさなか、絶えず後方に一人のスーツ姿の女性が見え隠れしていた。
あの女性が、当分の間の監視役に違いない。
監視が付くということは、駿がまだ捕まっていないということだ。そのことは喜ばしいのだが、駿の様子を確認できないことがもどかしい。
駿が寂しい思いをしていないだろうか。ひもじい思いをしていないだろうか。ひどい目に遭っていないだろうか。
気になると、とりとめがない。
共通の知り合いに会って、駿のことを話したい。少しでも駿の状況を知りたい。しかし、監視がついている以上、誰かに会いに行くのは避けた方がよさそうだ。
後で何人かと通信をしてみよう。まさか、通信の傍受までは行っていないだろう。できるだけ用心した方がよさそうだ。
それにしても、駿は無事なのだろうか。
ヤマトタケルのプレイヤーから忠告を受け、駿の宿舎から別々に出たところで、優希は警察官に呼び止められ、任意同行させられた。
それ以来、駿の姿を見ていない。
まだ数時間しかたっていない。
駿は、VSGのゲーム内であれば、比類ない強さを誇る。安心して見ていられるライバルだ。
しかし、現実ではどこか間の抜けた、要領の悪さが目立った。引っ込み思案で、いつも手助けを必要とした。それだけでも心配なのに、カッとなって暴走するときもあるから、気を揉むことになる。
弱いくせに、カッとなると、人をかばったりする。頼もしくもあるけれど、心配の元でもあった。
出来の悪い弟のようなものだ。姉である私がしっかり面倒を見てあげなくては。そう思えてならない。
駿が知ったら、怒るかしら。
優希はそう考えると、おかしくなった。訂正しなければならない。
そうね、弟ではないわね。弟では困るもの。
独り言ちると、顔が火照った。
何か恥ずかしいことをしているように思えた。
辺りを見渡してみても、特に誰かの注目を集めている様子はない。監視の女性以外は。
優希は胸を撫で下ろすと同時に、監視の事実を思い出し、気持ちが沈んだ。
気持ちが沈んだ時は、太極拳をするか、お風呂にゆっくり浸かるか、である。
太極拳はゆっくりと身体を動かす。身体を動かせば、悪い考えは消え、無心で体操できる。
お風呂は身体を動かさないものの、隅々まで綺麗にして、湯船につかれば、その浮遊感で、心まで浮かび上がってくれる。
どちらもリラックスに最適だった。
今は、お風呂だな。
優希はそんな気分だった。
警察では大した取り調べを受けなかった。でも、人の多いところへ出入りして、髪の毛が重く感じられた。べたついているに違いない。
何かが身体にまとわりついたような感覚に襲われているので、とにかくさっぱりしたかった。
優希は共同宿舎で暮らしているので、風呂も当然、大勢多数と共同である。
同性ではあるが、気にする人は気にするし、あけっぴろげな人は恥ずかしげもなく身体をさらけ出す。
優希はタオルで前を隠す方なので、完全にリラックスできるわけではないが、それでも、今日はゆっくりと浸かりたい気分だった。
一度部屋に戻った。机の上の両親の写真にただいまと一声かけた。風呂支度を整え、一階の大浴場へ向かう。
脱衣所で裸になり、タオルで前を隠す。
恥ずかしげもなく、タオルを肩に引っ掛けた女性とすれ違った。
どう自信をつければ、あのようにあけっぴろげに歩けるのだろうか。優希には理解できなかった。見ている方が恥ずかしい。
タオルで簀巻き状態の女性もいる。
こちらはこちらで、少々やり過ぎに思えるのだが。
浴場に入ると、身体を隅々洗う。備え付けのシャンプーはにおいもいい。優希は気に入っていた。
ポニーテールを下ろすと、腰の下まで毛先が届く。この黒く長い髪を、念入りにシャンプーする。毛先が割れていないか確認する。割れていたら、ハサミで切り取る。
需要が多いのか、洗い場にハサミまで常備されているので、非常にありがたかった。
念入りに洗った後は、しっかりゆすいで、さらに念入りにリンスを塗り込む。
髪が長いので時間がかかるが、これを無心でやると、意外と落ち着くのだ。急いで適当に洗ってしまうと、後で気になって仕方ない。
髪は女の命と、昔の人は言ったらしい。実際、中世では女性の髪の毛が売り物になったというのだ。それほど価値のあるものなのだ。
念入りに洗うから、価値があるのかもしれない。大事にするから、命と言うのかもしれない。
優希はたまに、こういう変なことを考えながら洗髪することがあった。
髪を念入りに洗い終えると、クルクルと巻き上げ、頭の上に盛り付けた。部屋から持ち出した櫛を刺して固定する。
そして、今度は身体を念入りに洗う。
優希はまだ必要性があまり理解できていないのだが、共同宿舎の諸先輩たちが口を酸っぱくして言うので、顔は、ボディーソープではなく、洗顔クリームを使った。
ボディーソープを使って、うなじからつま先までしっかりと洗った。
全て洗い流すと、気持ちもさっぱりする。
湯船につかる。
身体が浮き上がる。浮遊感に身をゆだね、目をつむっていると、ゆりかごで揺られているように心地よかった。
身体の疲労まで浮き上がり、取れていくようだ。
優希はたっぷりと時間をかけて、湯船につかった。
大勢の人が入れ替わり、立ち替わり、湯船につかり、上がっていく。中には優希のように長風呂の人もいた。
白い肌を赤く染め、かき上げたうなじの辺りをタオルで拭いている。
同性でも、色っぽく見えてしまう。
優希にあんな仕草が、自然にできるのだろうか。無理のように思えた。大人の女性の魅力は、どうやったら身につくのだろうか。こればかりは、人に聞けることではない。
「きれいだ」
ふと、駿が呟いた言葉を思い出した。あの言葉を聞いたのは、もう何ヶ月も前だ。
大人の女性の色気が身に着けば、今度は違う言葉をかけてもらえるのだろうか。
またバカなことを考えている。優希は自分を叱責すると、浴室から出た。
鏡の前で身体を拭き、しなを作ってみても、どうもピンとこない。
近くを通りかかった女性がクスクス笑っていた。
優希は慌てて鏡の前に座った。恥ずかしくて顔が真っ赤だ。
身体を拭き、髪を念入りに拭く。そして、ドライヤーで丁寧に乾かす。これがまた時間を要する。この間に身体が冷えないよう、タオルで簀巻き状態にしていた。
簀巻き状態で歩いていた人のことを笑えないかもしれない。
丁寧に乾かし、冷風で髪の毛を整える。これを怠ると、あっという間に毛先が割れてしまう。
真剣にやっていると、雑念も消え、無心に手入れできる。
一連の儀式めいた流れが、気持ちを落ち着けてくれる。だから、お風呂が好きだった。
ただ、部屋に戻ってからも続きが待っている。諸先輩たちが強く、執拗に薦めるので、保湿クリームを顔や手に塗り付けるのだ。なんでも、若いうちからやっていた方がいい、らしい。
でも、その努力も、嫌いではなかった。
5
渡辺は駿の話にいちいち合いの手を入れ、グラスの液体を喉に注ぎ込んだ。
ただでさえ赤黒い顔が、より赤みを増していた。
源次郎が登場すると、喝采まで上げる始末だ。
外で何か音がしたように聞こえ、駿は振り向いた。
渡辺が話を催促をする。
音も気になるのだが、仕方なく続けた。
すると、音が次第に近づいてきた。
ドスドスと鳴り響き、恰幅のいい女性が現れた。女性は目を見開いて、部屋の状態をじっくりと見渡した。
「ばか亭主!真昼間から酒かっくらってんじゃねぇ!」
駿が思わず飛び跳ねてしまうほど、大きな声だった。
女性は渡辺の奥さんのようだ。亭主よりも横幅がある。その重そうな身体を左右に揺すりながら歩くと、亭主の手からグラスをもぎ取った。
「ばかやろう!何しやがんでぇ!」
「だまらっしゃい!このグウタラ亭主が!」
「源親方の話を聞いてたんでぃ!祝い酒さね!飲ましやがれ!」
「いいだろう。こいつでも飲んでしゃきっとしな!」
奥さんはグラスの中身を流しに捨てると、水道の水を注いで亭主の前に置いた。
「ごめんなさいね」
奥さんが駿に向き直ると、急に声色まで変わった。
「あらあら。ちゃんとしたものも出さないで。今からすぐにごはん用意しますからね」
「あ、いえ、色々頂きました」
「あらホント。冷蔵庫の中身がきれいさっぱり」
奥さんは冷蔵庫を開けて眺めると、大笑いした。
「じゃあ、おばちゃんが腕によりをかけて、晩ご飯はご馳走にするわよ」
冷蔵庫をバタリと占めると、奥さんが駿に近づいてきた。
「におうわね。ささ、お風呂に入りなさいな。洗濯機は使える?使い方を教えてあげる」
そう言って問答無用で立たせ、洗面所まで押しやられた。
「はいタオルはここね。蛇口捻ったらお湯が出ますからね。湯船にお湯ためて、ゆっくりと浸かりなさい。いいわね」
奥さんは矢継ぎ早に言った。
駿はどうしていいか分からず、戸惑った。
洗面台に歯ブラシや歯磨き粉が並んでいる。ドライヤーもあった。
横に洗濯機があり、前のかごに洗濯物が無造作に突っ込まれていた。
「それは気にしなくていいから、今着ているものを入れて、ここ、スイッチね。洗剤はここに入っているから、うん、入れなくて大丈夫ね。閉めたら、これを押せばいいから」
「あ、はい。使ってたのとほとんど同じなので、大丈夫です」
「そう?よかったわ。使ったタオルはかごへ入れておきなさい。浴室はそこね」
奥さんが奥を指差した。すりガラスの奥が浴室のようだ。
「ゆっくり浸かるのよ?いいわね?」
奥さんは念を押すと、洗面所を出て扉を閉めた。
駿はしばらく呆然と、閉まった扉を見つめていた。
ふと我に返り、袖口をにおってみたが、特に臭いとは思わなかった。それでも洗濯機があるので、言われた通り洗うことにした。
シャツを脱いで放り込み、ズボンを脱いだところで、扉が開いた。
「歯ブラシはこれを使いなさいな」
奥さんがズカズカと入り込んできて、洗面台の上に新しい歯ブラシを置いた。そして、ズボンで身体を隠し、固まっている駿を一瞥した。
「最近の子は細いわねぇ。ちゃんと食べてる?もっとちゃんと食べないと」
ぶつくさ言いながら扉を閉めていた。
駿は固まったまま、しばらく扉を見つめていた。人に見られた恥ずかしさが、空しく宙を泳いでいる。
駿は嵐がまた来ないか心配になった。廊下の足音を気にしてみても、音はない。
恐る恐るズボンを洗濯機に放り込み、また廊下の様子に耳を澄ませた。音がしないことを確認して、パンツを脱ぎ、洗濯機へ放り込んだ。
洗濯機の電源を入れた。
パネルに、洗濯物のスキャニング中を示すマークが出た。数秒待つと、異物発見と警告が表示された。
駿は首をひねりながら服を取り出してみる。ズボンのポケットに、カード端末が入ったままだった。
洗濯物を入れなおして扉を閉めると、パネルに、「素材確認。最速洗い、および、速乾モードの使用可能」と表示された。その最速洗いと速乾モードを選択してスタートボタンを押す。
洗濯機に水が注がれ始めた。
洗濯機の音で廊下の様子をうかがえない。またいきなり入ってこられても困る。
駿は急いで浴室に入り、すりガラスを閉めた。
浴室は狭かった。
今まで駿は共同浴場しか利用したことがない。共同浴場は大勢の人が同時に入るように、大きく作ってある。
共同浴場と比べると、何分の一だろうか。腕を振ると壁に当たりそうだ。
その壁に緑色のシミがある。天井はより濃い緑があちらこちらに見えた。クモの巣まである。
足元のタイルや浴槽は綺麗に見えた。
ただ、共同浴場は明るい色だったのに対し、ここのタイルは黒系の色も混ざっているので、共同浴場に比べると暗く見えた。
浴槽も狭い。一人で入っても、身体が伸ばせそうになかった。
入り口付近で躊躇していても始まらない。
木製の椅子に座り、蛇口のレバーを押し上げた。
「冷たっ!」
思わず悲鳴を上げて、シャワーの下から逃れた。
少し待つと、お湯に変わっていた。
駿の風呂は早い。洗剤を付けたボディタオルで身体をこすり、頭髪をシャンプーで洗う。ものの数分で終わりだ。
普段ならこれで風呂から出ることも多い。しかし、今出ると、廊下でばったりと奥さんに出会うのではないか。
「早いわね?ちゃんと洗ったの?風呂桶に浸かってないでしょ?ほら、もっとゆっくりとしてきなさい」
そう言って押し戻されるに違いない。
耳を澄ませてみると、洗濯機の音が聞こえた。着るものがない。奥さんに押し戻されようが戻されまいが、まだ出ることができないのだ。
浴槽に湯を注いだ。そしてさっさと中に入る。
浴槽が狭く、足を曲げた。すると筋肉痛であちこちが痛む。痛むので触る。触ると痛いのだが、気になってさらに触ってしまう。
「いたたた」
口に出して痛がりながらも、ついつい触ってしまう。
湯がお尻と足首を温めた。
他の大部分はまだ温まっていない。
駿は一瞬悩んだものの、もういいだろうと考えた。
立ち上がると、それを見越したかのように、洗面所へ誰かが入ってきた。
「使い方は分かった?」
奥さんだ。
「お湯はちゃんと出た?」
「あ、はい」
駿はすりガラスの向こうの黒い影に向かって短く答えると、湯船の中に隠れた。
すりガラスがあるとはいえ、向こうから見えているように思え、恥ずかしかった。
そもそも、出ようとしていたのを見透かされたようなタイミングだったので、恥ずかしくなくても隠れた。
「そう?ゆっくり温まるのよ」
奥さんはそう言うと、洗面所から出て行った。
駿はしばらく耳を澄ませていた。足音が遠ざかるのを確認し、大きなため息とともに背中を底の方へ滑らせて行き、足を曲げて寝そべった。
寝そべってもお湯はまだ脇腹までしか届いていない。
それにしても、やっぱり見張っていた。
身体を洗ってすぐに上がらなくてよかったと、ホッとしていた。
しばらく横になっていると、お湯が身体を登ってきて、お腹をちょろちょろと温めた。
起き上がって耳を澄ませると、洗濯機の音が変わっていた。乾燥が始まっている。
もう少しだ。
もう一度寝そべる。
お湯が胸を超えた。
湯船の壁に、首を曲げて頭を預けている。そのあごに、湯が上ってきた。
次第に口元を超える。
駿はブクブク言いながら、もう上がっていいかな。まだかな。と思案を巡らせていた。
洗濯機が止まり、終了のチャイムが鳴った。
上がっていい合図だ。
湯を止めて立ち上がった。
素早く立ち上がり過ぎて、駿のふくらはぎが悲鳴を上げた。筋肉痛だ。
痛みに顔をゆがめながらも、かまわずに湯船を出た。
いったん立ち止まり、外の様子を音で探る。特に何も聞こえないので、ガラス戸を開けてタオルをとった。そしてまたすぐ閉める。
浴室内で身体を拭いた。拭き終わると、再び音で様子を探り、そっとガラス戸をあけて出た。
奥さんがまた入ってこないうちに着替えなければならない。
駿は急いで洗濯機を開けて中身を出した。絡まっているものを振り回してほどいた。落ちたものの中からパンツを取り上げてはき、手に残っていたズボンをはいた。シャツを頭からかぶって、ひと心地である。
ふと歯ブラシが目に留まった。
歯を磨き、やっと洗面所を脱出した。
6
風呂から出たところを、奥さんではなく、亭主が待ち構えていた。声は出さず、唇だけを動かし、手招きを加えて、こっちへ来いという。
呼んでいる先は、駿が寝ていた部屋だ。
渡辺は、駿が部屋に入ると廊下を確認して、扉を閉めた。
「まあなんだ」
渡辺は何か口実を探していた。戸棚からボトルとグラスを出して、琥珀色の液体をグラスに注いでいる。
酒を飲む言い訳を探しているのだろう。駿はダシに過ぎない。
彼は思いつく前に、その琥珀色の液体をチビリと飲んだ。駿が寝ていたソファーに座り、テーブルにボトルを置いた。
渡辺は手で座るように促した。口は液体を飲むのに忙しい。
「それで、これから行く当てでもあるのか?」
渡辺がグラスから口を離すのも惜しそうに、グラスを見つめたまま言った。
「いえ、特には」
駿はそう答えた後、大上が軽井沢に行けと言っていたことを思い出した。そこに何があるというのだろうか。軽井沢のどこに行けばいいのかも分からない。
「軽井沢って、近いですか?」
「軽井沢?そこへ行きたいのか?」
「いえ、ちょっと最近聞いた地名なので」
駿はとっさにごまかしていた。まだ軽井沢に行くと決めたわけではない。ただ、行く当てもないので、参考までに、聞いておきたかった。
「軽井沢か…」
渡辺は呟きながらグラスに口をつけ、液体をチビリとやった。
「車で約二時間だな。電車は、まず街に出て新幹線に乗り換えなきゃならん。三時間ほどじゃないか?」
渡辺は言葉に詰まる度に、酒を飲んだ。酒を飲むと考えがまとまるらしい。
「旅費はあるのか?」
「あ、はい、たぶん」
大上が持たせてくれたカード型端末に、いくらか入れてあると言っていた。こういう時のために用意してくれたのだ。
突然、扉が勢いよく開いた。
「この極つぶし!」
奥さんが大声で喚き散らしながら、ドスドスと入ってくる。
あっけにとられている駿をしり目に、奥さんは亭主の手からグラスを取り上げると、耳を引っ張って亭主を引きずっていった。
廊下の向こうから発せられる大声で、家中が震えていた。
明るいうちから大酒飲むな、ということらしい。
しばらくすると奥さんが戻ってきた。手にはきれいなグラスがある。
グラスと、テーブルの上のボトルを戸棚にしまうと、何事もなかったかのように立ち去った。
奥さんは、亭主に酒を飲ませたくないわけではない。飲ませたくないのなら、ボトルの中身を捨ててしまえばいい。それをせず、奇麗なグラスを用意するところを見ると、飲むこと自体は反対していないのだ。
駿はどうしていいか分からず、ソファーの上で身体をこわばらせ、部屋の外の様子をうかがっていた。
もう渡辺が戻ってくることも、奥さんが部屋を確認に来ることもなかった。
駿は窓辺に座ると、小型ノート型PCのモニターを開いた。
渡辺に聞いてみても、軽井沢に行きたいとは思えなかった。かといって、行きたいところがあるわけでもない。
そこで、ネットで色々調べてみることにした。その結果で行き先を決めればいい。
地図を開いて、軽井沢を確認する。
特に気になるものはなかった。
温泉やペンションやゴルフ場に興味はない。
別の場所を検索してみようとして、手が止まった。
候補は一つある。
駿が昔暮らしていたところだ。しかし、地名や住所を思い出せない。
中学へ進学すると同時に地下都市、北東京へ入居した。以来五年半ほど、都市で暮らしてきた。なに不自由なく暮らしているうちに、昔のことはどんどん忘れ去っていたようだ。
小学生のころ、地名や地域のことに興味がなかった。だから記憶にも残らなかったに違いない。
あてどなく旅をする。
まず、お金がない。次に、旅慣れていない駿には、行き先が決まっていない旅行など考えられなかった。
では、行き先が決まるまで、ここで厄介になる。おそらく、渡辺夫婦は泊めてくれるだろう。特に亭主の方は源次郎にゆかりがあるようなので、援助に関して、当てにできそうだ。
とはいえ、赤の他人の家に何時までも居座るわけにはいかない。できるだけ早く、出て行った方がいい。助けてくれた渡辺夫婦の負担になるわけにはいかないのだ。
それに、駿も気が引ける。渡辺夫婦の機嫌をうかがいながら過ごすのは、避けた方がよさそうだ。
やはり明日には出て行った方がいい。
駿は地図を眺めまわして真剣に悩んだ。
大上は軽井沢へ行けと言った。資金もカード端末も用意してくれている。だが、素直に従っていいものだろうか。
大上はVSG仲間ではあるが、それほど親しい間柄でもない。盲目的に甘えていいとは思えなかった。源次郎とは違うのだ。
大上の用意してくれた端末も資金もありがたいが、それを使うとなると、気が引けた。
そして、大上は警察の人間だ。何か裏がありそうにも思えた。端末やお金を使うと、見えない手でがんじがらめにされるのではないか。
大上の意図が分からない間は、使わない方がいいと思えた。目的地もそうだ。何かの目的があって、軽井沢と言ったのだろう。その目的が分からない間は、むやみに近づかない方がいい。
駿の気持ちは従わない方向に傾いていた。
すると、逆方向。
千葉県、あるいは東京都。
温暖化の影響で海面が上昇し、都心部の大半が海に沈んだ。
沈んだ都市はどうなっているのだろうか。
海の底に道路が見え、廃墟となったビル群が立ち並ぶ様子を思い描いた。何かの映画に出てきそうな、荒廃した都市だ。
俄然、見たくなった。
旧東京は地球規模の気象変化の証拠を、この目で見ることができる貴重な現場だ。後学のためにも見に行くことに価値がある。
それに、映画のワンシーンに登場した気分になるかもしれない。好みのカンフー映画とは違うものの、日常と異なる世界へ踏み込めるとしたら、心躍ること間違いなしだ。
物見遊山気分が上昇すると、止まらなくなった。
埼玉県川口市の先は立ち入り禁止区域になっている。西川口駅まではいけそうなので、そこを目指す。
熊谷駅まで出て、新幹線を使って大宮で乗り換えるパターンと、電車で浦和の乗り換えの二パターンのようだ。もう一つ西武秩父線から行く方法もあるようだ。
金額的には三つ目が一番安く、時間がかかる。
新幹線はやめておこう。
すると、熊谷へ出るか、西武秩父線で行くか。前者は乗り換え二回。後者は三回だ。
料金と景観は後者がよさそうだ。前者は町中を移動するので、何か欲しくなった時は便利に違いない。
せっかくなので、景色を楽しもう。
目的地、経路が決まった。
大上が渡してくれたカード端末の残高を確認した。意外とあり、これなら新幹線も問題ない。が、これは使わない方がいい。
自分の残高を確認し、目を疑った。
残高がいつの間にか、桁が一つ増えていた。行方不明の父親が入金してくれたのだ。
いつもの入金時期ではない。金額もかなり多い。
履歴を確認すると、今日の入金になっていた。
偶然なのだろうか。それとも、父親は何らかの手段で駿の境遇を知り、軍資金を用意したのだろうか。あまりにタイミングのいい、高額の入金である。後者のように思えた。
このノート型PCに何か仕込んでおり、それで駿をそれとなく見張っているのかもしれない。そうだとすれば、ありがたいことなのだが。
「父さん…。気付いているのなら、出てきてよ…」
駿の胸をその思いが締め付けた。普段は独りでいることに慣れていても、いざとなると、恋しくなる。
今はサクチャイも、優希も、源次郎もいないのだ。なおさら人恋しくなる。
お金はとてもありがたいのだが、やはり、迎えに来て欲しかった。
窓から吹き込む、湿気を帯びた風が、駿の頬を濡らした。
7
翌朝、駿は渡辺家を出発した。
世話になったことに対して、駿は礼を述べることしかできなかった。
「困ったらまたおいで」
申し訳なさそうにしている駿に対して、奥さんは優しい笑顔で言った。大きな身体で駿を抱擁すると、気を付けてねと送り出した。
「山科組の作業着。大事にしろよ」
渡辺はそう言って駿の肩を軽く叩いた。
二人は駿が角を曲がって見えなくなるまで見送っていた。
駿は二人の姿が見えなくなると少し寂しい思いをした。だからといって引き返すこともできない。夫婦に教わった道順を歩いて駅に向かった。
外は寒かった。源次郎のくれた長袖の作業着を上に羽織って、前をぴったり合わせていても、少し肌寒い。
地下都市だと、年中半袖のシャツで過ごせる。都市の保護がなくなると、気候に合わせた服装が必要だ。
動く歩道がないことにも閉口ものだ。
空が映像ではなく、本物だということは、いくばくか心を軽くしてくれた。青い空に白く薄い雲がかかり、駿と同じ方向へ流れていた。
正面を向いても大きな柱が視界をふさぐことがない。周りを見渡しても、どこにもそのような柱はなかった。
遠くに山が見える。外壁ではないのは新鮮だった。
遠くまで続く道。遠い空。
駿は今、地上世界を歩いているのだ。地下都市とはまるで別世界だ。自然と気分が高揚して、見るものすべてに興味を示した。
建物も地下都市とまるで違う。触るとざらざらしている。地下都市は、つるつるしたものが多かった。ここは二階建て程度のものが多く、塀を仕切って建ち並んでいた。
色も鮮やかだ。くすんだ色から、植物の緑や、変わった色の建物まであり、駿の目を楽しませてくれた。
足元に溝があることにも驚いた。その溝を少量の水が流れている。
コンクリート製の柱がたくさん立ち並び、黒い線が柱同士につながって、延々と続いている。地下都市にはこんな邪魔なものはなかった。
看板がたくさんある。しかも表示された内容に変化がない。地下都市ならそういうものは全てモニターで、大抵のものなら表示できるのに、地上のものはいつまで見ていても変化がなかった。
耳元でブンブンと鳴った。
思わず顔を背け、手を振った。その手に何かが触れたように感じる。
見上げると、黒い何かが飛び去っていた。
よく見ると、植木の傍や側溝の上辺りに、黒い小さなものが飛んでいた。
地下都市では見かけなかったもので、駿は鳥肌が立つ思いでしばらく見つめていた。
それが虫だと理解するのにしばらく時間を要した。
通りかかった住人は、駿をいぶかしんで横目に見ながら、虫の中を通り過ぎていった。
駿もいつまでもそこで虫の大群に恐れをなし、立ち止まっているわけにはいかなかった。
駿は目をつむって駆け抜けた。
目を開けると、虫がついてきていた。慌てて逃げだした。すると前方にもまた別の虫の集団がある。
虫を避けて通ることはできないと悟った。
顔の前で手を振って、近づかれないようにして通ると、虫は何もしてこなかった。ただ鬱陶しく飛び回っているだけだった。
歩いていると身体が温まった。服の前を開けて歩いた。
空き地に差し掛かる。小学生くらいの男の子数人が何かを取り囲んでワイワイ騒ぎ立てていた。
立ち止まって観察する。
子供たちの中心に小さな人形がいた。いや、ロボットだろう。全長二十センチほどだろうか。ロボットが二体向き合い、格闘していた。
子供たちの中で二人、頭に銀色の輪をつけていた。輪の後頭部側に何か機械が付いているようだ。
パンチだ!ジャンプだ!キックだ!などと口々に騒ぎ立てている。
輪を付けた子供がパンチだと叫ぶと、ロボットの一体がパンチを繰り出していた。相手のロボットに当たり、撃たれたロボットの腕が落ちた。
ひときわ大きな歓声が上がる。
駿の見たことのないおもちゃだ。興味を惹かれるものの、高校生にもなって、小学生くらいの子供たちに混ざるのもどうかと、気が引けた。
それに、今は駅を目指していたのだ。駿は目的を思い出し、遠くに見える駅らしい建物へ急いだ。
駿は昨日考えていた経路を、土壇場で変更していた。
お金はたくさんあるのだ。贅沢してやろう。新幹線に初挑戦だ。その意気込みで電車に乗り込み、まずは熊谷を目指す。
切符売り場でノート型PCを接続し、乗車券を購入した。モニターに映し出された切符を改札のセンサーにかざして構内に入った。
乗り込んだ電車は単線だった。駿はその意味も分からず、初体験の電車にうきうきと乗っていた。
電車自体は昔乗ったようにも思うが、記憶になかった。だから、これが初体験と考えて問題ないだろう。
電車は川に近づいたり離れたりしながら進んでいった。その景色を楽しげに見つめていたが、ものの数分で興味が薄れてしまった。
絶えず揺れ続ける乗り物が不快になっていた。
地下都市の乗り物は揺れなど皆無だ。
景色が飛ぶように過ぎ去っていく様も、初めは物珍しかった。
電車が減速し、止まり、加速する。数度繰り返す間に、景色が流れる様にも飽きていた。
駿はリュックを抱きしめ、そこに頭を乗せるようにして眠った。
どれほど眠ったのだろうか。
目覚ましが鳴るよりも前に目覚めた。
顔を上げ、窓の外を見ると、景色が様変わりしていた。
川がなくなっている。緑も極端に減った。代わりに建物が増えていた。似たような形をした、二階建ての家が規則正しく並んでいた。
遠くに見えていた山が見当たらない。
時々、五階建てのマンションが視界を遮った。
電車の向かう先に高架橋が見えた。電車は高架の下へ滑り込む。車体が傾き、金属の摩擦音を響かせた。
いつの間にか隣に線路があった。
轟音とともに、別の電車と行き違った。
あまりの音に駿は驚き、振動で窓が割れないのかと焦った。
右手の窓に高架の橋げたが次々と通り過ぎていた。
線路の数が増えていく。
電車の上を道路が渡っていた。
アナウンスで熊谷の名前が出ると、車窓の建物は間隔を狭め、背の高い建物が増えていった。
電車は並走する線路から離れ、効果の下へ再び入り込んで、駅に停車した。
左手の窓には背の高い建物が見えていたのに、駅から見える右手の景色には、背の高い建物がない。あまりに殺風景だった。
電車はここが終点だ。いつの間にか乗客が増えており、次々とホームへ下りて行った。
駿は人の波が落ち着くのを待って下車した。人々の背を追って階段を上がり、改札を出た。
案内看板を頼りに移動し、JRの切符売り場で乗車券と特急券を購入した。
新幹線口の改札をくぐると、いやがうえにも駿の鼓動は早くなった。新幹線は正真正銘、初体験である。
大宮・東京方面のプラットへ上がるエスカレーターの上で、気分も上昇していった。
アナウンスが新幹線の到着を知らせると、居ても立っても居られなくなり、そわそわと新幹線の姿がまだか、まだかと待ちわびた。
新幹線は思いのほか、静かに、どっしりと構えてやってきた。電車のように揺れていない。滑るように進んでいた。
顔の正面から青い筋が額へ登っていた。目が鋭く、どこか、ネズミかリスのようだ。
白い車体を金色の帯が、前から後ろへと貫いていた。帯の上に窓が並んでいる。帯の下には青色と淡い赤色の線が添えられていた。
駿の目には輝く車体に映った。
この新幹線はどのような乗り心地なのだろうか。期待が増して、扉が開くのを待ちわびた。
重々しく扉が開く。
気持ちは急いているのだが、人の列に大人しく並んで乗り込んだ。
密封された車内は独特のにおいだった。電車よりも清潔に見える。
グレーの座席に、赤地に幾何学模様を施した背もたれ。駿は空いている席を見つけ、柔らかい座席に腰を下ろした。
これなら長時間でも座ることができる。が、ものの十数分で大宮に到着することになる。
音が静かだ。振動もあまりない。
窓の外は、高架の上を走っているので、遠くまで見渡せた。
町から林へ。またぽつぽつと家が並ぶ。
アナウンスが流れると、減速を始めていた。
短すぎた。あまりに短すぎた。
堪能する前に終わってしまった。
駿は次に新幹線に乗るのなら、もっと距離のある区間を利用しようと決心した。
ホームに下り立ち、心残りに新幹線を見送った。
8
西川口駅の西口から出たところで、カード型端末から着信音が鳴った。
ポケットから出してみると、メッセージが届いていた。カードを一振りするとそのメッセージが空中に飛びだした。
行きかう人々が物珍しそうに、駿のカード型端末を見つめていた。
駿は近くの壁際に移動した。空中のメッセージもカードを追いかけてきた。
「無事か?あまり時間がない。急げ」
どうやら、大上からのメールのようだ。
何の時間がないのかよく分からない。駿はカードを振ってメッセージを消すと、ポケットに押し込んだ。
誰かに見られているように感じて、顔を上げた。
右手のコンビニの前で、二人組の若い男が駿を見ていた。若いと言っても、駿よりは年上に見える。二人とも黒い服装で、ところどころ素肌が見えていた。
二人が近づいてくる。
駅を利用するのではないか。駿はそう思いながらも、一抹の不安を抱き、反対方向へ歩き出した。
どこをどう歩いたのか、車止めのポールが立ち並び、その向こうに金網で道をふさいだ場所に出た。
振り向いても誰もいない。先ほどの不安は駿の思い過ごしだったのだ。
金網に張り紙がある。駿は近づいて読んだ。
注意書きだった。この先が浸水しているため、立ち入り禁止といった内容だ。
右方向へ進んでいくと川土手に出た。金網はここまでつながっている。川に身を乗り出せば、金網を超えられそうだ。
川の水位は高かった。足を出せば水面に触れそうだ。
地図で確認していた限りでは、川は左手方向、金網の向こうへ向かって流れるはずである。しかし、水が流れているように見えない。
川の深さは分からない。川に落ちるかもしれない危険を冒してまで、金網を超えるべきだろうか。
金網を超えれば、その先に荒川という大きな川に出る。そこまで行けば、沈んだ町が見られるのではないか。
水に対する恐怖心と、同じく水に対する好奇心がせめぎ合っていた。
「手を貸してやろうか?」
急に声がかかり、駿は慌てて振り向いた。
黒いタンクトップの上に黒いシャツをひっかけた若者がいた。もう一人は黒いシャツで、そこから覗いている腕にタトゥーが見えた。
先ほど駅前で駿を見ていた二人組だ。
タトゥーの男は側頭部を刈り上げている。もう一人は目にかかるほどの前髪をかき上げていた。
「お前、沈んだ町を見に来たんだろ?最近多いんだ」
タンクトップの男が優しく言った。
タトゥーの男は意味深にほほ笑んでいるだけだ。
「お前みたいな観光客が増えててね」
話をするのはタンクトップの男だけだ。
「俺ら?町の発展に貢献でもしようかと、よ」
そう言って、こっちへついて来いよと言った。絶景ポイントへ案内してくれると言う。
見た目は怖そうだけど、案外いい人たちなのかもしれない。駅で駿を見かけ、旅行客だと目星をつけて、親切に案内を買って出てくれたのだ。
駿は海に沈んだ町を見たかった。それを見せてくれると言うのなら、願ってもない申し出だった。
駿は後を追った。
東へ戻っていく。駿が最初に金網に阻まれた場所へ戻り、さらに東へ向かった。
道路が脇道と、下へと分かれた。下は金網が張られ、侵入できなくなっている。
脇道へ入り、上からその下の道を覗くと、浸水していた。
脇道を進むと線路に行き当たった。線路沿いに南東へ向かう。その先も金網で道を遮られている。
金網の向こうで、何かが動いていた。
水だ。
道路の上や線路の上を水が流れていた。線路のおかげで見通しがいい。水が線路に登ろうともがいているようだった。
ただ、駿が思い描いた図とはかけ離れていた。
水中に見える道路。水の中から立ち上るビル群。そういうものを思い描いていただけに、線路を侵食する水程度では、物足りなかった。
「不満そうだな。お前」
タンクトップの男がニヤニヤと言った。
「ちっと金がかかるが、もっといい場所があるぜ?」
「どこ?」
駿は思わず聞いていた。
「通行止めの首都高に侵入するのさ。適当なところへ車止めて下を覗いてみな」
「車がないよ」
「車はこの兄さんが出してくれる」
タトゥーの男を指差した。
車で行けば、駿の思い描いたとおりの景色が見られるのではないか。
「一体いくらで?」
「そうさな。お前のポケットに入っている端末でいいぜ」
駿は理解できず、聞き返した。
タンクトップの男は答えず、近づいてきた。
駿は思わず後退る。すると何かにぶつかった。いつの間にか、タトゥーの男が駿の背後に回っていた。
「方法を聞いちまったんだ。もらうものはもらうぜ」
タンクトップの男は意味深にほほ笑みながら言うと、駿のポケットから勝手にカード型端末をとった。
「ダメ!」
「おいおい、違法な絶景ポイントへ行こうってんだぜ?これくらいの代償は覚悟しなくっちゃな」
「行かない。行かないから返して」
「連れないことを言うなよ」
タンクトップの男は悲しそうにそう言うと、端末を自分のポケットに押し込んだ。
「返して!」
「人聞きの悪いことを。俺らは何にも取ってないぜ?ほら」
タンクトップの男は先ほどと逆のポケットを広げてみせた。そしてゲラゲラと笑い転げた。そもそも返すつもりがないのだ。
「反対のポケットに入れたじゃないか!」
駿はそれでも言わずにいられなかった。
男が急に笑いを治めると、駿を鋭く睨みつけた。
「俺らに難癖付けるのなら、覚悟はできているんだろうな」
凄みを利かせた声で駿に迫った。
駿は後ろから小突かれて、前のめりに転びかけた。横から男の拳が迫る。
フェイフォンなら軽々と避けるか、受け止められただろう。駿は拳に気付いていても、身体が反応してくれなかった。
殴り飛ばされて、横に転がった。
背中のリュックをとられた。
「おいおい!食い物ばかりじゃないか。なんだこの旅行は」
男たちが笑い転げた。
リュックの中身を辺りにぶちまけた。
渡辺の奥さんが作ってくれたおむすびを、男たちが踏みつけた。
空になったリュックを投げ捨てると、再び駿に迫った。
タトゥーの男が駿を蹴りつけた。フェイフォンなら受け止められる。だが、駿の運動神経では反応できず、ただ、身体をこわばらせていただけだった。
「おい、こいつ、年代物のPC持ってるぜ」
タンクトップの男が駿のノート型PCを取り上げた。
「ダメ!返して!」
駿は痛みに耐えながら、必死に立ち上がり、男の手に飛びつこうとした。横からタトゥーの男の拳が駿を襲い、再びアスファルトの上に転がった。
それでも駿が立ち上がろうとすると、必死だぜこいつ、と男たちがせせら笑った。
「壊しちまえ!」
タトゥーの男が叫ぶと、相棒も答えるように、PCを持った手を振り上げた。
駿の叫びが空しく響いた。
父さんのPCが壊される。駿は半ば覚悟して、それでも何とかしようと一歩踏み出した。
男の手は振り下ろされなかった。
どこから現れたのか、体格のいい別の男が現れ、かかげられた男の手をつかんでいた。
三人目の男は上下揃いの動きやすそうな服を着ていた。頭にタオルを巻きつけている。
「人のものを粗末にするな」
三人目が静かに言い放ち、空中で固定されている男の手から駿のPCをもぎ取った。
「ほら」
駿に向かって差し出す。
「ありがとう」
駿は飛びつくように受け取った。
「てめぇ!なにしやがんだ!」
タトゥーの男が躍りかかろうとしたが、三人目の男のひと睨みで止まった。
タンクトップの男はわめきながら自分の手を取り戻そうと暴れたが、掴まれた手をほどくことができずにいた。
三人目はVSGのオーガのように、圧倒する存在感でその場を支配していた。格闘家と素人の差を、存在感だけで示しているようだ。
三人目がつかんでいた手を離した。すかさず、タンクトップの男が殴りかかろうとした。だが、タトゥーの男が割り込んで押さえた。
「止めるな!」
「馬鹿!こいつは暴君山科だ!」
タンクトップの男の表情が見る間に変わり、二人して逃げ出していた。
捨て台詞も何もない。ただ、一目散に逃げ去っていた。
三人目が空になったリュックを拾い上げ、駿に差し出した。
男の目に見覚えがあるように思えた。見たことのない人だ。だが、その目は、どこかで見たように思えて仕方ない。
「大丈夫か?」
駿は改めて礼を述べた。空のリュックを受け取る。中身は道路に散乱し、踏み荒らされていた。
「他に被害は?」
男は足元を眺めまわしながら言った。
「端末をとられた…」
「そいつはすまねぇ」
手を離したばかりに、相手は逃げ去っていた。男の責任ではないが、逃がしたことを詫びていた。
「けがはないか?」
男の言葉に、駿はあちこち触って確認して、大丈夫と答えた。
「ちょっと背を見せてくれ」
男はそう言うが早いか、駿の肩を持って背を向けさせた。
「こいつぁ…ひいじいちゃんの…」
肩越しに男の顔を覗き込むと、どこか懐かしそうな表情だ。
「源次郎さんを知っているの?」
駿はあえて名前を出して尋ねた。
「お前こそ…隔離都市からの追放…いや、あのじいさんのことだ。脱走者か」
駿はどう答えていいか分からず、躊躇いながら頷いた。
「また酔狂なことを。そんなことにかかわるってこたぁ、元気なんだろうよ」
「はい、元気ですよ。あの、あなたは…?」
「俺はあれのひ孫だ」
山科源次郎の、本当のひ孫に、偶然にも出会ったのだ。そして助けてくれた。その巡り合わせに驚いた。
駿は自分の着ている服をまじまじと見つめた。山科源次郎の姿が見えるようだ。
山科源次郎が、離れていても、駿を守ってくれているのだ。手を引き、導いてくれている。
「その服、大事にしろよ」
男はいつの間にか、歩き去ろうとしていた。背を向けて手を振っていた。
「あの!ありがとうございました!」
源次郎とは比べ物にならない大きな背中に向かって、力いっぱい礼を述べた。
「変な奴について行くなよ」
源次郎のひ孫はたくましい背中でそう答えると、角を曲がって見えなくなった。




