まわる勘違い
今も……
「オリバー様っ!?」
表情は変わらないように見えるが、なんとなく嬉しそうにしているなと思っていたら、頬に手が添えられた。
これはキスの体勢だ。
それは無理だ。
「なんだ」
「手をお放しください」
言いながら、彼の手を掴んでみる。そのアリーチェの手は握りこまれ、今度は逆の手が頬に添えられる。
「何故」
何をさらっと両手を拘束されているのだろう。
しかも、顔の角度も固定だ。
「恥ずかしいからです。オリバー様は、何故顔に触れるのですか」
淑女に断りもなく触れてはならない。
部屋に二人きりになった時点で遅いという意見を受け付ける余地はない。ここにいるのは、あくまで父に売られたからだ。
「可愛いからだ」
真面目な顔をして何を言っているのだろう。
そんなことを、目の前で言われたら……ああもう、ほら。
きゅーっという音が耳の奥で聞こえた気がした。顔が熱い。
オリバーが少しだけ目を見開いてから、はっきりと分かるほどしっかりと微笑んだ。
もしかして、この表情は、普通の人たちにとっての爆笑だろうか。
そこまで真っ赤になってしまったか。今、自分の顔が見られないのが辛い。
「オリバー様、私たちはほぼ初対面です」
自分の顔のことは放って、離してもらう方に力を入れることにした。
「ああ」
また無表情に戻って、オリバーが返事をする。心なしか、返事の声が低い。
「それなのに、お部屋で二人きりになって、さらに触れられるのは、恥ずかしいのです」
「だが、婚約者だ」
「それでもです」
真っ赤になったついでだと、彼の目を正面からしっかりと見つめた。
オリバーはしばらく黙っていたが、ようやく手を離してくれた……が、距離は変わらない。
もう少し離れて欲しくて、みじろぎすると、それを押しとどめるようにオリバーが手を握ってきた。
離している時間が短すぎる。
「アリーチェ、私が嫌いか?王太子妃は嫌なのか?」
「え……」
文句を言おうとしていたところなので、すぐに言葉が出てこなかった。何より、オリバーの悲しそうな顔が目の前に有って、思考が停止する。
「婚約後のことは、すまなかった。すぐに受け入れてくれたから、君も私の事を気に入ってくれたと思い込んでいた。婚約期間など設けずにすぐに結婚したかったから、そちらの手続きの方が忙しくて……君を放置していたことは申し訳ないと思う」
そう言えば、婚約のことは、ライラー伯爵家が言い出したのか、王家なのか確認していなかった。
この言い方だと、オリバーからなのだろうと思う……が、何故だ。
悲しげな顔が、さらに愁いを醸し出して美しい方が、どうしてアリーチェを選んだのか、さっぱり理解できない。
「婚約披露も、すぐに結婚式をするのだから必要ないと、ライラー伯爵が言うので、省略してしまった……伝わっていないとは思わなかった」
そうでしょうね。それさえも聞いていない。
そういえば、婚約披露と結婚式の大切さについて聞かれたことはあるような気がする。
はっきり言ってしまえば、結婚式をすぐにするのに、婚約披露なんてもったいない。領民からの税金を何だと思っているのだというようなことを言ったと記憶している。
……まわりまわって、自分に返ってきた。
「父も母も……何も言ってなかったのだな」
ぽつりと言葉が落ちる。
そうだ。オリバーが良くても、王と王妃が反対しているのではないだろうか。
「結婚相手が決まったとは伝えたのだ。私が結婚後、一年して、陛下は引退を考えている」
「はっ!?」
「だから、私は後、一年半後に即位する」
「へっ!?」
「向こうは向こうで、引退後の生活に想いを馳せていてな」
「ちょっ!?それ、私が聞いてもいい話ですか!?」
なんて機密事項を聞かせるのだ。
まだまだ王は若い。しかし、病気をされて、あまり体は丈夫ではないと聞いている。王太子に跡を譲り、隠居したいというのも理解できる。
しかし!一国の君主が入れ替わるのを、こうも容易く話していてもいいものか。
「構わない。君は、王妃になるのだから」
――そうだった。そんな覚悟、全くできていない。
「母には、引退後もしばらくは補佐をしてくれるように頼んでおく」
オリバーの方は、もう大丈夫ということなのだろう。
なんてこった。重責がこの数時間に降り積もりすぎる。
「私の結婚を喜んでいたよ。父も母も、君のことは気に入っていたし」
初耳です。
両陛下に気に入られる要素が全く見当たらない。
「礼儀作法も立ち居振る舞いも完璧なのに、ふとした時に見せる素の表情が可愛らしいと言っていた。王族も他の貴族にも同じ態度なのも面白いと」
それ、褒められてないような気がする。
王族にはもっとへりくだっていたと思う。自分の中では、当社比イッテンゴ倍ほどへりくだっていたはずなのに。
「それを、君にも伝えているのだと思っていた」
聞いてません。
「私も……君への愛を、ライラー伯爵には何度も語った」
なにをしてくれてんですか。
親に娘への愛を語る?なぜそんなことに。
「それは、君に伝わっていると思っていた」
「そんなわけないでしょう!」
父親から、ほとんど話したことのない婚約者からの愛の言葉を聞かされるって、どんな拷問だ。毛虫を背中に入れられる方が鳥肌が立たないんじゃないだろうか。
伯爵もさぞ困ったことだろう。
そして、彼も、ここで語っていることを、本人に伝えてないとは思っていなかった。
つまり。
両陛下は、アリーチェとのことを祝福するとオリバーへ伝え、オリバーから話が行くと思っていた。
オリバーは、それをライラー伯爵に伝え、さらに愛も語って、アリーチェに聞いてもらえていると思っていた。
ライラー伯爵はもちろん、愛の言葉など、娘に伝えるはずもない。王からの祝福の言葉やオリバーからの言葉を、本人たちから受け取ってないとも思っていない。
結果、アリーチェは誰にも何も言われない期間が続いた。
「他の貴族には……」
あれだけ陰口大会を開く彼女たちに、その話題がないことが不思議だった。
「機密扱いにはしていないが、披露目もしていない婚約を堂々と言いふらすこともしていない」
だから、お嬢様方の口には上らなかったということか。
オリバーは口を引き結んでアリーチェの手を両手で握った。
彼の白い肌が、ピンク色に染まっている。
「アリーチェ。愛している。どうか、私と結婚して欲しい」
――今更、どうしたって引き返せない。
お披露目をしてなくたって、高位貴族には知られていることだし、そもそも準備だって進んでいるのだろう。
結局、結婚はしなければならないのだ。
だから、断るつもりなどなかった。
苦労するだろうけど、まあ、政略的にはおいしいのだから、仕方がないかと考えていた。
なのに。
それが。
こんなふうに。
プロポーズなんてされちゃったら。
オリバーが、アリーチェの目を見て、もう一度笑った。嬉しくてたまらないというふうに。
自分は、どんな顔をしているのだろうか。切実に鏡が見たい。
だけど、その前に、
「――はい」
これが自分の声かと思うほどにか細い返事。震えてしまって情けない。ちょっと涙もにじんでいる気がする。
「嬉しいよ」
そう言って、オリバーは額に小さくキスを落とした。