溝を埋めています
ふわりと優しくソファーに下ろされる。
オリバーの体が離れ、ようやく顔を上げることができた。
白い壁紙に、観葉植物があちこちに置かれた、綺麗な部屋だった。絵画やツボがドーンと置かれた重厚な部屋じゃないことに、ほっと息を吐く。いるだけで緊張を強いられる部屋でないことは救いだ。
ほっと息を吐いたというのに、次の瞬間には、オリバーが隣に座っていた。
目の前には、麗しの貴公子がアリーチェの手を取り腕と腕がくっつくほど近くに座っている。いや、腕どころか頬がくっつきそうな勢いだ。
「あ、あの、殿下……」
「オリバーと呼べ」
命令口調だった。お願いでもない。
ちらりと目を見ると、射るようにアリーチェを見つめている。顔が近すぎて、すぐに視線を自分の手に落とす。
「オリバー様」
「なんだ」
この会話のテンポ、逃がしてくれる気は全くない。
「近すぎます」
「離れると、安堵したような顔をするからな」
しちゃだめですか!?
目を見開いたアリーチェをみて、オリバーは瞳を和らげる。
「以前、母の茶会で話をしたときは、そんなことは言わなかっただろう」
オリバーと初めて話をしたときのことを言っているのだろう。
あの時は、この女性の園に参加している彼が、緊張しているように見えたから。畏れ多くも、自分の傍に居る間くらいは、気の利いた会話などせずに菓子でも楽しんでもらえればと思っていた。
思い返せば、紅茶の香りと菓子の話しかしていない。茶会が終了した後、ソフィアから「食い意地の張った会話しかできなくて可哀想」と言われたことを思い出す。
「こんなに近かったでしょうか?」
「そうだな。近づいても反応が変わらなかった」
何を実験のようなことをしているのだろう。
その時は、紅茶の香りをかがせたり、菓子を取って差し上げたりしたから。理由があって近くにいるのは良かったのだ。食べ物に気を取られていたわけでは決してない。ただ、王妃の茶会で出される菓子が非常においしかったのは、念を押しておこう。
「ここは、二人きりですので、もう少し距離が欲しいです」
「菓子でも出せば、気にならなくなるか?」
人のことをどうとらえているのか。そりゃ、あれば食べるだろうけど。
オリバーが侍女を呼んで茶を持ってくるように伝えていた。
その時、ふとアリーチェを見下ろして、尋ねる。
「先ほど、ライラー伯爵が食べていたのは、アリーチェが持ってきたクッキーか?」
「はい。私が作って持ってまい……」
「そのクッキーも持ってこい」
「かしこまりました」
侍女が丁寧にお辞儀をして退室する。
「わ、私が作ったものを……!?まさか、殿下、召し上がるおつもりですか!?」
王城に上がるために、適当に作って持ってきたものだ。
ナッツで彩るなど全くしていない、シンプルすぎるクッキーだというのに。
「オリバーだ。……ああ。悪いのか?」
呼び方は、こだわりがあるようだ。
それよりも、王族が食べると分かっていたら……いや、それでも彼らに召し上がっていただけるようなものを作り上げる腕は持っていない。
「無理です!口が穢れます!」
「穢れるわけがないだろう。しかも、伯爵が食べていたものであれば、毒の心配もない」
そう言って、侍女を呼ぶために少しできた空間を、また埋めるように近づいて来る。
「あの、近いです」
「お互いの溝を埋めなければな」
物理的にですか?
こうして近づいて来ることによって、さらに深まっているような気がする……と考えて、溝は埋めて浅くするのであって、近づいたからといってなくなるわけではない。
別に、彼は深く考えていったわけではないだろうけれど、その言葉の齟齬が面白くて、アリーチェはくすくすと笑った。
その笑顔を見て、オリバーは不思議そうに(ほとんど表情は変わらないのだが)少し首を傾ける。
そういえば、茶会の時も、オリバーはこんな風に穏やかだった。
猛アピールをする令嬢にも、緊張しすぎて固まる令嬢にも、誰にも同じ態度で接していた。
彼が何も感じてないわけではないだろうけれど、その誰にも同じ態度と言うのが、アリーチェには安心できたのだ。喜びもイラつきも表さず、あるがままで受け入れる。
きっと、オリバーはものすごく心の広い方だ。
そんな風に思って、それを今も感じる。
さっきは……婚約者が結婚を認識していなかったら、それは不快になるだろう。
だが、それ以降、アリーチェが口を滑らせても、彼の態度にも怒った様子は見せなかった。
……その代わり、少しだけ嬉しそうな様子が見られた。