婚約者だ
睨むように見下ろされて、姿勢を正すこともできない。少しでも動けば切り捨てられそうな圧を感じる。
「い、今、お聞きしました……」
アリーチェが言う言葉に伯爵が顔を上げて、ふるふると首を振る。前から知っておいたことにしておいて欲しいということかもしれない。
そんな自分だけが矢面に立つ気はない。
「そのようだな」
そのまま、アリーチェを見たまま黙り込んでしまう。不機嫌をここまで表現した王太子に何を話しかければいいのか。
とりあえず、疑問に思ったことを聞いてみる。
「殿下、何故ここに?」
「自主的に休憩時間を取っていた。ライラー伯爵は私に全く気を遣わずにいるから、居心地がいい」
伯爵の後ろには、多忙の時に使う仮眠用のベッドがある。アリーチェは見たことがないが、オリバーが出てきたのは、そこからだ。
自分の簡易ベッドを、オリバーに貸し出すなんて、何て大胆なことを。
「さぼっていたということですか?」
不敬な言い方ではあるが、この方が自主的な休憩時間を取るなんておどろいて、思ったままを尋ねてしまった。
オリバーはそれについては特に不快に思った様子もなく、頷いた。
「だから、人目につかないために、この中でおとなしくしていただろう」
アリーチェは伯爵に視線を移す。
彼はどうにか仕事をやっているから、こっちと話す気はないよと見せたいようだ。
しかし、それがオリバーに通じるはずがない。
オリバーの視線が、アリーチェから伯爵に移動する。
びくりと伯爵の体が揺れる。
「伝え忘れていたと?」
「えー……婚約自体は、伝えていたはず……ですが、娘の中で、な……なかったことになっていたようです、ね……?」
「ほお?」
オリバーの視線が戻って来る。
アリーチェはオリバーの視線が伯爵に移った途端、ソファーの隅っこに移動していた。ついでに、すぐに逃げられるように、腰を浮かせている。
その様子を見て、非常に珍しいことに、彼は微笑を浮かべた。
だがしかし。この場合はその麗しい笑顔に見惚れる状態ではない。ここで笑われるって、めっちゃ怖い。
「どうやら、私のせいでもあるようだな」
「滅相もございません」
根本は、親子の会話の希薄さが原因だ。余計な話ならばたくさんしているのだが、自分がこうだと思い込んだら、特にそれについて聞く必要性を感じずに、思い込んだままだったというだけだ。
「婚約者の交流を持たなければならないな?」
ひょいと、足元にしゃがまれて、アリーチェは目を見開く。
ソファーの隣に座られるだけでも驚くのに、足元に屈むだなんて。片膝をつくとかではなく、本当に膝を曲げて、アリーチェを下から覗き込んでくるのだ。
「殿下!」
せめてソファーに!と言おうとしたところで、抱えあげられる。
家族以外の男性に抱き上げられるなんて、初めてで、アリーチェは固まる。
「交流を持つから、伯爵、娘を借りるぞ」
オリバーは、無表情に淡々と告げる。
「はい、どうぞ」
伯爵も無表情で答える。
「うそっ!?」
婚姻前の娘って貸してもいいの!?
思わず助けを求めるように手を伸ばしてしまった。
「アリーチェ」
低い咎める声に、伸ばした手を勢いよく引っ込めた。伸ばした手を切り落とされるかと思った。
伯爵も、もちろん見てないふりを貫いている。
そもそもあっちのせいだと思うのだけれど!
「さすがに、私の仮眠用のベッドは使わないでください」
「さすがにそれはしないな」
さすがに、さすがにとやかましい。ベッドを使用する交流ってなんだ。そんなもん、交流には必要ない。この後、穏やかに散歩などではないのか。
「私の部屋に行こう」
「それはどうかと思います!」
王族のプライベート空間に入るって、そんな恐ろしいことがあってたまるものか。
しかも、この状態で婚約者を私室に連れ込むって、どうみても、そうじゃないか。
「他の場所では邪魔が入るのだ。大丈夫だ。結婚を半年後に控えている」
「早っ!!」
今日聞いたばかりなんですけど!
伯爵に視線を送れば、すでに仕事を始めていやがった。
「早くはない。婚約直後からだから、一年前から準備をしている」
「お父様っ!?」
悲鳴のような声をあげると、机の上に両手をついて、頭を下げている伯爵がいる。
「言ったと思っている!」
聞いてません!そう叫ぶ前に、執務室を出た。
何故他の貴族は何も言わないのだ。お披露目さえしていないのに、結婚式の準備が着々と進められているってどんな状況だ。
アリーチェだけの結婚なら、百歩譲ってもいいだろう。だが、王族の結婚がそんなことでいいはずがない!
ついでに、半年後だろうと何だろうと、結婚前には変わりないというのに!
「今までの誤解を解いて、仲良くなりたいだけだから、安心しろ」
この体勢で運ばれて、どうして安心できると言うのか。
「最後まではしない」
思い切り何かはする気じゃないか!
いやいやいや。結婚もしてないのに、ほぼ初対面の方とそんなことできない。
「お待ちください。あの、殿下!」
反論したいのに、言葉にならない。どうにもこうにも、卑猥な言葉になりそうな気がして口に出せないのだ。
「私の愛を伝えなければならない」
「は……」
――愛?
思考が停止する。
その間に、殿下の長い脚は颯爽と歩き去り、あっという間に決して入ることは無いと思っていた王族の居住スペースにいた。
何人か使用人とすれ違うというのに、アリーチェと視線が合う人はいない。助けを求めた瞬間に、アリーチェともども、その使用人も道連れになりそうで声をかけられない。
そうやって悩んでいる間に、さっさと居室に入ってしまう。
ふわりと優しくソファーに下ろされる。
オリバーの体が離れ、ようやく顔を上げることができた。
白い壁紙に、観葉植物があちこちに置かれた、綺麗な部屋だった。絵画やツボがドーンと置かれた重厚な部屋じゃないことに、ほっと息を吐く。いるだけで緊張を強いられる部屋でないことは救いだ。