婚約者でしたっけ?
「なぜだっ!?」
伯爵は、思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を閉じる。
そう簡単に婚約がなくなったりするはずがない。
そんな常識はきちんと植え付けられていると思っていた。
「明確な理由があるわけではないのですが……」
言い淀みながら、アリーチェは滔々と理由を述べた。
そもそも最初が、王妃様のお茶会に呼ばれて伺ったときに、オリバーに挨拶をした。その際、彼の印象といえば、女性だらけのお茶会に入って来るなんて勇気があるなと思った程度だ。
後日、父から「王太子殿下と婚約するか」と聞かれ、特に拒否する理由もなかったので、「はい」と答えた。
その後、顔を合わせたけれど、甘い雰囲気は皆無。これからよろしくなどの言葉も無し。政略なのだから当たり前だというのは理解できる。しかし、王からも王妃からも何も言われなかった。
さらに、特にプレゼントを贈ってくれるでも、夜会のエスコートを申し出てくれるでもなく、他の女性と同じ態度を貫かれる。
不安だとか、嫉妬を感じる前に、交流がない。あれ、本当に婚約ってしてる?と疑問を持つのも仕方がないと思う。オリバーと婚約の話ってしたことあったっけ?と振り返った時、ないなと判断した。
そう、婚約の話なんて、父からしか聞いたことがない。
そもそも、王太子であるオリバー殿下は、非常に麗しいお姿をしている。新緑のような髪と瞳。ほぼ笑わない表情さえも、その色がさわやかさを連れてくる。王の補佐としてすでに公務に携わり、国民の生活を知りたいと、様々な場所へ赴いていると聞く。武にも優れていると聞くし、非の打ちどころのない方だ。
そんな方が、わざわざ一貴族の、特に目立ちもしない伯爵令嬢と婚約しなければならない理由はない。
もっと素晴らしい方をお迎えしてもおかしくないのだ。
あれから決定したという連絡もなければ、婚約者としてのお披露目もない。
――ああ、立ち消えになったのだな。と判断した。
それがまさか、婚約をしていて、結婚まで話が進んでいるとは夢にも思わないではないか。
「……あれ、言ってなかったか?」
「聞いてませんね」
さっき、同じやり取りをしたような気がする。
「王太子殿下は嫌いじゃないよなっ!?」
伯爵がいやに必死にアリーチェに食いついてくる。
アリーチェは少し考えて首肯する。
「それはそうですね。自国の王太子を嫌うことなど有り得ません」
「そうではなく、結婚相手として、好ましいよなと聞いている」
そんなことが気になるものだろうか。
アリーチェが好む好まないを問わずに結婚は決まるものだと思っている。突然王太子妃だと言われても困るが、それなりに花嫁修業は行ってきた。
「私に選択肢があるとすれば、ですが……」
ちょうど書類を並べ終わった文官に目をつける。
「彼、トト様がいいですわ」
「はい?何のお話ですか?」
今まで、書類を読む方に一生懸命だったのだろう。突然自分の名前を呼ばれ、反応したトトがきょとんとした顔で顔を上げる。
「何故だ!?まさか、お前娘を……!」
そんな、何もわかっていなさそうなトトに、伯爵が掴みかかる。
「お待ちください!もう、何の話かも分かりません!」
青くなってアリーチェと伯爵を交互に見る姿に、彼女は笑みを深める。
「彼の標準的な立ち居振る舞い。標準的な容姿。貴族の中で標準的な家柄。平民と比べても標準的なお給料。素晴らしいですわ」
明日には忘れてしまいそうな、彼。そんな普通の生活が送ってみたい。
アリーチェには何が普通なのか、いまいち分かっていないようだ。
しかし、伯爵はショックを隠し切れないと、大きな声をあげた。
「なんと!おまえはトトをそういうふうに見ていたのか!」
「悪口を言われているようにしか聞こえませんでしたが!?」
トトの鋭いツッコミが入ったが、この親子に気にしている様子はない。
トトだって、それなりに頑張っているというのに。普通オブザ普通といわれて喜ぶ男がいるとでも思っているのだろうか。
「標準的なというところが魅力的です」
恥ずかしそうにするアリーチェは、セリフを気にしなければ美しい伯爵令嬢だ。
しかし、こんなことに騙されていてはいけない。
「標準なので、廊下を3分歩けば、10人以上に会えますよ」
王城は人通りが多い。警備もいれば、侍女もいる。中にはハイスペックもいるが、それは少数派だ。
トトが提案すれば、伯爵もアリーチェも頷く。
「そうよね。お父様、トトから断られるなら、次に来た人にしましょう」
「否定しないのがいっそすがすがしいですよね」
ライラー伯爵の補佐として長いため、トトはこの二人には慣れていた。
そして、この二人が喧嘩をすれば、高確率で急カーブして流れ弾に当たる。
そうならないように、そろそろ結婚したいとトトは考えながら、決裁後の書類を集めて退室する。
「失礼しました」
挨拶をして出れば、中の会話は、次は誰が来るかという話になっていた。
……しばらく執務室に近づかない方がいいと、同僚に教えておこうと思いながら、トトは他部署に書類を届けるため足早に歩き去った。
「次に来るとしたら……もう一度、トトだったらどうします?」
書類を回して、もう一度書類を持ってくるかもしれない。
アリーチェが面白がって聞くと、伯爵は眉を寄せて厳しい顔を見せる。
「違う。お前の結婚は決まったのだ。こっちの方がいいとか言える状況ではない」
そんなことは分かっている。
ふん、と鼻を鳴らしてソファーに体を預けた。
だが、伯爵に好みを聞かれたので、好みを言うならこっちだと答えただけだ。
そんな希望が叶うとは思っていない。
幸い、この国は王族であっても一夫一妻制。後宮を統べなければならないような他国のような制度はない。
夫が愛人を何人持とうと、お小遣いの範囲でやってくれる分には構わない。……お小遣い制かは分からないが、税金を好き勝手には使わせない。
「分かりました」
と、言わなければならないだろう。嫌そうな声音になってしまったのは、身内の前という気のゆるみだ。
伯爵が顔をしかめているのが分かったが、これくらい大目に見て欲しいと思う。
しかし……王太子妃、からの王妃。
心から面倒くさい。
あ~あ。と投げやりなため息を吐けば、伯爵がさらに慌てて口に人差し指をあてる。
アリーチェは首を傾げる。
「外ではこんな態度取りませんよ?お父様しかいらっしゃらないから、少しくらい本音を……」
言いかけて言葉が止まる。
父の背後のカーテンが揺れて、そこから人が出てきたのだ。
「興味深い話をしている」
低く、聞きほれるほどの美声が、少し笑みを含んだようなかすれ声で聞こえた。
スラリと背が高く、王族に伝わる緑の瞳に緑の髪のオリバーが、普段は無表情の冷たい美貌に不快感を隠しもせずに浮かべて、そこに立っていた。
「で……殿下!?」
アリーチェはソファーの上でのけ反るようにして驚く。伯爵は机に顔をうつぶせてしまっている。
「あなたの婚約者は私だ」