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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

社会人二人の百合生活

お礼にはウィスキー・ボンボン

作者: ピッチョン


 永瀬香緒里(ながせかおり)は飲み干したチューハイ缶をテーブルに強く置きながら暗澹と息を吐いた。香緒里はそのままテーブルに突っ伏しながら対面に向かって話しかける。

「知ってる結美(ゆみ)ぃ? 今年で私らがこっちきて四年になるんだよ? やばいよぉ、そろそろ三十路が見えてきたのに給料は低いし彼氏もいないし、私らこのままおばあちゃんになっちゃうのかなぁ~」

 会話を振られた御園結美(みそのゆみ)はグラスワインを回しながら呆れたように返す。

「それ毎年言ってない? 愚痴るだけじゃなくてさ、実際に行動起こしなよ。仕事でキャリア積んで稼いだ金で男を釣るか、仕事ほっぽって出会いを求めにいくか。職場にはいないんでしょ? 香緒里のお眼鏡にかなうヒト」

 結美がくいとグラスをあおり一気に残りを飲み干した。空になったグラスに結美がまたワインを注ぐ。

 香緒里は六本目になるチューハイをあけた。プルタブを引いた音が小気味よく香緒里の耳に響く。

「いないいない。私の周りなんてだいたいがビールっ腹のおっさんばっか。外回りもないから他のとことの接点もないし、あ~、空からいい感じの男が降ってこないかな~」

 くだを巻きながら香緒里は缶に口をつけた。レモン風味の甘露の液体をごくごくと嚥下し、思いっきり「ぷはーっ!」と息を吐いた。

「いやいや、営業に行ってても出会いなんてないから。ていうかそんな余裕ないし。取引先で出会って一目でお互い恋に落ちましたーなんて言うのは頭お花畑ちゃんだけ」

「そんなこと言っちゃってぇ、少しくらいこの人いいなーとか思ってんでしょ~? そこから猛アタックすれば実るかもしんないじゃん」

「ないって。だいたい私が会う人既婚者ばっかりだし」

「不倫かぁ~、不倫はよくないなぁ~」

「だーかーらー、それはないって!」

 結美がゴンとグラスを叩き置いた。衝撃でワインが少し零れてテーブルを濡らしてしまう。慌てて結美がティッシュで拭き始めた。

 香緒里のチューハイはすでに七本目に突入していた。赤ら顔をだらしなく緩ませて缶を無意味に左右に振る。

「でもさぁ、結婚するか転勤になるまでってことでルームシェア始めたのにさぁ、このままじゃずっと私ら一緒だよ? それはどうなのよって」

 大学を卒業し、就職と同時に上京した香緒里と結美はお互いの会社がわりと近かったこともあり都内で3LDKを借りてルームシェアをすることにした。どちらかが結婚ないしは転勤や転職などで引っ越すまで、と決めていたのだが二人ともそんな予定はまったくない。

「私より結美の方が早く結婚しそうだなーって思ってたのに、全然そんな気配ないもんなぁ。結美はそれでいいのぉ?」

「私は香緒里みたいにがつがつしてないの。縁があったらなるようになるんじゃない?」

「縁がそこらへんに転がってたら苦労しないわー!」

「はいはい」と結美が立ち上がってリビングダイニングのキッチンに向かい、冷蔵庫を開けながらカウンター越しに香緒里に問いかけた。

「まだ飲む?」

「飲む!」

「何本?」

「ん~……」

 ぼやけた頭で香緒里が悩んでいると結美が戻ってきてテーブルにチューハイ缶を一本だけ香緒里の目の前に置いた。

「今日は酔い過ぎてるからあと一本だけにしときなさい」

「はーい……ふふ、奥さんみたい。いや、お母さんかな」

「バカ言うんなら没収」

「やぁーだぁー」

 香緒里は缶を抱き寄せてしっかりと腕の中に確保した。結美は息を吐いて椅子に座り直した後、もってきたチーズをつまみにワインを飲み始める。香緒里も食べようかと思ったが、最近おなかについてきたお肉のことが頭をよぎり食指を抑えこんだ。

「夜にそんなの食べてるのに結美って太ってないよねぇ」

 香緒里は新しいプルタブを引き開けて飲み口に唇をつけた。結美がチーズをつまみ上げて見せる。

「言うほど食べてないからね。カロリーは計算してるし」

「カロリー……カロリーも敵だぁ。やつらはお腹にばっかり集まってきやがる……」

「香緒里だってそこまで太ってないじゃん。気にし過ぎだって」

「いーやっ、先月から2キロも太ったから! 見る? 私のおなか、ぷにぷにだよ?」

 結美が鼻で笑った。

「外食やめたら? 最近夜はずっとでしょ?」

「だってぇ、疲れた後においしいもの食べたくなるんだもん。付き合いもあるし」

「そんなの家に用意してあるからって断りなさいよ」

「でも実際には用意してないじゃんかぁ」

「言ってくれれば私が作るけど?」

「え?」

 香緒里は飲みかけのチューハイをテーブルに置いた。結美がチーズをひとかじりしてワインをくっと飲んだ。そのまま香緒里の顔を見つめる。

「だから、リクエストしてくれれば私が作るって言ってるの。あ、勿論材料費は折半だし、早く帰ってこれるなら手伝ってよね」

「でもそれじゃ結美に悪いっていうか……」

「一人分だけ作る方がめんどくさいもんなの。私がいつも晩ごはんの残りを冷蔵庫に入れて朝に食べてるの知ってるでしょ? それを夜に二人で食べるだけ。分かった?」

「分かった、けど、なんで今更そんなこと言ってくれるの?」

 途端に「はぁ?」と威圧的な声で結美が香緒里に詰め寄った。

「こっちに来て最初のころに私聞いたよね? 晩はなるべく家で作るようにするから一緒に作ろうか? って。それを『外で食べるかどうかその日じゃないと分からないし帰る時間もまちまちになるから大丈夫』って断ったのは香緒里でしょ!?」

 香緒里は必死に記憶を呼び起こそうとするが、酔いの回った脳はまったく機能しない。結美の怒りを静めるべく香緒里は低く(こうべ)を下げた。

「ご、ごめんって結美ぃ……昔の私がバカだっただけなんだよぉ。だからお願いします私のも作ってくださいぃ」

 結美は踏ん反り返り鼻を鳴らした。

「分かればよろしい。じゃあそろそろ私は寝るからね。酔っ払ってここで寝たりしないでよ」

「わかってるって~」

 結美がグラスやボトルを片付け始めるのをよそに、これで安心だとばかりに香緒里は上機嫌で鼻歌交じりにチューハイの缶を傾けた。心地よい酩酊感に浸りながら、ふと思い立ち声をあげる。

「そうだよっ、いいこと考えた!」

「なにが?」

 キッチンカウンターの向こうにいる結美に香緒里は高らかに答える。

「私と結美が付き合えばいいじゃん!」

「……は?」

 結美が顔を出した。その表情は怪訝というより単純な驚きによるものだったが、今の香緒里には些細な表情の違いなど気にならない。名案を聞けとばかりに続きを述べる。

「お互い独り身だしぃ、四年も一緒に住んでるから趣味も好みも知り尽くしてるしぃ、付き合っちゃえばこれからもずっとご飯作ってもらえるしぃ、あとは……あ、この家も引っ越さないで済む! だから付き合っちゃうのが最適解なのだ~」

「……それ、本気?」

「本気も本気、大本気ぃ~。あはは、いい考えでしょぉ? 気が合う親友ならもう恋人みたいなもんだよね~」

 本当に本気というわけではない。酔った拍子に口から出た冗談の類いだ。結美もすぐに笑って悪乗りするか辛辣な突っ込みを入れるかするだろう、と香緒里は思っていた。

 しかし結美の反応はまったく予期しないものだった。

 キッチンから出て来た結美は香緒里に近づくとチューハイ缶を取り上げ、そのニヤけて緩んだ口に有無を言わさず自身の口を重ねてきた。

「――っ!?」

 ワインとチーズの風味が香緒里の口内に広がった。香緒里は自分が今何をされているのか理解が追いつかない。その間も結美は香緒里を味わうように唇を動かし、より強く熱くキスをする。

「ん――っふ――んぅ……」

 鼻息が香緒里に当たる。結美の体温が直に伝わってくる。咄嗟に突き放すべきだったのかもしれない。だが最初に機を逸してしまった今、香緒里は指一本動かすことが出来ないでいた。

 女子同士ふざけてキスをすることはたまにある。だがそれもせいぜいほっぺたに軽く触れる程度だ。しかし結美のそれはドラマや映画のラブシーンのように情熱的で官能的だった。

「――ふぅ」

 ようやく結美が唇を離した。香緒里は何も言えずにただ口をパクパクとさせて結美を見つめる。

 結美は黙したまま奪ったチューハイの残りを一気に飲み干した。カツンッ、と机に叩きつけてから香緒里へと視線を向ける。覚悟を決めたとばかりに結美は香緒里の両肩を掴んだ。

「本気って言った責任、ちゃんと取ってもらうから」

「あ、わわっ」

 結美が香緒里を引っ張り上げた。そのまま腕を持って強引に連れていく。香緒里は千鳥足のせいで踏ん張ることも出来ず、よたよたと後をついていく。気が付くと香緒里は結美の部屋にいた。

 どん、と押されて香緒里はベッドに倒れ込む。

(あ、あれ? なんで私ここにいるの? 結美のベッド? え? え? ダメだ……頭の中がぐわんぐわんして何も考えらんない……)

 香緒里の意識が徐々に混濁していく。視界がぐるぐる回り始め、体が宙に浮いているような感覚に気持ち悪さと恍惚感が入り交じる。

 暗い天井が闇の中に溶け始めたとき、香緒里はどこからか衣擦れの音が聞こえるなと思った。


 体のだるさと軽い頭痛に襲われて、香緒里はゆっくりと目を開けた。

「――――」

 顔が触れ合うほど近い距離で結美が眠っていた。しかも何故か服を着ていないように見える。ふと若干の寒さを感じ、自分の体を見てみると香緒里も裸だった。

(は? ゆうべはお酒飲んでたよね。酔っ払って服を脱いで結美のベッドに潜り込んだ? そしたら結美もたまたま裸で仕方なく私と一緒にここで寝ることにした……さすがにそれはないか)

「おはよ」

 いつ起きたのか、結美が香緒里の方を見つめていた。こんな状況だというのに取り乱すこともなく落ち着いている。

「おはよう。えぇと、知ってたらでいいんだけど、なんで私は裸でここで寝てるんでしょう?」

 結美が露骨に顔をしかめた。

「覚えてないの?」

「あはは、飲んでたとこくらいまではかろうじて……」

「私に言ったことも?」

「うーん、なんか言ったような気もするけど……なんて言ったんだっけ?」

 ばさっ、と布団をはねのけて結美が起き上がった。裸のままベッドを降りて衣装ケースをあさり始める。

「結美?」

「私着替えるから香緒里も部屋に戻ったら? 今日も仕事でしょ」

「あ、うん」

「香緒里が脱いだ服、そこにあるから持っていってね」

 言われた通りに香緒里は服を拾って部屋を後にする。部屋を出る間際、結美の背中に問いかけた。

「結局なんで私は結美の部屋にいたの?」

 シャツを着た結美が振り返り、肩をすくめた。

「さぁ? 酔って間違えたんじゃない?」


    ◆  ◆


 部屋から出て行った香緒里が自室に戻った音を聞いてから、結美はその場に座り込んだ。三角座りをしてひざ頭におでこを押し当てる。

(バカ。バカバカ。香緒里のバカ。なんで肝心なところを覚えてないの。昨夜だって……いや、もうやめよう。酔っぱらいの言葉につけこんだ私が悪いんだ。一日限りの夢だったと思って忘れよう)

 じわりと溢れる涙がひざを濡らす。忘れられない。忘れたくない。ずっと、ずっと想い続けてきた人にやっと伝えられたのに、なかったことになんてしたくない。

(なんで私もあんなことしちゃったんだろ……。私もちょっと酔ってたしなぁ。お酒の勢いで、なんて最悪だよ……。だって香緒里があんなに嬉しそうに『付き合おう』なんて言うから)

 自戒のため息が長々と口から漏れ出ていく。終わったことだからと気持ちを切り替えられるほど結美の精神は堅くも強くもない。俗にいう『一夜の過ち』をおかした人達はこの気持ちをどのように乗り越えているのだろうか。

(別に私は過ちだったとは思ってないけど。あーあ、これならいっそすっぱり振られた方がよかったかなぁ)

 そうすれば諦めがついた。……ついた、だろうか。そのときになってみなければ分からないかもしれない。

「顔洗お」

 結美はのそりと立ち上がり動き始める。朝ごはんを食べて出勤の準備をしないと。

「あ……今日の晩ごはんどうするんだろ」

 それも忘れられていたらどうしようもないが、わざわざ聞くようなことはしたくなかった。もしも途中で昨夜のことを思い出されたらどういう顔をすればいいのか分からない。

 それでも、多分何も言われなくても作ってあげるんだろうなと結美は自覚し、苦笑の息を吐いた。


    ◆  ◆


 今日も仕事が無事終わった。香緒里は椅子の背もたれに体を預けて両腕を思いっきり伸ばした。

「ん~」

 上司の男性がすぐ後ろを通り過ぎていく。

「永瀬さん、お先」

「あ、はい、お疲れ様でしたー」

 あちこちで同じような声があがる。周りも徐々に帰り支度を始める人が増え、にぎやかになってくる。

 残ってやらなければいけない案件もない。早く帰れる日はさっさと退社をするに限る。

 香緒里もデスクの上を片付けて荷物をまとめ始めた。時計を見ると18時過ぎ。夜はゆっくりできそうだ。

 隣の席のひとつ下の後輩、野川美樹に話しかける。

「野川さんももうあがりでしょ? 帰り何か食べて帰る?」

「あー、私今日はちょっと……」

 野川の返事は歯切れが悪かった。いつもなら元気よく『私あそこの店行きたいです!』と返してくれるのだが。

 そのとき野川の同期の女性社員が三人通りがかった。

「永瀬先輩、美樹ちゃん誘ってもムダですよ。その子彼氏できたから」

「え? ウソウソ、いつの間に?」

 香緒里が聞くと彼女たちは嬉々として話し出した。

「この前の飲み会のとき、横のテーブルにたまたま営業の森田さんがいたんですよ」

「それで話してるうちに意気投合しちゃって、二人だけで二次会いっちゃって」

「そのまま家までお持ち帰りコース」

「ち、ちょっと声大きいって!」

 野川が顔を真っ赤にして咎めるが三人は気にもとめない。

「お酒の勢いだったとはいえ、翌日に改めて森田さんから告白されてぇ」

「返事をどうするか悩んでたけど受けることに決めたんですよ」

「ま、相談に乗ってあげてたの私たちなんですけど」

 あはは、と楽しそうに笑う三人に野川が「バラしてなんて頼んでない!」と憤慨している。

 見ていて可哀想になり香緒里が先輩として注意をしようかと思ったとき、三人は笑うのをやめた。

「別に社内恋愛禁止されてるわけでもなし、付き合ってるっていうのは大きく宣伝しといた方がいーの」

「そうそう、どこで別の女がアプローチかけてくるか分からないしね。この男は自分のものだってしっかりアピールしとかないと」

「ついでに浮気なんぞしようものなら私たちを敵に回すことになるぞってね」

 女の友情の美しさと恐ろしさを同時に垣間見せられ、香緒里は複雑な表情で笑った。

(まぁ野川さんも納得してるみたいだし、私がどうのこうの言う筋合いもないか。……にしても酔った勢いで、ねぇ。若いというかなんというか。いや別に私だってまだまだ若いし、いい人がいるんならお酒の力を借りようがなにしようが猛アタックしてやるっての。まぁ最近は外で飲むときは抑えてもっぱら家飲みで鬱憤を晴らしてる、け、ど――)

 瞬間、香緒里の脳裏に昨夜の出来事がフラッシュバックする。

 結美と一緒に晩酌しながら日頃の愚痴をぶちまけ、体重の話に変わり、ご飯を作ってくれるということになり、その後香緒里が何を口走ったのか。その一連の流れを思い出した。

(わ、私、結美になんてことを――っ!? え、え、それで結美にキスされてベッドにつれていかれて、どうなったんだっけ……)

 そこから先はほとんど記憶がない。だが朝起きたときの状況を思い起こしてみれば結論はひとつしかなかった。

 香緒里は内心で大きく息を吐く。

(いやもうどうしよ……。てか結美も朝に言ってよぉ。あんな何事もなかった風にしちゃってさぁ)

 自分が軽率な発言をしたのがそもそもの原因ではあるが、それも結美が適当にあしらっていてくれればこんなことにはならなかった。

 あしらわなかった理由はただひとつ。結美はずっと香緒里のことを好きだったということになる。

(結美が私のことを、ねぇ)

 大学からの付き合いを合わせて計八年。一緒に過ごしていてそんな素振りは全くなかった。気付かなかっただけかもしれないが。

 野川たちがじゃれあうのを横目に香緒里は思案する。

(私はどうしたいんだろ。そりゃ結美のことは好きだけど、そういう好きなのかどうかって聞かれたら……)

 しかもそれが酔っぱらったときの出来事だというのが始末が悪い。同じような状況になったとき、他の人はどうするのだろうか。香緒里がそう考えたとき、ちょうど該当する人物が目に入った。

「野川さん」

 香緒里は彼女たちの会話に割って入った。

「なんで告白を受けようと思ったの?」

 ぽかんと見返してくる四人に香緒里は慌てて両手を振る。

「あ、ごめんね。いきなり変なこと聞いて。その、酔った拍子のアレコレなんてさ、別になかったことにしても良かったわけじゃない? 野川さんって自分の考えとかはっきり言うタイプだし。もしかして前からいいなとか思ってたの?」

「えぇと……」

 野川が視線を下げもじもじと指を動かす。

「森田さんは前から知ってたけど別に何とも思ってなかったです。けど、実際に話してみて趣味とか好きなアーティストとかもおんなじで、話してて楽しいし落ち着くっていうか。それに、あの日のことを思い出して嫌じゃなかった自分がいるのに気付いたんです。だから、いいかなぁって」

 ヒューヒューと三人に囃し立てられ野川が「あーもー!」と顔を赤らめ足をバタバタさせた。

 彼女たちを尻目に香緒里の頭に野川の言葉が反響する。

 ――嫌じゃなかった自分がいる。

 あぁなんだ、と香緒里は苦笑した。昨夜のことを思い出してから自分は今まで何を考えていたのか。

 ずっと自分の軽率さと責任感の無さ、そして何も言わない結美の水臭さや素っ気ない態度に怒りや不満を覚えていただけで、昨夜の出来事に関して一度も不快感や嫌悪感を抱いてはいなかった。むりやりベッドに連れていかれてなお、結美を非難する言葉すら湧いてこない。

(バカだなぁ、私って)

 香緒里は荷物をカバンに乱暴に放りこむと立ち上がった。

「ごめん、私も急用思い出したから帰らないと。野川さんありがとね。何かあったら私も力になるから言って。それじゃ、お疲れ~」

 呆気に取られた顔をした四人をおいて香緒里は駆け出した。背後からの「お疲れ様です」を聞きながら頭の中は結美のことでいっぱいだった。

 一秒でも早く会いたい。八年の付き合いで、香緒里は初めてそう思った。


 マンションのドアを開けて香緒里は前のめりに飛び込んだ。

「ただいま!」

 バタバタとリビングに入ると、ちょうど結美が料理をしているところだった。煮込み系の醤油のいい匂いが漂っている。

「おかえり。どしたの? そんなに慌てて。ごはんはもうちょっとで出来るから」

 香緒里はカバンをその場に放って、キッチンカウンターの中に入った。乱れた呼吸を整えながら結美を見つめる。

 ただならぬ様子を感じ取ったのか、結美が鍋に蓋をして香緒里の方を向いた。

「なに? あとは少し冷まして味を染み込ませるだけだから手伝ってもらわなくて大丈夫だよ。先にお風呂でも入って――」

「ごめん」

 香緒里は頭を下げた。何を置いてもまずは謝らなければと思った。

「え、ちょっと待って。急になに? 香緒里何かやらかしたの?」

 やらかしたと言えばとっくにやらかしている。香緒里は頭を戻して結美に向き直った。結美は明らかに動揺していた。すでに香緒里がこれから何を言おうとしてるのかを察しているようだ。

「昨日のこと、思い出した」

 その言葉に結美は一瞬動きを止めたが、すぐに何事もなかったかのように振るまい始める。

「あ、あはは、そっか、思い出したんだ。あー、それで『ごめん』かぁ。はは、そりゃそうだよね。親友だと思ってた相手に襲われたら気持ち悪いよね。引っ越しはいつにする? 私だけ先に出てくから香緒里はゆっくり――」

「待った待った! 何の話してんの!」

「何って、引っ越すなら日程決めないと」

「何で引っ越さなきゃいけないのよ?」

「何でって、一緒に住めないじゃん」

「何で一緒に住めないの?」

「何でって……イヤでしょ? 私みたいなのと一緒に住むの」

「誰がイヤなんて言ったよ! 私と付き合うんでしょ!?」

 我慢しきれず香緒里が叫ぶと結美は目を見開いて小さく口を動かした。

「……本気で言ってるの?」

「本気も本気、大本気――だったっけ?」

 香緒里があのときの言葉をそのまま答える。

 結美は信じられないといった様子で体をわなわなと震えさせながら、少しずつ後ずさっていく。

「だって、あれは酔って言った冗談だったんでしょ?」

 香緒里も結美に合わせて近づいていく。

「半分くらいはね。でももう半分は本気だった。それに気付いたのは今日だけど」

 それでも結美の顔から不安の色が消えない。拒絶を恐れているのにどこか拒絶されることを望んでいるようにも見える。

「付き合うってことは恋人になるんだよ?」

「そりゃまぁ、そうなるね」

「私とデートできる?」

「もちろん」

「手を繋いだりキスしたりしてくれる?」

「うん、やってみる」

「一緒にお風呂に入ったり、おんなじベッドで寝てくれる?」

「まぁそのくらいは」

「エッチも出来る?」

「……善処はする」

「ウソでもいいから『うん』くらい言えバカー!」

 結美は叫ぶと壁に背中をつけたまま、その場にへなへなと座りこんでしまった。

「ごめんって。でもそういうのは、もうちょっと段階を踏んでいくべきじゃないかなぁと。あ、ゆうべのはノーカンね! 結美のベッドに行ってから記憶が無くてさぁ」

 謝罪しながらしゃがんだ香緒里を、結美がちょいちょいと手招いた。どうかしたのかなと更に寄った香緒里の頭を結美は両手で挟み、キスをした。

「ん~~~~」

 かすかな醤油の風味と甘さを感じたのは、結美が味見をしていたからだろうか。香緒里は昨夜とのキスの違いを身をもって味わいながら、結美の行為を受け入れた。

 結美の舌が香緒里の口内に侵入してくる。舌の先端は何かを探すように這い進み、すぐに目的のもの――香緒里の舌を見つけ、絡み付いた。まるでそれが開始の合図だったかのように、香緒里も自身の舌を動かし始める。

 二人の舌は螺旋のように絡み合い、競うようにして互いに相手の舌を舌先でなぞり、くすぐった。唾液と唾液が口の中で交ざり合っていく。舌はやがてうねりながら口腔中をめぐり、あますところなく蹂躙していく。口蓋や舌裏を舐められる度にこそばゆさに息が漏れる。

 どうして口内というものはこれほど官能的なのだろうか。本来ならば飲食物を摂取する為の器官であるはずなのに、人と交わるだけでまったく違った刺激へと変化する。

 香緒里と結美は口端から唾液が零れるのも構わず、官能の刺激に浮かされるように互いを求め合った。行為は口内だけにとどまらず、抱き着くように密着したまま指で耳たぶをころがしうなじをさすり、相手にされればそれに応えるように同じ場所を指先で愛撫していく。

 数十秒後か数分後か。時間の経過も分からない二人はようやく口を離した。両者の額には汗が滲んでいた。

 いまごろ恥ずかしさが湧き上がり、香緒里は顔を真っ赤にして口元を拭う。

「こ、これだけ出来るなら、ふ、普通のキスなんて、ら、楽勝楽勝、どっからでもかかってこいってね。はっはっは」

 とても楽勝と思えない口調の香緒里をよそに、結美が立ち上がった。そのまま香緒里の腕を掴み、引っ張っていく。

 昨夜のデジャブが頭をよぎるが、今の香緒里は酔っ払ってはいない。踏ん張って耐えつつ結美に呼びかける。

「待ってよ! まさかまたベッドに連れてくつもりじゃないでしょうね!」

 結美の力は強かった。体格では香緒里の方が若干勝っているのにも関わらず、ずるずると引っ張りながら先へ進んで行く。顔は前を向いたまま、力の入った声が飛んでくる。

「ベッドじゃなくてお風呂にいくの! 段階を踏めばいいんでしょ! だったら一緒にお風呂入って、それからベッド!」

「誰が今日中に全部踏めって言った!? 階段はゆっくり上がるもんであって、バイクで駆け上がるもんじゃないのよ!」

「おなかのお肉見せてくれるって昨日言ってたじゃん。だからお風呂でゆっくり見せてもらう」

「はい! 今ここで見せます! 見せました! ほら見せてる見せてる! おなかのお肉見えてるよー! 後ろ見やがれこんちくしょー!」

「私、前しか見ないって決めたから」

「意味わからんし! だいたい昨日の夜さんざん見たでしょ? それでいいじゃない!」

「ゆうべのことだけど、香緒里ベッドに横になったらすぐ寝ちゃったから結局何もしてないからね。ムカついたから服だけ脱がして事後っぽくしてやったのにそれも全部忘れてたし」

「――――」

 途端に香緒里の体から力が抜けた。昨夜のことがあったからこそ自分の気持ちに踏ん切りを付けたというのに、結局何もなかったとは。

 踏ん張らなくなった香緒里を結美が今がチャンスとばかりに引っ張っていく。脱衣所は目と鼻の先だ。

(まぁ、裏を返せばそれだけ好かれてて、大事に思われてるってことだもんね)

 普段の結美を思えば、昨日今日の行動はこれまで溜まりに溜まった恋情が爆発してしまった結果だとも取れる。

(想いを受け止めてあげるのも恋人の務め、かな)

 香緒里は自分の足で歩き、脱衣所に入った。どこかやけくそ気味になっている結美の頭をぽんと叩いてから、かわいい恋人に脱がされる前に自分の服に手をかけた。



 今日も仕事が無事終わった。周りでも仕事を一区切り終えた社員たちが帰り支度を始めている。早く帰れる日は誰だってすぐ家に帰りたい。当然香緒里も同じ気持ちだ。

「永瀬先輩、私今日は大丈夫なんですけど、食べて帰りますか?」

 隣の席の後輩、野川美樹が香緒里に話しかけてきた。以前なら喜んで乗ったであろう誘いに、香緒里は申し訳なさそうに両手を合わせる。

「ごめん、晩ごはんは家で食べるって決めたからもう一緒に行けないんだ」

「それは大丈夫ですけど、永瀬先輩、まさか――」

「うん、そういうこと」

「えーっ! 誰ですか? この会社の人ですか?」

「別のとこよ。大学からの親友」

「親友が恋人になるっていいなぁ。写真とかあります? 紹介してくださいよー」

「また今度ね。あ、そうそう」

 香緒里は小さな紙袋を取り出して野川に差し出した。

「これ野川さんにあげる」

 野川が紙袋の中から箱を取り出しながら首を傾げる。

「わー、ありがとうございます。なんですか、これ? チョコ?」

「ウィスキー・ボンボン」

「え? なんでまた急に?」

「時にはお酒の勢いも大事だなって、ね」

 そう言って、香緒里は野川にウィンクをした。



            終

読んでいただきありがとうございます。

香緒里と結美の話でちょこちょこ書いていた短編を『社会人二人の百合生活』というシリーズでまとめました。

よろしければ他のお話も是非。

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[良い点] ぐぬぬ。はじめまして。 新着短編読んだら読み終えたらこちらに連行されました。 いちゃいちゃしよる……! すばら………! いいぞもっとやれ。 [一言] ところで、シリーズ化管理機能を…
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