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私は世界

作者: 世界

この世界は私が創ったモノであり、この世界は私が死ぬと同時に消滅する。いや、そもそも死ぬという事があるのだろうか。私たちが今と思っている瞬間も、思った瞬間には既に過去の出来事である。つまり、私たちは過去を見ながら生きているといえるだろう。ここで死という現象について考えてみる。

 死ぬとは何なのだろうか。脳が情報を処理しているのであれば脳が無くなったとき人は死んだといえるだろう。身体の中では、心臓が血液を送り、酸素が供給されて臓器を動かしている。ということであれば、まずは心臓が止まる。心臓が止まれば血液が送られないだろう。血液が送られなければ、身体に酸素が供給されず臓器は停止し、最終的には脳が機能しなくなる。そうしていればいずれ人は燃やされ、骨以外には跡形も残らない。この時に人は死んだといえるだろう。

 死という現象について考えてみたが、本当にそうなのであろうか。先にも述べたが、私たちは過去を見ながら生きている。そして脳が機能しなくては過去を見ることができない。今この瞬間や、これから起きる未来も、実際にはその更に未来の脳が認識している過去に過ぎないのだ。だが、いずれは脳も機能しなくなるだろう。脳が機能しない未来が確定しているのにも関わらず、なぜ私たちは今を認識できているのだろうか。脳が機能しないのであれば追憶という行為はなくなり、今を認識しているということもなくなるはずである。ここで最初に述べた、この世界は私が作ったモノに繋げる。

認識をするはずの脳が機能しなくなるのが確定しているにも関わらず、私は今を認識している。つまり脳が機能しなくなるという事は実際には起こらず、私は認識をし続けるということである。だが、私たちは人の死というものをたくさん見てきたはずである。地球ができてから今までには数えきれないほどの人が死に、そしてこの瞬間にも人は死んでいる。だからこそ、この世界はすべて私が創ったモノだと考える。人の生死も私が創ったものであり、世界の過去も未来も私が創っている。故に私は認識を続けていられるのだ。私が知っているものは知っているモノであり、知らないものは知らないモノ、世界そのものが私といってもいいのだろう。

 そして私は考える。なんとこの世界は暗いのだろうと。世界が私なのだと認識した瞬間に全てが色褪せていく。私が今までに感じた喜怒哀楽、この感情という概念さえも私が創ったものであるというのなら、世界には何も存在しない。私というものがただ在るだけなのである。これを読んだものはどう考えるのだろうか。それすらも私が創ったものであるというのに。


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