7 越えられぬ境界線②
世田谷支局の職員、四人が一団になって一本の木を見上げている。
何があるんだろう?
俺も見に行きたいが、目の前のフェンスは決して超えては成らないベルリンの壁。
『兄様!』
突然のアリス。
声に緊張が見て取れる。
「どうした?」
『二方向からの目撃情報の一点への収束。そして、世田谷職員の音声から考えられる状況が、妖魔併発の予兆である可能性が有ります!』
「報告例が?」
『併発そのものの目撃例はありません。でも、ごく少数の例から導き出された結論です』
「河南、盾を構えて状況をしっかりと映像に保存しろ。ただ、万が一は俺を置いてでも逃げろ。応援を呼んで周囲の避難を優先」
「え? どう」
河南が言い終わる前に、異変は起きた。
世田谷の四人が見上げていた木が揺れ、複数の黒い影が四人を取り囲む様に地面に降り立つ。
『型、餓鬼!』
みこの短い警告。
「河南、盾に隠れてろ。絶対に撃つな」
「え、でも」
「撃ったら殺される」
誇張でも何でも無い。
日本で目撃例が無い目の前の妖魔は、人を喰う。
その一部始終を収めた映像が本部に秘密裏に保管されている。
それを見る事が出来るのは、一定以上の役職に就いている者。そして、我が妹、アリス。
さらに、併発……。
稀に、まるでその場所から同時に生まれたかの様に妖魔が集団で固まっている事がある。全世界でも数件程度の報告しか無かったが。
その、発生に立ち合ったのか。
俺も副長に劣らず不幸体質だな。
さらに妖魔は、その数が多ければ多い程、凶暴化する特性が指摘されている。それを立証するにはサンプル数が圧倒的に足りて無いので仮説でしか無い話なのだが。
囲まれた四人で対処出来るのか?
グレムリンの数は、十……一。
四人は、突然の出来事に棒立ち。拳銃すら構えていない。
俺は、河南から離れる様にフェンス沿いを走る。
盾をフェンスに打ち付け、音を鳴らしながら大声を出す。
「こっちだ! ほら! 来い!!」
妖魔の注意が一斉にこちらに向く。
その隙に世田谷さんが一斉射撃でもしてくれないかと思ったが、チラリと見えた係長は頭を抱えうずくまっていた。
ち、役職付き。目の前の妖魔の脅威を知ってたか。
あちらは戦力として期待出来ない。
ならば、目の前のフェンスを越えて、調布まで来るのを期待するしか無いか。
「オラ、来い!」
フェンスを激しく叩く。
釣れた!
全ての妖魔がこちらに駆け出して来る。
フェンスから離れ、迎撃を考える。
みこに、射線計算させよう。
カメラの映像と銃の射線とを組み合わせレーザーポインターの様にメガネのグラス越しにリアルタイムで着弾点を表示するみこの切り札。
ただし、相応の演算処理が必要な為、しゃべる余裕が無くなってしまうのが悲しい。
拳銃に手を掛けようとした瞬間、こちらに向かっていた妖魔の一体が爆散した。
後方からの射撃。
妖魔の群れの向こう、たった一人、坂下が銃を構えて立っていた。
「馬鹿野郎」
妖魔が再び、そちらに向かう。
より一層の敵意を込めて。
最早、猶予は無かった。
一歩、二歩。
盾を捨て、空中散歩でフェンスを飛び越える。
「うらあぁぁぁぁぁ!!」
着地と同時に、絶叫を上げながら警棒を振るう。
最大伸長、刀身およそ8メートル。
その一撃が妖魔の群れを背後から薙ぎ払う。
振り抜くと同時に、左手で残った妖魔に拳銃を撃ち込む。
みこの指示するポイントへ四発ずつ。
一つ、二つ……妖魔が次々に爆散して行く。
次は、どこだ? 残りは、どこだ?
「先輩!」
河南か。
黙れ。妖魔がそっちに行くぞ。
「先輩!!」
黙れ! 守りきれなくなる!
「終わりました!!」
あ……。
そうなのか。
エーテルの急激消費で理性が飛びかけてた様だ。
改めて、周囲を確認。
『お兄様、もう大丈夫です』
みこがそう言うならば本当に大丈夫なのだろう。
「貴様、こちらに侵入して、勝手に何をする!」
先程まで蹲っていたおっさんがこちらを指差し、怒鳴り声を上げた。
「これはな! 問題だぞ! 必ず問題にするぞ!」
うへぇ……。
言い返す気力すら無く、立ち尽くす。
係長は言うだけ言って、足早に立ち去った。
「岸田君。ありがとう」
立ち尽くす俺に、坂本が軽くハグをして、背中をポンポンと叩いた。
そして、敬礼をし、去っていった。
他の二人も、こちらに向け小さく敬礼をしていた。返礼。
面倒なのは、あのおっさんだけなのかな……多分。
◆
「はい。駆除は完了しました。はい。はい。午後の巡回をしてから戻ります。はい」
助手席のシートを倒して横になりながら、河南が課長に報告を入れるのを聞き流す。
「このまま午後の巡回、行きます」
「ああ」
「ルートは覚えてますから」
「ああ」
窓の外の景色がゆっくりと流れ出す。
「職場放棄、装備私的利用、業務妨害、認可前装備無許可利用、世田谷、調布。
跳ねたなー……。
減俸も有り得るわ。これ……」
思いつく限り指を折って数える。
計六本。
「先輩、そんなに落ち込まないでくださいよ……」
「落ち込んでねーよ」
「どう見ても落ち込んでるじゃないですか」
河南に反論しながら、しかし、これでは勤務態度不良も追加になるな、などと自虐的に思う。
「そんなにお金ないんですか?」
別に減俸が苦なのでは無い。
「……私、お弁当作りましょうか?」
「まだ減俸って決まったわけじゃない」
停職すらあり得るかもしれない。
ただ、そんな事些細な事だ。
悔しいのだ。
目の前の脅威に、余計な事で躊躇せざるを得ない状況が。
正しいことが、正しいままに実行出来ない事が。
全力で脅威を排除する、その力が、望む者全てに与えられていない事が。
だからと言って、俺に何が変えられる訳でもない……。
『そーじ兄ちゃん。そんな事で落ち込んでちゃダメだよ』
妹が俺を励ます。
でもなぁ……。
『でも、じゃない。そーじ兄ちゃんは正義の味方でしょ?』
……そうだな。
『そう。がんばって』
助手席のシートを起こす。
「河南、ちゃんと録画したか?」
「はい。しました」
「貸してくれ、確認したい」
状況は、少しずつ悪化している様に感じられる。
俺の属する組織は、それに対抗していけるんだろうか。
いや、しなければならない。
皆の平和と安全を守るために。
◆
「大体わかった。河南、簡単に報告書上げてくれ。
それと別で、岸田、新種についてのレポート、今までで一番厚いやつ頼む。
それに、世田谷支部、東京西支部第二分室の総意という事で、支給装備強化の要望書も付けてくれ」
詰所に戻り、遠藤課長に報告。
当然、あれやこれや言われると思ったのだが。
「は?」
「ん? 不満か?」
「いえ、全然。始末書は?」
「いらん。今回は装備試作品実地試験だ」
「世田谷の件は?」
「あちらさんから要請の上だと言ってきたぞ?」
「え?」
「ま、そういう事だ、どうしても書きたいなら書いても良いが」
「いえ、そんな事ありません」
なんか、狐に抓まれている様な気分だ。
◆
報告書を取りまとめ終わった頃、珍しく井下さんが話しかけてきた。
「岸田ぁ、ちょっと射撃訓練付き合え」
「はあ」
連れられるままに詰所地下四階の射撃訓練場へ。
井下さんと並んで50m先の的を撃ち抜く。
無言のまま、30分程、無心に弾を撃つ。
知らなかったが、井下さんの射撃はかなりの腕前だった。
「また、世田谷と揉めたんだって?」
「また、やっちゃいました」
「俺もな、昔、世田谷の連中と揉めたことがある。
って言っても、御守庁の事じゃ無くて、もっと昔な。
世田谷の連中がヤタラとでかい顔してやがるから、ちょっくらシメてやろうって五十人から仲間引き連れて行ったわけよ。
多摩川の河川敷に呼び出して。
そしたら、アイツラどうしたと思う?」
「来なかったとか?」
「逆。周りの所にも声かけて、三百人集めてきやがった。
勝てるわけねーよな。
オレは取り合えず、向こうで頭張ってたヤツをボッコボコにして、多摩川泳いで逃げたよ。
つまり、何が言いたいかって言うと、アイツラなんか別に怖くねーって事だよ」
「いや、逃げ帰ってんじゃないすか」
二人で声を上げて笑う。
「そんなバカを一緒にやってた親友がよ、バイクで事故って死んだんだよ。
オレの前を走っててな。何かが横切った。いや、ぶつかった。すっ転んで、前に投げ出されて、バイクの下敷きで、即死だった……。
その時は訳が分からなかった。だが、三年前にアイツラが現れた時にな。
あ、オレの親友を殺したのはコイツラだって、そう気付いちまった。
アイツラは親友の敵だ。何があってもぶっ殺す。一匹残らず。世田谷が邪魔しようが何しようがな」
「そしたら、減俸ですよ? 奥さん怒りません?」
「そりゃ、そん時は、そん時だよ……オレの小遣い減らされるだけだぁ」
泣きそうな井下さんに、オレはまた、声を出して笑った。