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あと数センチメートル。梶野の伸ばした腕と平行に鉛筆槍が彼の首元を目指している。修威は初めから急所を狙った。そして梶野の手の先にあるカードもまた修威の首元で止まっている。こちらの距離はあと1センチメートルもないだろう。負けか、と修威はそれだけを認識する。そこでちょうど見計らったかのように校内放送が課外授業の終わりを告げた。はー、と梶野が大きく息を吐きながらゆっくりと腕を引き、修威も元の大きさまで縮んだ鉛筆に銀色のキャップをはめてとりあえず学生服の胸ポケットへとしまう。舟雪と真奈貴もそれぞれに得物、といっていいかどうかはよく分からない愛用の品々をしまいながら第2化学室へと入ってくる。決めきれなかったね、と真奈貴がさして悔しくもなさそうな様子で言った。対して梶野は目元を険しくしながら修威を見つめて口を開く。
「しゅいちゃん、あの場面で突っ込んできちゃ危ないよ。相手が僕だからって安心していたの?」
「相手が七山先輩じゃなかったらそっ首掻っ切られてたって言いたいんすか」
軽く答える修威に梶野は呆れ顔を隠さずに「そうだよ」と頷く。そしてもう一度「危ないよ」と繰り返す。修威はつい先程凶器を向けられたばかりの首を軽くさすり、ふぅむと中途半端に息を吐き出す。首は確かに人間にとって急所のひとつでそこに刃物めいたものを突き付けられれば怯えもする。たとえ課外授業、学校の中でよく見知った先輩が相手であったとしても本能が恐怖を感じる。そういう意味では修威ももちろん怖かった。しかし一方で確かに安心してもいたのだ。
それはたとえ相手が梶野でなくとも、よく知った相手でなくとも同じことで。
「七山先輩の目にはあれがないんすよ」
互いに首を狙えるほどに近付けば自然と相手の目を見つめることになる。人の目を見るのは好きではない修威でもどうしようもなくかち合った視線の先のそれを見なかったふりはできない。そして当たり前といえば当たり前だが先程見た梶野の目に憎しみや嘲り……修威を殺してやろうという危険な色はなく、ただ緊張と覚悟と少しの不安だけが見て取れた。
おかしなものだ、と修威は梶野ではない別の目を思い出しながら考える。あの夜、修威を追い詰めた読岡も修威の首に手をかけながら同じような目をしていた。細められた瞼の裏に隠してはいたが、確かにあのとき読岡は修威を殺さないように気を付けていたように思われるのだ。それに気付いたからこそ修威もなんとかあの場で取り乱さずにいられたのかもしれない。今も同じことだ。
「殺意。七山先輩の目には殺意がなかった」
「あるわけないでしょ。しゅいちゃんを相手に殺意なんてどうやって持てっていうの」
「だから怖くないんすよ」
「……あのね、しゅいちゃん。殺意がなくたって、殺すつもりがなくったって、殺してしまうことはありうるんだよ」
幼い子どもに言い聞かせるようにゆっくりと、言葉ひとつひとつをはっきりと音にしながら梶野は言った。その目に宿るのは先程交わした視線よりよほど強く修威に何かを語りかける色だ。それを見て修威は以前梶野が言っていたことをぼんやりと思い出す。
魔法なんて嫌いなんだ。夏休み、魔法区域での合宿の夜に聞いた彼の内緒の本音は光る花園の景色と共に修威の記憶に残っている。この世のものとは思えない光と花の香りの中で聞いたものは幻のようでいて、間違いなく現実だった。梶野は梶野自身の魔法を嫌うような何かを経験してきたのだろうか。
「でも、課外授業なら平気でしょ。先生方が監視してるとこでまさか死にやしねっすよ」
もしそんなことになれば学校の責任は重大で、下手をすればS・S・Rという魔法学習制度そのものの存続に関わりかねない。養護教諭であるジョージを始めとした教師陣はそのような事態を避けるために様々な用意をしていることだろう。以前舟雪が4階で投影されたジオラマの地割れに巻き込まれたときも彼は怪我ひとつしなかったではないか。修威の楽観的な言い方に梶野は「そうだね」と困ったように笑う。
「冷静だなあ、しゅいちゃん」
「他がぴりぴりしてるときってなんか逆に冷めてきません? 俺割とそういうタイプなんで」
「うん、それはしゅいちゃんの強みかもしれないね」
そう言って梶野はやっといつもの彼のようにどこか楽しそうに微笑んでみせた。それを見て修威はどこか胸の奥、隅の隅のところで「ああよかった」と感じる。他人の陰の部分を見たくはない。本人にとってよくないことを暴き立てたところで修威にそれを解決する力などないのだから、できる限りそれに触れることは避けたいというのが修威の考え方だ。もしも扉を開きかけたとしてもそうっとそれを閉じて何も見ていないことにしてしまえばいい。
いつか、相手が修威にそれを見せることを望み、修威もまたそれと向き合う覚悟ができるそのときまでは。
「お疲れ様ー。うーん、久しぶりに課外授業に入ったら結構緊張したなー」
不意にそんな声が聞こえて振り返ると、第2化学室のドアをがらりと開けながら武野澤教諭が入ってくるところだった。
「あーほんとに武野澤先生だ」
「大和瀬の言った通りだったな」
修威と舟雪がそれぞれに言って、武野澤教諭はおやという調子で軽く目を見開きながら真奈貴を見やる。
「ばれていたのか。じゃあ最後に僕の魔法が封じられた感覚はひょっとして大和瀬さんだったのかな」
「さあ」
真奈貴は悪びれもせずにはぐらかす。その口元に浮かんだ笑みは少しだけ冷たく、少しだけ面白がっているようでもある。武野澤教諭はそれ以上追及することもせずにただ「参ったなー」と言って笑った。それから彼は改めて修威を見て、今度は少しばかり厳しい表情をしてみせる。
「ところで明園さん。七山くんがあなたを傷付けないように注意していたのは確かだし、万が一のことがないように大和瀬先生達が見守っているのもその通りだけど、それでもやっぱり事故は起きるかもしれないんだからねー。何度も言っているけど、“無理はするな”」
「うげ」
どうやら修威の考えていることなど彼にはお見通しだったらしい。でもな、と修威はそれでもなおあの場面は安全だったと考えてしまう。何しろその場にいたのは七山梶野なのだ。ダイスを使ってあらゆる確率を操作してみせる彼に限って万が一はない。やっぱ大丈夫でしょ。そう思っても口に出さなかったのは修威もひとつだけ分かっていたからだ。武野澤教諭は教師として生徒に注意を促しているだけでなく、もっと近しいところで修威達を心配しているのだと。この年若い教諭が生徒達から慕われるのはきっと彼のそういう姿勢が自然と相手に伝わっているからなのだろう。今更ではあるが修威にもそれが分かってきたのだ。
そろそろ戻ろうか、と言いながら武野澤教諭は先程入ってきたドアの方へと向かう。修威達もそれに続き、魔法の時間が終わってもなお戦いの跡が残る廊下を階段へと向かって歩き出した。4階へ降りる階段まであと数歩というところで急に武野澤教諭が立ち止まり、振り返る。
「ああ、明園さん」
「ふい?」
「ラファエル先生からひとつ頼まれていたんだ。前に出した宿題の答えを聞いておいてほしい、って。覚えているかな?」
武野澤教諭はそう言いながら修威の返事を待たずに続ける。
「魔法と生きる覚悟はあるか」
“汝、魔法を愛せるか”。そう問い掛けたのはジョージだった。魔法を愛し、その魔法と人生を共に歩む勇気はあるか。ラファエル教諭が修威達に与えた宿題の意味は深く、軽々しく答えられる気がしない。
「武野澤先生、一応真面目に答えるんで聞いてもらえますか」
修威が言うと武野澤教諭は穏やかな表情を浮かべ、少し角ばった鼻を呼吸に合わせてぴくぴくと動かしながら頷く。不思議と見覚えがあるようなその様子をわずかに視界の端に捉えて修威は「ふう」と一度わざとらしく溜め息をつき、答える。
「まだないです」
おい、と後ろから舟雪が耐えかねて声を出した。武野澤教諭は黙っている。
「まだ全然、そんな覚悟できる気がしないっていうのか。俺にとって俺の魔法はそりゃあ結構でっかいものなんすけど、それと人生ずっと一緒にやれるかなんて想像つかないんです。今は、まだ」
武野澤教諭の隣で修威の答えを聞いていた梶野が小さく目を見開くのが見えた。うん、と武野澤教諭が穏やかな顔のままで大きく頷く。
「よく答えてくれたね。ラファ先生が帰ってきたらちゃんと伝えておくよ」
「こういう答えでもよかったんすかね。今更っすけど」
「もちろんいいよ。だってそれが明園さんの今の正直な気持ちだろうから、それをそのまま答えてくれたらいいんだ」
無理をしてはいけないし、嘘をつく必要もないんだよ。そう言って武野澤教諭は何やら嬉しそうに笑ったのだった。
執筆日2016/10/29




