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5階には普通の教室がなく、いくつかの特別教室や文化系部活動の部室、教員のための準備室や資料室などが並んでいる。普通教室がないということはつまり、課外授業で多少部屋が荒れたり備品が壊れたりしても次の授業にはさほど支障が出ないということだ。だからこそなのだろうか。5階の当番となっている者は教師であれ生徒であれ何の遠慮容赦もなく攻撃を放ってくる。
そう、攻撃だ。レーネ大和瀬高等学校の課外授業におけるこの5階の課題は屋上への扉を開けるための鍵を鍵当番から奪うというものなのだが、その鍵当番は逃げたり隠れたりするよりむしろ積極的に挑戦者に対して攻撃をしてくるのである。だから必然的に挑戦する側も応戦する。逃げたり隠れたりする相手を探して罠を張るといった静かな手段を選ぶことはできない。戦わなければ鍵を手にすることはできないし、何より戦わなければ叩きのめされてそのまま保健室送りにされることだろう。
まるで戦場だ、と修威は呆れと諦めと一種の悟りが混じった微妙な表情で呟く。手にした鉛筆槍はすでに3本目だ。1本目は突然倒れかかってきた壁を押さえるつっかえ棒にしてしまった。2本目はめくれ上がった床を力技で叩き壊したときに折れてしまった。相変わらずありえないことばかりが起きるこの校舎5階という場所だが、それもこれも全ては七山梶野という確率操作の使い手のせいだ。
踏んだ床が崩れる確率など普段誰も意識しない。それは限りなくゼロに近く、そうでなくとも1歩歩くごとにいちいち足場を確かめていたのでは一向に先へ進めないからだ。しかし梶野の魔法はそのほとんどゼロの確率を百にしてしまう。もしくは百に限りなく近い「安全である」確率をゼロにしてしまう。まさかのオール・オア・ナッシング。今や5階全体が梶野の魔法によっていつ崩壊するか分からない危険地帯へと変えられてしまっているのだ。
「すげぇ精神削られる気がするんだけどこれ」
鉛筆槍を手に、ひとまずは安定していそうな壁に背を預けて修威はぽんと声を投げる。おお、とわずかに疲れの滲む声がすぐに応じる。
「サーチが全然間に合わねえ……七山先輩、こっちの動くタイミングより早く確率のパターンを変えてやがる。遊ばれてる気しかしねえぞ」
携帯ゲーム機を手にした舟雪は修威の目の前で床に膝をついている。身体を屈めているのはつい先程落ちてきた天井が長身の彼の頭を直撃しそうになったからである。壁も床も天井も、ここにあるあらゆるものが修威達にとっては敵のようなものだ。
「くっそー……七山先輩ひとりにこんなに苦戦すんのかっ……なんなんだよあの人ー!」
「先輩が強いことは最初から知ってたんじゃないの」
呆れ声の真奈貴が修威の寄り掛かる壁の裏からひょいと顔を出して言う。そこはパイプ椅子やら古い机やらが無造作に押し込められた資料室という名の物置部屋だった。
「それに、ひとりじゃないよ」
物が多すぎる部屋というのはこの場合意外と安全になる。何故ならそこにある物品は元からある程度崩れやすく、安全である確率が低い。百に近い安全をゼロにされるよりも心構えがしやすいのだ。つまり、いきなりその辺りの椅子が落ちてきたところで反射的に避けるなり防ぐなり対処がしやすいということである。真奈貴はその辺りを踏まえて修威達を部屋の中に招き入れる。
「ひとりじゃない、って。今ラファエル先生はいないだろ。他に誰がいるんだ」
ゲーム機を手にした舟雪が部屋の中とそのすぐ前の廊下をサーチしながら聞いて、修威もまたむうと首をひねる。
2年生の情報学を担当しているラファエル=ソルダート教諭がこの5階の鍵当番として配置されていることは以前本人に出会ったために知っている。1年生である修威達とは普段関わることのない彼であるから会うのは課外授業の時間だけだ。しかし今彼が学校にいないことは間違いのない事実なのだ。
何故なら、今レーネ大和瀬高等学校の2年生は1週間の修学旅行の真っ最中だからである。だからラファエル教諭はもちろん、2年生である寧子や誉達もいない。全生徒の3分の1が不在になっている校舎はどことなくひんやりとして静かだった。
「修学旅行中でも課外授業があるって辺りがさすがレーネ大和瀬だよなぁ。S・S・R指定校ってのはどこもこう容赦ねぇのかね」
ぼやくように言った修威に対して舟雪が「はあ」と大きな溜め息をついてみせる。
「余裕だなあんたは……修学旅行だからって敵が悠長に待っててくれると思うのか?」
「敵、ってーとあれか。この間の垂れ耳うさぎとずんぐりドラゴン事件」
「読岡智、だろ。あんたあれだけの目に遭っておきながらよくそんな呑気なこと言ってられるな本当に!」
「いいじゃん別に名前なんて」
いくら忘れっぽい修威でもさすがにあのよく分からない竜と魔法を打ち消す絶縁糸を操る読岡智という教育実習生のことを忘れたりはしていない。事件そのものはあの夜で全てが終わり、翌朝にはもう半壊したはずの技術室も巨大化したぽくじんが踏み抜いた道路も綺麗に元通りになっていた。工事をしたとは考えられない素早い修復は本庄ルトの魔法によるものである。“原状回復”というルトの魔法は魔法の影響で変わってしまったものを魔法が関わる前の状態に戻すことができる。しかし魔法で巨大化したぽくじんによる破壊も跡形もなく元通りに直してしまえるとはさすがに驚きだった。おかげで修威はその辺りの責任を負うことを免れたのだからルトには感謝の言葉しかない。
そのルトが所属しているという全世界永劫連携共同体制空宙軍……あまりに長いので通称をGEAS国際宙軍もしくは単に国際宙軍という組織が読岡智をどこかへ連行していったのが事件の翌々日で、それから早いものでひと月近くが過ぎようとしている。読岡の事件以来街は平和で、あの野犬と呼ばれる獣も姿を現していないという。そういえばしばらく大きな流れ星や隕石の落下のニュースも聞いていない。それでも学校は不測の事態を警戒してかしばらく課外授業の実施を中断していたのだが、それも先週から再開された。最早学校に事件の名残は何もない。
「解決したってことでいいんだろうよ、あれは。今の相手は七山先輩。……って、ひとりじゃないって真奈貴ちゃんそれどういうこと?」
修威が現実に思考を戻しながら尋ねると、真奈貴は青い表紙の文庫本をぱらぱらとめくりながら「武野澤先生」とものすごく簡単に答えた。簡単すぎて一瞬、修威と舟雪は反応できない。
「……え、武野澤先生?」
「だから七山先輩が先回りして廊下の不安定確率を操作できてるんでしょ」
「ああああ、千里眼!」
一般的に千里眼というのは遠く離れた場所の出来事を感知できる魔法を指す。しかし武野澤教諭の場合には距離だけでなく時間を隔てた事柄についてもその効果を発揮できるらしく、視ようと思えば未来の出来事さえも視ることができるらしい。
「反則だっ……そんなのこっちが先手取れるわけねえだろ」
舟雪が悔しさと苛立ちを隠さずに言い、修威は腕組みをしながら「さすがだなー」と唸る。
「ていうかすんげー相性いいんじゃねぇの、七山先輩の魔法と武野澤先生の魔法」
「そうだね。思いつく対処法は2人の魔法そのものをどうにかして無効化することくらいかな」
「真奈貴ちゃんの本にそういうナイスな展開はないのかな」
「あったら使う?」
ぱらり、と文庫本のページをめくりながら真奈貴が顔を上げて修威に問う。そこには何が書かれているのだろうか。何か書かれているのだろうか。修威は少し考えて、「そりゃ使うでしょ」と答える。
「使える手は何でも使う! 真奈貴ちゃんがいいなら、だけど!」
「別にいいよ、それくらい。じゃあ……“今、おそらく敵は視界を霧に閉ざされていることだろう。我らが勇ましき戦士はこの地の天候をよく読んでいる。裏をかくぞ、と言って戦士は魔導師と共にぬかるんだ戦場へと躍り出た”」
真奈貴の読み上げた文章をなぞるべく修威は鉛筆槍を手に資料室を飛び出し、舟雪が携帯ゲーム機と据え置きゲーム用のコントローラの両方を手に続く。飛び出した先の廊下はまだ静かなままだ。
「梶野の兄貴! ここらで真っ向勝負といこうじゃねっすか!」
「右、第2化学室」
修威が叫び、舟雪が携帯ゲーム機の画面を見ながら場所を示す。修威は迷わず右手の教室のドアを鉛筆槍で突き倒して中へと飛び込んだ。
「らっあぁ!」
果たしてそこにはプラスチック製のトランプを数枚手に持ち身構えた梶野がいた。鍵当番用の白黒ジャージを着込み、右腕に紺色の腕章をつけた彼は冷たく鋭い目で修威の動きを捉えている。修威は知っている。あのトランプはただのカードだが、梶野の魔法がそれを硬く鋭い凶器へと変えているということを。木人さえ切り裂くその切れ味は下手をすればその辺にある包丁よりよほど危険だ。
しかしそれでも修威は臆せず梶野の懐へと飛び込んでいく。リーチでいえば鉛筆槍の方が長い。梶野がカードを投げれば、それを飛び道具として使うなら話は別だがおそらく今は。
そして、修威の構えた鉛筆槍の先と梶野が展開したカードの鋭利な縁とが交錯してびりりと空気を震わせた。
執筆日2016/10/29




