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ずしん、と1歩で道路が凹む。ずずん、と2歩目で前にできた凹みがさらに抉れて舗装がめくれる。その度にぽくじんが『フフフ』と満足そうに笑うから怖い。
『心地良いものでス。こうして高みから見下ろすと人間の営みのなんと小さなことでしょウ』
「まったくだ。まったくだけども足元には注意してくれよ。ものは壊してもこの際いいとして、うっかり人でも踏み潰したら洒落になんねぇからな」
『善処しまス』
「確約しろ」
高いところというのはひどく風が強いのだと修威は初めて知った。自分が今どれくらいの高さにいるのか正確なところは分からないが、校舎の屋上を遥か下に見下ろすことができたのだからきっとヘリコプターで空を飛んでいるくらいの高さなのだろうと推測する。はっきり言って非常に寒いがそんなことを言っている場合でもない。ひとつありがたかったのは、ここまで拡大するとさすがにぽくじんの滑らかな木肌にもそれなりの凹凸ができてそれを滑り止めにして座っていられると分かったことだ。超高層ビルの屋上に匹敵する高さにあるぽくじんの頭の上で全身に風を受けながら修威はもうすぐ目の前に迫った街を睨む。
「さすがにこのでかさのまま街に入るとやばいよな。も少し縮むか」
車道を歩けるくらいの大きさになったぽくじんを頭の中で思い描くと風の中に微かな手応えを感じる。辺りに魔法の気配が満ちているのが分かる。我ながら随分と感覚が鋭くなったものだと修威は嬉しいような嬉しくないような奇妙な気分で一度目を閉じた。すとん、と身体が真下に落ちるのを確認してから目を開くと視界は大体観光バスの高い座席に座っているときに見えるものと同じ高さにまで下がっていた。これなら車道を進む分には事故の心配もない。
「よっし、このまま自治会室アパートまで直行。ぽくじん、何ならそっからは1人で金北先輩んとこまで行っていいからな」
『そのときは適度なサイズ縮小をお願いしまス』
「おう任せとけ」
言葉を交わした修威とぽくじんは不気味なほどに静かな夜の街をただひたすらに歩く。目の前の信号機が赤いランプを灯していても気にしない。何しろ車道には1台の車も走っていないし、バイクも自転車も歩行者も野良猫の1匹さえも見当たらないのだ。ただ時折きらきらと光る白い花が道端に浮かび上がるようにして咲いている。何が起きているのか修威には分からないが、決していいことではないだろう。
街に残った梶野と雄也のことが少しだけ気になるが、あの2人の先輩ならば問題ないような気もする。彼らは修威が知らない色々なことを知っているのだろう。きっと今の修威が知っても仕方のないことだ。そう思い込むようにしながらとにかく先を急いだ修威はやっと自治会室の入っているアパートが見える場所までやってきた。住宅街の中にある小さな交差点であるそこで、人でも車でも花でもないものがちょこんと佇んでいる。修威はぽくじんの頭の上から降りてそれと相対する。
「うさぎ」
修威は見たままを口に出す。頭の両脇に垂れた長い耳が特徴的なその姿には見覚えがあった。可愛いな、という感想は今となってはもう浮かんでこない。何しろそのふわふわとした毛玉のような小動物の背後には黒い影のような四つ足の獣が何頭も低く唸りながら修威の方を見据えているのだから。
そういうことか。修威は今度は口に出さずに呟く。修威達が気付くよりずっと前から色々なことはもう始まっていたらしい。そして少なくとも二学期に入る前夜にはもう修威自身が標的とされていたのだ。このうさぎはあの夜に出会ったもので間違いない。あの夜の出来事は夢などではなかった。読岡が修威を追ってバスに乗り込んできたことも偶然ではなく、全て彼の計画のうちだったのだ。
「邪魔、すんな。このうさぎ野郎」
背後に巨大なぽくじんを従えながら修威は低い声で言い放つ。見下ろす視線の先でうさぎの小さな身体がふるふると震えたように見えて、次の瞬間にはもうそれは可愛らしい小動物とは似ても似つかない姿に変わっていた。うさぎの毛と同じ淡い色をした髪を長く伸ばして顔の両脇に垂らした長身の男性の姿にである。
「気付かないふりをするのはやめたのですカ。それが得意の魔法なんでしょウ?」
「うるせぇ、それは副産物だ。勝手に人の事情に踏み込んでくるんじゃねぇ。あと今マジで急いでるから邪魔するな、どけ」
「フフフ、どれだけ怖い顔をしてもアナタ程度ではワタシを出し抜くことなんてできませン」
「さっき学校では出し抜かせてもらったけどな」
「けれどここであれほど巨大な木人を暴れさせれば、アナタが助けたい人も巻き込んで全て壊してしまうでしょうネ。拡大縮小とは面白い魔法ですガ、大雑把なところが欠点でス」
読岡の指摘は正しい。周りを建物に囲まれた住宅街では巨大なぽくじんを暴れさせたところで余計な被害を増やすだけだ。どうすればいいのか、何ができるのか、実際のところをいえば修威にはもう何も思いつかない。大雑把とはまた見事に言い当てられたものだ。
修威は肩掛け鞄からペンケースを取り出して中の鉛筆をいつものように槍と呼べる大きさにまで拡大する。ぽくじんを使えないのであれば結局修威にはこれしかない。鋭く尖った切っ先を向けられても余裕の笑みを崩さない読岡はきっと修威の攻撃など簡単にかわしてしまうのだろう。たとえぽくじんが近くにいることによって読岡の絶縁糸が無効化されるとしても修威にはあの長身の男を叩き伏せられるだけの身体能力はない。その上彼の背後には1頭でも手強すぎる獣が複数控えているのだ。盤面はとうに詰んでいる。さらにそこへ読岡が右手を高く天に掲げて声を上げる。
「縁を結わいて手繰る糸、紡ぎ縫い止め全てを覆う、風も光も遮る目。画竜点睛の絆を点せ、デスモス・ドラゴン!」
読岡の声に応えて辺りに白く光る糸がどこからともなく集まってくる。それはときどきくるくるとひとりでに編み込まれて花の形を取り、再びほどけてはやがてひとつの大きな塊を形作っていった。修威はそこに鉛筆槍を突き立てることもできずにただ両の足で地面を踏みしめて睨むことで逃げずに耐える。
光の糸の最後の一筋が巻き取られようとした、そのとき。
ぱさ。
ひどく軽い音と共にせっかくまとまった糸が細切れになりながら飛び散る。光の粒子のようなそれがきらきらと辺りを幻想的に彩る中でこの場にいなかったはずの人影がするりと歩み出て読岡へと迫る。
「読岡智。全世界共通保安法規第130条建造物侵入罪及び魔法行使に関する全世界共通法規第7条不当魔法行使罪によりあなたを現行犯逮捕する」
夜空を満たす声が辺りに響いた。白銀の光沢をもつ長い剣の先が読岡の首に触れている。声と剣の持ち主は銀とも青ともつかない不思議な色をした水のような髪を頭の両脇で結わえてなびかせながら、それをそっと押さえるように鮮やかな空色のひさし付き帽子を被り、その下からやはり鮮やかに青みがかった両目を鋭く読岡に向けていた。糊のきいた白いシャツと引き締まったシルエットの青いパンツスーツを颯爽と着こなし、肩に階級章らしき銀青色の十二芒星を3つ連ねたその人物は修威の記憶にある姿とは随分違っているが、しかしやはり修威の知る人物で間違いないようだ。
「……え。本庄、先輩?」
「うん、そうだよ。修威、犯罪者逮捕への協力をとても感謝するよ」
剣を持つ手と視線は全く動かさないまま、明らかに軍人らしい格好をしたルトが修威のよく知る明るい声で返事をする。修威は軍服の種類などについての知識は何ひとつ持っていないが、それがたとえば街の警察官が身につけているものより随分と格調高い作りになっていることくらいは見て分かった。剣を突きつけられている読岡ができるだけ顔を動かさないように緊張しながら口を開く。
「ギーズ軍の将校ですカ。随分と若いようですガ、本物みたいですネ」
「もちろんぼくは本物だよ。GEAS、全世界永劫連携共同体制空宙軍所属、本庄ルトだ」
「これはまたとんでもない大物が出てきたものでス」
そう言いながら読岡はゆっくりと両手を顔の横に挙げる。ルトはにこりと微笑むと素早く読岡の両手を彼の背中で拘束した。修威はその様子を呆気に取られながら眺めるしかない。
国際的な組織などについてほとんど知らない修威だが全世界永劫連携共同体、通称ギーズについては小学校の社会科で教わったので知っている。それが国際紛争の解決や惑星外からの脅威に対する防衛を任務とする軍を所有していることもなんとなくは知っている。しかしルトがその国際宙軍に属しているなどとどうして想像できただろうか。正直にいえば全く意味が分からない。目の前にデスモスが現れたときよりももっと信じられない。
「無事? 修威ちゃん」
真後ろから聞こえた声に修威は思わず「ふのわっ」と叫びながら跳び上がった。そして振り返った先で柔らかな呆れ顔をしている真奈貴を見る。どうしてだろう、たとえばいつも授業中に居眠りをしていた修威が起きて最初に見るのはもっとずっと冷たい視線だというのに、今向けられているその青色の眼差しの方がひどく遠くて寒いもののように感じられるのは。
真奈貴はルトの方へ歩み寄ると何事かを耳打ちし、それに応えてルトがにこりと笑いながら「オゥケイ」と片手を挙げた。ただそれだけのやりとりでことは済んだらしく、真奈貴は修威のいる場所まで戻ってくる。彼女の長い黒髪が、制服のプリーツスカートが、辺りに吹く風を孕みながらもそれを支配するかのように舞う。修威の目の前に来た真奈貴は一瞬だけ目を伏せて、そして何かを言おうと口を開きかけ。
真奈貴、とルトが少しだけ急かす調子で呼んだ。いとこの声に真奈貴は軽く溜め息をつきながら顔を上げる。
「修威ちゃん、ちょっとこれ持ってて」
真奈貴はそう言うと持っていた数冊の文庫本を修威に押し付けてルト達と共に道の向こうへと歩き去った。修威は預けられた本のうちの1冊を何気なく手に取り、表紙をめくる。赤いカバーがかけられた表紙をめくると真っ白な扉。さらにめくって白紙。めくってもめくっても、その本には何も書かれていない。修威は黙って本を閉じた。
「……行こうぜ、ぽくじん。金北先輩を助けてあげないと」
修威がそう言って軽くその脚に触れると、ぽくじんは黙って修威を見下ろしながら頷いた。
「金北せんぱーい、遅くなってすんませーん!」
元の大きさにまで縮小したぽくじんを小脇に抱えて修威は大声で呼ばわりながら自治会室のドアを開け放つ。返る応えはなく、修威は玄関に靴を脱ぎ散らかして大股で室内に踏み入る。どかどかと乱雑な足音が響くが気に留めていられない。どっどっとせわしなく鳴る心臓の音が修威自身の耳にいやというほど大きく響いている。
「金北先輩! 生きてますよね! 生きてなかったらすっげー困るんですけど!」
だん、と一際大きな音を立てて修威が部屋に踏み込むと、薄暗がりからふわりと甘い香りが漂ってきた。そして次にくつくつと可笑しそうに笑う声が。早速肩の力が抜けていくのを感じながら修威はぽくじんをぎゅうと抱き締める。
「アップルティー?」
「ご名答、はいどうぞ」
金北誉は舟雪ほどではないもののそこそこに背が高い。体質のせいか細身であるがシャツの上からでも分かるほどに鍛えられた身体をしている。修威は尖らせた唇の内側で強く歯を食いしばりながら、色白の手から差し出されたマグカップを受け取った。代わりにぽくじんを目の前の先輩男子へと差し出す。
「ありがとう、修威サン」
声は修威の頭の上から聞こえて、腕の中からぽくじんの重みが失せる。修威は顔を上げることなく黙ってカップの中の波紋を見つめた。爽やかな甘い香りと温かな湯気が息をする度に鼻の奥へと吸い込まれる。何も言えない。
「お疲れ様だったねぇ。ボクならこの通り無事に生きている。たくさん心配をかけてしまって本当に申し訳ない。そしてぽくじんクンを届けてくれてどうもありがとう。……どうか泣かないでくれたまえ」
ぽんぽん、とあやすように優しい手が修威の頭を撫でている。誰が泣くものか、と修威は胸の内だけで悪態をついた。心配だって少しはしたがそこまで切羽詰まった気分でいたわけでもない。疲れはしたがそれは別に誉のためだけというわけでもない。謝罪の言葉を言わせたい相手を挙げるならば読岡智の一択である。誉は修威を買い被りすぎなのだ。こんなに温かくて良い香りのお茶を淹れてわざわざ待っていてくれるような、そのような丁寧なことをされるいわれなどどこにもないというのに。
それでもこみ上げてくる感情はきっと安心だけでなくもっと他の色々なものがごちゃごちゃと混ざり合った結果生まれたよく分からないものに違いない。誉が考えているような尊いものでないことは確かだ。だから。
小さく小さくなってしまえ。想いが涙になる前に。
「……どもっす、金北先輩」
少しだけふてぶてしく言って、修威は受け取ったマグカップの中のお茶を一気に飲み干す。ほどよい温さのお茶が乾いた喉に優しく落ちていった。顔を上げ、にやりと笑う。
「騒ぎは解決したっすよ。俺らの勝ちです」
「さすがは期待の新人魔法使いだ。明園修威サン、勝利おめでとう」
「ういっす」
楽しそうに目を細める誉に向かって修威は顔いっぱいで笑いながら思い切りガッツポーズを決めてみせた。
執筆日2016/09/30




