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さわさわと音を立てて緩やかな風が吹いている。読岡は巨大な木人を前に何をどうしていいか分からずにいるようだった。それはそうだろうな、と修威もまた巨大なぽくじんの足元に立ってその大木のような胴体を見上げた。これだけ拡大してもなおぽくじんの表面はなめらかで、作り手である雄也の丁寧な仕事ぶりが窺える。それよりもさて、一体ここからどうしたものだろうか。
ぽくじんを拡大させたことで、読岡の用意した怪物・デスモスもたじろいでいるように見える。大きさでは負けていないということで修威の中にも少しばかりの安心が生まれていた。そしてその上で今何をしなければならないのかを考えたとき、修威は雄也に頼まれたことを思い出す。彼はぽくじんには魔法の力が働いていると言っていた。その力で読岡の魔法による誉の身体への影響を打ち消すことができるはずだとも言っていた。舟雪の話によれば読岡の魔法というのはあの奇妙な光る糸……絶縁糸によって術者と外界とを隔てることで魔法を使えないようにしてしまうものらしい。魔法を使うには術者の身体や意識が外界に触れていなければならないのだ、とも聞いた。おそらくその辺りは魔法理論の授業でも教えられていたのだろうが生憎と修威の記憶には全く残っていない。授業の記憶が残っていなくとも先日バスで乗り合わせた際に読岡が修威に対して絶縁糸を使ったということは想像できた。だからわざわざ隣の席に座ってきたのかと今更ながらに納得する。
ともかく、ぽくじんが近くにいることで修威に作用していた読岡の魔法の効果がなくなっていることは間違いないようだ。元々修威は自分でも意識しないままに普段から己の記憶や感情の一部を縮小していた。それが読岡の絶縁糸の効果で魔法を解かれたために何ともいえない気分の悪さに苦しめられることになった。先程もぽくじんに化けた読岡に触れられただけで鉛筆槍にかけた魔法を解かれてしまっている。しかし今はぽくじんがいることで、ぽくじん自身に作用している修威の魔法が読岡の魔法から守られていると考えられる。何故ぽくじんにそのような効果が備わっているのかは雄也に聞かなければ分からないところだろうから今は気にしても仕方がない。そもそもどうして課外授業の時間でもない普段から修威や誉の魔法がその身に作用しているのか、そこからして修威の知識の範囲を超えているのだ。おそらく修威が魔法について知っていることというのは実はとても少ないのだろう。座学の授業のほとんどを居眠りしながら過ごしていたことを差し引いても、だ。
「うんそう多分そう、起きててもこの辺はそう、多分」
誰にともなく言い訳がましいことを呟きながらひとりうんうんと頷いていた修威の後ろで「あはは」と笑う声がする。ぽくじんの脚越しに振り返るとそこには壊れた壁の陰に隠れるようにして武野澤教諭が立っていた。そういえば舟雪が言っていたのだったか、彼がこちらで待っていると。
「やあ明園さん、こっち」
「どうも、武野澤先生」
修威が軽く会釈をすると武野澤教諭は少しばかり優しい目で頷いてからふと目の前の巨大な木人を見上げる。
「すごいねー、ぽくじんがこんな風になっちゃうんだ。これを想像できる明園さんは間違いなく優秀な魔法使いになれるよ。いや、もうなっているのかな」
「こいつをそうやって余裕の表情で見ていられる武野澤先生も相当変な人っすね」
「うん、よく言われる。でもさすがにこれを予測することはできなかったなー。だってそうだろ、こんな現実離れした光景がふと頭に思い浮かんだところでまさか本当になるなんて信じられないよ。それを“ありだな”って思える君が可能性を現実にしたんだね」
武野澤教諭の声には修威がこれまでに聞いたことのない類の色が混じっていた。なんだろうか、と考えて修威はそれが称賛だとか敬意だとかいう系統のものであることに思い至る。そんなまさかと疑いながらも修威はそれを声に出してみる。
「褒められ、た?」
「褒めたんだよ。明園さん、そろそろ真面目に座学も聞いてくれたらかなりの成績が取れるんだけどなー」
「あー、すんませんそりゃあ無理ってもんです。俺教室の椅子に座ると10分で寝るんで」
「わー。あはは」
武野澤教諭は垂れ気味の目尻をさらに下げがちにして笑う。笑っていられる状況なのかどうかはかなり怪しいところなのだが不思議と彼に焦った様子はない。普段は呑気な修威ですら今夜はさすがにいくらかなりとぴりぴりと緊張した気持ちでいるというのに。そして何より自治会室で体調を崩しながら待っているだろう誉と、研究林で読岡と戦っただろう真奈貴達のことが気がかりでならないというのに。
読岡は修威と武野澤教諭のやりとりに気付いているのかいないのか、じっと動かずに巨大ぽくじんを見上げている。向こうが仕掛けてこないのをいいことに修威はもう少し教諭と話をすることにする。
「武野澤先生、あの」
「あ、大丈夫だよー」
穏やかに、それでいて急所に切り込むように隙のないタイミングで武野澤教諭が口を開いた。普段は赤茶に見える瞳が今夜は妙に赤い。まるで何もかもを見透かすようなその目は修威の知る誰かに似ていた。
「大和瀬さん達は無事だし、金北くんも変わりない。大丈夫」
ああそうか。武野澤教諭の声を聞きながら修威はその目が誰に似ているのか思い出す。真奈貴の父親で養護教諭のジョージ・大和瀬だ。彼の青い瞳はいつだって修威をひたと見据えてどんな奥底さえも見通してしまう。今の武野澤教諭はそのまとう雰囲気すらもジョージに近いように思えた。
「言い切るんすね、大丈夫とかそういう。……適当じゃ許されないことを」
「うん。適当に言っているわけじゃないからね。僕は、僕の魔法は何かをすることができるようなものじゃないけれど、それでも君を安心させることはできるさ」
武野澤泰地、レーネ大和瀬高等学校の魔法理論担当教諭で木人部の顧問。年若く話しやすいために生徒達からも慕われている気のいい彼のことは修威も嫌いではない。しかし彼について特に知りたいと思ったこともこれまではなかった。今、修威は初めて彼に質問をする。
「武野澤先生の魔法って?」
「明園さん、今更それを聞くのかー。授業中に何回か話題にしていたんだけどなー」
「すんません。ご存知でしょうけど寝てました」
「授業中の明園さんって寝ている姿しか思い浮かばないもんねー。千里眼、だよ」
さらりと、言葉の流れの中に紛れさせる調子で武野澤教諭は修威の疑問への答えを口にする。それから少しだけ目を伏せて「時間や場所を超えて遠いところの出来事が見える、そういう魔法だ」と付け足した。なるほど、だから真奈貴達の無事も分かるということらしい。
「分かりました、だったら……車出してください。金北先輩んとこにぽくじん届けないとならないんで」
「あ、それがねー」
本来の目的を思い出した修威が言ったところで武野澤教諭は急に明らかな困り顔を表に出して肩をすくめる。
「いやー、うっかりしていてね。少し目を離した隙にタイヤをパンクさせられちゃったんだ。それを伝えようと思って待っていたんだけど」
「……あ?」
へらりと笑った武野澤教諭を見て、修威は少し考えてから読岡の方へと振り返った。するといつの間にかこちらへと視線を移していた読岡がにっこりと笑って右手の指を2本立てて何やらはさみのような動きをしてみせる。
「フフフ、逃がしはしませン」
「だから余裕で見てたのかよ……」
「この辺り一帯を絶縁糸の網で囲ってありまス。木人を巨大化させたところでこけおどしにしかなりませン。網に触れればどんな魔法も消えてしまうのですかラ」
「……ふん」
それはどうだろうか。読岡はぽくじんが自分の魔法を打ち消す力を持っていることまでは知らないらしい。修威もぽくじんのその力がどこまで有効なのかはさっぱり分からないので何ともいえないのだが、少なくとも車のない状況で学校の敷地から脱出する方法をひとつ思いつくことはできた。要するに読岡にも彼が張り巡らせている絶縁糸にも触れなければ、今ぽくじんを巨大化させている修威の魔法が解かれることはないのだ。
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ、真奈貴ちゃん達が無事ならもうここに用はねぇんだ。……行くぞぽくじん!」
『はイ!』
修威の呼び掛けにぽくじんが答える。その声は校舎より遥かに高く、星の瞬く天の頂から降り注ぐように辺り一帯へと響き渡った。
* * *
「あれが明園修威の魔法か。梶野、お前が何を危惧していたのか今になってやっと分かった」
レーネ大和瀬高等学校から一番近くにある街、その一角でぼさぼさの黒髪を風に揺らしながら雄也が呟いた。すぐ傍にいた梶野がひしゃげた鉄パイプの具合を確かめながら苦笑する。
「遅いよ……」
「すまない。だがもしも明園がレーネ大和瀬に、S・S・R適用校に入学していなかったとして、果たしてあいつは自分の魔法の持つ可能性を見逃し続けることができただろうか」
淡々と言う雄也の足元には黒い毛並の獣が2頭、折り重なるようにして倒れ伏している。雄也は獣の額から転がり出てきたオレンジ色の石を拾い、改めて梶野を見やる。その顔にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「お前がどれだけ阻もうとしても、結局のところ選ぶのは明園自身だぞ」
そう言われて梶野はふうと息を吐きながら天を仰ぐ。建物と建物を結び付けるかのように張り巡らされた光る魔法の糸が薄寒い夜風に揺れてひうひうと鳴いている。異常な夜だ。
「……そうだね、分かっているよ。でも僕は僕でやっぱり彼女を引き留めたいんだ。知らなくていいことはたくさんある。雄也……君だってそういうもののひとつだろ」
「ああ、そうだな」
雄也はひとつのためらいもなく頷くと笑みを浮かべたまま街の向こうを視線で示す。夜に沈んだ黒い街並み、それらを飾る光の糸。そのさらに向こう、レーネ大和瀬高等学校があるはずの盆地に異形の影がそびえている。それは校舎よりもずっとずっと大きく、たったの1歩で研究林の一角を踏み潰しながら盆地の外へと歩み出た。
「ぽくじん……立派になったな」
「何を嬉しそうにしてるんだよ……というかしゅいちゃん、あの状態のぽくじんで街まで来る気……?」
「踏み潰されないように気を付けよう」
「もうそういう次元じゃないと思うよ」
巨大ぽくじん、もとい超巨大ぽくじんはゆったりとした足取りで、しかし見る間に街へと迫ってきているのだった。
執筆日2016/09/30




