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何故だろうか。殺されてもおかしくない状況にあるというのに恐怖が薄い。いつぞやあの通称“野犬”と対峙したときの方がよほど切羽詰まった恐ろしさを感じていた。
「……そうか、お前の目にはあれがない」
か細い声で言った修威に読岡がわずかに微笑んだ、その瞬間だった。
「その手を離しなさいな、背高のっぽのお兄さん」
耳の奥に絡み付くような声音が高らかに言い放ち、同時に真赤なハイヒールブーツの鋭い踵が真上から見事に読岡の脳天へと突き刺さる。ぎゃあともわあともつかない声と共に読岡の手の力が緩み、修威はその場にどさりと崩れ落ちた。せき止められていた空気が口と肺との間を往復して行き場を失い、むせる。
「えほっ……どっから飛んできたんすかルビィ先輩……けふっ」
「修威ちゃん、生きてる?」
穏やかな声に顔を上げるとそこには真奈貴が赤い表紙の文庫本を手にしながら修威を気遣わしげな目で見下ろして立っていた。まなきちゃん、と呼んだ修威の声はかすれて言葉にならず、それを聞いた真奈貴が少しだけ顔をしかめる。
「気が付いたらいないんだもの、探したよ」
「悪ぃ……多分あいつが何か魔法を使ったんだ」
「まだ見えてないの?」
呆れた様子の真奈貴が軽く髪を揺らすと、どうしたことだろう。急に辺りの景色が変わる。研究林の木々の間を縫うようにして白く光る細い細い糸が張り巡らされ、それが修威の手足にもぐるぐると巻き付けられているのだった。つまり修威はこの糸に引っ張られてここまで連れてこられたということか。
「これって……自治会室アパートの周りに張ってあったやつと同じ?」
修威は糸を力任せにぶちぶちと引きちぎりながら尋ね、真奈貴がこくりを頷きを返す。
「そう。つまり犯人は」
こいつ。そう言って真奈貴が指差した先で読岡が脳天を押さえながらゆらりと立ち上がる。雛摘寧子ことフェリシア・ルビィは一度木の枝の上に跳びあがり、それから素晴らしい身のこなしで光る糸の張られていない地面に降り立った。白い衣装がふわりと舞う。
「うふふ。少しは痛みを感じてくれたかしら、お兄さん」
「少しどころじゃありませン。かなり痛いでス、お嬢さン」
「あらそう。しゅーいくんはもっと痛くて苦しかったと思うわ。ほまれんくんも」
寧子の声が低くざらざらとした感触と熱を帯び、金色がかって輝く瞳が読岡を睨み付ける。その顔にいつもの微笑みはない。
「修威ちゃん、動ける?」
真奈貴が尋ねてきて、修威は答える代わりに立ち上がった。どうやら何とか動けるようだ。それを見た真奈貴はくいと首を校舎の方角へと振る。
「早く、行って。ここは私達が何とかするから」
何とかって。そう言いかけた修威の肩を後ろからぽんと叩いた者がいる。振り返るとそこには据え置き型ゲーム機用の赤いコントローラを持った舟雪がじっと修威を睨み付けながら立っていた。
「そこらじゅうにあの糸がある。引っ掛かったら魔法が切れるぞ」
「どういう意味だそりゃ」
「絶縁糸、っていうらしい。魔法を使うにはオレ達の身体や意識が外の世界に触れていないとならないそうなんだが、あの糸は一時的にその接触を遮断する……ってさっき武野澤先生が教えてくれた」
「先生そういうことはもっと早く言ってくれ!」
「文句は先生に直接言えって。……校舎の方で待っててくれてるはずだ。伝えるべきことは伝えたからな。後はあんた自身で何とかしてくれよ」
そう言い終えると舟雪は赤いコントローラのボタンをぐいと押し込んだ。修威の身体が宙に浮き、さらに舟雪がコントローラのスティックを手前に倒すことで修威もまた後ろへと強く引っ張られる。そしてそのままぽーんと軽く木立の隙間に放り投げられた。目を白黒させながら立ち上がった修威に、木立の向こうから舟雪が叫ぶ。
「走れ、明園!」
「っ、ワンコお前」
「うるせえ急げ、頼まれたのはあんただろ。好先輩に頭まで下げられてんだろ。だったら絶対にそれだけは」
舟雪の声が不自然に途切れて修威は思わず元来た方へと駆け出す。
「来るんじゃねえ!」
大丈夫だ、と木立の陰から舟雪の声が聞こえる。その向こうで何か白く大きなものがうごめいたように見えた。風もないのに木々が揺れ、ざわざわと不安をあおる音を立てる。
「真奈貴ちゃん、苗田、雛摘先輩。……そこは任せた!」
我ながら無責任なことだと思いながら修威は二度と振り返ることなく研究林の外に向かって走り出した。
深い林の奥からやっとのことで出てみると、幸いなことにそこはもう技術室のある特別教室棟のすぐ近くだった。辺りに光る糸は見えない。単に修威の目に見えていないだけなのかもしれないが、見えないのであれば気にしても仕方がない。修威は校舎に沿うようにして走りながら特別教室棟の入り口を目指す。そのときだった。
それまでわずかながら星明かりに照らされていた視界が急に暗くなり、さー、という微かなノイズが修威を包み込むように鳴る。修威は立ち止まって視線を左右に振った。特に変わった様子はない。強いていうなら左手の壁の向こうはちょうど技術室だ。そこの窓を開ければすぐにでも中に入れるのに、と思ってみても残念ながら窓の鍵は内側からきちんと閉められている。
さー、という音は少しずつ大きくなっている。視線だけで上を見ると白く光る細い糸が束になって宙を舞っているのが見えた。どうやら音は糸がこすれ合うことで生まれているらしい。正体が分かれば安心するかと思いきやそういうわけにもいかない。とうとう修威は苦い顔を隠さずにそうっと背後を振り返った。果たしてそこには。
修威は息を呑む。一度目は無意識に、そしてそうと気付いてもう一度。漫画のようにごくりと音を立てる喉に空気の塊が落ちていき、出かかった悲鳴ごと腹に収まる。ふうー、と大きく息を吐き出してやっと修威は声を漏らした。
「うっわ……これはやばい」
ぎゃあ、とかどわあ、とか言わない代わりに口をついて出たのはそんな全く意味をなさない言葉だった。修威の思考はほとんど停止し、ただ目の前にそびえる奇怪な巨体を見上げるばかりである。見上げたはいいもののそれが何であるかを理解するまでには至らない。というより、修威はそんなものは知らない。
そう、まるで巨大なペンギンのようなずんぐりとした身体に蜘蛛のような4対の節のある脚をもって直立二足歩行をし、頭にはアリジゴクのような大顎を乗せてさらにカブトムシのような硬い殻に覆われた翅を背負った真っ白な生き物など世界のどこにも存在しないはずだ。そもそも校舎の3階に軽々と届きそうなほどの高さを持った生物が放し飼いになっていていいはずもない。たとえもしそれが非常に大人しい性格で人に危害を加えることがないとしてもその大きさではいつどこで事故が起きるか分かったものではないではないか。そしてそれは甘い期待に反して大人しい性格などではなくて。
「うわやめろー!」
修威の頭の上を真っ白な大顎がごおっと音を立てて通り過ぎた。がしゃん、とずどん、の間のような轟音と共にばらばらと何かが落ちてくる。修威は両腕を挙げて頭を庇いながら思わずその場にしゃがみこんだ。謎の白い生物は校舎の3階に突き刺した顎を力任せに引き抜く。そしてまたばらばらと壁の破片が修威の上に降りかかる。
「いっ……い、意味がっ、わっかんねぇえ!」
叫ぶ修威は涙目だ。そこへ白い怪物の後ろから堪えきれないといった様子で笑いながら長身の男が姿を現す。
「フフフ……これはデスモス。ワタシの竜でス、強そうでしょウ?」
「……読岡!」
追いつかれた。真奈貴達はどうしたのだろうか。単にまかれたのか、それともこの怪物にやられでもしたのだろうか。読岡は竜といったがこの白くずんぐりとした怪物のどこがどう竜なのだろうか。蜘蛛のような脚はいやに細いのに一体どうやってたった2本でその巨体を支えているのだろうか。見た目に強そうかどうかはともかくとしてその破壊力は修威が対応できる範囲を大きく超えているのではないだろうか。
一瞬のうちに流れた怒涛の思考が修威にもたらしたのは、半ばやけっぱちの覚悟だった。
「っ……ぽくじん!」
修威は自分の魔法の限界を知っている。修威の魔法は対象物の大きさを変えることができるが、あまりに構造が複雑なものやそれ自体が意思を持って生きているものを対象にすることはできない。生き物の大きさを変えることはできないのだ。そしてそれは課外授業の時間に動いて喋る木人も例外ではない。その時間に限れば木人もまた生き物なのだ。ましてや課外授業の時間でもないのにいつだって自由に動いて喋るぽくじんはなおさら生き物であるように感じられる。
しかし改めて考えてみるならやはりぽくじんも木人なのだ。その原材料は伐採されて加工された木材で、設計をして組み立てたのは雄也で、そこに宿っている生命らしきものは雄也の魔法に過ぎない。そしてぽくじんの置き場所は基本的にいつも今修威のすぐ横にある技術準備室なのだ。
「木人のぽくじん! そこにいるな。お前はいつでもそこにいる! 俺はお前の声も態度も重さも感触も知ってる。歳沖部長がお前に期待していることも知ってる。俺はお前を知ってる。だから……俺の魔法を受け容れて大きくなってくれ!」
修威が居眠りばかりしていた魔法理論の授業で武野澤教諭がこう教えていた。魔法の基本は対象を理解することだと。数を操作するのであれば数学を、言語と想像を連結させて現実に召喚しようというならば文学と芸術を学ばなければならない。物体の大きさを変化させようというのであれば、それが何でできていてどういう性質を持っているのかということを知らなければ。逆に言えば、それを知りさえすればどんなものでも大きく、あるいは小さくできる可能性があるということだ。
修威の魔法が効果を発揮するのは何も単純な文房具だけではない。証拠に修威は自分の古い記憶を小さく小さくして頭の片隅にしまいこんでいた。それが読岡の絶縁糸によって魔法を封じられたせいで元の大きさになって漏れ出してきたのだ。記憶を司るのは主に脳だが修威はその仕組みを知らない。それでもそれを小さくできたのは、修威自身が己の記憶を“そういうものである”と認識して規定できていたからだろう。修威が知りさえすればいい。修威が知っていることを確かなものと思えればそれで充分なのだ。
修威の魔法は、修威が知りうるあらゆるものの大きさを自在に変化させることができる。
「……これはなんということでしょウ」
読岡は頭上から降り注ぐ瓦礫を振り払いつつ呆然と呟く。デスモスを背後に従えた彼の目の前には彼と同じように巨大な影を背にした小柄な人間が立っている。それは無造作に羽織った学生服を微かな夜風になびかせ、口元に不敵な笑みを浮かべていた。校舎の2階天井までを易々と打ち破った巨体がのっそりと動いて星明かりの下にその姿を晒す。
『フフフ……ついにワタシの真の力を発揮するときがきましタ』
「いや、真の力も何も単にでかくしただけだから。つーか校舎思い切りぶっ壊しちまってどうしようってのが今一番気がかりなんだけど」
不敵な笑みを困り顔に変えた小柄な人間に、木で作られた巨大な人型の物体がのっぺりとした口のない顔でそれでもいやにはっきりとした声を出して返す。
『問題ありませン。全部コイツの責任にしましょウ』
「やめてくださイ」
巨大化したぽくじんよりも少しだけ高い声で、しかしよく似た発音で読岡はきっちりと文句を言ったのだった。
執筆日2016/08/31




