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「じゃーまあ、俺らは行ってきますわ」
軽い調子で言って廊下に出ようとした修威だったが、待ってください、という言葉が聞こえた気がして足を止める。
「明園さんっ」
高い声に振り返るとそこにはえるむがいて、何やら必死な眼差しで修威を軽く見上げるようにしていた。えるむは修威よりもいくらか背が低い。それでも前に会ったときにはそれほど身長差を感じなかったというのにどういうわけだろう。ぼんやりとそんなことを考える修威の前でえるむは困ったような顔で言葉を継ぐ。
「あのっ……大丈夫、ですか? 無理は、しないでください。辛いならここで私達と一緒に待っていてもいいんです」
「……へ、あ?」
えるむの言葉を後半からしか聞いていなかった修威は一瞬何を言われたのか分からずにきょとんとする。えるむの丸い目が気遣わしげに自分を見ていることに気付き、そこでやっと彼女の言わんとしていることが理解できた。このひよこのような先輩は修威を心配してくれているのだ。
「えーっと、大丈夫っす。俺は、俺のは、金北先輩みたいに生命にかかわるようなものじゃないんで」
「で、でも……しばらく学校に来られなくなるくらい、そのくらい苦しいこと……なんでしょう?」
そうかもしれない。修威もはっきりとそう意識していたわけではないが、実際にここしばらく学校を休んでいることが何よりの証明なのかもしれない。読岡智と出会ったことで修威が普段から無意識のうちに自分の心に対して使っていた魔法が消えたか、あるいは弱まった。そしてそのせいで修威は体調を崩した。思い出したくない記憶や呼び起こしたくない感情が抑えきれずに溢れ出そうとするのを宥めるだけで精一杯だったのだろう。それを認識できている今、修威は自分の魔法の意味を初めて理解しようとしている。
「苦しいとか辛いとか、そういうの……あっても別に、生きられるし」
鉛筆を大きくするだけではなく、自分を苦しめるもっとぼんやりしたものの全てを小さくしていた。その正体がはっきりと掴めないままに使っていた魔法は修威の感覚そのものを鈍くしていたのかもしれない。
「あとでたっぷり寝ます。そしたら少しはすっきりするっしょ」
「……明園さん」
魔法の使えるこの夜、“演算”という魔法を持つえるむの目に修威はどう映っているのだろう。たとえば負の感情の大きささえも数値化されて見えているのだろうか。だとすれば随分とご苦労なことだ、と修威は思う。他人の抱える何かしらのよくないものが計算のできる数字で見えるとすれば、相手に対して否応なく過敏になってしまうだろう。気遣いの延長線上には気疲れがある。
「気にしないでいーっすよ、ひよこ先輩」
修威がそう言って笑ってみせたところへえるむとはまったく正反対の表情をした諒太郎が部屋から出てくる。彼はやはりえるむとは逆に修威を見下ろして睨み付けながら、まるで脅すような調子で声を出した。
「おい、明園。お前がとろいせいで誉が死ぬようなことになったら、女だろうが関係ねぇ。ぶん殴る」
「やなこと言わないでくださいよ」
物騒な仮定はやめてほしい。そう思った修威の目の前で諒太郎の大きな身体が縮んだ。いや、そうではない。諒太郎が修威に向かって深々と頭を下げていたのだ。面食らう修威に対して諒太郎は顔を上げることなくただ、告げる。
「……頼む。早くあいつを助けてくれ」
「好先輩」
この手の早い先輩は一体何を思って自治会執行部に身を置いているのだろう。書記という肩書きのまるで似合わない武闘派がそこにいるにはきっと何か理由があるに違いない。たとえばこうして悔しそうに、恐れるように、そして託すように声を震わせて修威に懇願する彼の姿がその答えの一端であるとすれば。
「……うっす。できる限り、っすけど。頑張ってきますんで。そっちも」
修威は言葉がうまくない。ただなるべく素直に、真摯に伝えようと思った。約束をできるほどの自信はまったくないが、力を尽くそうという気概くらいはある。諒太郎は顔を上げないまま「ああ」と低く頷いた。
自治会室を後にした修威達は外に出るべく元来た廊下を辿る。今度はうさぎを見ることはなかった。あれは本当にうさぎだったのだろうか、と修威はどうにも納得できないまま不審に思いながら時折窓の外をみやる。やはりそれらしき小動物の姿は見当たらない。
「しゅいちゃん、止まって」
突然梶野がそう言って後ろからぐいと修威の肩を掴んで引く。うお、と声を上げた修威はすぐに自分の足元に光る花を見付けた。そう、花である。淡い光を放つ白い小さな花が廊下のタイルの上に生えている。先程同じ場所を通ったときにはなかったものだ。梶野の横をすり抜けて前に出た雄也が花の上に屈み込み、静かな声で告げる。
「この花はよくないものだ」
そして彼はためらいなく白い花を踏み潰した。ライダー用であろう黒いブーツに細い糸のような花びらの欠片がまとわりつく。雄也はそれには構わずに修威達を見て淡々と言葉を紡ぐ。
「この世界ではっきりとした形をもたない魔法は花の姿をとりやすいらしい。古くからある死者に花を手向ける慣習も深いところではそこに根差しているのかもしれない」
気を付けろ、と彼は光る目で言う。
「金北に害をなしたのと同じ魔法が街のあちこちにあるに違いない」
アパートの外に出ると外はもうすっかり暗くなっていた。武野澤教諭が自分の車の方へ歩き出そうとして、ふと顔をしかめる。どうしたんですか、と尋ねた舟雪に教諭は苦い顔のままで足元の空間を指差した。
「見えないかな。うーん、ちょっと危ないねー……」
どうやらそこに何かあるということらしいのだが修威の目にも特に気になるものは見えない。先程のように花が咲いているわけでもなく本当に何もないのである。そんな様子を後ろから見ていた真奈貴がいつの間にか取り出した黄緑色の表紙の文庫本を手に武野澤教諭の隣へと進み出た。大和瀬さん、と教諭が少しだけ気遣うような声で呼んで、真奈貴は小さく頷きを返す。そして彼女は本を片手に魔法を使うための文章を唱えた。
「“見えないものがあるならば目を閉じよ。闇の中の真実を求めるには闇に踏み入るより他ないのだから”」
真奈貴の言葉が終わるより早く修威の目にはその変化が見えていた。何もなかったはずの教諭の足元でわずかに光る細い細い糸のようなものがぴんと横に張られており、それがアパートの壁を伝って上へと伸びている。真奈貴の呪文が完成したとき、光る糸は辺りの道路や建物を包むようにぐるぐると張り巡らされていることが分かった。げっ、と舟雪がのけぞって自分の足元にあった糸から離れる。
「これ……あの花と同じものか?」
「そうだな。街全体とはいかないまでもかなり広範囲に張り巡らされているようだ。……梶野」
雄也が糸を踏みつけながら友人を呼び、梶野はふうと小さく息を吐き出しながら彼の傍へ寄る。
「これは、放っておくわけにはいかないね」
「ああ。……すまないが、学校へはお前達だけで行ってくれ。俺と梶野は街の掃除をしなくてはならない」
雄也がそう言っている間に梶野は武野澤教諭の車の後部ハッチを開け、中からほどよい長さに切られた鉄パイプを取り出している。武器のつもりなのだろうか。そして梶野はハッチを閉めながら武野澤教諭を見やる。
「そういうわけですから、たけ先生。しゅいちゃん達をどうぞよろしくお願いします」
「……そうだね、ここは君達に任せた方がよさそうだ」
武野澤教諭は少しだけ苦しそうに、そして仕方なさそうに小さく首を振りながら、それでも口元に軽い笑みを浮かべてさらにふふふとこらえきれずに声を漏らす。
「参ったねー。僕よりも梶野くんと歳沖くんの方が強いって、僕自身がよく分かっちゃっているから止めることができないよ。でも、絶対に“無理はするな”よ。……大丈夫だって信じている」
穏やかな眼差しで眩しそうに目を細めて、武野澤教諭は自分より10歳以上年下の学生に向かってそんなことを言う。修威はそれを不思議な気持ちで眺めていた。背中から舟雪の声がする。
「早く行くぞ。先輩達にここを任せるならとっとと行ってとっとと帰ってこねえと」
「お、おう。張り切ってんのな、ワンコ」
「当たり前だ」
舟雪は切って捨てるように言い、それからいささか乱暴すぎたとでも思ったのか「先輩達に怪我とかされたら嫌だから」と付け加える。それはそうだ。
そうこうしているうちに武野澤教諭は車に乗り込んでいて、真奈貴も後部座席に座ろうとしているところだった。修威と舟雪もすぐに車に乗り、閉めたドアの内側から梶野と雄也を見る。梶野はこちらを見送るようにじっと視線を向けていて、雄也は彼とはまったく別の方角を見ていた。暗い夜の下で陰になった雄也の手、その指先がまるで獣のように尖った爪を光らせたように見えて。
「……」
修威がそれを確かめるより早く、武野澤教諭が静かにアクセルを踏み込んだ。
夜の街はやけに静かで、それでいてどこか張りつめた空気が漂っている。郊外に出てしばらく走ると街灯も少なくなり、やがて道は広い森に囲まれた盆地へと下っていく。昼間は緑豊かな研究林の景色も今は黒々とした影ばかりがそびえる不気味なものになっていた。そして車はレーネ大和瀬高等学校の正門前で停まる。修威達が車から降りると門が内側から開き、例によってフェリシア・ルビィの姿をした寧子が微笑みながら顔を出した。まさかここにも先回りしていたのか。
「ひょっとして勝手に中に入って門開けたんすか」
思わず尋ねた修威に寧子はこともなげに頷いてみせる。いくら現役の学生とはいえさすがにそれはルール違反だ。
「ルビィ先輩……こう言うのもなんですけど、俺に呆れられるようじゃ大概ヤバいっすよ」
「そうかしら?」
門の中に入って歩く修威の前で寧子は踊る足取りで校舎への道を辿る。しゅーいくんが呆れるのも、きっと無理ないわ。そう言って寧子はうふふと何やら秘密めいた微笑みを見せる。あのね、しゅーいくん。
「あたしは本当は猫なのよ。昔、お母さんが飼っていた黒猫なの」
立ち止まることなく修威の耳元でささやく寧子の声は軽やかで、しかし少しだけ硬い。本当は猫、と修威は寧子の言葉を繰り返す。
「あたしの魔法は“擬態”。あたしは寧子ちゃんに成りすましているの。それがきっとあたしにとっての“生きるための技能”なのね」
だからあたしにはこれが必要なの。と寧子は自分の足を覆う赤いハイヒールブーツを示す。
「魔法の時間が始まっても、終わっても、変わらないであるから。ええと、そうじゃないとあたしはあたしがあたしなのか、それとも寧子ちゃんなのか分からなくなってしまいそうでとっても怖いの」
寧子はあくまで真剣な様子でそう語る。しかしそんな彼女の表情はいつもと変わらず微笑みを浮かべていて、どこか硬い声音とはいまひとつ合っていない。修威は彼女の話が嘘か本当か判断することができずにただ「はあ」と曖昧な相槌だけを返す。修威自身の頭の中も何やらもやがかかったように不透明で、湧き上がる思考がてんでばらばらなまま漂っている。
「大丈夫なんじゃねぇっすかね」
どこかぼんやりとしたまま、修威は寧子にそう声を掛けていた。
「だって俺ら、雛摘先輩がフェリシア・ルビィだってこと知ってるし」
思えば修威が寧子、あるいはフェリシア・ルビィによって生命を助けられたのは一度や二度ではない。もしも寧子の言っていることが本当で、彼女が実は黒猫の化身なのだとしても修威が彼女に対して感じている感謝は変わらないし、掴みどころなく気まぐれで意外なことに成績優秀で時々嗜虐的で恐ろしい先輩だという彼女の印象もやはり変わらないのだ。もう二度と寧子による特別講習は受けたくない。踏むのは雄也だけにしておいてほしい。
修威の言葉を聞いた寧子はその金色がかった淡い茶色の瞳を丸く見開き、じっと黙っている。何かおかしなことを言ったかと修威が訝しく思ってそっと目を逸らそうとしたところへ、やっと寧子が口を開く。
「そうね」
声音は淡々としていた。まるで今日の天気でも話題にしているかのような平坦な調子で、見開いたままの目で、彼女の言葉はするりと宙へ滑っていく。
「行きましょう、しゅーいくん。ええと、ほまれんくんを助けないと」
事態とは裏腹に寧子はやけに弾んだ足取りで一度くるりと回ってみせる。そしてそのまま技術室のある校舎へと駆けていってしまう。
「照れてるのかな」
真奈貴が珍しいものを見たという様子で言って、修威は「そうなの?」と疑問形を返す。多分ね、と真奈貴は困ったように笑いながら頷いた。
「ほら修威ちゃん、私達も行くよ」
「お、おう。あ、ちょ、真奈貴ちゃん待っ……速い!」
背の高い真奈貴は普通に歩いても修威より先へ行ってしまう。スキップでもし始めそうな寧子と脚の長い真奈貴に置いていかれながら修威はとにかく駆け足で校舎へ向かうのだった。
その後ろを見守るように舟雪が、そしてさらに後ろから車を駐車場に置いた武野澤教諭がついてくる。まだ静かな夜、雲間から覗く星明かりが暗い校舎をほんのわずかに照らしていた。
執筆日2016/07/28




