1
本当のことがいつも良いとは限らない。何もかもを明らかにすることが必ず解決へと繋がるわけではない。知って後悔することは知らずに損をするより辛いということもある。修威はそれをよく知っている。だからたとえ全てを明かされなくてもいいと思っている。
アパート入り口のインターホンを鳴らすとえるむの声で返事があった。雄也が代表して木人部の到着を告げるとオートロックの自動扉が開かれる。迎え入れられた修威達はぞろぞろと扉をくぐって建物の中に入った。たん、と小さな音を立てて閉まった透明な扉の向こうで寧子がひとりにこにこと笑っている。
「あれ、雛摘先輩」
一番に気が付いて振り返ったのは舟雪だった。いいんだよ、とそのすぐ後ろで梶野が言う。
「寧子ちゃんには引き続きこの辺りの見張りをしていてもらおう。いいよね、雄也」
ああ、と話を振られた雄也はなんでもない様子で頷く。慣れた調子のやり取りだがどう考えても日常会話ではありえないそれを修威は半ば聞き流し、そして半ば聞き流しきれずに気に留めていた。寧子が物理的に強いということはよく知っている。その彼女を見張りとして外に残さなければならないほどに危険な事態がある、ということなのだろうか。あまり考えたくない想像だ。
「わっ」
突然、修威の足元を何か小さな白っぽいものがものすごい速さで駆け抜けた。いや、跳んでいったのかもしれない。それがどうやって動いていたのか確かめることもできないほど速く、残像が輪郭をぼかして目に焼き付いたというだけの様子で、しかし確かに何かがそこを通り過ぎた。
「どうしたの?」
梶野が声にわずかな焦りを滲ませながら尋ねてくる。今何か、と言いかけて修威はむうと口をつぐんだ。どう説明していいものやら分からない。
「なんかぱーっと行ったんすよ」
結果、改めて開いた口をついて出たのはそんなどうしようもなく意味の通らない言葉だった。梶野が首を傾げる横から雄也がひょいと顔を覗かせごく平坦な調子で言う。
「それならうさぎだろう」
「うさぎぃ?」
うさぎとはまた妙な話だ。犬や猫ならともかくうさぎがそこいらを駆け回るほどこの街は野山に近くないし、ペットであればアパートの廊下を走ったりはしないだろう。しかし雄也は妙に確信を持った様子で「うさぎだ」と繰り返す。
「どうしてうさぎだって分かるんですか」
すい、と切り込むように尋ねたのは真奈貴だった。雄也は間を置かずに答える。
「見えたからな」
拍子抜けするほどに呆気ない答えだけを置いて、雄也はさっさと先へ進んでいく。自治会室は2階の北側の角部屋だと修威が教えて、一行は狭い階段を上る。いつの間にか修威のすぐ後ろには武野澤教諭がいて、いつもと変わらない穏やかな様子で時折建物の壁や天井を眺めていた。彼は木人部の顧問である前にレーネ大和瀬高等学校の教員だ。学校運営から完全に独立した組織として資金援助などの一切を絶つことで学校側に対して一定の発言権を保っている自治会には普段教員が関わることなどない。校則に違反しない限り自治会の活動は自由で、たとえば教員の娘である真奈貴の前で自治会員の証である朱色のネクタイを見せないようにする程度には教員に対して距離を置いているというのが実際のところだ。それがこうして若手とはいえ紛れもない教員である武野澤教諭を自治会執行部が詰める会室へ招くというのはかなり珍しいことなのだろう。そうはいっても自治会はなにも学校側と対立する組織というわけではない。それは以前修威も会長である誉自身から聞いたことがある。
ここ数日、修威はよく色々なことを思い出す。忘れていたこと、忘れていた方がよかっただろうこと、忘れる必要のないことも随分忘れていたのだと気付いた。修威の頭は今、身体の調子とは裏腹にやけによく回るようだ。
目的の部屋に着くとすぐにえるむがドアを内から開けて一行を招き入れる。小柄な身体に丸い目がひよこを連想させる少女は、しかしいつも以上に緊張した面持ちで「待っていました」と告げた。
「誉くん、木人部の皆さんが着いたよ」
そう声を掛けながら歩くえるむに先導されて自治会室の中へ入ると、奥から「ああ」と細い声が返るのが聞こえる。修威は一瞬ぎくりとして、さっと室内に視線を走らせた。壊れかけたパイプ椅子と3人掛けソファのみが置かれた部屋の中はひんやりとして薄暗い。天井の蛍光灯はスイッチが切られていて、代わりに部屋の入り口近くに置かれた古い電気スタンドが柔らかい明かりを灯している。呼び出しておいてすまないねぇ、とソファの上から声がした。
そこでは誉が蒼白い顔をしてぐったりと横たわっていた。調子悪いんすか、と声を掛けた修威に誉は弱々しい笑顔を向ける。
「ありがとう修威サン。キミにこれ以上心配を掛けたくはなかったのだがね、残念ながらここに移動するまでに体力を使い果たしてしまったようだ」
「誉くんは諒太郎くんと一緒に学生寮からここまで来たんですけど、その途中で“野犬”に遭遇したんだそうです」
えるむが言って、ちょうどそこに隣の部屋から癖のある髪を伸ばして背中でひとつに編んだ大柄な少年、好諒太郎が苛立った様子で姿を現した。彼は修威達を見るとますます不愉快そうに顔をしかめて、それからまず誉のソファへと歩み寄った。
「目ぇ覚めたのか。……無理させた、悪かった」
項垂れた諒太郎がどのような表情をしているのか、修威の位置からは窺うことができない。ただその声はひどく悔しそうで、対する誉がごく明るい調子で「いやいや」と苦笑するのがむしろ痛々しく思えるほどだった。
「交戦したのか」
雄也が尋ねて、諒太郎が顔を上げる。
「……見た目は大型犬だが、ありゃあ動物じゃねぇ」
「ああ……知っている。こちらからはそれについての情報を提供できる。代わりにというわけじゃないが、そちらの持っている情報も共有させてもらいたい」
「願ってもない話ですよ、雄也先輩」
そう言いながら誉はソファの上で身体を起こそうとする。そのままでいいと梶野が告げるが誉は諒太郎の手を借りながら半身を起こし、よれたシャツを直して手櫛で髪を整える。
「木人部部長、歳沖雄也先輩。そして部員の皆さん、顧問の武野澤泰地先生。ようこそいらっしゃいました。ボクこと金北誉はレーネ大和瀬高等学校自治会会長として、今起きている事態の収拾を図るべく知りうる限りの情報を皆さんと共有したいと思い、ここに皆さんをお呼びしました。また一般生徒への被害が広がる前に早急に手を打つことを提案します」
疲労の色が濃い誉の顔の中で、わずかに細められた目だけがぎらぎらとした輝きを宿して雄也を、そして修威達を見据えていた。
自治会から提供されたのは、あの奇妙な教育実習生、読岡智に関する情報だった。誉達のクラスを訪れた彼との握手の後で誉がひどく体調を崩したこと。そしてさらにえるむと諒太郎が聞き集めた話として彼らの所属する第2学年の中で15人が体調不良を訴えて学校を早退したこと、さらに早退するほどではないにしろ明らかに元気のない生徒が多く見られたということが語られる。武野澤教諭がそれらの話に頷きながらさらに他の学年でも数人の早退者がいたことを付け加えた。
「全員が読岡くんと接触していたかどうかまでは分からないけれど。金北くん、原因が読岡先生だっていう確証はあるのかい。疑っているんじゃなくて、見解を聞きたい」
「ありますよ」
武野澤教諭に尋ねられた誉は眼差しに強い意志を、口の端に軽い笑みを浮かべて答える。
「今は明かせませんが、とある筋から情報提供を受けました。読岡智氏の経歴、教育実習生として我が校に来るにあたって用意された書類等に捏造の疑惑があること。そして彼が何らかの目的を持って学校に侵入していると考えられること。気を付けてほしい、と忠告を受けたにも関わらずこの様ですから、我々も実に苦々しい思いでいっぱいですよ」
「そうだったんだね。その情報提供者はどうして教員側でなく君達自治会に忠告を伝えたんだろうか」
「事を公にしないため、と本人は言っていましたよ」
誉はわずかに肩をすくめながらそう言って、その言い方に眉をひそめた舟雪へと視線を振る。舟雪は何か言いたそうに口を開きかけて、結局黙って話を聞くべく一度目を閉じて小さく息を吐いた。自治会からの情報はこれで全部だ、と誉が話を終える。
修威達木人部からは雄也と梶野が中心になって例の“野犬”について修威達も知らなかった情報が語られることになった。まず雄也がポケットから取り出したオレンジ色の小さな石を皆に見せ、それが野犬の体内にあったものだということを明かす。驚く修威達に彼はさらにとんでもない事実を語った。なんと彼と梶野、そして寧子の3人は以前からたびたびあの黒い毛並を持つ犬のようで犬ではない獣と戦っていたというのだ。それは隕石の落ちた日に限らず、また学校ではなく街の中で突然現れることもあり、夜に学生寮を抜け出しては人知れず獣退治をしていたらしい。修威達はただただ驚くばかりだったが武野澤教諭は特に表情を動かすことなく彼らの話を聞いていた。知っていたのだろうか。知っていてそのままにしておいたのなら、それは教師という立場上どうなのだろうか。修威にはよく分からない。
雄也が言うにはそのオレンジ色の石はこの地球上にあるどの鉱物とも異なる組成を持っていて、つまりはそれこそが“野犬”と隕石とのかかわりを示す証拠だということだった。
「それが隕石の欠片で、たとえばそれを呑み込んだか何かした野良犬が危険な獣に変わったと?」
誉がそう推論をぶつけると雄也は「さあ」とはぐらかす様子で首を横に振る。
「変貌の瞬間を見たわけじゃない。ただ、この惑星の外から飛来したものと異常な攻撃行動を取る獣が関連しているということが言えるだけだ」
「なるほど。それで街に例の獣が出たというわけですな。確かに今日も星が落ちた」
「読岡智が行動を起こしたその日に」
「雄也先輩は何を確信していて、何を隠しているんでしょうな?」
「……」
雄也は誉の問いかけに答えることなく、しかし彼から向けられる疑惑と追及の眼差しから逃れることもしなかった。誉の淡い色の瞳と雄也の光る青灰色の視線とが噛み合う。言葉ではない何かが2人の間で交わされる。やがて誉の方が視線を外してはあと深く息を吐き出した。そして彼は「失礼」と小さな声で言って身体をソファに横たえる。
「今ボクにできることはもう何もありませんよ。全てを木人部の皆さんに預けましょう」
「……いいのか、金北。俺は全てをお前に話してはいない」
「お互い様です。ボクも情報提供者についてはアナタ方に教える気がありませんのでね」
「それは」
「いいんですよ、雄也先輩。自治会の長としてボクが望むのは速やかな事態の収拾と、再発の防止です。木人部の皆さんの手でそれがなされるのいうのであれば何も言うことはありません。それとも、アナタはレーネ大和瀬高等学校の生徒をこれ以上危険な目に遭わせることをよしとしますか? それなら勿論、話は別になりますな」
ソファに仰向けになった姿勢のまま誉はよく喋った。喋るためには身体を横たえなくてはならなかったのかもしれない。彼の話をその顔を見下ろしながら聞いていた雄也はしばらく考えた後、ふ、と微かな笑い声を漏らした。
「分かった、約束しよう。俺は、俺達はレーネ大和瀬高等学校の生徒達を守るために動く」
「ではそういうことで、後はお任せしますよ」
そう言って誉は目を閉じた。部屋に沈黙が降り、薄暗い空間に誉の少しだけ苦しそうな息遣いが響く。決して楽な状態ではないのだろう。意地で話をしていたのだろうが、誉の顔色は先程よりもさらに悪くなっている。修威はなんとなく見ていられなくなってそっと彼から目を逸らした。そこへ「いいかな?」と梶野が張りのある声で皆の注目を集める。
「今、僕達にできることを考えようか。ひとまずほまれんは自分の魔法のコントロールがちゃんとできるようになるまで安静にしておくこと。えるむちゃんと諒くんがいれば万が一ってことはないでしょう?」
そう言った梶野に視線を向けられ、誉の補佐を務める2人ははっきりと頷いた。えるむの魔法は“演算”と呼ばれ、身の回りのあらゆるものを数値化して認識し計算することで生じる事態を予測することができるというものだ。彼女であれば誉の身体の状態、たとえば体温だとか血圧だとかといったものを見るだけで把握できるだろうし、それが変化する兆候も分かるのだろう。そして諒太郎の魔法は“電子操作”という名前の通りのものだ。それが一体何の役に立つのかと考え、修威はああとすぐに思い当たる。
俗に言う電気ショックだ。武野澤教諭が言っていたではないか。魔法は止まった瞬間の心臓をもう一度動かすことができる。それはつまりそういうことなのだろう。心肺蘇生法、といえば修威も耳にしたことくらいはある。
なるほど、そうやって考えてみるとえるむと諒太郎の魔法は誉の生命を守るためにとても役立つものであることが分かる。魔法は生きるための技能、というのが一般論らしいがここではひょっとすると“生かすための技能”になっているのかもしれない。それが偶然なのか必然なのかは修威には見当もつかないのだが。
思考に沈んでいた修威の肩を真奈貴がつつく。顔を上げると雄也が何やら随分と真剣な眼差しで修威を見据えていた。薄暗い部屋の中でわずかに輝く青灰色の瞳は鏡めいて、いくらかの距離を隔てているというのにそこに修威の姿が映っているのが分かる。雄也の目に映る修威は彼の目をじっと見返していた。
「すんません、聞いてませんでした。俺に何か用っすか」
「ああ、今後の行動についてだ。明園、ぽくじんをここに連れてくるぞ」
「……ふい?」
何故そこであの小さな木人の名前が出てくるのだろうか。まったく意味が分からない修威に雄也はなおも「ぽくじんだ」と繰り返す。
「いや、ぽくじんは分かりましたけど。なんで?」
「あいつには魔法の力が働いている。読岡智の魔法による金北の身体への影響を打ち消すことができるはずだ」
「マジですか」
「マジだ。お前も読岡の影響を受けているんだろう。一緒に来て、ぽくじんを回収してくれ」
「……てことは、次の行き先は学校?」
「ああ」
なるほど、雄也は初めからそのつもりで武野澤教諭にも話を通していたのだろう。だから足の用意をしていたのだ。アパートの前に停められた武野澤教諭の車を思い出しながら修威は頷き、ついでにぽくじんの黒々とした穴が2つ開いているだけの顔を思い出して少しばかり力が抜けるような気分になったのだった。
執筆日2016/07/28




