2
薄寒い夜風が吹き始めた学生寮の裏手、日中は出入りの業者が荷下ろしのために駐車をするスペースに今は別の乗用車が停まっていた。うっすらと見覚えのある臙脂色のRV車の運転席から木人部の顧問である武野澤教諭が窓を開けて顔を出す。
「準備はできたかな? はい、じゃあみんな乗ってー」
「みんな、ってさすがに無理じゃないですか?」
苦笑しながら尋ねたのは梶野だった。確かにいくら大きめの車と言っても定員は後部座席を合わせて5名である。すると雄也が「問題ない」と言いながらさらりと車の後ろに回り、ハッチを開いて中から鮮やかな赤色のバイクを下ろす。相当に重そうなそれをひとりで下ろそうとする彼を見かねて梶野が手を貸した。雄也は「すまない」と言いながら友人を見て、そして危なげなくバイクを車の横に停める。
「これで全員車に乗れるだろう。……いや」
ふと思い直した様子で雄也は修威をじっと見た。
「え、なんすか」
「明園、俺の後ろに乗ってくれるか」
「ふい?」
修威が首を傾げて、舟雪がぎょっとしたように修威を見る。
「なんだよワンコ」
「ワンコって呼ぶんじゃねえ。なんであんたが部長のバイクに乗るんだよ」
「行先は自治会室だ。だが明園以外に場所を知っている者はいるか」
雄也が皆に呼び掛けて、返事はない。つまり修威が雄也の後ろで道案内をして武野澤教諭の車が後を追うというつもりらしい。そういうことか、と修威は納得したものの舟雪はまだ何やら不服そうな顔をしながら実に渋々といった様子で頷く。
「分かった。けどあんた気を付けろよ、うっかり落ちねえように」
「そーだなぁ。うっかり落ちるかもしれないからうっかり轢かないようにって武野澤先生に頼むか」
「危ねえよ! 冗談じゃねえ!」
勿論冗談ではない。舟雪は噛みつくが修威だって一応は用心しようと思って言ったのである。これまでの人生の中でバイクの二人乗りなどしたことのない修威はそこから落ちない自信などまるでない。だからこそいざ落ちても轢かれないようにしたいと思ったのだ。
そんな2人の様子を見てか、武野澤教諭が運転席のドアを開けて半身を外へと出しながら修威達に笑い掛ける。
「大丈夫だよー、僕も安全運転で行くからね」
「うっす、お願いします」
修威が答えると武野澤教諭は温和な顔に苦笑を浮かべ、舟雪は舟雪で苦々しい表情を隠しもせずにわずかに空を仰ぐ。気の早い星がひとつふたつと光る空は静かだ。そうだ、と武野澤教諭がふとその空にも似て静かな目で修威を見つめる。
「明園さん、出発前に一言だけ聞いてくれるかな。……以前にも同じことを言ったと思うんだけど」
なんすか、と答えた修威に武野澤教諭は一拍の間をあけて、告げた。
「魔法にもできることとできないことがある。例えば、止まった瞬間の心臓をもう一度動かすことはできても、完全に死んでしまった細胞を再生させることはできない。死んだら終わりなんだ。だから絶対に“無茶はするな”よ」
そして修威の返事を待たずに教諭は半身を車の中へと引っ込めてドアを閉める。ばたん、という音の後で近くに佇んでいた梶野がそっと口を開いた。
「たけ先生はなんでも分かるんだ。今のことも昔のことも、これから起こることも。そういう魔法を使える人なんだ。だから、たけ先生が大丈夫って言うなら大丈夫だし、先生が無理をするなって言うなら本当に無理をしちゃいけない」
いいね、しゅいちゃん。梶野はそう修威に言い聞かせると車の助手席、つまり武野澤教諭の隣へと乗り込む。修威は「むう」とひとつ唸ってから雄也を見た。
「……とりあえず、行くんすよね?」
「ああ。これを」
雄也はいつの間にか黒縁の眼鏡を掛けて、さらに赤いヘルメットをかぶっていた。そして彼は修威にも少し色味の異なる赤いヘルメットを差し出す。修威はそれを受け取ると一度前後を間違えてから正しく装着した。真奈貴と舟雪も教諭の車の後部座席へと乗り込み、一行は学生寮を後にする。
二人乗りだ、安全運転だといっても自治会室は学生寮から歩いて10分ほどしか離れていない。車で行けばものの数分の距離であり、そもそも車で行く必要があったかどうか疑問さえ感じるところだ。ただ、その数分で空は見る間に暗さを増していく。夏も過ぎたのだな、と修威はゆっくりと走るバイクが生み出す風を頬に受けながらそんなことを考える。
自治会室の入っている古いアパートの前までやってくると、修威は雄也にここがそうだと教えてバイクを停めさせた。すぐ後ろをついてきていた武野澤教諭の車がバイクを追い抜いてアパート前の空きスペースに停まる。ところどころが剥がれ落ちて下地のコンクリートが見えている壁の脇から黒っぽい影のようなものがたっと走り出た。思わず身構えた修威の前で、影はうふふと軽やかに笑う。
「遅かったのね、雄也。それにしゅーいくん」
「……え、雛摘先輩……じゃなくて、フェリシア・ルビィ先輩?」
「先輩は今は要らないわ。気軽にルビィと呼んでくれて構わないのよ」
だってあたしは学校を守る変身ヒロインなんだもの、と楽しそうに言うのは修威が指摘した通りの人だ。つまり本名を雛摘寧子という木人部の副部長でありながら今はその正体を隠してひらひらとしたコスチュームに身を包んだ自称学校の変身ヒロイン、フェリシア・ルビィがどういうわけか自治会室のあるアパートの陰に身を潜めていたということである。
「雛摘」
バイクから降りた雄也がヘルメットを取りながら寧子へと呼び掛ける。すると寧子は足取りも軽く彼に駆け寄り。
「ルビィよ」
そう笑顔で訂正しながらコスチュームの一部である真っ赤なハイヒールブーツの踵部分で彼の足先を踏んづけた。ううっ、と呻く雄也の顔はそれでもどこか嬉しそうで修威はとりあえず一歩後ろに下がって視線を逸らす。いつもの光景だ。いつもの光景なのだがどうしても見慣れたくない。実際はかなり見慣れてしまっているからこそ余計にそれが正常だと思いたくない。
「この感覚も小さく……うわーできそうにねぇー……」
「修威ちゃん、色々と大丈夫?」
頭を抱える修威に真奈貴がいつも通りの表情で声を掛ける。勿論大丈夫だと答えて修威はふうと息を吐いた。
「で、ルビィさん? はなんで自治会室アパートで待ち伏せしてたんすか。ここのこと知ってたんですか?」
「ええ、そうね。えるむちゃんがよくここに来ているから、きっとそうなのだろうとは思っていたの」
えるむちゃんとは誰だろうか。少し考えて修威は自治会副会長を務める芝津えるむのことに思い至った。
「あたしはえるむちゃんと同じクラスで、ええと、あの子のことが結構好きなの」
「え、そうなんすか。……なんか意外」
「そうかしら? あのね、あの子はいい子よ」
「ひよこみたいな先輩ですよね」
「そうよね、そうなの。だからとても可愛いの」
「……はあ」
寧子の言う“いい子”の基準が何なのか、修威にはよく分からない。そして寧子の薄茶色の瞳が蒼く暮れた空の下で金色がかってきらきらと輝いている理由もまたよく分からない。えるむのことをひよこにたとえた修威の言葉に反応しているらしいその様子がなにか怖い。
そこへ車から降りてきた梶野が「やあ、ルビィ」とそつなく声を掛ける。その格好を見るのは久しぶりだな、と言った梶野をちらりと見てルビィこと寧子は特に何も思うところのない様子で微笑んだ。梶野は少しだけ苦笑しながら「ちょっといいかな」と修威の目の前へやってくる。
「しゅいちゃんも覚えていると思うけど、前に黒い毛並と金色の目の犬みたいな獣が学校に入ってきたことがあったでしょう」
梶野が唐突に言い、それでも修威はすぐに当時のことを思い出して自然と顔をしかめる。
「ああ……ありましたね。確かあの後ニュースで隕石と関係あるんじゃないかとか言ってたような」
「そんな報道もあったね。隕石に含まれていた化学物質の影響で野犬が狂暴化した、なんて言っている専門家もいた。でも僕と雄也、それに寧子ちゃんは別の見解を持っている」
そこまで言って梶野は一度ちらりと武野澤教諭を見やった。教諭は車のキーをズボンのポケットにしまいながら穏やかな目で梶野の視線を受け止める。梶野は修威へと視線を戻した。
「僕達の考えでは、隕石の落下に伴ってあの獣がこの街や学校に入り込んだものだと見ている。詳しくは後で誉達に話すときに一緒に伝えるけど、あれは野犬なんかじゃない」
「……」
修威は特に驚くこともなく梶野の話を聞く。修威は二度、あの通称“野犬”と対面している。だからこそあれがただの犬でないことは初めから分かっていた。あの目はまるで人間のように感情を宿して修威達を見ていたのだ。
「……で、それで?」
「夜は獣達の時間だよ。誉が言っていたっていう教育実習生も危険かもしれないけれど、それだけじゃないっていうことを覚えておいて」
ごくり、と修威の喉が意図せず唾を飲み込む。梶野の目は真剣だ。その後ろではヘルメットを外したばかりの雄也がどういうわけかぼさぼさの黒髪をまるで猫の耳のように立てた姿で静かに修威を見ていて、隣に立つ寧子もまた冗談のような衣装に身を包みながら目を金色に光らせている。真奈貴は長い黒髪を風に流した後ろ姿で、舟雪の装備はまるで戦場に赴くかのようだ。
どうやら修威はまだ事態を甘く見すぎていたらしい。自然と歪んでいく口元に敢えて笑みを浮かべ、修威は「ふひっ」と乾いた声を漏らす。
「わけ分かんねぇっすよ」
そう言った修威に対して梶野はうんと大きく頷きながら「本当にね」と返したのだった。
執筆日2016/06/24




