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起立、礼、よろしくお願いします。それは授業を始めるための儀式であるかのように毎度繰り返される挨拶だ。修威は立ち上がるのもどこか面倒に感じてぼうっと黒板を見つめる。それを背にして立っている教師を素通しして、緑黒色をした一枚板を眺める。
今日の1時間目は魔法理論の座学だ。昨日のように課外授業があった翌日は必ず朝の1時間目が魔法理論になる。そこで課外授業の成績発表と講評が行われるのである。それで潰れた他の科目についてはどうやら心配ないらしい。以前梶野が説明してくれたところによると、生徒に配布されている時間割とは別に課外授業と魔法理論の日程が追加された裏時間割というものがあるらしく、それを知っているのは校長や教頭などの管理責任者、そして魔法理論の教師だけだという。木人部のことといい、つくづく裏の多い学校である。
「じゃあ、昨日の課外授業の成績から。出席番号順に並んで取りに来てくれー」
どこかのんびりとした様子で言う男性教師はこの学校の教師達の中では比較的若い、30歳になるかならないかの年齢だという。年代が近いせいか生徒達からは親しみやすいと評判で、本人も寄ってくる生徒達に対して楽しそうに接している。しかし修威は考える。はて、この教師の苗字は何であったか、と。どうにも人の名前を覚えるのが苦手な修威だった。
「明園さんー、出席番号1番の明園さーん」
「あ?」
「あなたが取りに来てくれないと始まらないよー」
「ああ、すんません」
がたんと椅子を揺らして立ち上がり、修威は教壇に立つ教師の元へと向かう。ちょうどそのとき教室のドアが外から開かれた。
「おっと、もう始まっちゃってた? あ、俺のことは気にしないで」
「大和瀬先生」
修威が顔を向けて呟くと、たった今教室に入ってきた白衣姿の男性教師がニヤリと笑う。笑うと目尻に何本か細いしわのできるこの教師は修威が名前を憶えている数少ない教師の1人で、フルネームをジョージ・大和瀬という。長めで癖のある黒髪を頭の上でひとつに結んでいることから陰で“ちょんまげ先生”などとも呼ばれている彼はこの学校の保健室を根城とする養護担当教諭であり、さらにその大和瀬という苗字が示す通りに真奈貴の家族、より正確にいうならば彼女の父親でもあるのだった。そういうことなのでさすがの修威も彼の名前は記憶している。
「大和瀬先生、遅刻ですよー」
教壇の教師がおっとりとたしなめるとジョージはへらりと笑って頭を掻いた。
「やー、悪い悪い。ささ、続けてくださいな武野澤先生」
悪びれないジョージに苦笑を向けて、魔法理論担当の武野澤教諭は課外授業の成績表配布を再開する。いや、修威が一番なので開始するというべきか。授業開始からすでに10分程が経過していることを考えると何とも無駄な時間の使い方をしたものである。成績表を受け取った修威が自分の席に戻るついでに隣の真奈貴を見ると、彼女は何やら冷たい目で武野澤教諭の横にいるジョージを眺めていた。いつの間にかパイプ椅子を引っ張り出してきて座っている彼は口元に笑みを浮かべているが、その青い瞳は鋭い光を帯びて教室内の生徒達をじっと見つめている。
ジョージは魔法理論の授業ではオブザーバーとして毎回どこかのクラスに参加しているのだという。成績表を開きながら、修威は彼との初対面のときのことを思い返してみた。
それは修威が真奈貴と話すようになって1週間が過ぎた日の放課後のことだった。真奈貴が彼女にしては珍しく渋い顔をして「会ってもらいたい人がいる」と言うのでついていってみると、そこは修威にとっては二度目の保健室だったのだ。ちなみに一度目は1週間前、入学して初めての課外授業の直後である。4階への階段を守る巨木人に挑んだ結果、床に頭を打ちつけた修威は助けに入った梶野によって強引に保健室へと連れて行かれた。ところがそのときジョージは不在で保健室には誰もおらず、梶野が別の教師を呼んだのだ。頭の方はおそらく大丈夫だろうとのことだった。
そのようなわけで修威は二度目の保健室に足を踏み入れ、そこで初めてジョージと顔を合わせた。彼は開口一番に「うちの真奈貴をよろしく頼む」と言い、面食らって沈黙した周囲に向けてにかりと人を食ったような笑顔を見せたのだ。
「どうも、真奈貴の父親のジョージです。あ、英語でジョージね。G・E・O・R・G・E、でジョージ。君は明園修威ちゃんだよね? 真奈貴から聞いてるのよ、面白い子がいるって。だから1回ちゃんと挨拶しときたいなと思って」
白衣姿で人懐こい笑みを浮かべるジョージはそう言って修威に握手を求める右手を差し出した。しかしそのとき修威は彼の頭上にあるちょんまげに見入っていて、反応できなかった。するとジョージは長身をすいと屈めて修威の顔を下から覗きこむようにして見たのだ。
吸い寄せられるような輝きを放つ青い瞳に見据えられ、修威は思わず身震いした。
「よろしく、ね」
差し出された右手を握り返し、修威は「よろしくお願いします」と妙にかしこまって答える羽目になったのだった。
ジョージがこのクラスの授業に参加するのはこれで二度目だ。彼がいると課外授業の講評は彼の担当となる。どうやら魔法理論の教員としての資格も持っているらしいが、どういうわけか担当教員としては勤めていない彼である。
修威は昨日の分の成績表を眺めながら、小さく溜め息をつく。木人討伐数:15、最終結果:3階階段番に敗北。討伐数が規定数に達したため、段位が上がりました。魔法段位:3段。クラス内で見れば決して悪くないどころかかなりの好成績なのだが、巨木人に負けたことで修威にとっては悔しさの方が勝る結果だ。これはもう木人部という新しい手段を駆使して何としてもあれに勝たねばなるまい、と修威は決意を新たにする。
「明園修威ちゃん」
「ふあ!?」
密かに拳を固めていた修威は突然名前を呼ばれて驚いた。顔を上げるといつの間にか成績表の配布は終わっていて、教壇には武野澤教諭の代わりにジョージが立っている。そして彼はどこか鋭い眼差しで修威を見つめていた。
「え、はい?」
何故指されたのか分からないまま修威が返事をすると、ジョージはそっと修威を手招きする。首を傾げる修威に、隣の席から真奈貴が声を掛けた。
「修威ちゃん、段位上がったんでしょ。認定証」
「え? ああ、そういうことか」
課外授業の結果は魔法段位という形で公的な資格となる。それは勿論卒業後にも有効な永久資格で、進学や就職など様々な場面で大きな意味を持ってくることになる。認定証はその証明として重要なものだ。
修威が教壇へ辿り着くと、ジョージが手ずから認定証を手渡してくれる。教室内で自然と湧き上がる拍手にも修威はさしたる感動を覚えなかった。
様々な声が修威の頭の上を素通りしていく。しかしそのどれも修威にとっては興味のないもので、ただ受け取ったばかりの認定証に奇妙な違和感を拭いきれない。
「先生」
不意に修威の近くで女子生徒の声がした。真奈貴ではない、ということ以外修威に分かることはない。つまり修威は彼女の名前を覚えていない。そちらにちらりと視線を向けると、不服そうに歪められた唇だけが見えた。
「ん、何かな」
ジョージが比較的軽い調子で応じる。眇められた青い瞳に女子生徒の姿はどう映っているのだろうか。彼女は一瞬たりともひるむことなく声を張る。
「意見があります。明園さんは確かにたくさんの木人を討伐して良い成績を残したかもしれません。でも、その途中で明園さんは私に怪我を負わせています。この責任をどうしてくれるのでしょうか」
なるほど、よく見ればその女子生徒は片腕を三角巾で吊っている。昨日の課外授業の前にはこの教室で腕を吊っている生徒はいなかったはずだと修威も記憶している。ということはその後彼女が怪我をしたということは確かなのだろう。しかし修威は彼女に怪我を負わせた記憶など全くない。
「知らないんだけど」
ぼそり、と修威が言えば女子生徒の口がますます歪む。ああ、と修威はどこかぼんやりとした頭で思う。
「知らねぇから、俺」
がたん。椅子を鳴らして席につき、修威は面倒事から顔を背けるように机に突っ伏した。
執筆日2014/11/24