2
「明園さん?」
わん、と妙な響きを伴って自分の名前が呼ばれた。そう思った時にはもう立っていることができず、修威はずるりとその場に崩れるようにしてうずくまる。
「ちょっと、どうしたの。何やってるの!?」
怒鳴る声が聞こえる。何やってんでしょうか、と修威自身も分からないまま自分に問い掛ける。今一体何が起きているというのだろう。
今朝バスの中で見た束の間のおぼろげな夢が瞼の裏で再生される。裏に可愛らしいパッチワークのウォールポケットがかけられた木製の食器棚が居間と狭いキッチンとを隔てている。ごめんなさい、と泣きながら謝る幼い声。足元に広がる真っ白な水溜まり。少しの生臭さが鼻をついて、そして修威は怒られる。
「邪魔しないでよ!」
「ごっ……」
ごめんなさい、と反射的に言おうとして修威は目の前にいる女子生徒の顔を見た。違う、違うが違わない。ぱくぱくと口を動かして息を吸おうともがく。ひっ、ひっ、と短い音が喉から漏れるばかりでちっとも息ができている気がしない。
床に広がる白い水溜まり。その向こうでコンロの火が燃えている。火にかけられた銀色の鍋が何かを煮込んでいる。生臭さが鍋の中身の匂いを覆い隠すように広がっていく。
そう、そして修威は大きな声で怒鳴られたのだ。邪魔をしないで、あっちへ行って。その夜の食事は何だか変な味の肉が入ったシチューだった。修威の隣でシチューを食べた若い男が顔を歪めて大声を出す。まっず、何これクソまずいわ。修威と向かい合って座るショートカットの女性は黙ってスプーンを口に運んでいた。それを歪んだ顔で眺める男。お前も食べろよ、まずいから。そう言って男は修威にシチューの皿を突きつける。泣きながら呑み込んだシチューは本当にひとつも美味しくなくて。
「う、ぇあっ……」
喉の奥からせり上がってくる何かを抑え込もうとさらに大きく息を吸い込もうとしてそれができない。足りない、と修威はぐいと顎を天井に向ける。息が、空気が足りない。もっと空気を寄越せ。
びし、ばりん。
修威の後ろで食器棚のガラス戸にひびが入り、透明な三角の欠片が床に落ちて砕けた。みし、と他の何かが軋む音も聞こえる。ここにきてやっと実習担当の家庭科教諭が異常に気付いて、調理室の壁に取り付けられた非常用の電話に手を伸ばした。しかしそれより早く修威の元には真奈貴が駆け寄ってきていた。
「修威ちゃん!」
彼女の青い瞳がきらきらと輝いている。束ねた長い黒髪は調理実習のためにさらにくるりと丸められていて、見慣れないそれがいやに新鮮に映る。真奈貴は修威に向かってではなくその周りの空気に向かって言葉をかける。
「“コード、ブレイク。02リライトコマンド、03リヴァートトゥルートオブフォーム”」
囁くような、それでいてはっきりとしたその言葉が辺りの膨張した空気を元の大きさに戻す。修威の魔法によって無理やり大きくされた空気は真奈貴の言葉によって簡単に鎮められた。そう、魔法だ。どう考えてもこれは魔法なのだ。今は課外授業の時間ではないのに。
「やっぱり、真奈貴ちゃんは魔女なんだー……」
「何がやっぱりなの」
真奈貴の呆れ声には少なからず安堵の色が混じっていた。修威は治まりつつある吐き気を抑えながら這うようにしてドアへ向かう。ここにいてはいけないと本能が警告していた。真奈貴は周りでざわめいているクラスメイト達に何か声を掛けているようだ。ありがと、と修威は声に出せないものの真奈貴に礼を言って廊下へと這い出す。修威を追ってきた家庭科教諭がうろたえながら「大丈夫ですか」と修威の背中に手を当てた。
「……ぅぶっす」
大丈夫っす、と答えたつもりがあまり言葉になっていない。あーあーと溜め息をついた修威はそれでも何とか身体を起こして廊下の壁に背中を預けた。とてもではないが立ち上がれそうにないので尻と脚はぺたりと床につけたままだ。少し休ませてください、とかすれた声で言った修威はそのまま引きずり込まれるようにして深い眠りへと落ちていった。
「この学校を志望した理由を聞かせてください」
寒い日だった。窓の外で大きな木が枝を揺らしているのを見ながら自分の番を待っていた、そんな記憶がある。まだ中学校の女子用制服を着ていた修威は冴えた頭で面接官からの問いかけに答えた。
「ここでなら男子の制服を着て通うことが簡単にできるからです」
本当のことだった。他の者から見れば呆れた理由だろう。しかし修威が志望校を選ぶにあたって考えたことを最も簡単な言葉にまとめるとそうなるのだ。勿論色々と説明を省いた部分もある。そしてその中にはきっと、当時の修威がはっきりとは意識していなかったもうひとつの理由があった。
「そんな理由でこの学校を選んでいいんですか?」
自分を見据えている穏やかそうな目を修威はできるだけ見ないようにしていた。まさか面接官から顔を背けて話をするというわけにもいかないので目を合わせるふりをして、実のところはその少し下の鼻の辺りをじっと見ていた。少し角ばった鼻が呼吸に合わせてぴくぴくと動くのを見ていると気が紛れた。だから本当はそれだけではないことを悟られないようにとても自然な口調でこう答えることができたのだ。
「はい。自分にとっては充分な理由です」
それだけではないと本当は分かっていた。それだけの理由でこのレーネ大和瀬高等学校を受験することができるほど修威は勤勉な中学生ではなかった。いつか梶野に指摘されたように、この学校はS・S・R適用校ということもあって受験に際して求められる学力も決して低くない。少々魔法を使えるくらいでは「入りたいです」と言うこともはばかられるところだ。少なくとも修威の卒業した中学校でこの高校を受験したのは修威ただ1人で、合格したのも修威だけだった。
しゅいちゃん、君はどうしてこの学校に来たの。そう問い掛けた梶野は修威が隠していたものをどれだけ見通していたのだろう。修威自身は分かっていなかった。いや、分かっていないということにするために忘れたふりをしていた。忘れたふりをするために本当の理由を、そのきっかけとなった記憶と感情を小さく小さくして頭の片隅にしまいこんでいたのだ。
それが修威にとって必要なことだったのだ。
「修威ちゃん、大丈夫」
いつの間にか隣に真奈貴が座っていた。修威と同じように壁に背中を預け、床に腰を下ろしている。彼女の長い黒髪が床に触れているのが見えて修威は思わず手を伸ばす。
「真奈貴ちゃ……髪、汚れる」
「洗えばいいし」
そう何でもないように言って真奈貴はぽんぽんと修威の手をあやすように撫でた。綺麗な青い瞳がいつもと変わらない温度で修威を見ている。特別熱くも冷たくもなく、しかし触れるには心地良い温度は修威にとって大切なもののひとつだった。真奈貴の隣は気が休まる。
「シチュー、苦手?」
軽い調子で尋ねられれば不思議と苦笑と共に頷くことができた。
「うん、そういや苦手だった」
「忘れてたんだ」
「忘れてた。寮の食事はある程度選べるし」
学生寮の夕食は大抵2通りのメニューから選んで食べることになっている。肉料理と魚料理、和食と洋食。日によって分け方は異なるが、修威はほとんど何も考えずにただ食べようと思った方を選んでいた。だから自分に苦手な食べ物があったことも忘れていられた。暖かい時期だったためにシチューがメニューに入らなかったということもある。
「俺は、シチュー駄目だ」
はっきりとそう口に出してみると妙に胸がすっとした。本当はもっと吐き出してしまった方がいいのかもしれない。そうは思ったものの修威は再び思い出をくしゃりと小さく押し固めて見えなくする。一度に何もかもを見るのは辛い。
「シチューもだけど、カレーも。あ、肉が入ってなければいけるかも」
「そうなんだ」
「肉もね、から揚げとかなら普通に食えるよ」
「うん」
「煮込んだやつとか、あんまり肉々しいのは駄目」
「にくにくしいって」
真奈貴がほんのりと笑って、修威はふひひとその倍笑ってみせる。
「てか、今日の調理実習ってシチューだったのか」
笑いながら言った修威の前で真奈貴の頬がわずかに引きつる。
「修威ちゃん」
「ふい?」
「今更それはない」
「……そっすね」
エプロンを忘れた修威はそもそも実習のメニューすら把握していなかったのだ。把握しておけばもう少し早くシチューが苦手だということを思い出せたのかもしれない。そう言ってにっこりと笑った真奈貴の前で修威はとりあえず床に手をついてごめんなさいと謝ったのだった。
執筆日2016/04/22




