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その朝、修威は朝食を摂らずに学生寮を出た。寝坊をしたわけではない。腹の具合が悪いというわけでもない。理由は修威自身にも分からなかった。
梶野が敵として立ちはだかったあの課外授業から一週間が過ぎ、休日明けの昨日もつつがなく過ぎた。英語の授業中に居眠りをして教師にこつんと軽く頭を叩かれたような気がするが、その記憶すらもやや危うい。普段通りである。だというのに修威はいつもならいくらかなりと食べる朝食を食べないまま通学バスに乗り込む。部活動で朝練習がある生徒のために用意されている早便は空席の方が多く、まだ眠い目をこすりながら最後部の広い席に陣取った修威を乗せて一度ぶるると震えた後に走り出した。
バスが学校へと辿り着くまでの間、修威はうたたねの合間におぼろげな夢を見る。木製の食器棚の裏には可愛らしいパッチワークのウォールポケット。ここはどこだと思うより早く夢の中の修威は棚で隔てられたその先へと歩き出していた。居間からは見えない、狭いキッチン。換気扇の回る音がやけに大きく聞こえてそしてそこにスウェットとジーンズというとてもラフな姿の女性が1人立っていてその目の前に頑丈な蓋をもつ銀色のな。
ごどん!
突然、修威はバスの床に転がり落ちてその衝撃で目を覚ます。部活用であろう大きなバッグを持った生徒が何人か驚いた様子で座席から身を乗り出して修威の方を見ていた。バスは緩やかな下り坂を一定の速度で走っている。
「いってて……」
床にぶつけでもしたのか、横頭ががんがんと痛む。修威は何とか座席に座り直すとふひいと大きく息をついて窓の外に目をやった。曇りの朝は仄暗く、ガラスにうっすらと修威自身の顔が映る。
ずぐん、ずぐん、と頭の奥でいやに響く痛みが続いていた。
「歳沖部長、ここに割と綺麗なエプロンとかねっすか!?」
昼休み、修威はそう言いながらすっかり馴染み深くなった技術室のドアをがらりと音を立てて開け放った。中で作業をしていた雄也が少しばかり驚いた様子で顔を上げ、それから「エプロン?」と首を傾げる。
「作業用のものならあるが、何に使うんだ」
「次家庭科、調理実習なんですよ。すっかり忘れててエプロン用意してなくて!」
「そうか。なら準備室に新品があるからそれを使ってくれ」
「助かります! ありがとっす、歳沖部長!」
修威は雄也に向かって拝むように手を合わせると言葉の勢いそのままに準備室へと駆け込んだ。そして目当ての作業用エプロンを見付けるとそれを手に取ってまたすぐさま駆け出す。
「本当、ありがとうございますー! 終わったら洗って返しますんで、じゃ!」
「ああ。気を付けて」
雄也はそう言ってわずかに口元を緩めながら修威を見送る。その後少しの間を置いてから準備室のドアがかたりと音を立てた。どうした、と雄也がそちらを見ずに問い掛ける。
『ワタシにできることはありますカ』
「随分と明園を気に入ったようだな」
『そうかもしれませン』
「……結局、明園自身にしか分からないことだ。俺も梶野も、おそらくは大和瀬達も明園の内にあるものを知らない」
だから起きたことに対処するしかないのだと語り、雄也は作業を再開する。準備室の向こうではその後もしばらくかたかたと音がしていたが、やがてそれも静かになった。
予鈴が鳴り、技術室の3つ手前にある家庭科実習室では修威達1年4組の生徒による調理実習の準備が始まる。用意された食材はじゃがいもに人参、玉葱にパセリ、そして小さな塊に分けられた肉。それに牛乳や小麦粉、バターなどがある。レシピは事前に配られており、6班に分かれてそれぞれに調理を進めていくことになっていた。
「はい、じゃあ始めますよ。まずはしっかり手を洗ってくださいね」
家庭科担当の中年の男性教師がよく通る声で指示を出し、チャイムが鳴るのとほぼ同時に授業が始まった。何しろ調理実習は手早くこなさなければ時間内に終わらない可能性がある。いくらレシピが分かりやすく整えられていても、いくら材料が綺麗に揃えられていても、できない者にはできないのが料理というものだ。
実習の班はくじ引きで決められていた。修威は真奈貴とは別の班で、つまりは同じクラスに在籍しているとはいえほとんど話した記憶のない生徒達と作業を共にすることになる。大丈夫かいね、と修威は胸の内だけでそっとぼやいた。うまくやる自信は正直なところまったくない。
「明園さんって料理できるの」
同じ班になった女子生徒に尋ねられ、修威は素直に「いんや全然」と答える。すると相手はあからさまにうんざりした表情を見せた。
「本当、私くじ運なさすぎ」
「そっちは料理できんの? だったら指示出してくれりゃ俺はその通りにするけど」
見ればその女子生徒は自前のものらしい生成り色のエプロンをつけている。真新しいものではなく何度も洗濯をしたような独特の生地の傷み具合も見て取れる。少なくとも作業用エプロンを代用品として身につけている修威よりは間違いなく家庭的な姿だった。彼女は鬱陶しそうに修威を見ながらも「じゃあ」と言って調理台に置かれたじゃがいもを指差す。
「おいも、剥いて切っておいて。そのくらいできるでしょ」
「りょーかーい」
自慢ではないが、というより自慢にならないのだが、これでも修威は野菜や果物の皮くらいであればそこそこ綺麗に剥くことができるのである。木人部に入って木工作業をしているおかげか手先の感覚は以前より鋭敏になったくらいだ。そういうわけなので早速じゃがいもを水洗いしてから包丁を手に取って皮剥きに取り掛かる。
「ピーラー使わないの?」
別の女子にそう声を掛けられ、修威は大丈夫と答えた。
「実家じゃ包丁使ってたし」
「へー、器用だね」
「単にピーラーなんて文化的なものがうちになかっただけ」
「あはは、そっかあ」
これまで会話をした記憶もない相手だが、並んで作業をしていると自然と交わす言葉も多くなる。修威はじゃがいもの皮を剥き、芽をひとつひとつ丁寧に取り、綺麗なクリーム色の塊になったそれをまな板の上にころころと転がした。
「一口大くらいでいいのかね」
修威がそうやって初めに指示を出した女子生徒に尋ねると彼女は鍋で溶かしたバターと小麦粉とを炒めながらじろりと修威を睨む。
「そうじゃなかったらどう切るのよ」
「いちいち当たってくださんなよ。確認しただけだろ」
どうやら彼女は修威のことを快く思っていないらしい。やれやれと溜め息をつきかけて、修威はやっと思い出す。そういえばあの女子生徒は入学して1か月程経った頃の課外授業の後で修威に意味のない難癖をつけてきたことがあった。ということはその頃からすでに彼女は修威に対して悪い感情を持っていたということだ。
さく、とクリーム色を縦に割るように刃を入れる。そうだ、確か彼女の名前は好といった。あの自治会の無愛想な武闘派書記、好諒太郎の妹だとかいう話だった。そこまでは思い出すことができたがそこから先、つまり彼女の下の名前が出てこない。
「何だっけなー」
呟きながら修威は縦に割ったじゃがいもを今度は横にして切っていく。さくさくさく。1個目のじゃがいもを首尾よく切り終えて次に手を伸ばしかけたそのときだった。修威の隣で好とは別の女子が肉の塊に出刃包丁を向ける。
「よいしょ」
淡いピンク色をした肉の表面に分厚い刃が食い込むのを、修威は何故か目を逸らすことができずにじっと見つめた。肉の繊維がぶつりと切れる。よく切れる包丁だな、と考えた修威の手元でじゃがいもが1個ころんと転がって床に落ちた。
「あ」
慌てて身を屈めて転がったじゃがいもに手を伸ばす。その修威の腰が調理台にどんとぶつかる。衝撃が伝わり、台の端に置かれていた1リットル入りの牛乳パックがぐらりと揺れた。
うわあ、と男子生徒の声がする。じゃがいもを拾った修威の視界に白い液体が広がっていく。ほんの少し生臭いそれは紛れもなく牛乳だった。
びし、と突然修威の左のこめかみが激しく痛んだ。やべえ牛乳こぼれた。雑巾どこ。わー、くっせえ。騒ぐ声が遠ざかって代わりにずぐんずぐんと脈打つ痛みが頭の奥から湧き出してくる。せっかく拾ったじゃがいもが再び修威の手から零れ落ちた。
執筆日2016/04/22




