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誤魔化された。修威はそれだけをはっきりと認識しながら清掃を終えた木人を技術準備室にしまう。あれから梶野は雄也に断って先に帰ってしまった。仕事が増えるとぼやいた寧子も雄也と共に順調に作業をこなし、雄也は雄也で「すまないが戸締まりを頼めるか」と修威に鍵を預けていなくなった。はぐらかされたのだということは修威にも分かる。はぐらかさなければならない理由が何かあるのだろうということも見当が付く。
「だったら、あんまり詮索しない方が身のためなんだろうな。俺は知らねぇ……って、元々俺ぁそういう性分か」
最後の部品を棚に置いて、修威は準備室を見渡す。いくつも並べて置かれた木人の間に一際小さな木人が1体、じっと黙って座っていた。ぽくじん、と修威はその名前を声に出す。
「……うっし、帰るっかー」
全ての作業を終えたことを確認した修威は準備室から出るべくぽくじんに背を向けた。その瞬間を見計らったかのようにかたん、と後ろで音がする。
『アケゾノ、ワタシはここにいまス』
急にぽくじんが言って、修威は思わず振り返る。いつものようにただ木をくりぬいただけのふたつの穴がじっと修威の方を向いていた。知ってるけど、と修威は首を傾げながら答える。ぽくじんは自分で歩くことができるが、技術準備室のドアを開けることはできない。だから雄也が連れ出さない限りいつだってぽくじんは準備室の中にいる。
『知っているならいいのでス』
「おー……そか。ええと、じゃあなーぽくじん」
『はイ、ではまた会いましょウ』
ぽくじんの穏やかな声に送られて準備室を出た修威は誰もいない技術室を見渡し、窓の鍵が開いていないか一応の確認をする。そして準備室へと通じるドアを一度だけ見やって。
「そこにいる」
確かめるように呟き、技術室を後にした。修威がいなくなった室内はしんと静まり返って誰の気配もない。木製の机と椅子だけが整然と並ぶ。
技術室を出ると廊下は真っ暗だった。いつの間にか下校時刻を過ぎていたらしい。修威はうーわあ、とぼやきつつ玄関の方へと足早に歩き始めた。照明の落とされた廊下は何かよくないものでも現れそうで落ち着かない。できるだけ急いで帰ろう、と修威はたったっと足音を響かせる。ところが。
「10年前の夏だった。火山噴火をきっかけにこの国に、世界に魔法が現れた」
不意に静かな声が聞こえて修威は思わず足を止めそうになる。立ち止まってはならないと頭の中で何かが警告を発する。
「魔法学者はその日を指して“解禁日”という。まるでそれまでなんらかの手段によって制限されていた魔法が解放されたかのようだ、と」
声が修威を追い掛けてくる。修威の胸にどん、どん、と焦りや恐怖のようなものが響く。
「宗教家はいう。神が人間にその御力の一部を分け与えたのだと。あるいは悪魔が神を弑するための邪法を人間達に広めたのだと。論争は10年を経ても収まらない。ただ魔法は現実に存在する」
「うあっ」
「修威ちゃん、君はどう思う」
いつの間に回り込まれたのだろう。暗い廊下の中央で修威の前に立ちはだかるのは白衣を羽織った長身の男性だ。長めで癖のある黒髪を頭の上でひとつに結んでいる姿は馴染みのあるものだがその深い青色の目はいつも底が知れない。真奈貴の父親でなければきっと修威はこの男性教諭を避けていただろう。
「どうって」
それでも問い返したのはとにかくその場から一刻も早く離れたいと考えたからだった。何かを答えないことには逃してもらえないのだろう。ジョージ・大和瀬とはそういう性質の教師だ。
「“解禁日”以来、魔法に触れる者は常にあるひとつの問いに挑んでいる。望むと望まざるとにかかわらず全ての魔法使いがその問いについて悩んでいる」
「……えっと、授業でやったことっすか。俺多分寝てて分からないです」
「いや、授業で扱う内容じゃない。もっと根源的な問題だ」
授業で扱わないことを教師に問われるというのも不思議な話だ。修威は一瞬そう考えたがすぐにそれも違うと思い至る。教師も人間だ。学業に関係しないことを話すことがあっても何もおかしくはない。
「で、結局その問いってのは一体何なんすか」
修威が尋ねた。ジョージは目尻にうっすらとしわを寄せて微笑む。深い青色の目が2つの半月のように闇の中に浮かび上がる。
「“汝、魔法を愛せるか”」
びくり、と修威は自分の意思とは関係なしに肩を震わせた。ジョージの声音がそうさせたのだ。彼はただごく当たり前の様子で口を開いただけだというのに、そこから発せられた声はまるで地の底から響くような、あるいは天上から降り注ぐようなとても異質なものだった。修威がまだ中学生だった頃、学校行事の研修旅行で大きな音楽ホールに行ったことがある。そのときに聴いた楽器の音色に近かったかもしれない。ジョージの声はこのときだけ人間のそれではなかった。
「修威ちゃん、君はどうだ。魔法を愛し、その魔法と人生を共に歩む勇気はあるか」
「……それが、魔法を使う人がみんな悩んでいることなんすか」
「そのはずだ」
修威がやっとのことで返した言葉に、ジョージはごくごく軽い調子で頷く。恐ろしい程の声の響きはもうどこにもない。青い目もすっかり細められて、きっと日の下で見れば今の彼は割と気のよさそうなただの養護教諭にしか見えないことだろう。
「あの何とかって先生が言ってたのと同じことですか」
修威が思い出したのは今日の課外授業の締めくくりにラファエル教諭から出された宿題のことだった。「魔法と生きる覚悟はあるか」と問い掛けた彼はひどく真剣な顔をしていて、修威の記憶にもその言葉だけははっきりと刻み込まれたのだ。だから答えを出そうという気はある。しかしジョージから改めて問われて修威はただ戸惑っていた。
「魔法が……魔法は、そこまで重く考えなきゃならんものなんすか」
修威はこれまで魔法というものを単なる技術だと考えていた。個人差の大きすぎるものではあるが、たとえば数学の問題の解き方や英語の文法のように身につけることで試験の成績やその後の進路に関わってくるような学習技術のひとつであると。魔法は生きるための技能だと教わってもその考え方に変わりはなかった。計算も外国語もやがて仕事に就く段に役立つなら紛れもなく生きるための技能だろうから、と。
ところが今のジョージや先程のラファエル教諭がいう“魔法”はただそれだけのものではないらしい。修威の魔法はものを拡大・縮小するというものだ。それを愛するとはどういうことだろう。何かを拡大・縮小する魔法と共に生きるとは一体何を意味するのだろう。まるで謎かけのようだ。
「大和瀬先生、俺には……分かりません」
「そうか」
ジョージは修威の素直な答えを聞いてふうっと息を吐きながら笑う。まあそうだよね、と彼はごく簡単な口調で呟いた。
「それが今の修威ちゃんの偽らざる答えなら、俺はそれを聞くことができてよかったと思う。“分からない”も立派な答えだ。それをちゃんと相手に伝えることが大事だからね。……じゃあ修威ちゃん、もう下校時刻も過ぎているし今日は気を付けて帰りなさいね」
そう言い残すとジョージは白衣の裾をさらりと翻して廊下の向こうへと去っていってしまう。修威が行きたい方角、つまり生徒玄関のある方角とは反対側だ。そちらは技術室がある特別教室棟で、ジョージが普段過ごしている保健室も職員室もないというのにどうしてなのだろう。少しばかり疑問に思ったものの、修威は何となく胸に残った恐ろしさを振り払うように足早に生徒玄関へと向かったのだった。
生徒玄関のすぐ前には通学バスの停留所がある。修威がそこへ辿り着いてから3分程でバスが来た。ジョージも言っていたように下校時刻はとうに過ぎていて、この時間のバスを利用するのは教職員が主になる。とはいえ生徒が利用することを禁止されているわけでもなく、うっかり下校時刻を過ぎて校舎に残ってしまった生徒にとって貴重な帰りの足となっているのも実情だった。そしてその場合大抵、乗り合わせた教員にそのような遅い時間まで校舎に残っていた理由などを尋ねられるのである。それが面倒だからと下校時刻を守る学生も多い。
修威はというと、学生で混雑する時間帯のバスと比べればいっそのこと教員と乗り合わせても空いている今の時間の便の方が好きだった。もしくは多少面倒でも街外れの路線バスの停留所まで歩いて見知らぬ人の中に紛れるのがいい。教室、集会時の体育館、そして通学バス。学生という極めて狭い層の人間で固められた中に押し込められて一定の時間を過ごさなければならないということは修威にとって少なからず苦痛を伴うのだった。簡単に言ってしまえば居心地が悪いのである。
そういうわけなので修威は他の生徒があまり好まないこの遅い時間帯のバスにとても気軽な調子で乗り込んだ。発車まであと2分。車内には運転手と修威以外に誰もいない。下校時刻後のバスにしてもここまで空っぽというのは珍しいことだ。
ところが発車直前になって1人の長身の人物が車内に駆け込んできた。同時に運転手が出発の合図をしてドアを閉める。間に合いましタ、と言ってその人物は何故か修威の隣の席に座った。
バスは2人掛けの座席が縦にいくつも並ぶ造りになっていて、空席はいくらでもある。それなのに何故わざわざ修威の隣に座るのかと不審も露わに横を睨めば、そこにはごく淡い色の髪を長く伸ばした若い男性がとてもにこやかに目を細めて同じように横にいる修威を見ていた。わあ、と修威は声に出さずに呟く。どうやら生徒ではないようだが教師にも見えない。一体この男性は何者なのだろうか。走り出したバスの中で男性がにこにこと笑いながら修威に声を掛けてくる。
「ここの生徒さんですカ」
「……え、あ、はあ。そうです」
「初めましテ。私は読岡といいまス。来週からこの学校で教育実習をするんでス」
「教育実習」
ということは彼は教師志望の大学生なのか。素性が知れると多少は安心感も生まれる。どうやらこの国の出身でもないようで、喋り方に独特の癖があるようだ。修威はどこかで聞いたような声だと感じながら読岡と名乗った彼の様子を窺う。
「魔法使いを育てる仕組み、面白いですネ」
車窓に学校所有の研究林を見ながら彼はあくまで笑顔で言葉を紡ぐ。
「S・S・R。私はそれにとても興味がありまス」
「……そっすか」
下校時刻後のバスで乗り合わせた奇妙な大学生はそうして学生寮まで修威の隣で独り言のように色々なことを喋っていた。修威はほとんど内容のない相槌を返しただけだったが、寮の前でバスを降りた読岡がとても嬉しそうな笑顔で去っていったことだけがいやにはっきりと記憶に残ったのだった。
執筆日2016/03/25




