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始業にはまだかなりの時間がある早朝、学生服を無造作に羽織った後ろ姿がそっと壁に触れる。その手は壁を滑り、近くに備え付けられた手すりへと移って止まる。びっ、という音が静かな校舎に響いて後ろ姿が一瞬震え、そしてすぐにその場から逃げるように立ち去った。
* * *
廊下を走ってはいけません。小学校入学の頃にそう教えられた学生達も10年経てば“臨機応変”という言葉を知るようになる。たとえば、1時間という限られた時間の中でいかに素早くこの廊下を突破して目的地へと辿り着き、そこでどれだけ多くの活動時間を確保することができるか。それが何より大事になっている場合において、廊下は群がる木人を蹴散らしながら駆け抜けるためだけの通路と化す。
「ワンコ、行くぞ!」
「ワンコって呼ぶんじゃ」
「苗田くん、いいから急いで」
「大和瀬ぇ!」
課外授業の開始を知らせる音と共に修威と真奈貴は教室から飛び出した。そしていつものように途中で舟雪を拾って4階へと向かう。一度3階を突破している修威達は木人に襲われないが、それでも進路を塞ぐように配置されているそれらが自ら退くのを待っている余裕はない。修威の鉛筆槍が木人をどつき、真奈貴の本から噴き出す炎と突風が木人を焼き、後に続く舟雪が「前衛強ぇ」とわずかに恐ろしそうな目つきをしながら呟きつつ走る。そうして3人は4階への階段を駆け上がり、そのままの勢いでひとまず荒野の中のキャンプへと辿り着く。
「よし、こっからだな」
ぜえはあ、と息を切らせながらもやる気を見せる修威に「今日はどうする?」と真奈貴が尋ねる。修威は友人の顔を見上げるとにぃ、と口の端を持ち上げてみせる。
「ちょっと試してみたいことがあんだけど、いい?」
「試してみたいこと? 変なことじゃなければ」
「変かどうかはわっかんねえなあ。あとやって無駄だったらごめん、と今のうちに謝っておく」
「ふうん? 無茶しないように、ほどほどにね」
「おうよー」
釘を刺す真奈貴に笑顔で答え、修威は目の前に荒野を睨みながら仁王立ちの姿勢をとった。
レーネ大和瀬高等学校の二学期は体育館での始業式から始まり、生徒達が教室に戻って一息ついたところでこのいきなりの課外授業というなかなかに大胆な幕開けを見せた。一般の授業が翌日からの開始になっていることから今日の課外授業はないと油断していた生徒も多かったのだろう。夏休み前と比べると4階のキャンプに集まった人数は少ない。
この4階で行われる課外授業はいわばサバイバル訓練だ。荒野を模したジオラマを魔法の力で現実の校舎に投影し、まるでそこが荒野そのものであるかのように設えた空間。そこを探索して5階への階段を見付け出し、昇りきればおそらくは課題を突破したということになる。当然そこには獣型の木人や突然の地割れといった障害が配置されており、さらに階段そのものも隠されていて簡単には見付けられないように造られている。ここで生徒達に求められるのは自分の持つ魔法を使いこなす応用力だ。この荒野の仕組みを理解し、その上で突破の方法を見出し、実行する。言葉にすれば簡単だが実際にやるとなると話はまったく別である。
「で、どうすんだよ? まずどこに行く?」
舟雪が修威に尋ね、修威はひっひと笑って学生服のポケットから自身の携帯電話を取り出した。
「どこにも行かねえよ、まだな」
「まだ?」
「まあちぃと待ってくれ。えーと、確かこのフォルダに……」
修威は舟雪に答えながら携帯電話を操作し、小さな画面の中にひとつの画像を表示させた。そこに写っているのは修威がいつも愛用している鉛筆である。大きくも小さくもされていない、ごく当たり前に売られているサイズの鉛筆だ。ただ、背景が妙である。
鉛筆はどうやら粘着テープを使ってどこかに貼り付けられているらしい。それがどこであるのか、横から画像を覗き込んだ舟雪には分からない。ただ濃い灰色をした何か棒のようなものであるということだけは分かる。舟雪は少しばかり苛立った様子で修威に尋ねた。
「……おい、もったいつけねえで教えろ。この鉛筆がどうだっていうんだよ?」
「自信なかったんだよ。離れた場所の見えないものにうまく魔法を効かせられるかどうか」
「は?」
「手の中にある鉛筆なら魔法ででかくなるところが頭の中で簡単に想像できる。目の前にあるなら降ってくる噴石だって小さくできる。でもどこにあるのか、どういう状況にあるのか知ってはいても見えないものに魔法がちゃんと効くのか、俺はそれに自信を持てなかった。だからこうやって写真を撮っておいたんだ」
文明の利器ってやつは便利だよ、と言って修威は折り畳み式の携帯電話を閉じた。そしてさらに自分の目をも閉じて、想像する。
それはとある場所に貼り付けられた鉛筆だ。普段から人より早く登校する癖のある修威が始業式のこの日にさらに早く校舎に入り、誰にも見られないようこっそりとそれを仕込んでおいたのだ。課外授業はいつ行われるのか分からない。始業式の日だろうが何だろうがお構いなしで行われても不思議はない。なら準備はなるべく早くしておくに限る。そして早起きした分の睡眠不足は始業式で居眠りをすることによって取り戻せばいい。修威は自分の中でそう結論付けて計画を立て、実行した。それは取りも直さずこの4階の課題を突破するための作戦であり、そして。
「ぅおらあ!!」
気合いと共に目を開いた修威の真後ろでばごん、と大きな音がしたかと思うとまるで大きな杉の木のように真っ直ぐに伸びた巨大な鉛筆が1本、荒野の上に転がった。土煙の立ちこめる中で修威はぽかんと口を開けて、それから思い出したように叫ぶ。
「……ここかよ!!」
鉛筆が倒れるのと同時に荒野の空間がまるでスクリーンが破れるかのように裂かれて元の校舎の景色が露わになっていく。そこには味気ない様子の廊下があり、そして濃い灰色の手すりが設けられた階段があった。巨大鉛筆は階段の上に寝そべるようにして横たわっている。
修威の作戦とはつまりこういうことだった。予め5階へ通じる階段の手すりに鉛筆を貼り付けておき、課外授業が始まった後でそれを拡大する。するといくらジオラマの景色が投影された空間であっても本来あるべき階段の位置に巨大化した鉛筆が現れるという寸法だ。
ただ、修威はこれまで自分から見えないような離れた位置にあるものを拡大・縮小したことはなかった。理論上は修威の頭でその構造や姿かたちを理解、認識できているものであれば、課外授業の行われている空間内に限るものの魔法は作用するはずだ。手で触れていなくても問題はない。修威はそれらのことを考えた上で貼り付けた鉛筆を写真に残しておくという手段をとった。そうすることで脳内に本来鉛筆が存在する場所とその様子をよりはっきりと思い描くことに成功し、結果として魔法も首尾よく作用したというわけである。
はらり、とどこからともなく落ちてきた茶色いテープの切れ端が舟雪の頭にぺたりとくっつき、取れなくなる。
「……これって、いいのか?」
べりり、と無理やりにテープを引き剥がした舟雪が痛みに顔をしかめながら誰にともなく問い掛ける。課外授業の課題の解決法としてこれはあまりに力任せな策だったのではないかと言いたいのだろう。しかしそうは言っても結果は目の前にある。いいんじゃないの、と答えたのは真奈貴で修威は何も言わずに5階へと続く昇り階段を見つめた。
執筆日2015/11/01




