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はあはあ。いつしか修威は息切れしてきていた。
ふと顔を上げるとすぐ近くに黒々とした影を帯びた壁が迫っており、思わず声を上げそうになる。しかしすぐに修威はそれが見慣れた校舎の壁であることに気付いた。振り返ると少し離れた芝生の中に大きな鈴懸の木が植えられているのが見える。ここは、と修威は呟いてわずかに首を傾げる。
「……学校?」
垂れ耳のうさぎは相変わらず少しの距離を置いて修威を待っている。修威は芝生を囲むように造られた道を歩いてうさぎへと近寄った。あと数歩で手が届くというところでまたうさぎがぴょんと跳ねる。
「なんだよ、新学期は明日からだよ。まだ早いよ、学校に来るのは」
うさぎは跳ねる。修威はゆっくりと歩いてそれを追う。うさぎはそんな修威が追い付くことのできる速度を保って遠ざかる。それを数回繰り返して、修威ははたと気付く。
「……ここって確か」
鈴懸のある芝生から校舎入り口へ向かっていくらか歩いたその場所は以前修威達が黒い獣と戦った場所だ。強烈な生臭さと金色の目を持った獣を倒したのは寧子だった。学校側からの説明によればそれは“事前通告なしの実践的避難訓練”と称される試みの一環だったという。しかし修威はその言葉を信用していない。
夏休みに入る前、あちこちの町で隕石の落下とその影響により狂暴化した“野犬”の出没が相次いだ。避難訓練の際に現れた獣もそれだったのかどうかははっきりしていない。ただ、“野犬”は課外授業中の校舎の中にまで侵入してきたのだ。修威もその恐ろしさを無視することができずにいる。
記憶を辿っていた修威の目の前でうさぎが身じろぎした。よく見ればうさぎは口に小さな白い花をくわえている。夜闇の中でもはっきりと分かる純白の花弁を見て修威はまた記憶を呼び起こされた。あの日、獣の絶命したその場所で花を手向けていたのは木人部の部長である雄也で、修威がそのことについて尋ねると彼は自分を野良猫にたとえたのだ。野良猫の習性は、人を襲った獣にも花を手向けさせるものなのか。
突然、目の前にいるうさぎが垂れた耳をぴんと伸ばして身体を縮めた。同時に修威も異変に気付く。あのときと同じ強烈な生臭さを孕んだ風が修威の鼻先をかすめ、辺りから微かな唸り声が聞こえてくる。1匹ではない獣の気配に修威は身体を強張らせ、そして目の前の小さな動物へと手を伸ばした。
「おい、逃げろ!」
あの獰猛な獣が襲ってきたなら小さなうさぎなどひとたまりもないだろう。修威の伸ばした手から逃れるようにうさぎは大きく跳ねあがると、風下の方角へと消えていった。ほっとしたのも束の間、修威は自分が獣達によって取り囲まれていることに気付く。
「うっひゃあ……なんかとんでもねぇことになったぜ」
ははは、と乾いた笑いが修威の口から零れた。どうしますかね、と修威が呟くとどこからともなく声が聞こえてくる。それは落ち着いた少女の声だった。
「“惑わされ、疲れ果てた少年を取り囲んでいた狼の群れに向かって魔法使いは紅蓮の炎を解き放つ。ごおっという音と共に目映く輝く炎が草の上を舐めるように流れて全ての獣を消し去った”」
読み上げられた一節がまさにその言葉通りの光景を描く。獣の気配は一瞬にして消え、そこには微かに焦げたような臭いだけが残った。すぅっげえー、と修威は間延びした声で言いながら背後を振り返る。そこには長い黒髪をなびかせた青い瞳の少女が開いた文庫本を片手に、どこか呆れた風情で立っていた。修威はやっぱりという顔で彼女の方へ向き直り、笑顔で口を開く。
「さすが真奈貴ちゃん、夜でも鮮やかな魔女っぷりー」
「修威ちゃんこそ、こんな夜中に出歩くなんて相変わらずマイペースなんだから」
「あははー。……ってかさ、これって夢なんでしょ?」
修威は気付いていた。自室の窓から夜の街に落ち、辿り着いた先は学校の敷地で垂れ耳のうさぎに誘われて追いかけっこをし、しまいにはあの“野犬”の群れに囲まれた。あまりにも非現実的で、それでいて途中までその現実感のなさに気が付かなかったのはつまりこれが修威の見ている夢であるからだ。
「明晰夢、っていうらしいよ」
真奈貴が言って、修威は首を傾げる。
「めいせきむ」
「夢の中で“これは夢だ”って気付いちゃう夢のこと。修威ちゃんはそういうことってよくあるの?」
「どうだったかなー。何回かはあった気がするけどあんま覚えてないや」
「そっか」
夢で見る真奈貴は修威に向かって優しく微笑みかける。長い黒髪がさらさらと揺れて、細められた左目の下にある黒子がきゅっと上に持ちあがる。可愛い笑顔だ、と修威は思う。
「じゃあ修威ちゃん、今日の夢では特別に私が目を覚ますところまで送ってあげるよ」
「うお、何それ大サービス? 魔女らしくほうきでタクシー?」
「さあ、それは試してみてのお楽しみ。じゃあ行くよ」
「え、もう?」
「明日は始業式なんだから、ちゃんと寝ないと。式の間に寝て椅子から落ちるとかやめてね。あと終業式のときみたいにサボるのもやめてね」
「ううっ、へーい。頑張る。じゃあ頼んます」
目を閉じてね、と真奈貴が言う。修威は言われた通りにして、すうと深呼吸をする。面白い夢を見たものだ。“野犬”に襲われたことは勿論怖かったが、夢だと気付いてしまえば恐怖も大したことはない。真奈貴が現れて魔法を使ってみせた途端に怖さも楽しさに変わってしまった。
目を閉じたままの修威の身体が宙に浮く。同時に修威の意識は闇の奥へと沈んでいく。もう終わりか、と少しばかりの名残惜しさを感じながら深い眠りへと落ちる間際、修威は言い忘れていた一言を言うために口を開いた。
「真奈貴ちゃん……助けてくれて、ありがと」
いえいえ、と苦笑混じりの声が聞こえた気がしてあとはもう何も分からなくなった。
真奈貴はそれからしばらくの間、文庫本を開いたその姿で焼けた芝生の上に立ち続けていた。やがて彼女は小さく辺りを見回してから肩の力を抜く。おまけにひとつ溜め息もついた。
「……行ったか」
辺りを窺うような調子で言う声が聞こえた。かさ、とごく小さな葉擦れの音と共に夜闇に紛れる黒い影が真奈貴の背後に立つ。真奈貴は振り返ることなく「そうみたいですね」と相槌を打った。影が返す。
「どうするつもりだ。相手はそちらの手の内を知っただろう。今後何が起きるか分からないぞ」
「あなたが出ていくよりいいと思ったので」
平坦な調子で言いながら真奈貴は手にしていた文庫本をぱたんと閉じる。影が小さく息を呑む気配がして、やがてそれが溜め息へと変わる。
「すまない」
「何を謝っているんですか。……私があなたに聞きたいことはひとつです。どうして修威ちゃんが標的にされたのか。修威ちゃんを餌に何かが釣れると向こうに思われた、それはどうしてなのか。あなたはその答えを持っていますね?」
「……大和瀬」
「まあでも、答えはなくても構いません」
真奈貴は後ろを振り返らないまま冷たい声で告げる。
「ここはそう簡単には落とされませんから」
ああ、と短い返事と共に影が林へ向かって歩き始める。「知っている」と立ち去る影が小さく呟く。
「穴の場所、獣の通り道、街の近くの拠点。これらの情報はもう渡してある。伝えた内容に嘘はない。守りを固めるか、敢えて誘い込んで叩くことで戦意を削ぐか。作戦を決めるのはそちらだ」
「……ここはただの学校なんですよ」
「だがS・S・R指定校だ」
黒い影が振り返り、わずかな星の明かりが黒髪に縁取られた輪郭と青灰色の目を照らし出す。闇の中にあってもよく光を集めるその目はぎらりと輝いて映る。
「超学校的規則……S・S・R。全世界に先駆けて始まったこの学校での実践的魔法教育が何を意味しているのか、まさか誤魔化せるとは思っていないだろう」
それを聞いて真奈貴は少しだけ肩を斜めにしながら天を仰ぐ。目を閉じて返した答えは少しばかり投げやりな「そうですね」という一言だけだった。
執筆日2015/09/30




