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まだ暑さを孕んだ風が夜空から吹き下ろしてくる。修威は学生寮にある自室の窓から頭を外へと突き出しながら濡れた髪を風に当てる。この夜が明ければ新学期だというのに夏はしつこく街に居座り続けていて寝苦しい。熱めのシャワーで身体にまとわりついた汗を流し、ドライヤーの熱風を嫌って夜風に顔を晒すことでやっと幾分かの涼しさを得ることができた。
「明日からまたがっこかー。それはいいけど、課外授業も楽しみだけど、なんかなあ」
呟いて修威は目を閉じる。窓は修威がやっと頭を出せる程度にしか開かないようにできており、たとえそのまま眠ってしまったとしても外に落ちる心配はない。
入学式の前夜も修威は今と同じように寮の自室から外を眺めていた。見慣れない街の景色と嗅ぎ慣れない風の匂いにどこか安堵を覚えながら、静かにその夜を過ごしていた。翌日から始まる新しい学校生活に対して思うところはあまりなかった。魔法に対する興味だけが唯一修威をわくわくさせていたものだ。
それから5か月を過ごして修威の中では多くの変化があった。課外授業という名の模擬戦闘とサバイバル訓練。“野犬”と呼ばれる謎の獣に襲われ、隕石が落ち、かつて噴火した火山の魔法区域が夢とも現実ともつかない合宿をもたらした。流星雨と共に落ちた大きな星の欠片が青い光を放ち、修威の魔法は風鈴を割った。
今、改めて考える。魔法とは一体何なのだろうか。
修威の身に秘められているのはものを拡大・縮小する魔法だ。それはものの大きさや重さ、つまりこの世界に存在しているものとしての数値を変えてしまうという、珍しい種類の魔法なのだという。そうはいっても修威はその魔法をせいぜい鉛筆を槍に、定規を盾にするくらいにしか使いこなせない。
魔法は生きるための技能であると教科書は教えている。鉛筆を槍に変えて生きるとは一体どういう状況だろうか。修威は軍人志望ではないし、街の治安は武器を携行しなければならないほど悪くはない。むしろ10年前と比べて犯罪は減少したといわれているくらいで至極平和なものだ。それにそもそも、魔法は課外授業や魔法区域などの限られた時間と場所でしか使うことのできない力なのであって、そのように限定されたものを“生きるため”にどう扱えばいいのか分からない。
「魔法、理論……はむっつかしーよねえ。使うことは別に難しくないのに。変なのなあ」
窓枠に顎を引っ掛けて修威は「ふへえ」と溜め息を零す。憂鬱とまではいかないが、入学式の前とは異なるもやもやとした感情が胸に溜まっていた。明日からの新学期に対してどのように臨めばいいのか、それがいまひとつ定まらない。
「俺が生きるために魔法はどう必要なんだ」
呟くと、目の奥から頭痛が湧き出してくる。右目の奥からこめかみの上へぴりりとした痛みが走り、左目の後ろ側がずんと圧迫されたように痛んだ。まるで頭の中で何かがうごめいているようだ。
痛たた、と呻いて両手で頭を押さえた修威は目の前にさかさまの街を見る。
「ふぁ?」
レーネ大和瀬高等学校の学生寮は街の人々から“魔法使いの塔”と呼ばれる。人と物がより快適に行き来できるよう長い年月をかけて発展した街の中で2棟の学生寮はどこか浮いて見える。それでも街に学生をと寮の設置を求めたのは街の側であり、時が来れば魔法使いとなりうる生徒達を受け容れたのはこの街だ。それから10年が経って何か変わったものはあるのだろうか。
街の空に星は見えない。代わりに地上を彩る人工の明かりが夜を照らす。今、修威にはそれが頭の上にあるかのように見えている。しかし足元にあるべき地面はない。
ひうひう、と修威の耳元で鳴く風が落ちる速さを伝えてくる。頭から下に落ちては助かるまい、と修威の脳が考えている。その脳があるために人間の頭は重く、空中で下になったそれを自力で持ち上げることはまずできない。どうしてだろう、と痛みを忘れた頭で考えても修威に与えられる答えは何もなかった。
「なんで落ちてるんだ俺」
顔に当たる強い風のせいで修威の目からぽろりと涙の粒が生まれる。それはすぐに風にさらわれ、修威の知らないどこかへと消えていく。耳元で鳴る風の音が遠ざかる。
まあいいか。四肢を空中に投げ出した姿勢で修威はそっと目を閉じた。痛みはできるだけ小さい方がいい。感覚はできるだけ鈍い方がいい。思い出したくないことは小さく小さくしてどこかへ隠してしまえばいい。修威自身の目にも二度と映らないくらいに小さく。
とっ、とごくわずかな衝撃が修威の頭と、それから背中から腰にかけてに伝わった。たとえるなら少しだけ反動をつけて背中からベッドに倒れ込んだ程度の衝撃だ。おや? と首を傾げる修威の耳元で風でなく草がこすれる音がする。修威はすぐさまその地面に両手をつき、腹筋を使って上半身を起こした。
「え、ありゃ? ここはー……どこだおい」
声に出して問い掛けても誰も答えてはくれない。修威がいるのは手入れされた芝生の上で、近くにはやはり人の手が入っているらしい林が見える。空には街では見えない星がささやかに光っていた。
この場所が一体どこであるのか、その答えを探して辺りを見回した修威の目に妙なものが映る。それは最初、小さくまとまった毛玉のように見えた。しかし夜の闇に目が慣れてくるにつれて柔らかな輪郭がはっきりしてきて、何か小さな動物が佇んでいるのだと分かる。淡い茶色か、あるいはクリーム色のような仄かな色合いの細い毛がきらきらと光っている。
動物には目立つ耳があった。頭の両脇に垂れた長い耳は犬や猫のものとは異なる。加えてまんまるの目が顔の横にそれぞれ少し離れてついており、やや潰れ気味の鼻先ばかりが目立つ。
「うさぎ?」
垂れ耳のうさぎはペット用として珍しくない。修威は飼ったことがないのでよく知らないが、幼稚園に通っていた頃に同じ組の誰かが飼っていて写真を見せてもらったことがある。可愛いな、とごくありきたりな感想を抱いて、それきりだった。
「可愛いな」
修威はぼうっとした頭でそう呟いて、手を伸ばすでもなくじっとうさぎと見つめ合った。そうはいうものの正面から見るとうさぎの目はほとんど見えないので向こうからどう見えているのかはよく分からない。やがてうさぎはもそもそと動き始める。
初めは土の匂いでも嗅ぐかのように地面に鼻先を近付けてせわしなく頭を動かしていたうさぎが、急にぴょんと跳ねて修威に背中を、いや尻を向けた。長い後ろ足を収納するその尻は大きく、再びうさぎは毛玉になる。うさぎはその大きな丸い尻をぴこぴこと振ると再びぴょんと跳ねて修威から遠ざかった。
そのまま去っていくのかと思いきや、うさぎは振り返って修威を見る。一度前を向いて再び振り返る。まるで修威の反応を窺っているかのようなその様子に修威も思わずうさぎの行動を注意深く見守った。
うさぎはそこから動かない。修威もまたうさぎを睨んだまま動かない。人間と小動物による奇妙なにらめっこが数十秒、あるいはもっと長く続いてやがて人間の方が折れる。
「なんだよ、なんかあんの? 構ってほしいのかー?」
たはっ。修威は弱ったなというように表情を崩した。自分を待つように佇む小さなうさぎは愛らしく、見つめられて悪い気はしない。修威はうさぎを驚かせないようにそうっと立ち上がるとゆっくりとその小さな身体に近付いていく。うさぎは逃げる素振りを見せない。
「お前さん、飼われうさぎさん?」
修威が手を伸ばすとうさぎはもぞもぞと動いて修威に尻を向ける。ぴょん、と後ろ足で地面を蹴って修威との距離を取り、再び振り返って修威を待つ。ほほう、と修威は頷く。
「触られるのは嫌ですか。でも放っておかれるのも嫌ですか。なかなか楽しいうさぎさんじゃねえっすか」
修威はふふふと笑みを浮かべながらうさぎに迫る。手が届く距離まで近付くとうさぎはぴょんと跳ねて元の距離を取り戻すように離れる。それを繰り返し、繰り返し、修威はしばらくの間垂れ耳うさぎとの奇妙な追いかけっこを続けた。
執筆日2015/09/30




