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夕刻が過ぎて夜になっても気温はなかなか下がらない。暑さにばて気味の胃に優しいぬるめのそうめんで食事を済ませ、修威達は梶野の母親という人に礼を言った。いいよぉ、気にしなくて。そう言ってその女性はやや豪快に笑って、それから「たまにこの家も賑やかにならないと」と少し穏やかな目で付け足したのだ。彼女と梶野の似ているところといえば、その一瞬の目つきくらいのものだった。
「えーと……よっすー、真奈貴ちゃん。俺は今どういうわけか七山先輩の実家の座敷で寝転がってます。寮の布団よりいい布団だから寝心地はすげーよさそう。えーとそれから……」
梶野の母親が用意してくれた夏布団の上で修威は真奈貴宛のメールを打っていた。隣に家もないような辺鄙な場所でも電波はきちんと届くらしい。かちかちと小さなボタンを連打しながら修威は周りに誰もいないのをいいことに書く内容を全て声に出していく。その方が打ちやすいのだ。
「っしー、送信ぽちっ」
最後のボタンを押して、修威は携帯電話を手に持ったまま布団の上に大の字に寝そべる。少しだけ開かれた障子から夜の風が吹き込んでいる。暑いことは暑いが、閉め切られた空間に特有の息苦しさはない。それだけでも随分過ごしやすい場所に来たものだと修威は少しだけ頬を緩める。
少しして、携帯電話が控えめにぶるぶると震えた。真奈貴からの返信だった。
『本当に行ったんだ、先輩の実家。部長もなんだよね? どんな場所か気になる。大丈夫そうなら写真送ってほしいなー。明日でいいから。そういえばいつまでいるの?』
「ひゅーむ、いつまで、ね。確か明日は七山先輩のお母さんが墓参りに行くって言ってたからー、その次の日には帰る予定……っと。あ、そだ。歳沖部長の変なTシャツの写真添付しとくよー、ってな」
日中、あまりの不可解さにとりあえず撮っておいた雄也のTシャツ姿を収めた画像を添えて真奈貴へ返信の返信メールを送り、修威はにへへと笑う。
「なんかちょっと面白い。寮にいるよりかは、まあいいかもしれんねぇ」
1人部屋で寝起きすることにも慣れたし、修威自身の実家での生活に戻りたいとは思わない。全寮制のレーネ大和瀬高等学校では毎年何人かはホームシックになり、それも仕方のないことだと言われている。修威には家に帰りたいなどという願望は欠片もない。
しかしこうやって自分以外の誰かが、寮生などではなくある程度よく知った人々とその家族が共にある空間で過ごすという感覚は悪くなかった。木人部の合宿ではそのような感慨に浸るような気分にはなれなかったからなおさらなのだろう。自分は思ったよりも腹の内に孤独感を溜め込んでいたのかもしれない、と修威はメール送信を終えた携帯電話の画面を見ながらぼんやり考える。
しばらく待っても真奈貴からの返信はなかった。彼女があまりまめにメールを返さないことは知っているので、特に気にはならない。それでも彼女が受け取った画像を見て苦笑しているだろうことは想像がつく。修威がそんなことを考えながら布団の上でにやにやしていると、障子の外に影が射した。
「明園、起きているか?」
「夜の蝶部長?」
「歳沖雄也だ」
律儀な雄也の訂正をさらりと聞き流しつつ、修威はずりずりと畳の上を這って障子を開けに行く。星明かりの下に立っていた雄也はやはり例の“夜の蝶”Tシャツを着ていた。明日は一体どんなものを着てくるのだろう、と妙な興味が湧く。
「なしたんすか、歳沖部長」
「目が冴えてな。よかったら少し話さないか」
縁側を指差し雄也は言う。修威は特に断る理由もないので「いいっすよ」と座敷から這い出て障子を閉めた。よく磨かれた、しかし古いせいで色艶にむらのある板張りの縁側に腰を下ろして素足を宙に浮かせる。雄也はガラスのコップ2つと冷たいお茶のペットボトルを持ってきていて、コップに注いだそれを修威に手渡す。
「うお、ありがとうございます」
「明園、どうだ? 梶野の家は」
雄也は自分もコップのお茶を手に取りながら、何気ない様子で尋ねる。修威は少し考えて、「割といい感じっすね」と答えた。そうか、と雄也はお茶を口に含んで頷く。
「俺もそう思う。ここは静かで穏やかだ」
「はあ」
「明園、どうして梶野はお前をここに呼んだと思う?」
修威と同じように脚を投げ出し、背中を丸めて雄也が問う。修威は注いでもらったお茶をぐびぐびと飲んで、目の前に広がる七山家の庭を眺めた。花の咲いていない桜の木が黙ってそこに立っている。
「どうして?」
この招待に理由というほどの理由があったのだろうか。修威が首を傾げると、雄也は少しだけ表情を和らげて「ふ」と小さな溜め息を漏らす。いや、ひょっとするとそれは笑い声だったのかもしれない。
「お前から見てどうかは分からない。だが梶野は不用意に他人を自分の領域に踏み込ませる男じゃない。あれで縄張り意識は随分と強いようだな」
「……そうなんすか」
「ああ。お前を木人部に勧誘したのにも勿論理由があるんだろう。俺をダシにして笑っていたよ、あいつは」
雄也の顔に、今度は明らかな苦笑が浮かぶ。彼は梶野のことを縄張り意識が強い男だと言ったが、それは彼自身にも当てはまることだろう。彼の場合は縄張りというよりももっと狭い範囲で自分の居場所を侵されたくないというだけなのかもしれないが。
「理由、ねえー……。歳沖部長、俺そうやって相手の腹ん中考えるのとかすっげー苦手なんですよ」
修威は目の前の桜に視線を据えたままで言う。口元に苦い笑みを浮かべてみると、なんだか以前にも同じような言葉を口にした覚えがあるように感じた。あれはいつのことで、誰に対して言ったのだっただろうか。
『ユーヤ、アケゾノは人の心の内を読むのが苦手なのですヨ』
不意にそんな声がした。雄也より柔らかく人間的な声で、それでもそれが人間と同じ仕組みで発せられているのではないということが分かる不思議な声だ。修威はばっと身体を回して辺りを探す。するとあろうことか先程まで修威が見ていた桜の木の根元から、まるでそこに溶け込むような様子でこちらを見ていたらしい小さな木人が顔を出す。
『久しぶりですネ、アケゾノ』
「……ぽくじん。生き返ったのか」
『死んでいませン』
そう言うとぽくじんは自分の足でてくてくと歩いて雄也の元へとやってくる。縁側はぽくじんが自力で上るには少しばかり高く、雄也が抱き上げて板張りの床に下ろした。
合宿初日以降、所在が分からなくなっていたぽくじんはこの間ジョージの手によって修威に託され、最終的に寮のホールで張っていた修威が雄也の帰寮を待ち構えて彼に返したのである。ジョージから渡されたとき、ぽくじんはまるでただの木人であるかのようにじっと黙って動かなかった。雄也に返したときにもそのままだったのだが、どうやらいつの間にか元に戻っていたらしい。
「よかったじゃん」
修威はぽくじんを見ながらそう言い、ぽくじんもまたその短い腕と4本だけの指を伸ばして何かを示そうとする。しかしその指は不器用に動くばかりで何を伝えたいのか分からない。やがてぽくじんは何か諦めた様子で『ピースでス』と言った。木製の手はピースサインを形作るにはやや動きが悪いようだ。
「歳沖部長、ぽくじんが喋れなくなってたのってなんか理由とかあったんすか」
やや愉快な動きをしているぽくじんを眺めながら尋ねた修威に対して、雄也は小さく息を吐いただけで何も答えない。それならそれでいいと、修威は手を伸ばしてぽくじんの頭を撫でてみる。
「やっぱ俺、そういうの苦手」
『カジノのことも分かりませんカ』
ぽくじんの黒い穴が開いているだけの2つの目がじっと修威を見つめている。修威は脳裏に梶野の顔を思い浮かべようとして、やめた。どうせ明日になればまた話す機会もあるだろう。そのときにもし覚えていたなら、直接聞いてみればいいのだ。「どうして俺を家に泊まらせたんですか」と。
「……もう遅いな。よその家であまり遅くまで騒いでいるわけにもいかない。明園、そろそろ寝ようか」
雄也がそう言って立ち上がるとぽくじんも修威の手から逃れて彼の足元にそっと寄り添うように立つ。そっすね、と答えて修威も立ち上がり、コップに残っていたお茶を飲み干した。3人の頭上、空の高くで星がひとつ音もなく流れ落ちた。
執筆日2015/07/05




