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それはとても立派な桜の木なのだそうだ。万年桜といって、昔何かの突然変異で一年中花を咲かせるようになったらしい。遠く山向こうから吹いてくる風が花びらを散らしても、また次々と新しい花が開くのだという。
「ね、とっても綺麗でしょう」
「はあ」
綺麗かどうかと問われても、修威は見えない花にどうやって美しさを見出していいものやら分からずに困ってしまう。そして修威が生返事をしても、相手は特に気にした様子もなくその葉ばかりの木を眺めているのだった。
綺麗というのなら、今こうして修威の隣に座って素足をぶらりと宙に浮かせているこの女性である。風通しのいい古風な座敷を背に、近頃はまず見なくなった縁側に腰を下ろして庭を見ている。この状況もまた美しいといえるのかもしれない。女性は長く伸ばした淡い色の髪を肩の下辺りで軽くくくり、桜色のふわりとしたワンピースを着ている。笑うと眉尻が下がるその女性は梶野によく似ていた。
「明生さん、しゅいちゃん、カキ氷のシロップは何がいい?」
ちょうどそこへ色鮮やかなシロップの入った瓶を片手に持った梶野が顔を出す。明生と呼ばれた女性は梶野を振り返ってにっこりと笑った。
「あら瑞乃ちゃん、ありがとう」
「あはは、明生さん。僕は梶野だよ」
「え? ああ、かーくんね。私は苺味がいいな」
「承知しました。しゅいちゃんは?」
「え」
よく似た面立ちの2人が交わす少し不思議な会話をぼうっと眺めていた修威は、咄嗟に何を聞かれたのか分からなくなる。カキ氷、と言って梶野がシロップの瓶を掲げてみせる。
「あー、じゃあレモンで。あるっすか」
「あるよ、レモンだね。それじゃあ用意してくるからちょっと待ってて」
とんとん、と板張りの廊下を歩き去る梶野の足音を聞きながら修威はこっそりと溜め息をつく。一体何故このようなことになったのか。それは取りも直さず、終業式の帰りにバスの中で梶野がしたひとつの提案がきっかけだった。お盆に帰省をしない雄也が梶野の家に遊びに行く、という話だった。そしてどういうわけかその流れの中で梶野が修威にも「お盆になったら君もうちに来ない?」と誘いの言葉を投げかけたのだ。正直な話、修威はそれをただの冗談だと考えていた。しかし現実はこうである。
梶野の実家はとても静かな場所にあった。市街地からはバスで20分、さらに徒歩で20分という見ようによっては大変不便なところで、隣の家というものは存在しない。梶野が言うには30分歩くと隣の石鳥さんという家に辿り着くことができるらしいが、隣人としての付き合いはまるでないのだという。それはそうだろう。
代わりに家屋を取り囲んでいるのは四角く区切られた湿地で、どうやら昔は田んぼだったらしい。広々とした緑の向こう側には青みがかった低い山が見える。そのさらに向こう側には広い海があるそうだ。
家そのものも随分広く、古い和風の屋敷に少しずつ手を加えていったらしい一風変わった佇まいをしている。縁側と座敷があるかと思えば街のマンションにあるようなリビング兼ダイニングがあり、そうかと思えば窓にステンドグラスをあしらったおしゃれな書斎があったりするのである。まるで1世紀分の建築の歴史をひとつの建物に凝縮したかのような家なのだった。
「明園、くつろいでいるか」
不意に背後から静かな声がする。振り返ってみると裸足の雄也が青いシロップのかかったカキ氷とスプーンを手に柔らかい表情で立っていた。しかし修威はそれよりも彼が着ている紫色のTシャツに目を奪われる。その前面にはラメの入ったゴールドででかでかと“夜の蝶”という文字が刷り込まれていた。
「……歳沖部長、そのTシャツ何すか」
「ん? これがどうかしたのか」
「どうかしてないと思う方がどうかしてると思います」
修威の指摘にも雄也は分からないという顔をして、それから修威の隣に座る明生へと視線を移す。
「明生さん、お邪魔しています」
雄也が声を掛けると明生は今気付いたように彼の方を見て、そしてにこりと微笑みながら首を傾げる。
「あら、こんにちは。ええと、瑞乃ちゃんのお友達?」
「いえ。梶野……かーくんの友人で、歳沖雄也といいます」
「かーくんの? そうなの。ゆっくりしていってね」
「はい」
雄也はうっすらと笑みを返しながら明生に一礼し、それから修威に小さな声で「少しいいか」と尋ねる。修威はひょいと立ち上がって雄也の後を追った。雄也は明生からは死角になるだろう座敷の隅で修威に告げる。
「気が付いているかとは思うが、明生さんは少し認知機能や記憶力に弱いところがある。俺は去年も一昨年もここに泊めてもらって明生さんとも話をしているが、彼女は覚えていない」
「はあ。そうなんすね」
「ああ。だからどうというわけでもないが、明園も次に顔を合わせたときにもし初対面のような反応をされても気にする必要はない。それを伝えたかった」
「ういっす、了解っす。……ところであの人って?」
梶野の身内だろうということは顔を見れば分かる。しかし彼とどういう関係にあるのか、その辺りはまだ誰からも聞いていなかった。雄也は縁側の方へと視線をやりながら「梶野の家族と同居している親類だと聞いている」と答える。
「ふーん。綺麗な人ですよね」
「ああ。話をしていると心がほぐれていくように感じる人だ」
だからここにいる間はときどき話し相手になってもらうといい。そう言って雄也は溶けかけたカキ氷を手に座敷の奥へと引っ込んでしまう。どうやらあまり日当たりのよすぎる場所は苦手らしい。
雄也が行ってしまったので修威は再び縁側へと戻る。するとそこにはピンクと黄色のシロップがかかったカキ氷をそれぞれ両手に持った梶野がいて、明生と笑顔で言葉を交わしているところだった。明生は白い手を伸ばしてピンク色のカキ氷が入ったガラスの器を受け取る。
「ありがとう瑞乃ちゃん」
「いえいえ」
梶野は今度は彼女の間違いを指摘しなかった。笑顔で器から手を離した梶野を見て明生もまた心から嬉しそうににっこりと笑う。修威は座敷と縁側の間にある敷居のちょうど真上に立って、その様子を見るともなしに眺めていた。まるで薄くて半透明な幕を通して見ているような、そんな感覚がした。
しゅいちゃん、と梶野が黄色いシロップのかかったカキ氷を差し出しながら笑顔で修威を呼ぶ。幕の中から外へと伸ばした修威の手が器に触れ、ひんやりとした刺激が指先から腕へとじんわり伝わる。
「どもっす」
つられて修威が浮かべた微苦笑に梶野がふわりと表情を和らげたその瞬間、七山家の玄関扉が大きな音を立てて開いた。がらがらがら、という大袈裟な音は扉の古さを物語っていて、続くがたがたという音がそろそろ扉の枠が歪んできているだろうことを表している。「ああ、帰ってきた」と梶野がこともなげに言う。
「おかえりー」
縁側に立ったまま声を飛ばした梶野に対して玄関の方から「ただいまー!」という元気な声が返る。それから「かーくん、ちょっと手伝ってー!」という声も。
「また買いすぎかな。明生さん、しゅいちゃん、僕ちょっとお母さんを手伝ってくるから」
梶野は苦笑の余韻を残したままそう言って小走りに玄関へと向かい、縁側にはまた修威と明生だけが残される。むわりとした熱い空気の中、手に持った器から漂う冷気だけが妙に尖って感じられた。
「誰かな」
ぽつり、と明生が呟く。こくりと首を傾げ、彼女はピンク色のシロップがかかったカキ氷をひとさじ、口に運んだ。
執筆日2015/07/05




