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浅い夢を見たと思ったら目が覚めた。修威は隣の布団で眠っている真奈貴と寧子を起こさないよう、そっと部屋から這い出る。ぺたり、と裸足で踏んだ廊下が季節の割にやけに冷たく、思わず身震いをした。
山小屋は2階建てで、寝泊まりのできる部屋は2階にある。そして1階が食堂と厨房、休憩スペースになっていた。食堂に置かせてもらっているはずの水を求めて階下に降りた修威は窓から差し込む淡い桃色の光にびくりと顔を向ける。月明かりにしても星明かりにしても不自然なその色合いが何からくるものなのか、確かめずにはいられなかったのだ。
修威が窓から外を見ると、そこには昼間とは少々趣が異なるものの景色そのものは変わりのない森が広がっている。空に月は見えず、星もそれほど多く見えるわけではない。ただ仄かに赤みを帯びた柔らかな光が森全体を包み込んでいるように思える。火のようなオレンジがかった色でないことに少しだけ安堵し、修威は靴を履いて外に出た。
夏山の夜は街のそれとはまた異なる独特の匂いに満ちている。草木の匂いと湿った風の匂い、そして新鮮な野菜のような爽やかで青い匂い。それらが夜気によって混ぜ合わされて少しだけ冷たく、甘い香りとなって鼻腔をくすぐるのだ。
しかし今は山の匂いとは異なる芳しい香りがどこからともなく漂ってきている。修威は辺りを見回して香りの出所を探すがよく分からない。ならば、と周りを取り巻く空気の流れ……すなわち風に向かって魔法を使う。香りは風に乗ってやってきているのだから、風がどちらから吹いているか分かれば自ずと香りの出所も知れるのだ。一瞬だけ強くなった風が修威に行くべき方向を教える。ふーむ、と頷いて修威は風上に向かって歩き出した。
Tシャツ1枚で歩く夜の山は少し寒い。あまり遠くまで行って迷子になっても困るな、と修威はときどき来た道を振り返りながら進んでいく。それにしても静かな森だ。昼も夜も鳥の鳴き声ひとつ、虫の羽音ひとつ聞こえない。足元を見ても蟻1匹すら見当たらない。
昨日この山に入ったときから何かおかしいとは思っていたのだ。草木はいくらでも目に付くというのに動物の気配がまるでない。魔法区域に入ってからはなおのこと、自分達以外に生きるものが何もないような奇妙な感覚に浸されている。山守のヤマヒロに出会い、山の記憶を具現化する花の魔法に触れたときにはもう、修威も他の皆もきっと分かっていたのだろう。それを言葉にすることはできないが、漠然と理解していたのだ。
やがて修威の視界を塞いでいた黒々とした夜の森がぱたりと途切れ、代わりに不思議な光を湛えた光景が目の前いっぱいに広がった。よく見ればそれはひとつひとつが淡い桃色の光を放つ花びらを持った小さな花の集まりで、いわば光る花園である。妖しいほどの光と生花の香りに酔いそうになりながら、修威はふらりと花園の中に踏み入った。
「すげ。これも……魔法区域だからなのかね?」
学校の体育館程の広さを持つ花園の中に立ち尽くして、修威はしばしぼうっとその幻想的というにはあまりにも五感に強く響く光景を眺める。そしてふと気付いてきょろきょろと辺りを見回し、「ふひぃっ!?」と驚きを声に出した。視界の中で淡い色の髪を持つ人影がゆらりと動く。
「……しゅいちゃん?」
花の光に照らし出された彼、七山梶野は修威の姿を見付けてふにゃりと微笑んだ。普段の彼が見せるどこか余裕のある笑みとは違う。まるで表情を形作ることに失敗してしまったかのような締まりのない笑顔に見て見ないふりをしながら、修威はそっと彼に近付いた。足元の花を踏み潰さないようにゆっくりと近寄ってみると薄手のシャツ1枚をまとった梶野はもういつもの笑顔を取り戻していた。
「起きちゃったの? それとも、眠れなかった?」
子どもをあやすような口調で問い掛けてくる梶野に対して修威はふんと小さく鼻を鳴らし、「変な光が見えたから気になって来ただけっすよ」とありのままを告げる。そっか、と梶野は眉尻を下げて笑った。
「綺麗、だよね。まるでこの世のものじゃないみたいだ」
梶野は花園を見渡しながらそんなことを言い、修威は彼の隣に立って足元の花の光を見つめる。この世のものでないのなら一体どこのものだというのか。
「しゅいちゃん、これなんだと思う?」
呼ばれて顔を上げてみると、梶野が左手に何か黒っぽいものをぶら下げているのが目に入った。乾いた枝のようなものの先がいくつかに分かれ、そのさらに先端に黒い小さな木の実らしきものがついている。その形は葡萄に似ていた。修威は見たままを口に出す。
「……葡萄? 山に生えてた……んすか?」
「うんそう、山葡萄。昼間見付けて取っておいたんだ」
何でもないことのように言い、梶野は山葡萄の房をつまんだままふっと遠い目をしてみせる。彼は修威ではなく光る花園へと視線を向けながら修威に向かって問い掛ける。
「しゅいちゃん、“よもつへぐい”って知ってる?」
聞き慣れない響きに修威は首を傾げながら「いいえ」と答えた。そ、と薄く笑って梶野は光る花を見つめながら語り出す。
「……ある女神がね、夫である男神を遺して死んでしまったんだ。男神は女神を追って黄泉の国、つまり死者の世界に行って女神を現世に連れ戻そうとするんだけれど、女神はもう死者の世界のものを口にしてしまったから戻れない……そういうお話」
「神様でもなかなかままならないもんすね」
「そうだね。これはこの国の昔々の神話だよ。不思議なことに、この国だけでなく世界の色々な地域に似たようなお話が残っている。死者の世界の食べ物を食べたらもう生者の世界には戻れない」
そう言って梶野は山葡萄の小さな房を持ち上げる。黒い実は固そうで、美味しそうとは感じられない。しかし梶野は薄く開いた唇の間からつ、と舌を伸ばしてその不味そうな実を舐めようとして。
「っ!」
気付けば修威は梶野の手から木の実を叩き落としていた。勢い余って体当たりをする格好になったため、押された梶野は花の上に尻餅をつく。修威もまた、そこに覆いかぶさるように倒れ込んだ。ルールですよ、と修威は乾いた口から言葉を零す。
「魔法区域のものは食べたり飲んだりしちゃいけないって」
「……そうだったね」
「七山先輩」
梶野は修威が作る影の中で苦笑がちに目を細める。魔法って怖いね、と微笑んだ口元が告げる。修威は何かを言おうとして、何も言えずにただ梶野の目から視線を逸らした。ふふ、と梶野の漏らした笑い声が修威の耳に届く。
「なんだか僕達、随分と格好悪いね」
「は?」
「しゅいちゃん、僕は君のことが好きだよ」
梶野の手が伸ばされて修威の目元に触れる。彼の細く長くしなやかな指先に乗った透明な雫を見て、修威は自分が涙を浮かべていたことを知った。驚かせちゃったね、と梶野はあくまで柔らかく微笑みながら言う。
「優しいんだなあ、しゅいちゃんは」
「……さっきから何訳の分かんないこと言ってるんすか」
「その顔で強がられても可愛いだけだよ」
「うるさい黙ってください」
「この合宿は、思ったよりきついね」
がくん、と修威の腕から力が抜ける。ずっと梶野の上で自らの身体を支えていたのだがそろそろ限界だった。梶野は覆いかぶさってきた修威を押しのけるでもなく抱き締めるでもなく、ただ身体の上に乗せたまま笑っている。
「しゅいちゃん、僕は本当は魔法なんて嫌いなんだ」
「……」
「先生には内緒だよ。だけどいくら嫌いでも魔法はなくなったりしない。だから、嫌いでも使いこなしてやろうって思ってる」
魔法に使われるのではなく、あくまで魔法を支配下に置くのだと。梶野は少しだけ強い口調でそんなことを言う。修威は力の入らない身体を梶野の胸に預けたままその声を聞いていた。慣れた微睡みが堰を切ったように押し寄せてくる。抗ってみないかい、と梶野が囁く。
「君の魔法を、君が征服するんだ」
「できねぇっすよ、そんなこと」
「どうして?」
「七山先輩が、前に言っていたんじゃないすか。俺が、魔法に執着してるって」
苦いコーヒーの味と共に思い出された会話から単語を抜き出して、修威はぐるぐると回り出した視界に梶野の髪の淡い色を探す。よく覚えているね、と梶野の静かな声が聞こえた。忘れる必要もないことだから、と修威は夢現の中で答える。
「してますよ、執着。そうじゃないと俺は」
「うん……そうなんだろうね」
「魔法は、生きるための……」
「教科書はそう教えているね」
修威の意識はそこで途絶え、重くなった修威の身体を支えながら梶野は低く小さな声で呟く。
「魔法は、生かすための技能じゃないんだよね」
その一言は修威に届くことなく淡い桃色に輝く花園に吸い込まれて消えていった。
執筆日2015/05/31




